「志希……?」
小梅の返答を受けて、凛はますますいぶかしげに眉を寄せた。
彼女からしてみれば、唐突に飛び出した名前だったのだろう。
しかし小梅とて、思いつきで一ノ瀬志希の名を出したわけではない。
「みなさん、覚えていませんか? プロデューサーさんが志希さんの名前を出していたこと」
みなは首をかしげた。
奈緒などは志希の名前を出したプロデューサーに食ってかかっていた気もするが……、まあ、その直後に戦闘が始まったから、記憶が飛んでいても無理はないが……。
「あ……、覚えてる……かも」
はっと目を見開いたのは、未央だった。
「たしか……、プロデューサー、今日、志希にゃんに会ったって言ってた……!」
未央は小梅に視線を送ってくる。その顔にはようやく覇気が戻ってきていた。
プロデューサーを傷つけたショックからは立ち直りつつあるようだ。小梅は安堵し、少し表情をやわらげた。
「ええ。プロデューサーはおそらく、ゾンビ化する以前に志希さんと会っていたんだと思います」
「え? こうなったあと、じゃなくて?」
未央はゆっくりと立ち上がり、またがっていたプロデューサーから離れる。
卯月に肩を支えられながらこちらに近寄ってくる未央に、小梅は神妙にうなずく。
「はい。プロデューサーさんの話を信じるなら、ですが……」
「でも、志希がプロデューサーさんと会ってたとして、それでどうなるんだ?」
話に割り込んできた奈緒が太眉を寄せた。
卯月も続けて話に入ってくる。
「どうしてプロデューサーさんがああなったのか、志希さんがなにか知っているってことでしょうか……?」
小梅は小さく首を振った。
「それもありますが、今重要なのは、志希さんが今日、事務所に来ていて、まだゾンビに襲われず無事な可能性があるということです」
言わんとするところが伝わりにくかったのか、卯月たちはそろって眉をひそめた。
が、凛がいちはやく小梅の思惑に気づいた。
「ひょっとして、志希に治してもらおうっていうの? プロデューサーのこと」
小梅がこくりとうなずくと、みなはごくりと息を呑んだ。
「た、たしかに、あいつは天才だもんな……」
奈緒がううむとうなる。
一ノ瀬志希。
小梅たちと同じくここ346プロダクションに所属するアイドルである志希は、一方でまた別の顔も持っている――天才的な頭脳を持つ科学者なのだ。海外に留学していた頃は飛び級で大学に通い、アイドルとして活動するようになってからも、独自に研究を続けてきたらしい。
「……今回のゾンビ化は、なんらかのウイルスへの感染によって引き起こされていると考えられます」
小梅がおもむろに切り出すと、みなはぐっと身を前に乗り出してきた。
「みなさんがゾンビを『治す』と言ってくれたおかげで思いいたったんですが――」
小梅は少し表情をやわらげて卯月たちを見返した。
「ウイルスが原因ならば、それを無効化することでゾンビを人間に戻すことができると考えられませんか? インフルエンザが治るみたいに」
「ウイルスを無効化……、薬かなんかを打つってことか?」
奈緒に続いて、卯月がハッと目を見張った。
「あっ、それで志希ちゃんなんですね!」
小梅は深くうなずいた。
志希が大学で専攻していた分野は化学だったらしい。また、薬剤の調合は彼女の趣味でもあり、今でも日々、オリジナルの芳香剤や栄養ドリンクの開発に取り組んでいるという。噂では有名な製薬会社にも開発データを提供しているそうだ。
彼女ならば、ゾンビの治療薬を作れるかもしれない。
「でもさ……、そもそも作れるの? ゾンビを治す薬なんて……」
凛が不安げに疑問を投げかけた。その懸念はもっともだと思う。
「確証があるわけじゃありません。ただ、傍証ならあります。気絶して起き上がってきたとき、プロデューサーは理性を取り戻していましたよね? この点から判断するに、プロデューサーの体内で抗体が作られはじめていて、ゾンビ化の症状が薄れているとも考えられるんじゃないでしょうか」
「コウタイ?」
「体内に入った細菌やウイルスの働きを弱める分子のことです。いわゆる免疫反応に関係する物質ですね。もちろん、人間離れした身体能力はあいからわずでしたから、抗体ができているというだけでは必ずしも快方に向かっているとはいえないでしょう。でも、免疫系が機能しているのだとすれば、体外でゾンビウイルスを培養して抗ウイルス剤やワクチンを作り出すことも不可能ではないはずです――えと……みなさん?」
みながぽかんと口を開けていることに気づき、小梅は不安になった。説明にどこかおかしな箇所でもあっただろうか……?
