「………………えっ?」
呆然と。目の前の現実を咄嗟には理解できずに、私は呆けていた。
私が居たのは、都内のマンションだ。数年前に売り出した新築で、タイトルの賞金や貯金を使って購入したものである。
内装は最近の住宅でよくある、少々小洒落たモダン的なデザイン。高級感溢れるとまではいかないが、そこらのアパートや古いマンションよりは魅力的な内装だった。
しかし今視界に広がっているのは、どこか見覚えのある、自然豊かな田舎の風景で。見慣れた自室はどこにもない、全く別の場所の光景が周囲に広がっている。
屋内の景色は、屋外に。寝室と兼用していた自室は清水が流れる小さな川の土手に、綺麗な白色だった天井は雲一つない青空になり、周囲の空間は共通点を探す方が難しいほどに様変わりしていた。
何が起きたのかも分からずに、私はキョロキョロと辺りを見渡すと、既視感を感じたこの風景――目の前に広がるこの景色が、私が通っていた高校のすぐ近くの場所だと気がついて。表情に浮かべた驚愕を、さらに強くした。
「ゆ、夢……じゃない、みたい」
頬を摘まんで引っ張っても、きちんと痛みを感じる。風の感触や緑の匂いも感じているし、夢だと片付けるにはどうにも色々とリアルすぎた。
ならいったい、これはどういうことなのだろうか。
私はとりあえず誰かに連絡しようと、ポケットに入れっぱなしだったはずの携帯を取り出すために、視線を下に向けて――――
「セ、セーラー!? 何でっ!?」
――――何故か高校時代の制服を着用しているのを見て、思わず声を荒げてしまう。
都合十年ぶりに見た、懐かしみすら感じるこの制服。我が母校、清澄高校の女子の指定制服であるこのセーラー服は、高校を卒業してからは袖を通す機会もなく。私が使っていた制服は、今は長野の実家の箪笥の中に眠っているはずである。
にもかかわらず、私は今、その清澄高校の女子制服を着ている。実家の制服を引っ張り出した記憶もなく、女子高生のコスプレをした記憶もないのに、だ。
本当に私に何が起きたのだろうかと、頭を抱えてその場に踞りたくなるのを我慢して。私はポケットを探ると、そこに入っていた携帯を取り出し――それが数年前に買ったスマホではなく、高校時代使っていたガラケーだったことに少し戸惑いつつ――一先ず誰かと連絡を取ろうと、最早懐かしい折り畳み式の携帯をカチャリと開く。
開いたと同時にディスプレイに光が点り、画面には壁紙と、現在の時刻と日付がデジタルに映し出される。友人に電話しようと、電話画面に移るボタンを押そうとした、その前に。
「……え?」
“十二年前の”日付を画面が示していることに、ふと気が付いて。携帯を操作する指を、思わず止めた。
「に、201X年、って……十二年前? 私が高一だった頃、清澄に入学した年……だよね」
携帯の故障か、あるいは設定のミスか。目の前に映るあり得ない情報を、私は呆然と見つめていた。
変化した居場所、衣服、年月。それらの情報から推測するに、あまりにも荒唐無稽な考えが私の中に一つ浮かんだが、さすがにあり得ないだろうと首を横に振る。
いや、確かに、冗談半分で願ったりはしたけれど。それでも私が願った『それ』は、こんな簡単に起きるような代物ではないはずだ。
時速88マイルで特殊な改造を加えた車を走らせたり、未来からやって来た猫型ロボットに頼んだり、ワームホールに飛び込んだり。私も詳しく知っているわけではないが、そういった実現も難しいような過程を幾つも経てから初めて発生する、奇跡のような現象のはずである。
……いや、いやいや。いやいやいや。ない、ないはずなのだ、たぶん。
そういえば肌の感じも若返ってるような気はするし、多少は成長したスタイルも昔の貧相なものに戻っているし、肩口まで伸ばしていたはずの髪が少し短くなっていたりするけれど。さすがにそれは、何と言うか、いい大人が信じるには現実離れし過ぎている。
タイムスリップ――小説や映画では使い古された題材の、時間逆行。それが突然私に起きたのだ、と。そんなことをいきなり何の躊躇もなしに信じられる人がいるとすれば、それはきっとピーターパンのなり損ないか何かだろう。
