「なるほどな。話はわかった」
元々ビリヤード場のあった場所の二階。
そこになお健在の鳴海探偵事務所に若いふたりを招き入れながら、翔太郎は帽子を脱いだ。
そしてみずからの座席の後ろにかけられたフックへ、片目をすがめて狙いをしぼる。
「……つか、なにやってんだ照井のヤツ」
「あのひとも五年もすれば還暦ですからね。無理するからですよ」
春奈の容赦ない言葉に、思わず翔太郎の手が滑った。
放たれた帽子はあらぬ方向へと飛んで行って、むなしく床へと落下した。
「んなこと言うんじゃねーよ! こっちにまで地味にダメージ来んだろうが!」
帽子がフックにかからなかった恥ずかしさも手伝って、翔太郎は大声で返した。
とは言え、万全の態勢で投げても帽子があのフックにかかるのは三割程度といった調子だ。それをいちいち口にすることはないが。
「あとそこの青二才」
帽子を拾い、部屋埃を払いながら、翔太郎は青年を呼び止めた。
初対面の彼は、興味本位か、入り口脇の他の帽子コレクションがかかった扉を開けようとしていた。
「そこに近づくな。幽霊が出る」
そうおどしつけてから、
「なんなんだお前?」
とあらためて誰何する。
「あー、えーと僕は……泊エイジ、っていいます」
聞きたかったのは素性や春奈との関係だったのだが、まず答えられたのは青年の名だった。
「……エイジ?」
そして翔太郎はその響きから、べつの知己を連想した。
「ただの捜査協力者ですよ」
探偵の回顧は、春奈のそっけない返答にさえぎられた。
苦い顔で座席に座った翔太郎の前に、
「ついては、あなたにも捜査協力を依頼したい」
「あ?」
「警察署の署長があのザマでは、さほどアテにはならないでしょう。せめてこの街に土地勘がある情報筋も保険としてつなげておきたいので」
この街にふたたび悪が入り込んだとするならば、それと戦うのは探偵であり……そして、仮面ライダーとしての義務だ。
だが、春奈の物言いが癪にさわる。彼女に対してイエスと素直に答えることは、ためらわれた。
頬杖をついてそっぽを向く翔太郎に、春奈は「それに」と付け足した。
「当然、報酬は出します」
彼女が机の上にあるものを置いた。
それは札束……などではなく、彼女が仕事で扱うらしい円盤状のガジェットだった。
それを垂直に置くとひとりでに、車輪のように転がって、やがてバランスを崩して倒れた。
机が、ではなく事務所のある施設全体が老朽化の影響で傾きはじめているのだ。
三人も入ると、とくに重心が寄りがちになる。
だが、施設自体を買い取って修築するほどの財力はない。
生活費とガレージの維持だけで精一杯だった。
経済的につぶれるのが先か、それとも物理的につぶれるのが先か。
そんな状況下での春奈の『依頼』は十分に魅力的に言えた。
だが、
「この間は邪険にしておいて、今更頼りにするってか? ずいぶんと安く見られたもんだ」
翔太郎はそう答えた。
「お前のお情けは受けねぇ。とっととインターポールなりどことなりに帰りな」
デスクのポットから飲み残しのコーヒーをカップにそそぎ、カップに口づける。極まった苦さに酔いしれる。
いくら大金を積まれようとも、探偵のとしてのポリシーやプライドまでは安売りしない。それこそが……ハードボイルドの、世界だ。
「じゃ、立ち退いてもらいます」
春奈が書類カバンから抜き出した事務所の権利書を見て、翔太郎は天高くコーヒーを噴き出した。
その先にはエイジがいて、青年の顔と胸とに吹きかけられた。
「お前ッ!? なんで……それ!?」
吹きこぼした液体をボタボタとアゴからつたわせながら、探偵は言葉を詰まらせた。
「どうせそう言うだろうと思って、実家にもどったついでに取って来たんですよ。さすがに権利は譲渡されてませえんが、これをやぶくぐらいは……」
「きったねぇぞ!」
「今の自分の顔見てから言え」
ある意味では気心の知れた応酬をくりひろげる彼らの脇で、上半身を黒く濡らしながら、エイジは呆然と直立していた。
怒りと呆れが自分のうちで通りこすのを待ってから、拭くためのものを、満足に目も開けられないなかで求め始めた。
やがて、まさぐるその手が柔らかい感触をつかんだ。
救われたような心地で顔面をぬぐう。晴れた視界が、自分が手にした白いものの正体を明らかにした。
それは、白い浅地の着物だった。厳密にいえば、白い着物をまとった、人間。姿形で言えばエイジと近い華奢な少年。
さきほどエイジが出入りを禁じたあの部屋から出てきたらしい彼は、じっとエイジを見返していた。
ただし着物のあわせは左前になっていて、彼自身は、その額に三角の布を張り付けている。
その異様な風体に詫びよりも先にエイジは唖然としてしまった。だが、着衣を汚された当人も怒った様子はなく、じっと目を凝らして顔をエイジの至近に寄せた。
「君は、幽霊というものをどう思う?」
と、名乗りもなく唐突に尋ねた。
は? と聞き返すエイジの反応など最初から期待していなかったように、すぐに退いて自分のアゴに手をやり思案顔。
「死者が生き返ることがありえない、と言い難くはなったが、霊魂だけが復活するという現象については完全に証明されていない。精神エネルギーが何らかの要因によって固定された、という考え方もできるけれども、一般的なイメージとしては、こういう白襦袢に三角の布の、いわゆるオールドタイプの死に装束だ。だが死人の全員が全員、それに思い入れがあったり葬儀のときに着ているとは考えにくい。それに『恨めしや』。これにも疑問がのこる。何故、わざわざ古語で見ず知らずの他人にも恨み言をつぶやくのか。興味は尽きない。実に興味深い、ゾクゾクす……」
少年は、エイジの背後から伸びた手によって、部屋の奥へと押し込められた。そのまま扉が閉められたことで、その際限ない自問自答は打ち切られた
左翔太郎の手によって。
「……言ったろ、幽霊が出るって」
ハハハ、とかわいた笑い声を無理やりあげる探偵の背後を、権利書をちらつかせながら春奈が素通りして事務所を出ていこうとする。その背を小走りに追いかけながら、
「オイちょっと待て春奈! いや、ちょっと待って……春奈さーん!?」
と呼ばわった。
硬派とは程遠い、情けない声色で。