総監に突撃したホワイトデーから早1か月が経過した。
前代未聞の総監いじりは大変な話題となり、ネットニュースにとどまらず在京テレビ局からも取材を受け、全国ネットで紹介された。
また、山口が夕日新聞のインタビューを受け、朝刊の「パーソン」というそのときどのキーパーソンを紹介する欄で紹介されたりもした。
夕日新聞のパーソンは、警視庁関係では警視総監と捜査一課長が就任時に紹介されるだけで、その他の警察官が紹介されることなど皆無に等しい。
「警察人生の足跡として残しておきます」
山口は、そう言って自分が掲載された新聞を大事に保管してる。
テワタサナイーヌとしても、自分のプロデューサーであり上司であり愛する人がメジャーな新聞のよく知られているコーナーに紹介されるのは嬉しい。
なので同じ新聞を寮の部屋に保管してある。
総監への突撃インタビュー成功に気をよくしたテワタサナイーヌは、もう次のターゲットを決めロックオンしていた。
「総監に行ったんだから、次は知事でしょ」
テワタサナイーヌのことだ、必ず次は更に上を狙ってくるに違いないと予想してた山口は、知事と言われても驚くことはなかった。
「そうでしょうね、そうきますよね」
普通のことのように受け止めることができた。
これに関しては、山口に策があった。
東京都の成瀬知事は、Twitterのヘビーユーザーとして知られている。
東京都の各部局にもTwitterの積極的な利用を指示している。
山口と知事は相互フォローの関係だ。
なおかつ、時折、山口のツイートを成瀬知事がリツイートをしていることがある。
成瀬知事が普段から山口のツイートを見ていることは間違いない。
「先日、テワタサナイーヌが警視総監に突撃インタビューを敢行いたしました。これに気をよくしたテワタサナイーヌが、次は都知事に突撃したいと身の程知らずかつ怖いもの知らずなことを言っております……」
山口がTwitterに投稿した。
成瀬知事は必ずこのツイートを見る。
そして、このツイートを見た成瀬知事が何らかのリアクションを起こしてくれれば作戦は成功だ。
山口の作戦は成功した。
ツイートを投稿した翌日、東京都の知事本局から電話が入った。
「知事本局の橋本と申します。昨日のことですが、山口さんが知事にインタビューをしたいというようなことをツイートなさったと思います。知事がこれを見まして、インタビューをお受けしたいと言っております」
山口は、あまりにもストレートな内容の電話であることと、ツイートした翌日という素早い対応に少々驚いた。
「早速のご対応ありがとうございます。それでは、今後、どのように進めればよろしいでしょうか」
山口が橋本に答えた。
「まずは、一度こちらにお越しいただき、知事に直接ご説明をお願いします。知事がインタビューをお受けするという意向はすでに固まっていますので、どういった内容のインタビューをなさりたいのかをご説明いただければと思います」
橋本が早口で説明した。
役人は早口な人が多い。
「知事への説明は、曜日や時間帯、やり方などが決まっています。その資料をお送りしますので、よくお読みいただいて間違いのないようにご対応をお願いします」
「かしこまりました」
(これは急いでもすぐに決まらないだろうから、じっくり進めていこう)
知事は多忙だ。
スケジュールの調整だけでも容易ではない。
山口が若干低い優先度をつけた。
「ねえ代理」
「なんですか」
二人の会話は、この呼びかけから始まる。
「知事にインタビューできるの?」
電話を聞いていたテワタサナイーヌがだるそうに訊いてきた。
山口の電話での受け答えから、すぐに実現できそうにもないことがわかったからだ。
「できることは間違いないでしょう。ただ、日程の調整とこちらの内部での意思決定に時間がかかると思います。だから、優先順位としては低い案件に整理します」
「そうね。別に知事は逃げないもんね」
テワタサナイーヌが同意した。
4月といえば新年度だ。
警視庁でも年度が替わって人事異動が行われた。
犯罪抑止対策本部も例外ではなく人事異動があった。
山口とテワタサナイーヌは異動することなく、今のままの任務を続けることになった。
