脳を完全に破壊する。
ネット掲示板に上がっていたのは、思えばゾンビ撃退法の定番とさえ言える、そんな単純なやり方だった。
神経がウイルスに侵されることでゾンビ化が生じているのだとすれば、神経系の中枢が壊されることでゾンビは息絶える――理屈としては至極まっとうであろう。
しかし、理屈を口にするのはたやすくとも、それを実行に移すのは容易ではない。映画やゲームでは、襲いかかってくるゾンビの頭に弾丸を打ち込む、なんてシーンもよくあるけれど、あれはあくまでフィクションだ。現実には難しい。たとえ銃器がこの場にあっても、動きまわる相手の頭部へ的確に弾をヒットさせるのは至難の業だろう。
いや、本当の問題は手段の困難さではない。
真に問題なのは、心情のほうだ。
ゾンビとはいえ、相手は人のかたちをしている。そんな相手の頭をかち割って、中に詰まった灰色の塊をぐちゃぐちゃに潰す――人間として、そんな真似ができるのか。問われているのは、そういうことだ。
しかもそれが親しい者相手だとしたら――。
「……い、いやいやいやっ! いくらなんでもそれは……なあ!?」
奈緒がやけに騒がしくわめきたてた。重苦しい沈黙に耐えかねたかのように。
しかし、明るい口調とは裏腹に、奈緒の笑みはひどく引きつっていた。
ふたたび重い沈黙が流れる。
次に口を開いたのは、凛だった。
「……でも、今だったら、簡単にできるよね……?」
凛に釣られて視線を横に動かした小梅たちは、見てしまった。頭からブランケットをかぶされてもなお眠りこけている、プロデューサーを。
「ちょっ……、り、凛! それは……っ」
奈緒がぎょっと目を剥いた。
「プ、プロデューサーさんが死んでもいい、っていうのかよ!?」
「そうじゃない! そうじゃないけど……」
すぐさま言い返したあと、凛は自分の肘を強く抱いた。
「でも……、このまま放っておくわけには……いかないじゃない」
「それは……、そうだけどさ……」
消え入るような声でつぶやくと、奈緒はそのまま口をつぐんだ。
また沈黙が場を支配する。
小梅は横目でプロデューサーをうかがった。
彼は以前にも、意識を取り戻して小梅たちに襲いかかってきた。祈りのポーズで撃退できたものの、次もそれが効く保証は実のところどこにもない。
そう考えると、今のうちにプロデューサーの息の根を完全に止めるという選択肢も、十分にありえるのだ。しかし……。
「あ、あの……」
卯月の弱々しい呼びかけで、みなはうつむけていた顔を一斉に上げた。
「ほ、本当なんでしょうか? その……インターネットで言われてることって……?」
卯月は探るような目つきで小梅をうかがった。
脳を破壊すればゾンビは死ぬ――その情報じたいが間違いならば、なるほど悩むことはなにもない。しかし――。
小梅はゆるゆると首を振るしかなかった。
「……たしかに、確証があるわけではありません。ただ、今回のゾンビ化の様態を考えると、可能性は高いといわざるをえません……」
「そ、そんな……」
卯月の表情が一気に暗くなる。
またも沈黙が流れかけたが、それを嫌うかのように奈緒が大きく身を乗り出した。
「か、可能性があるってだけなら、つまり試してみなきゃわからないってことだよな!? だ、だったらさ、無理にやらなくても――」
「……試してみようよ」
くぐもった声が割り込んできた。小梅たちは一斉に振り向いた。
部屋の隅に立ち、暗い表情でこちらを見据えていたのは――未央だった。
「試してみればいいじゃん……その人のこと、
ゆらゆらと左右に体を揺らしながらこちらへ向かってくる未央は、途中で落ちていたビニール傘を拾い上げた。
「み、未央ちゃん……、な、なにを……?」
恐怖に息を呑む卯月に、未央は不気味に笑い返した。
「頭を潰せば……いいんだよね? いいよ、私がやってあげる……」
うつろな瞳に仄暗い覚悟をにじませた未央が、脇をすり抜けていく。小梅たちはその異様な雰囲気に呑まれ、誰も彼女を止めに入ることができなかった。
とうとうプロデューサーの元へたどりついた未央は、迷いなくブランケットをはぎとり、彼の胴をまたぐ。
「脳を完全に破壊……だっけ? へへ、どうすればいいだろうね……? 額からめった刺しにすればいい? それとも、口から傘を突き刺して、中身をぐちゃぐちゃにかき混ぜたほうがいいかな?」
未央はもう、小梅たちのほうを見てはいなかった。狂気じみたそのまなざしは、眼下のプロデューサーにだけそそがれている。
「み、未央、お、おちついてよ、ねえ……」
「お、おい、未央……。じ、冗談だよな?」
凛と奈緒が、おそるおそる未央に手を伸ばしかける。が――。
「うるさいっ!」
未央は突然、ヒステリックにふたりを怒鳴りつけた。
首をすくめた凛と奈緒を――いや、卯月と小梅も含めた全員を、未央は鬼気迫る形相でにらみつける。