みんなして顔を見合わせたあと、奈緒が代表して口を開く。
「いや……、小梅、ずいぶん難しいことを知ってるんだなと思って……」
虚をつかれた小梅はパチパチと瞬きを繰り返したが、急に恥ずかしくなって、前髪のうしろに表情を隠した。
「え、いえ、その……、え、映画や本からの受け売りです……」
「それでも、やっぱりすごいです、小梅ちゃん!」
卯月に尊敬のまなざしをそそがれ、小梅はますます面映ゆくなった。
「あ、あの……あくまでも私の思いつきですから……。全然見当外れかもしれませんし……」
「いや、私は信じるよ、小梅のこと」
穏やかな声に顔を上げると、凛が優しげにこちらを見つめていた。
「未央は……どう思う?」
凛に問いかけられると、未央は振り返ってプロデューサーをちらりとうかがった。
「薬を作ってもらうってことは、志希にゃんを探しにいかないとダメなんだよね? ここを出て……」
「ええ、そうなりますね……」
小梅は自分に対する問いかけと判断して応じたが、ほかのみなの顔にも一斉に緊張が走る。
この部屋を離れる。それはつまり、とりあえずの安全地帯を捨てるということにほかならない。
「でも、その薬でプロデューサーが本当に治せるかどうかも、まだわからない……んだよね?」
遠慮がちな未央の指摘に、小梅は重々しくうなずいた。治せる治せない以前に、凛が言ったとおり、ゾンビ治療薬などというものを作れるかどうかも、よくよく考えるまでもなく怪しい。いや、もっと言えば、志希がこの事務所内に無事でいるかどうかすら、わからないのだ。
そう思うと、自分の考えのすべてが砂上の楼閣のように思えてきた。ここからどこへ行くにしても、ゾンビの大群をくぐり抜けていかねばならないだろう。なんの根拠もない、あやふやな憶測でみなをそんな危険にさらしていいのか? もともと大きくもなかった自信が、風船から空気が抜けるようにみるみるしぼんでいく。
「あ、あの、やっぱりもう少し考えさせて――」
ください、と小梅が口にしかけた、そのとき。
「試して……みようよ」
ぼそりとした、しかしよく通る声が、小梅の言葉をかき消した。
小梅は驚いてそちらに視線を向ける。
未央がまっすぐに小梅を見つめていた。
「試してみようよ。プロデューサーを本当に人間に戻せるかどうか――、試してみなくちゃ、ダメかどうかもわからない」
小梅はハッと胸を打たれた。
試す。
未央は、プロデューサーの命を奪おうとしたときも、その言葉を発した。だが同じ言葉が今度は、希望に彩られている。
「そう……ですね」
決意を瞳に宿す未央に、小梅はやわらかな笑みを返した。
「治療薬を作れるかどうか、志希さんに相談する――いや、まずは志希さんを探すところからですか。とにかく、やってみましょう」
未央が大きく息を吸い込み、顔に喜色が広がる。一時は気が動転していた彼女も、完全に自分を取り戻したようだ。
「よし……決まりだな!」
小梅と未央のやりとりを受けて,奈緒が気勢を上げた。もちろん、反対する者はいなかった。みな、覚悟はできているようだ。
「じゃあ、とっとと準備にかかっちゃおうぜ。すぐに出たほうがいいんだろ?」
奈緒に問いかけられると、眠りつづけているプロデューサーをうかがった。たしかに、彼がいつまで小康状態を保っていられるかわからない。
「そうですね。なるべく急ぎましょう」
奈緒が気合を込めるように拳を打ち鳴らす。
「うっし……、とりあえず、武器は必要だよな」
奈緒はそう言って、近くに落ちていたほうきを拾い上げた。軽く素振りをして感触を確かめる。
「私は……いや、私もそれ……かな」
未央はプロデューサーのかたわらに落ちていたビニール傘に一瞬目をやったものの、結局もう一本のほうきを選んだ。ビニール傘は骨が折れて使い物にならないということもあるけれど、やはり心情的にももういちどは手にしづらいのだろう。
「武器はこのくらいでいいんじゃない? 小梅と卯月は、なにか持っていくもの、ある?」
モップを手に取りながら、凛はふたりのほうに振り向いた。
卯月はライブグッズが保管されたキャビネットから、ナイロン製のトートバッグを引っ張りだしてきた。
「あ、あの、薬をもらうなら、なにか容れ物があったほうがいいんじゃないかと思って……」