犯罪抑止対策本部には、現金を受け取りに来るオレオレ詐欺の現金受け取り役、通称受け子を現金の受け渡し場所で逮捕する専門組織がある。
ステルスチームという名前で呼ばれている専門家集団だ。
なぜステルスなのかというと、街に紛れて犯人から見えないような変装と身のこなしができるようにトレーニングされているからだ。
チームのメンバーは、明らかにされていないが、誘拐犯の捜査や対テロリズムなどの技能を有する者で構成されているという。
素人の受け子がステルスチームを見分けることは不可能に近い。
4月の異動でこのステルスチームから数名が転出した。
もちろん補充もあるが、1名だけ欠員となってしまった。
副本部長である坂田警視長が人事課に補充の要望を出したが、今回の異動ではどうしても補充が無理で、次回まで待って欲しいと言われてしまった。
欠員となったのは、オートバイでの追尾を行う通称カゲの要員だった。
「カゲが欠けるのは痛いですね」
坂田が犯抑の幹部を集めた会議の席上で発言した。
なぜカゲが欠けると痛手になるのか。
現金手渡し型のオレオレ詐欺のバリエーションに、バイク便を利用するものがあるからだ。
このパターンには、犯人がまったく情を知らないバイク便業者を手配する場合と、犯人とつながったバイク便業者を使う場合、さらには犯人がバイク便を装う場合がある。
まったく情を知らないバイク便業者を手配する場合以外、つまり現金を受け取りに来るバイク便が何らかの形で犯人と関係があって犯罪に加担しているという自覚がある場合は、現金を受け取ったライダーがオートバイで逃走することがある。
それを追跡するために私服で追尾可能なカゲが必要になるというわけだ。
「ステルス以外の犯抑本部員で白バイ経験者はいませんか」
坂田が庶務担当の管理官に質問した。
「全員の経歴を確認してみます」
庶務担当管理官が部屋を出て行った。
──数分後
「白バイ経験者は二人いました」
部屋に戻った庶務担当管理官が坂田に復命した。
「誰ですか」
「山口係長とテワタサナイーヌさんです」
庶務担当管理官が答えた。
「そのコンビでしたか。偶然にしても作り話みたいに都合のいい組み合わせですね」
坂田が笑った。
山口とテワタサナイーヌが副本部長室に呼ばれた。
「失礼します。お呼びでしょうか」
山口とテワタサナイーヌが部屋の入り口で声をかけた。
テワタサナイーヌが切ってくれた栗蒸し羊羮を食べている最中だった山口は、慌てて飲み込んで席を立ってきたが、まだ栗の粒が口の中に残っていて、それが気になっていた。
「どうぞ掛けてください」
坂田が二人に椅子をすすめた。
「失礼します」
山口は、畳んで立て掛けられていたパイプ椅子を2脚広げ、テワタサナイーヌに座らせてから腰を下ろした。
「今回の異動でステルスに欠員が出たのはご存知だと思います」
坂田が口を開いた。
「はい、存じています」
テワタサナイーヌが答えた。
この段階では、二人がなぜ呼ばれたのか、山口にもテワタサナイーヌにも理解できていなかった。
坂田が続けた。
「実は、その欠員がカゲなんです」
ここで山口には合点がいった。
隣のテワタサナイーヌは、まだなんのことかわからないといった顔をしている。
山口はテワタサナイーヌの経歴を把握しているが、テワタサナイーヌは山口の警部補より前の経歴を知らない。
「次の異動でカゲの補充をしてもらえることになってはいますが、それまでの間、誰かにお手伝いをしてもらおうと思います」
そう坂田が言ったところでテワタサナイーヌにも事態が理解できた。
はっとした顔で坂田と山口の顔を交互に見つめた。
「全員の経歴を調べたところ、山口さんとテワタサナイーヌさんのお二人が白バイ経験者でした。そこで、お二人のどちらかにカゲのお手伝いをお願いします」
「いえ、専従でなくていいのです。バイク便が絡んだ現場が立ったときだけ出動してくれればいいんです」
坂田は、テワタサナイーヌの目を見ながら説得するように説明した。
山口に話しかけているような様子はまったくなかった。
それもそのはずだ。
山口が白バイに乗っていたのは、山口が巡査のときで、もう30年近い昔のことだ。
今さらオートバイで犯人の追尾をやれと言われても身体が動かない。
