「ハァ……御成って、なんであんなうるさいわけ? いい加減年相応に落ち着いてもらいたいんだけど」
ある日の昼下がり、アユムは公園のベンチに腰掛けて、そうこぼした。
彼が座るベンチは、アクリル製の透明な、デザイン性を感じさせる透明なものだ。
単純にセンスがいいというだけではなく、雨の日にはまるで消えるように姿を雨粒の中に溶かし込んでしまう。これは、「雨の日にわざわざ野外のベンチに座る必要がない」という本質を突いた、意外に鋭い代物なのだ。
別の場所にあったのを無理言ってもらってきたの、とは背後の屋台の主人のセリフ。元絵描きらしい審美眼が、彼女の中にはまだあるらしいし 、今も時折筆を取るようだ。
「確かに、タケル君どこ行っちゃったんだろうねぇ」
その女主人、
年季の入ったプレートに生地を流し込めば、ジュウと音がする。
油の匂いを嗅げば、グウと腹の音も鳴るというものだ。
代々受け継がれてきた味は、時代世代を問わず魅了する。
「っていうか、そんな状況下で呑気にたこ焼き買ってる方もどうなのよ」
「それが客相手にとる態度? 良いの良いの。やりたいヤツらがやっとけば」
パーカーの中に眠る眼魂を握りしめながら、少年は言った。
「……ボクには何の力もないんだからさ」
弱々しく自嘲した。
胸にかけた鍔が、昼の光を浴びてかすかに輝いた。
「ねぇ、まだ焼けないの?」
と、ごまかしもかねて振り返った、次の瞬間だった。
景色が変わっていた。
太陽の下の牧歌的な公園から一変、薄暗い座敷のような場所に。
魚眼レンズを通して見たかのように、畳や棟の縁が歪んでいた。
生地を焼く音も匂いもかき消えて、埃っぽい空気が充満していて、不穏な空気を醸していて、アユムは立っていた。
そして彼の視線の先には、ハルミではなく、
「呆れたガキだな、お前ェは」
と悪し様に罵ってくる、黒い影。
鼻も口もなく、目だけが青白く発光している。浅葱色のだんだら模様の羽織を頭からかぶさり、苛立たしげに腰の刀をガチャガチャと鳴らしていた。
「あのテツでもお前ぐらいの歳の頃には、真っ当な思慮を持ってたってのに」
さらにその両脇に、同じ姿格好の影がふたつ。
細身で平べったい体格の一体が、刀に手をかけた影をなだめるような手つきをし、最後の一体を中心に据えるように位置取った。
ガッシリとした肩をいからせ、腕組みしながら向けたその背には、白く染め抜かれた、
「誠」
の一字が浮き上がっていた。
「……アンタたちか」
そして彼らは、アユムにとっても知らぬ仲でもなかった。
祖父の遺品の刀から外された鍔。それによって時折、彼の意識に介入してくる。
その元の持ち主たる英雄と、彼の同志による魂の複合体。
日本では知らぬ者のない剣士たちだ。
……新選組という、人斬り集団として。
「テメェの父親が殺られたかもしれないってのに、その仇討ちにも行かず、こんなとこでスネてくずぶって、無駄飯食って引きこもりかい。もし俺らの隊士なら、法度に照らして斬ってるところだ」
「……うるさいな」
「あァ?」
「だからそういうのは、力とやる気がある連中がやれば良いんだよ! 分不相応な力量で余計なことに首突っ込んで、それで何か変わるわけ? アンタらがそれを一番良く分かってるんじゃないの!?」
父から譲られた偉人図鑑。幼心に、そこに記されていた鮮烈な最期を覚えている。
新選組局長近藤勇、政府軍に投降ののち、板橋で斬首。
副長土方歳三、近藤勇の死後も旧幕府軍として函館まで抗戦を続け、戦死。一説には逃亡する味方に撃たれたのだという。
一番組長沖田総司、肺病をわずらい、苦悶と無念のうちに病死。
だがアユムに言わせれば、そこに名誉などあろうはずもない。
「……なにが、壬生狼だよ。アンタら、みんな時代の流れに無意味に逆らった挙句の、犬死じゃないかッ」
彼らの記憶から構成される座敷が、シンと静まりかえった。