首尾よく志希に会えたとしてすぐに治療薬の現物を出してはもらえないだろうが、バッグが必要というのはそのとおりだろう。
「途中でほかの医薬品や食料が見つかったら、それも入れましょう。念のため、ブランケットとドリンクも持ってください」
「わ、わかりました」
卯月は小梅の指示どおり、ブランケットの包みとエナジードリンクをトートバッグに詰めはじめる。このバッグもライブグッズの余り物なのだが、ナイロン製で容量もそれなりにあるから、底が抜ける心配はしなくていいだろう。
「私は……これを借りていきます」
小梅は手の中にあるスマートフォンを見つめた。電話もメールも通じないし、ネットサイトの更新もすでに止まっているようだが、やはりなにかの役には立ちそうだ。
控え室を経つ準備は、これで整ったように思う。
「さて、と……、で、ここを出て、いったいどこを目指せばいいんだ?」
ドアにつま先を向けたところで、奈緒がはたと立ち止まった。そういえば、一ノ瀬志希を探しにいくという目的を決めただけで、具体的な捜索場所はまだ話していなかった。
だが、小梅はすでに志希の居場所について、目星をつけていた。
「とりあえず、志希さんの実験室へ行ってみませんか?」
「実験室……って?」
眉間にしわを寄せた未央のほうへ、小梅は体を向ける。
「志希さん、事務所の一室を自分専用の化学実験室として借りているんです。事務所へ顔を出すときは、たいていそこへ寄るんだとか」
というより、レッスンや打ち合わせの以外の時間は、ほとんど実験室にこもっているようだ。何日も泊まり込むこともあるみたいだから、事務所内の実験室はさながら志希の別宅である。
「ああ……なんか噂は聞いたことあるかも」
凛が顎に手を当て、少しだけ視線を上げた。フランクな性格の志希は事務所に間借りしていることを別に隠してもおらず、ほかのアイドルを自分の実験室に誘うこともある。じつは小梅も何度かお邪魔したことがある。
「志希さんの実験室は、こことは別の棟――中庭を挟んだ建物のなかにあります。なかからはつながっていないので、向こうへ行くには、一旦外へ出る必要があるんですが……」
「前庭と、それに中庭も通っていかなきゃいけないってことか……」
奈緒が窓のほうを見て、憂鬱そうにため息を落とした。
もう嫌になるほど窓から外を見下ろしたが、前庭にはあいかわらず大量のゾンビがうごめていた。このぶんでは中庭のほうも悲惨な状況になっていることだろう。
「中庭の奥には、カフェテリアもあるんですよね……。ちょうど、向こうの建物への入り口の手前なんですが……」
カフェテリアといえば、ショッピングモールに次いでゾンビの巣窟になりやすいスポットのひとつである。ゾンビというのは基本的に、日常で賑わいを見せるところに集まる傾向がある。
「でも、そこを通らなきゃ志希の実験室には行けないわけでしょ?」
「はい……」
問いただしてきた凛に、小梅は消え入るよう声で返事をした。裏からぐるりと迂回するルートも考えられなくはないが、外は今やどこもゾンビだらけであることに違いはない。だったら最短ルートを通ったほうがまだマシなはずだ。
「ええと、つまり……」
卯月がおずおずと手を挙げて、発言の許可を求めた。
「ここから向こうの建物の入り口まで、私たちはゾンビさんたちに襲われないように、なんとか避けていかないといけない、ってことですよね? えと……、そんなこと、できるんでしょうか……?」
その問いかけに小梅は押し黙るしかなかった。
ゾンビは人間を見つければ襲い掛かってくる。これは彼らの本能的な行動で、知性を持たないがゆえ、制止することもままならない。動きは鈍いが、あれだけの数がいるとなると、囲まれたりすれば一巻の終わりにもなりかねない。しかも中庭に出て別棟入り口へ至るまでは身を隠せる障害物もほとんどなく、彼らに見つからず移動することなど不可能に近いのではないか?
最悪、強行突破も覚悟しなければならないのか――そんな考えも脳裏をかすめた、そのとき。
「……あのさ」
未央がぼそりと沈黙を破った。
小梅たちの注目を集めると、未央はいささか緊張した面持ちで一同を見返した。
「あいつらの注意を引けばいいんだよね……? 私、ちょっと思いついたことがあるんだけどさ……」
そう言って未央が目を落としたのは、小梅が右手に握っていたスマートフォンだった。