夏の最後盛大に盛大に見送るような分厚い入道雲の下、大天空寺の前で天空寺アユムは荷造りの最終チェックを終えた。
緊急時に支障にならない程度の食料品、生活品を詰め込んだバックパックの口を閉じ、その背に負った。
まるで遍歴を始めんとする修験者の様相には、当然家族と、家族同然に見守ってきた人々の不安げな眼差しがあったし、それに反して本人からは強い覚悟を感じさせた。
今から少年は、まさしく旅に出ようとしていた。
アテはない。いや、目的はあるのだが、そこに到る道のりはまるで分かってはいなかった。
ただ、心の信じるまで突き進んだ先に、その『世界』はあると信じている。
改変前の『アユム』の世界は、まだ生きている。
そう仮説を立てたのは、天空寺親子二代に渡っての家庭教師、アカリだった。
もっとも彼女もその分野に関しては専門外であるので、実証できたわけではないが、今回の一件の顛末を聴いたあとにある一説を唱えた。
時間軸というものは、あくまで分岐するものである。その特異点において何らかの変動があったにせよ、それは別の分岐が生じ、それぞれの存在が多重に分かれるだけのことである、と。
「学会でそういう説があったってだけ。つまり又聞き」
彼女は冗談めかしく前置きをした後で、さらに続けた。
そして『天空寺アユム』は、なまじ過去へと渡る力があるがゆえにそれが逆に作用し、本来自分が在るべき時間軸から弾かれてしまったのではないか、と。
だからどこかにきっと、『アユム』の帰りを待つ故郷がある。
もしかしたら、生きていて助けを待つ別の『タケル』もいるかもしれない。
それこそ、雲を掴むような途方もない話だとは思う。
仮説の上に仮説を重ねた、不毛な可能性だとも思う。
たどり着いたとしても、待っているのはグレートデミアに支配された、悪夢のような世界だろう。
だが、それでも行かなければという焦燥感がある。
行きたいと、心が叫んでいる。
(きっと、まだあの可能性の世界は切り落とされていないはずだ。だからぼくが……『アユム』の分も『あの人』の命をつなぐ)
それが
だが、かつてふらりと顔を見せた伯父に言われた言葉を、思い出す。
「我ら思う、故に我らあり」
それが長い贖罪の旅路のなかで、彼が見出した理のひとつだった。
人は思考する生き物である。思い悩み、時に過ちを犯す。
だがその想いがあるからこそ自分は自分たりえる。
そして、そうやって思い悩んでいるのはひとりではない。
皆、それぞれの価値観で思い悩み、苦しんだり、その先で笑っていたりしている。
だからたとえ遠く離れていても、孤独に苦しんでいたとしても、それは決して
そしてもうひとりの伯父は、こう言って背を押すはずだ。
「心の声を聞け」
と。
だから自分も今は何者なのかは考えない。きっとまだ、何者でもない。
自分のすべきことを、まだ何も始めてさえいないのだから。
「夏休みも終わったのに休学とは……今からすでに受験の準備は始まっているというのに!」
などとピントの外れた、「本当に異世界人か」と言い返したくなるような現実的な理由から反対していたジャベルをなんとか「毎日アプリのドリルをやり続ける」という条件つきで説得して、ようやく旅立ちの段になり、そして今に至る。
「ちゃんとハンカチとティッシュは持ちましたか? いくら食い意地が張ってるからといって、拾い食いや生水を口に入れたりしてはなりませんぞ」
「大丈夫だって、心配性だなぁ」
あれやこれやと気を揉む御成を、アユムは苦笑とともに受け流した。
「それにしても、ちょっと見ないうちに立派になっちゃって」
シブヤが感慨深げにそう呟くと、その相方たるナリタもうんうんと頷いて言った。
「これで、ここにあのヒトもいれば」
言いかけて、口をつぐむ。門出の日にも関わらず、重苦しい空気が流れた。
名を出さずとも、それが誰を指しているのか、その場にいた誰にとっても明らかだった。それほど強烈な印象を残した人物でもあり、今回の一件のそもそもの元凶でもある。
「あー、ごめんね。なんか湿っぽくなっちゃって」
意図してのことではなかったろうが、ナリタは申し訳なさそうに頭を下げた。
「まったくじゃ! 空気を読まんかっ」
仙人はそう喝を飛ばし、ステッキでナリタの頭を叩いた。
「……ん?」
今、何かがおかしかった。
言っていることと視覚情報とで、とんでもない矛盾があったような。
「いった!? 何も本気で叩くことないだろシブヤ!?」
「えッ、違うよ!?」
「じゃあジャベル……さんじゃないですよね……ハイ」
他愛ないやりとりをする仲間たちは、その隙間をすり抜けていく豪奢な服の裾に、目を留めていなかった。
誰よりも目立つ、覚えのある姿のはずなのに。
アユムはその老人と目が合った。
彼が茶目っけたっぷりにウインクした後、その輪郭が薄らいでいく。やがて後に残ったのは、一個の眼魂。それが天高く舞い上がると、瞬く間に影も形も残さずに消えた。
「……」
アユムはしばし呆然と立ち尽くしていた。
果たしてそれは現実のことだったのか。それとも自分が見た都合のいい幻だったのか。
そして、父もまた同じものを見ていたのか。
タケルは苦笑しながら、肩をすくめた。
そして、混乱覚めやらぬうちに、我が子のほうへと歩み寄った。
「それじゃ、俺からはこれを」
アユムの手を取り、餞別を握らせる。
だがそれは、アユムの予想だにしないものだった。
一個のゴースト眼魂。白い、オレ眼魂。
タケルの手には、直前まで何もなかったはずだった。
血色も、もう少し良かったはずだった。
そして何より、自分の肌に、内側に、馴染む力。
「……っ! お父さん、これは!?」
「ロボセンだけじゃ、心許ないだろ?」
ロボセンというのは、『アユム』が使役していた、かつてのユルセンの姿形や自我を模倣したサポートボットだ。グレートデミア戦で大破したのを彼が修復した。
その『アユム』と統合したことでユーザー権限は今のアユムにも移っていたが、アドバイザーとしてはともかく戦力としては不足なのは否めない。
変身能力なくして踏破できる旅路でないことは知っているが、だがしかしこれは、アユムの力ではあっても、元は父から削られた生命だ。
「受け取れないよ! だってこれは」
「うん。だから……『俺』に返して」
当惑するような矛盾したことを、父は言った。
「お前が言ったんじゃないか、アユム。誰かに託した想いは、巡り巡ってつながっていく。世界を広げていく。だからきっと、あっちの『俺』のところへこの力が導いてくれる。『俺』も、絶対お前と出逢えるのを待ってる」
そして別れ際にあらためて、肩に手を置いてタケルは微笑みかけた。
「忘れないで、アユム。この『眼』がある限り、俺もお前と同じ世界を視ている。そばに居る」
そばに居る。
力強い誓いの言葉を、幼い頃にも聞いた気がする。
あの時は屈んで目線を合わせてくれた。けれどもあの時とは違う。今は背も伸びて、しっかり自分の方から、父と視線を交わすことができる。言葉を交わし、心を交わすことができる。
「行ってきます、父さん」
「行ってらっしゃい、アユム」
人々の魂が煌めき続ける限り、空は無限につながっている。
……
…………
――私の記憶を巡る旅の終わりと共に、地球からの旅立ちが迫っている。
その後の彼らのことを少し話そう。