少なくとも私はちゃんとした、常識ある大人の一人で。いくら小説好きな文学少女だったと言っても、現実と創作の区別くらいはつけており。
もしや私は、高校時代に逆行したのではないか……などと。そんな夢みたいなことをすぐに受け入れられるほど、私は子供ではなかった。
『おかけになった番号は、現在使われておりません。番号をお確かめのうえ――――』
呆けて携帯を見つめること、数秒。すぐに我を取り戻して、やろうとしていた操作を再開し、友人の電話番号を入力してダイヤルを押した。
するとコール音がすることもなく、すぐに無機質な自動音声が応対して。入力した番号、数年前に携帯を新調した友人から教えてもらった番号は存在しないのだと、短い文章を何度も繰り返していた。
友人に何度も電話するうち、見慣れて覚えてしまった番号である。私が間違えてしまったという可能性は、殆どないと言っていい。
何度繰り返してみても結果は同じで、その番号に繋がることは一度としてなく。他の友人、記憶している他の番号をかけてみても、その誰にも繋がらなかった。
嫌な予感が、段々と強くなってくる。馬鹿馬鹿しいと目を背けていた推論が、徐々に真実味を漂わせ始めている。
まさか、本当に、もしかして。狂乱半分、期待半分のそんな思いが、私の胸の中をぐるぐると巡り回った。
半ばパニックになりながら、私は携帯をポケットにしまい直すと、土手を降りて川の側へと歩み寄る。都会では考えられないくらいに綺麗なその水面に、私は自身の姿を映して見た。
その姿はけっして見慣れた、27才の私の姿ではない。それよりも十年ほど若返った、記憶の中にある私の高校生の頃の姿と全く同じである。
ペタペタとあちこちを確かめるように触ると、水面に映る私も同じように手を動かして。その姿は正真正銘今の私のものなのだと、否応にも理解できた。
……これは。やはり、そういうこと、なのだろうか。
私が先程冗談混じりに願った、それ。だとしたら、私は今度こそ、彼と……。
「――――咲っ!」
無言で自分の姿を見つめていた、私の背中に。ふと、声がかかる。
懐かしい、そして聞き覚えのあるその声は、年若い少年のもので。私にとっては大事な青春の思い出の、その多くに関わる男性の若い頃のものだった。
忘れもしない彼の声を聞いて、私はすぐさま振り返ると、その声の方向へと体を向ける。胸中に渦巻いていた感情は何処かへと消え去り、代わって声の主のことがあっという間に脳内を埋め尽くした。
……この、声は。間違いない、この声は。
振り返った視線の先には、一人の少年がこちらに歩み寄ってくる姿が映っていて。笑顔を浮かべているその彼は――金髪で、多少軽薄そうな印象の、でもその表情には優しさや純粋さが表れている、その彼は。間違いなく、私の知っている彼だった。
「一緒に学食行こうぜ、咲。今日のレディースランチが美味そうでさー、どうしても食べたいんだよ」
にこやかに、親しげな振る舞いで私の側まで寄ってきた、彼。両手を顔の前で合わせ、片目を瞑ってすまなそうな表情を作ると、彼は「頼む」と少し頭を下げた。
その彼の姿を見て、私は冷静に頭を働かせることも、彼の言葉を脳内で反復することも出来ず。
胸の奥から突き上げてくるような感情に、動かされて。数年前に無惨な終焉を遂げた、温かくて苦しいその感情が、再び熱を持ち出しているのが分かって。
「……京、ちゃん?」
眼前の、高校時代の姿をした、彼。私から離れる前の須賀京太郎が、今、目の前にいる。
未だ正常な働きを取り戻していない私の思考が、その事実を認識した瞬間に、彼の渾名を無意識に口にしていた。
「ん? いや、そうだけど……。どうしたんだよ、具合でも悪いのか?」
私の様子を不審に思ったのか、彼が心配そうに私の顔を覗き込む。
視線が重なり合い、二人で見つめ合う形となること、十数秒。私が再び我を取り戻し、自分が彼と見つめ合っていることに気がつくと、私は慌てて視線を逸らしたり――などはせず。視線を彼の瞳に合わせたまま、私は満面の笑みを浮かべると、心の衝動に身を任せて。
「――――京ちゃんっ!!」
両手を広げながら、我慢出来ずに飛び付くようにして、、目の前の彼へと勢い良く抱きついた。
「う、うおっ!?」