「……テメェ」
と鍔を鳴らして近寄る土方の影を、沖田の霊が抑えた。
「まぁまぁまぁ。この時代には、彼ぐらいの歳でも、子どもなんですよ。……彼の中ではね」
と言いつつも、沖田総司はおのれの言葉の中にも、若干の毒を含めることを忘れなかった。
皮肉めいた言葉とともに振り返った彼は、ため息をついて、
「たしかに」
と頷いた。
「あの時は悔しかったなぁ。体はどんどんままならなくなっていくし、外ではみんな戦って散っていくのに、何もしてやれない。あの時ばかりは自分の不運を呪ったなぁ。だから……君の辛さもね、ちょっとはわかるんです」
次の瞬間、彼はおおきくむせ込んだようだった。それを払しょくするように、アハハ、と少年じみた笑声を彼はあげる。
表情こそ見えないものの、その声は一抹の寂しさを帯びていた。
「でも、弱かったり運が悪かったりっていうのは、何もしない言い訳にはならない」
と、しっかり言い添えた後で「ね、土方さん」と振った。
不本意げに殺気をおさめた土方歳三は、応じて答えた。
「そういうことだな。他人の力だ権威だ大義だの、世情だのってのは関係ねぇ。テメェのしくじりや弱さにケジメつけられねぇヤツは、男じゃねぇ」
「うわー、流石意地だけで蝦夷くんだりまで行った人は言うことが違うなぁ」
「茶化すな総司、叩っ斬るぞ」
「だから僕らもう死んでますって」
「そういうことだ」
などとやりとりをはじめた両者の間を、近藤勇の大柄な影は横切った。
アユムの前に立つと、英霊は、ガッシリとそのか細い肩をつかんだ。
「だから、君自身の心の声を聞き、動きなさい。そしていつか答えを見つけてほしい。今を生きる君にとっては、我々の戦いや死は本当に無意味なものだったのか。それを受けて君が、成せることとは、何なのか」
手甲を巻いた黒く、節くれだった指が、少年の肩に食い込んだ。その背後で、彼の同志がじっとアユムへと視線を注いでいる。
痛みはなかった。だが、別の場所が、胸が痛んだ。
奥歯を食いしめて、呻きながら少年は返した。
「またそうやって……ボクが、天空寺タケルの息子だから、アンタらは無茶を託すんだッ」
「それは違う」
近藤勇は首を振った。
青白く光る双眸が、やさしく細められていた。
「実のところ、我々は知っているのだ。君自身の中にある可能性を。たとえ絶望の未来にくじけたとしても、誰かに救いを求めたとしても、いつかはひとりで立ち上がり、いかに敵が強大であろうと抗い続けることのできる、そんな強い魂の持ち主であることをね」
「…………勝手な、ことを、言うなぁッ!!」
「うわっ!」
振り払った手が、何かに、誰かにぶつかった。
目に陽光が差し込んだ。完全に覚醒したアユムの視界に広がったのは、公園ののどかな風景と……頭にとっさにアユムが繰り出した裏拳を食らってうずくまる青年の姿だった。
「ってー……まだ何も言ってないだろ?」
「ご、ごめんなさい」
「なに、昼寝でもしてたの?」
呆れたように言いながら、ハルミがベンチの空いたスペースにたこ焼きのパックを置いた。
「アンタにお客さん」
と、客相手とも思えないぞんざいな物言いとともに、彼をアゴでしゃくった。
持ち上げられた青年の顔には、アユムもまた、見覚えがあった。
「あれ? アンタ確か」
「うん、昨日会ったよね」
そうだった、とアユムは思い出す。
饅頭を持ってきた、父を捜す手助けをしているという青年だ。たしか名前は、泊エイジ。
ただ、その背後でたこ焼きを追加注文しているショートカットの女は知らない。
赤いレザージャケットとミニスカートというコーディネートと、手にしたたこ焼きが絶望的にミスマッチだった。
そんな彼女を横目で軽くにらんだあと、ほほえみを繕って、エイジという青年は口を開いた。
「ちょっと、君と話をしたいんだけど……いいかな?」