「殺さなきゃ……っ、殺さなきゃいけないじゃん! ボコボコに殴られて、いっぱい血ぃ出して苦しんで……、人間じゃなくなって! 私がプロデューサーをこんなふうにしたんだ! 私が! だから、私が殺すしかないじゃんっ!」
未央の叫びは途中から、涙声になっていた。泣き腫らして真っ赤に充血した瞳に、またじわりと涙がにじむ。
「未央さん……」
言い分は無茶苦茶だったが、なぜか心情は理解できる気がした。未央は、プロデューサーを傷つけた罪悪感を、さらに罪を重ねることでかき消そうとしているのだ。
「殺す……っ、殺すんだ……っ!」
ふたたびプロデューサーのほうに向き直った未央は、うわごとのように繰り返しながらゆっくりとビニール傘を振り上げた。
「み、未央ちゃん、もう……や、やめてくださいぃ……」
卯月が泣いて頼んでも、未央はもう振り向かなかった。もはや、ビニール傘の尖った先端をいつ振り下ろしてもおかしくない雰囲気だ。
「く……っ」
すぐに止めに入るべきだ――頭ではそうわかっているのに、小梅はなぜか一歩を踏み出せずにいた。たぶん、凛も奈緒も卯月も同じ状態だ。
自分たちは心のどこかで、未央の支離滅裂な言い分を受け入れてしまっている。誰かがプロデューサーを殺して
ずるい――と小梅は思った。
でも、やはりなにもできなかった。
「う……ああああああああっっっっ!」
心にこびりついた躊躇を削ぎ落とすかのごとく、未央は叫んだ。
ビニール傘を目一杯まで振り上げる。
小梅たちは思わず固く目をつむった。それでも、見るに堪えない、おぞましいイメージが一瞬脳裏をよぎる。
次の瞬間、ガギンッ、という鈍い金属音が部屋にこだました――。
「……ひっく、う、う、ううう……」
聞こえてきたのは、かすかなすすり泣きの声だった。
小梅たちははっとして顔を前に戻す。
未央が、プロデューサーの上にぺたんと座り込んでいた。
「できない……、やっぱりできないよお……っ」
プロデューサーの胸にうずくまるようにして、未央は嗚咽を漏らしはじめた。
ビニール傘は、プロデューサーのかたわらに転がっている。骨が折れ曲がっているものの、
無論、プロデューサーの顔面も無事だ。
「み、未央ちゃん!」
真っ先に未央に駆け寄ったのは卯月だった。
「未央ちゃん……、ごめん、ごめんなさい……っ、私、私……っ」
未央をきつく抱きしめ、涙ながらに謝罪の言葉を繰り返す卯月。
「う……わああああんっっ!」
未央のほうも卯月を抱きしめかえし、堰を切ったかのごとく大きな泣き声を上げはじめた。
「……」
小梅たちは泣きじゃくる未央と卯月をしばらくのあいだ気まずげに眺めた。
やがて、しだいに泣きやみはじめた未央から、ぽつりと言葉が漏れる。
「助けられない……かな」
「え……?」
思わず反応してしまった小梅に、未央の視線が向けられる。
「助けられないかな……プロデューサー」
涙に震えた声で、今度ははっきりと告げられた。
「それは……」
小梅はとっさに顔を横にそむけた。
彼を助けたいという思いは、もちろん小梅にもあった。
でも、どうやって?
どうしたら、彼を「助けた」ことになるのだろう?
このままの姿で生かしておくことは、はたして彼を救うことを意味するのだろうか? ゾンビのままで生かしておくことが……。
「たしかに、殺すってのはやっぱり気が乗らないけど……」
奈緒がためらいがちに凛のほうをうかがった。
凛は苦渋に満ちた顔つきでうつむく。
「でも……、プロデューサーがあいつらみたいになるのなんて、私、これ以上見ていられない……」
「私も……っ、私もです!」
涙ながらに叫んだ卯月は、小梅に訴えた。
「なにか……なにか、ないんでしょうか……? プロデューサーさんを……治す方法が……」
小梅は目を伏せた。
やはり、わからない。
こんな状態になったプロデューサーを救う方法など――。
「……治す?」
ふいに天啓にうたれたような気がして、小梅はハッとおもてを上げた。
助ける――じゃない。
「ゾンビを……治す……」
言葉にしてみると、一気に視界が開けていくような気がした。
「え?」
みなの視線が小梅に集まる。
小梅はみなの困惑した顔を一瞥してから、口を開く。
「あるかもしれません……ゾンビを治療する方法なら」
「え!?」
みなの目が今度は驚愕に見開かれる。
「マ、マジ!? 小梅、ゾンビを治せるのかよ!?」
勢い込んで詰め寄ってくる奈緒を、小梅は片手を上げて制した。
「私では無理です。でも、この事務所ならひとり、それができるかもしれない人がいると思うんです?」
「この事務所に? 誰?」
今度は凛が訊き返してきた。
もったつけるつもりはない。小梅は怪訝そうな表情のみなを見返すと、頭の片隅にずっと引っかかっていたその名を口にした。
「志希さん――一ノ瀬志希さんです」