突然のことに反応出来ず、後ろ向きに倒れ込んでしまう彼。抱きついている状態の私も彼に従って倒れ込み、彼の体の上に重なるようにして倒れた。
彼に乗っているこの状況は、端から見れば私が彼を押し倒しているように見える。実際その通りだし、私が彼の胸に顔を埋めていることも合わせれば、目撃者が何を思うかは想像に難くない。
が、今の私にそんなことを考える余裕など、なく。
だらしなく表情を歪め、自身を突き動かす情愛を発散している私の脳内は、今現在私の五感の内の三つを占めている男性のことで一杯で。
「おい、ちょっと、いきなりなに――――」
「京ちゃんっ! 私ってさ、もしかしなくても、高校一年生だよね!?」
何が何だか分かっていない様子の彼を無視して、抱きついたまま顔だけを起こして質問を投げ掛ける。
いきなり何を聞くのかと訝しみながらも、彼がコクリと頷いたのを見て、私は彼への質問を続けた。
「じゃあさ、京ちゃんはまだ彼女とかいないよね! 結婚もしてないし、付き合ってる人もいないよねっ!」
「え? ……いや、まあ、いないけど」
「うん、うん、そっか。……そっか、そうなんだぁ」
フフ、と。思わず口から漏れ出た黒い笑いは、幸いにも彼の耳には届かなかった。
成程やはり、これはタイムスリップなのだろう。原因なぞは私には判断もつかないが、今は十二年前で、私も彼も高校一年生に戻っている。
いや、もしタイムスリップではなかったとしても、最早私にとってそれらの点は重要ではない。目の前の彼と、須賀京太郎と結ばれるためのチャンスをやり直せるなら、それが何の事象だろうと構わなかった。
そう、そうだ。私はもう一度、彼との青春をやり直せるのだ。
高校生と言えば、青春の真っ盛り。前回は麻雀に殆どを費やしたその時期を彼との交際に使い、私と『そういう仲』になるように彼を誘導してゆけば、私が幸せを掴むのはけっして不可能ではない。
既婚者に周囲を囲まれて居心地悪い思いをすることも、彼氏ができたと惚気る友人の話を鬱々とした気分で聞くことも、某掲示板の住人達に散々馬鹿にされることも。独り身ならではの悲哀と、今度はおさらばできるはずだ。
出来る。私ならきっと、出来る。この目の前の少年とフラグを立て、恋をして、愛し合い、相手を人生の墓場に連れ込むことが出来る。
結婚して、子供を産んで、親子で幸せな家庭を築く。そんな夢を、今度こそ叶えられるのだ。嫁ぎ遅れと蔑まれるような、小鍛治プロに同類を見るような暖かい視線を向けられることもなくなるのだ。
ふふ、ふふふ、ふふふふふ。……絶対逃して、なるものか。
「……きょーうー、ちゃん♪」
ニコリ、と。上体を起こし、出来る限りの可愛らしい笑顔を彼に向ける。
よく見ると、何故だろうか、彼の額にはいつの間にか汗が浮かんでいて。彼は口の端を少々引きつらせながら、乾いた笑いを漏らしていた。
……はて。可愛らしい笑顔のはずなのに、いったいどうしたのだろう。蛇に睨まれた蛙と言うか、チーターに睨まれたインパラと言うか。まるで何かのプレッシャーに呑まれているかのような、そんな反応だ。
まあ、いい。そんな細かいことは、今はどうでもいい。今大事なのはそんなことじゃない。
「京ちゃん、さ。さっき、学食行きたいって言ってたよね」
笑顔から表情を変えず、私は彼の両手を優しく握ると、それを私の胸元にまで持ってゆく。
彼の方も表情を変えぬまま、私をじっと見つめていて。それに込められている感情はどうしてだか不安のように感じられたが、彼が私を見続けているのは素直に嬉しかった。
「――――ね。一緒に、行こ?」
彼の両手を大事に握ったまま、コテンと首を傾げながら言った、その言葉に。
彼は恥ずかしがるでもなく、何故か無言で何度も首を縦に振るという反応を見せた。
やっぱり咲ちゃんには純愛が似合いますね!ね!
Q.前作と関係ありますか?
A.ありません。
Q.あのけいじばんのねたですか
しつぼうしました、うえのさんのつまになります
A.キャップ!病院に帰ろう!
Q.テルチャーは結婚したの?
A.いや、ほら、あれよ。……まだワンチャンあるし(震え声)
Q.京太郎って誰と結婚したんですかねぇ……
A.塞ちゃんとかやろ(すっとぼけ)