最初、それはその概念さえ存在しなかった。必要がなかったからだ。
だが、物をやりとりするという文明が生まれてからは欲望が生まれ、欲望が盗難といった犯罪を呼び、いつしか人は大切なものを守るために、扉を作り、カンヌキを作り、小さな鉄片を差し込んで開閉を許すカラクリを作った。
それだけでは犯罪は防ぎきれず、やがて小さな鉄片はカードやナンバーや記号に置き換わり、その家主自身が持つ指紋や音声、網膜へ。気密性と利便性は、着実に進化している。
それは、東京の郊外の、『
三十五年のローンを組んで新築として購入されたこの家は、主人の昇進に合わせる形で、指紋認証システムを玄関に採用することになった。
「ったく、警察官の家に入る泥棒なんているかよ?」
と最後まで渋っていた父を、
「ガレージの車、持っていかれてもしりませんよ。というか、だいぶ前に仕事場でも盗まれましたよね、ミニカーとかキャンディとか」
と母が冗談めかしく説得し、動揺させた。この場合、肝が太いのはどちらなのか。
時折思い出したように、母は父に敬語を使う。
その子たる青年は、その時にはどちらかと言えば取り入れ賛成寄りだったのだが、今この時ばかりは、後悔していた。
時刻は深夜。星と、天を突くほどのビル群の明りが、小ぶりな一軒家に降り注ぐ。
その下で、彼は認証システムに、端正に類するその顔をのぞかせた。
〈泊
普段は気にしない人工音声の出迎えも、夜の静寂も相まって大きく聞こえる。
あわててその声が出る口を押さえ、足音を忍ばせながら玄関に侵入。
革靴を脱いで、揃えてから二階の自分の部屋にもどろうとする。
だが、その手首に、輪のようなものが、ガシャリという音とともにかけられた。
「へっ?」
呆気にとられるうちに周囲の電気がつけられて、眉間にシワ寄せした女性の顔が、現れた。
「確保」
と、表情を変えずに彼女は、母は言った。
青年……泊エイジの手首を拘束していたものは、母の
「うわっ! ちょっとやめてよ! っていうか、ホンモノじゃんこれ!?」
「こんな時間までほっつき歩いて!」
エイジの抗弁を無視して、霧子は怒号を響かせた。
声量はそれほどでもないが、有無を言わせない威圧感と目力が、彼女にはあった。
「お父さんが帰ってきたらちゃんと叱ってもらいますから、覚悟しなさい」
「やだよッ、僕もうガキじゃないんだしさ。大学生だよ!?」
「だったら、それらしいふるまいをしなさいッ、私が貴方ぐらいの歳にはね」
などとぶつくさ言いながらも、旧式の金属の鍵で手錠を外してくれる。
階段をのぼりながら逃げようとしながら、手首に跡が残ってないかを確かめた。
「さんざん聞いたよ。ロリ少女?」
「ロイミュード」
「そう、それそれ。その悪のロボット相手に、父さんたちや叔父さんたちと戦ってたんだろ? さんざん聞かされたよ」
「それに、ロイミュードが悪なんじゃなくて」
その続きも聞かされた。
悪の心は、その危うさは、常に人間の側にあると。
聞き流していた言葉だったが、今となっては身をもってわかる。
「で、結局なにしてたの?」
逃げようとするのを一度やめて、子は母に、手短に答えたのだった。
「ドライブだよ」
最低限の家具や勉強道具しかない、自分の部屋。
幼いころは父にならってミニカーがひしめいていた。高校のころはギターなどが飾られていたが、どれも成長とともに遠のいていった。
今、十九歳の青年となったその部屋の主には、ただ一組のベルトとガジェットがあればよかった。それで充実していた。
鞄に押し隠したそれを、手に取って見下ろす。
「わかってるさ。僕だって、今は父さんたちと同じ仮面ライダーだ」
こぼした小さなつぶやきは、誰に聞かれることもなかった。
ただ、そのことに対する寂しさは、ほんの少しだけあった。