坂田もそれがわかっていたから山口をスルーしてテワタサナイーヌに的を絞った説得をしていた。
「副本部長、お言葉ですが私が白バイに乗っていたのは巡査のときで、もう6年くらい前です。今さらオートバイで犯人の追尾をしろと言われても身体が動きません」
「ぷっ」
テワタサナイーヌが自分の考えと同じことを言ったので山口は吹き出してしまった。
ほとんど同じ台詞だったが、白バイを降りてからの経過年数だけが大きく違っていた。
「もう6年と思うか、まだ6年ととらえるかは考え方次第です。山口さんは何年ですか」
坂田が山口に話を振った。
「私ですか。私は30年くらいになります」
山口が答えた。
「山口さんは、ブランクの期間や年齢を考えても無理ですね」
坂田が苦笑しながら山口の可能性を否定した。
「ところで、テワタサナイーヌさんは白バイを続けなかったのですか?」
(それは聞いたらダメだ)
坂田がテワタサナイーヌに白バイを降りた理由を尋ねたのを聞き、山口が心の中で焦った。
テワタサナイーヌは、一瞬表情を曇らせた。
「6年前、私は、かねてからの希望であった白バイに乗れて充実した毎日でした。でも、ある日、クイーンスターズに来ないかと声をかけられました」
クイーンスターズというのは、交通総務課に所属する女性白バイ隊の通称だ。
普段は交通違反の取締りに従事しているが、交通のイベントやマラソンの先導などがあれば、赤い乗車活動服に着替えて出動する花形だ。
テワタサナイーヌは、ルックスのよさから将来のセンター候補として目をつけられた。
「私は、そのお話を断りました」
その頃のテワタサナイーヌは、自分の外見に自信がもてず、異形であることを面白おかしく扱われることに強い拒否反応を示した。
「今の私からは考えられないと思いますが、その頃の私は、自分の外見を面白おかしく扱われるのが嫌でした。クイーンスターズに入れば、間違いなく外見が注目され見せ物になります。」
「だから断りました」
「一度は断りましたが、また同じ話がくるかもしれないと考えると、もう白バイに乗ることが辛くなり、それで降ろしてもらいました」
「今の目立ちたがりの私からは想像できないと思いますけど」
そう言ってテワタサナイーヌはケラケラと笑った。
(かなり深い心の傷になっていたはずだが、それを明るく話せるようになるまでには、幾度も自分の気持ちを整理して乗り越えてきたに違いない)
山口はそう思った。
「そうでしたか。嫌なことを思い出させてしまいすみませんでした」
坂田がテワタサナイーヌに頭を下げた。
「あ、いやいや、そんな、副本部長が謝ることじゃないです。もう過去のことですし」
テワタサナイーヌが恐縮した表情で両手を身体の前に伸ばして手を左右に激しく振った。
「私がカゲをやればいいんですね」
テワタサナイーヌは、もうこの話はどうあっても避けられそうにないと悟り、自分から申し出た。
「やってくれますか」
坂田が念を押した。
「山口係長がいいとおっしゃってくれればやります」
テワタサナイーヌが山口に振った。
「山口さん、どうですか。テワタサナイーヌさんがカゲを手伝うとなると、今の仕事に少なくない影響が出ると思いますが、そのあたりも含めて検討してみてください」
坂田が山口に検討の余地を与えたようにみえるが、山口が断らないというのを見越してのセレモニーだった。
山口は、テワタサナイーヌがカゲを手伝っても今の仕事に大きな影響はないと考えていた。
都知事への突撃インタビューの優先度を下げておいたことも正解だった。
ただひとつ気がかりなことがあった。
事故だ。
生身でマシンに跨がるオートバイは、ひとたび事故に見舞われると重大な結果をもたらす。
殉職者の中に占める割合でも白バイは群を抜いて高い。
テワタサナイーヌにケガはさせたくない。
それだけが心配だった。
山口はテワタサナイーヌの目を見た。
それに気づいたテワタサナイーヌは、山口が何を考えていたのか察した。
テワタサナイーヌは、山口に軽く微笑んで左手の親指を立てた。
「心配しないで。私は死なないから」
テワタサナイーヌの答えだった。
心配するなというのは無理だ。
(出動のたびに無事の帰りを祈るしかないか)
山口も腹を決めた。
「異存ありません」
