生命維持装置がバイタルを数値化する音と、それを取り付けられた本人の口と呼吸器が漏れ出す呼吸音が、まるで泊進ノ介の命数を刻むように、あるいは試すように狭い病室に響いていた。
幸いにして父は一命を取り止めることができた。
だがいつ容態が急変するとも知れず、その命は細い綱の上にあるとのことだ。
そして、同じ綱の上に、その妻霧子の精神もまた乗っていた。
閉め切ったカーテンの隙間から、朝日が漏れ出し、母子の口元を照らし出す。
眠る夫や背後に立ちすくむ息子に話しかけるどころか、息をすることさえ忘れたように、霧子の唇は硬く閉じていた。
そんな表情をさせてしまったのは、すべて自分が原因だ。そのことに対する自覚を新たに、英志は進み出た。
「僕、行くよ」
どこへとは言わない。恐らく母は察し、そして告げられることを覚悟している。
そのうえで、彼女はかすかに両肩を強張らせて、英志が言葉を絞り出すことを待ってくれていた。
「自分が許されないことをしていたのはわかってる。それでも、僕は父さんが守ったこの世界を、未来を守りたい」
いつものように茶化さず誤魔化さず、飾り気なく青年は言い切った。機械の音と三人分の呼吸だけの、痛ましい沈黙が続いた。
気まずい空気の中、英志はきびすを返そうとした。
「ひとつだけ」
母が今日初めて口を開いたのは、英志が出入り口にその身を半ば傾けた時だった。
向き直る我が子に、霧子もまた涙の跡と憔悴をにじませた、だが自らを励ますようにあえて強い笑みを向けた。
今と同様、かつてはまったく笑わなかった母。だが、父が根性や気概を見せた時が唯一それを見られる時だったという。
「ひとつだけ、約束して。……必ず生きて帰ってきて。そして、ちゃんと自分で、この人と仲直りして」
その笑みに背を押されて、見送られ父も戦いに身を投じて投じてきたのだろうか。
「……わかった、約束する。必ず戻ってくるって」
決意を改めて言葉にして、青年はキャビネットの上に手を伸ばした。父が倒れる直前に身につけていた品や着衣が片付けられて、置かれていた。その中から擦り切れたネクタイを引き抜く。
未だに焦げ臭さの残るそれを、身につける資格は自分にはない。ただそれでも、一時でも良い。父の意思と正義の心を借りたかった。
英志はそれを右腕に巻いて、部屋を飛び出した。
外に出ると、すでに特状課の面々が集まっていた。
出立することは知らせてはいなかったはずなのに、ライドチェイサーの周囲に集って、整備をしてくれている。
そして英志の姿を認めると、数日前の彼の醜態を忘れたように、朗らかな笑みを向けてきてくれた。
英志はその喜びを噛みしめ、また面に出ないよう、唇を噛み締め、目を伏せた。
「シフトカーから抽出したギルガメッシュ達の最終座標はインプットしてあるわ。ほら、この建設中止の遊園地」
バイクにまたがった英志に対して、りんなは手にした端末に表示されたマップを指で示した。
自分自身の脳にもしっかりその位置取りを叩き込みながら、英志は礼とともにうなずいた。
おそらくそのデータを急ピッチで取り出すまでに、少ない人員で相当の無茶をしながら夜を徹したのだろう。
彼女や究の目には、霧子もかくやという疲労の痕跡があった。
「オレも、こいつのシステム更新が仕上がったらすぐに追いつく。……それまで無理するんじゃねぇぞ」
と、剛は本来の英志のアイテム、シフトネクストスペシャルを振りながら、肩を軽くはたいた。
行動にこそ支障はないものの、108から受けた傷はまだ完治はしていない。
痒みとも痛みともつかない刺激を表情からは押し殺し、英志は笑い返して見せた。
「けど、やっぱりそれが出来てからのほうが良いんじゃねぇか? 連中のヤサが割れたんだし、何もそんなに急がなくたって」
知識も技術もないなりに、英志の身を案じる現八郎が、口をはさんで危惧を示す。
たしかに、今の武装……タイプゲットネクストと名付けられたそれは、本来のダークドライブとは半世代ほどのスペックの隔たりがある。万全の状態で挑んだにも拘わらず、真ギルガメッシュには完敗を喫したのだから、それより劣る装備で勝てる見込みはない。