「6年のブランクを埋めるのは大変だわー」
副本部長室を出たテワタサナイーヌは、大きく伸びをして身体を左右に揺らした。
大変だと言いながら、テワタサナイーヌの目にはいつもと違う力が漲っていた。
すぐにブランクを埋めるためのブラッシュアップと犯人追尾のために必要な特別の訓練プログラムが組まれた。
坂田が交通部長に頼み込んで、通常の訓練プログラムにない特別なメニューを用意してもらったのだ。
翌日からテワタサナイーヌは世田谷区の多摩川河川敷にある白バイ訓練所に通うことになった。
──白バイ訓練所
「犯罪抑止対策本部テワタサナイーヌ警部補は、カゲ特別訓練のため白バイ訓練所派遣を命ぜられました」
青色の乗車活動服に身を包んだテワタサナイーヌが白バイ訓練所長に派遣申告をした。
「テワタサナイーヌさんは、白バイ乗務の経験があるからよくご存知だと思いますが、オートバイは安全な乗り物ではありません。でも、それをわかった上で乗るのであれば、それほど危険な乗り物でもなくなります。このことを忘れないでください」
所長が訓示した。
所長は、テワタサナイーヌが白バイ乗務員となる訓練を受けたときの指導員だった。
「いいものを見せてあげましょう」
そう言って所長はテワタサナイーヌを訓練所の倉庫へと案内した。
鍵のかかった鉄の扉を開けるとエンジンオイルや機械油の匂いが漂う薄暗い空間が広がっていた。
所長が庫内の照明をつけ、奥の方へと歩いていく。
テワタサナイーヌもそれに続いた。
最も奥まった照明があまり届かない薄暗い棚にヘルメットのメーカー名が印刷された立方体の箱が重ねて置かれていた。
テワタサナイーヌは、その一番上に、他の箱とは明らかにサイズの違う箱が一つあるのを見つけた。
「あっ、あれ!」
テワタサナイーヌはその箱を指さして叫んだ。
所長が両手を伸ばしてその箱を持つと穏やかなな笑顔でテワタサナイーヌに差し出した。
「おかえりなさい。あなたの相棒も帰りを待っていましたよ」
そう所長が言うが早いか、テワタサナイーヌの目から涙がこぼれた。
箱の中身は開けなくてもわかる。
白バイを降りたとき、悔しくて号泣しながら返納したヘルメットだった。
箱の隅には「天渡」と自分で書いた名前をマジックで乱暴に消した跡が残っている。
この名前を消して自分も警視庁から消えようと思ったのだ。
その気持ちを所長、当時の指導員に伝えたときテワタサナイーヌは所長に激しく頬を叩かれた。
「自分の価値を安く見積もるな!」
「たとえ白バイを降りてもお前は白バイ乗りだ」
「白バイ乗りの誇りを自分から捨てるな。お前の誇りはお前だけのものだ」
「お前には見守ってくれる人がいる。今は辛いだろうが、その人を信じろ」
その所長の言葉で警察官を続けることになった。
今では所長に感謝しかない。
「待たせたわね」
テワタサナイーヌは箱を抱きしめた。
「明るいところで開けてみましょう」
所長がテワタサナイーヌを外に連れ出した。
「さあご対面だ」
「はい!」
テワタサナイーヌが箱を開けた。
箱の中には普通のヘルメットには付いていない三角形の突起が二つある。
テワタサナイーヌの犬耳を収めるための特注品だった。
「テワタサナイーヌさんは、いろいろ特注品で大変でしたね」
所長が懐かしそうに言った。
「被ってあげてください。6年間待っていてくれた相棒です」
「はい」
テワタサナイーヌがヘルメットを箱から取り出した。
ところどころに付いている細かい傷も当時のままだ。
ジェット型の白い帽体にテワタサナイーヌの耳が収まるように三角形の耳が付いている。
犬耳のヘルメットは、かわいいと子供たちに人気だった。
テワタサナイーヌは、左右のあご紐を持ち、両側に引っ張っりヘルメットを広げるようにして片方ずつ耳を収めて被った。
6年経っても被り方は身体が覚えていた。
6年前の自分に戻ったような気がした。
「白バイ乗りの正装です。似合いますよ」
所長が目を細めた。
その日から訓練が開始された。
6年間のブランクを埋める訓練は熾烈を極めた。
テワタサナイーヌは、自分から求めてより苦しい訓練に取り組んだ。
6年前の情けない自分と訣別するために。