彼にしては、筋の通った道理だった。
だが英志にしても退けない事情が、意地以外にもある。
「多分彼女は、ひとりでも戦おうとするから」
と、苦笑をこぼして英志は答えた。
「それって、春奈さん?」
ずばり言い当てたのは、究だった。
その名を聞いた剛や現八郎に、かすかな苦みが浮かぶ。
彼らにしても、自分の惚れた女や信念のために、二十年前には無茶をしたものだ。今だって、同じことが起これば迷わずそうするだろう。
なので、彼らにとってはこれ以上ないほど引き留められない理由だった。
「ちょっと見ねぇ内に、男の顔になりやがって」
鼻をさすりながら感慨深げに呟く現八郎の顔を、意地悪気にりんなはのぞき込んだ。
「それ、偽英志くん見た後にも言ってたよねぇ」
「バッ……! んなことねぇよ!」
慌てふためきながら、彼は否定した。が、そのうろたえようを見るとどうやら真実らしい。
ごまかすように拳を打ち鳴らしながら、悔しげに現八郎は声を張り上げた。
「あの野郎……、今度同じ顔を見たらブン殴ってやらァ!」
――彼が吐き出した気合いを機に、その場にいた全員の笑いが絶えた。
微妙な空気の中、同じく微妙な顔つきと視線が、ただ一方、泊英志本人の面へと向けられた。
英志は、真顔で自分を指した。
「…………モノの例えだよッ!」
自分の失言に気づいた現八郎がいかつい顔をくしゃっと歪めながら吼えた。
なごやかさを取り戻した空気の中で見送られ、英志はバイクを発進させた。
遠のいていく懐かしい駆動音に聞き惚れながら、その背を特状課メンバーは地平線に消えるまでいつまでも見つめていた。
「ほんと、誰かの言いぐさじゃないけど、ちょっと見ないうちにしっかりしちゃって。ねぇ?」
英志が完全に視認できなくなった後で、なお蒸し返して夫をいじろうとするりんなだったが、当の現八郎は神妙な顔つきで、病院のほうを睨んでいた。
「――なぁ、なんかが後ろを通らなかったか?」
と誰に向けるでもなく疑問を投げかける彼に、妻は慣れた様子でため息をついた。
「またそうやってごまかす。ほんっとに男らしくないんだから」
「いや、ウソじゃねぇよ! ほんとに何かいたんだって!」
そんな彼の訴えに反して、実際のところ不審な影どころか木の葉ひとつ揺れてはいない。
はいはい、と適当にいなしながら、りんなは自分のラボに戻るべく、駐車場に停めた車のほうへと歩いていく。
ほかのふたりも同情と憐れみの生暖かな眼差しでいながらも、りんなの意見に賛成らしく、角ばった肩をそれぞれに叩いてから彼女へと続いていった。
そうなると、言った当人も自信がなくなってきたらしく、叩かれた肩を落としてすごすごと彼らに追従した。
「……いや、誰かいたと思ったんだけどなぁ」
と、なお未練を口にしながら。
追田現八郎。
その魁偉な容貌と同じく、唐竹を割ったような直情のタイプの為人である。
だが、そんな性格のためにミスや勘違いも多く、また反面妙に女々しく、自分の専門外のことに関しては肝も細く縮まり、見慣れぬものに対しては猜疑心が強い。
だが、彼には時折思い出したように、所謂「刑事の勘」とも言うべき動物的直感が働くことがある。
自分も他人も忘れていたが、今まさにそれが作用していた。
つまり、彼が感じていたことは……事実であった。
その男は、大病院の中に苦も無く侵入していた。
季節外れの黒いロングコートをはためかせているにも関わらず、傷病者の受け入れに奔走する医師も看護師も、彼の姿を感知していないかのように咎めることなく素通りしていく。
靴音を鳴らしながら進んでいく彼は、棟を渡ってある病室へと進んでいた。
その先のドアには、
『面会謝絶』
『泊進ノ介』
そんな、二種類の四文字が書き連ねてあった。
男は口元に余裕のある笑みをこぼしながら余裕のある足取りで、まっすぐその病室へと、着実に接近しつつあった。