基礎体力の錬成として行われる腕立て伏せでは、腕の筋肉が炎症を起こし肘を曲げることもできない状態になるまで自分を痛めつけた。
そうなると食事を自分の口に運ぶことができなくなる。
テワタサナイーヌは、周りの目を気にもせず犬食いで貪り食った。
乗車の基本姿勢を身に付けるため、乗車と降車を繰り返す。
テワタサナイーヌは、食事の時間を除いて丸一日休みなく乗降を繰り返した。
次の一日は、乗車してステップの上に立ち中腰の姿勢をとりそのままキープする訓練だ。
筋肉の疲労で膝が笑うように痙攣する。
テワタサナイーヌは牙を剥き泣きながら苦痛に耐えている。
指導員がもうやめろと止めてもテワタサナイーヌはそれを拒否し続けた。
最後は完全に力尽きて気を失い白バイから転げ落ちた。
転げ落ちた痛みで目を覚ましたテワタサナイーヌは、すがるようにして白バイに乗ろうとする。
かろうじて左足をステップに乗せることはできたが、右足を振り上げることができず白バイから滑り落ちた。
これを何度も繰り返した。
獣毛に隠れて見えないが、テワタサナイーヌの身体は全身痣と擦り傷だらけになった。
疲労したテワタサナイーヌは、帰宅することもできず、白バイの横にマットを敷いてそのまま泥のように眠った。
基礎体力と乗車姿勢の訓練を終えると、次は運転訓練だ。
「テワタサナイーヌさん、オートバイで一番難しいことは何か覚えていますか?」
運転訓練を前に所長がテワタサナイーヌに質問した。
「はい、止まることです」
テワタサナイーヌは忘れていなかった。
「そうです。スピードを出すのは誰でもできます。でも、止まるのは技術がいります。特に追尾を行うとなると、緊急に危険を回避して止まらなければならない場面が多くなります。ですから、これからの訓練は止まることをメインにやりましょう」
「ただ、ひとつだけ守って欲しいことがあります。法律や規則は破れても法則は破れません。どんなに高度なテクニックを身に付けていても物理法則を超えた運転はできないということです」
所長が訓練上の注意を与えた。
今のテワタサナイーヌの状態だと無理をして事故を起こす可能性が高いと判断したからだ。
「テワタサナイーヌさんの熱意は高く評価します。ですが、熱意だけで暴走するのは正しい白バイ乗りではありません。いまの注意を守れないときは、訓練を中止します。いいですね」
所長の厳しい指示が飛んだ。
安全が最優先される。
「はい!」
テワタサナイーヌが姿勢を正した。
運転訓練は、基本的なパイロンスネークや一本橋、バランス走行や傾斜走行など、一通りの種目をこなす。
特に力を入れたのが急制動と回避制動だった。
この二つが訓練種目の中で最も危険といってよい。
この種目で転倒することは、重傷事故につながる。
フルブレーキングでは前輪がロックしやすい。
オートバイは、その構造上前輪がロックするとバランスを維持することが非常に困難になる。
高度なテクニックを身につけた指導員になると、わざと前輪をロックさせて安全に停止するという見本を見せることができるが、普通は前輪がロックすると大転倒することになる。
歩いているときに踏み出した足を着地直前に払われるのと同じような状態になるからだ。
テワタサナイーヌは、全身をプロテクターで固めて回避制動の訓練に入った。
初めは時速40kmくらいから制動に入る。
回避制動は、一定の速さで走行して、センサーを通過すると左右の信号が赤又は青のいずれかを示す。
赤を回避して青の方に進路を変え、指定の距離内で安全に停止するというものだ。
この種目は、難しく危険なところが二つある。
まず回避行動をとるところ。
急激な進路変更を行うため、失敗すると吹っ飛ばされて大ケガをする。
次は停止するまでだ。
回避行動の直後、バランスを崩している状態からフルブレーキで指定された距離内で停止することになる。
前輪ロックやバランスを崩して吹き飛ばされる危険がある。
テワタサナイーヌは、時速40kmを難なくクリアした。
そのあとは、時速を5kmずつ上げていく。
回避が難しくなるだけでなく、指定の距離で止まることも難しくなってくる。
時速60kmのとき、テワタサナイーヌは回避に失敗して吹き飛ばされた。
背中から激しくアスファルトの路面に叩きつけられ、しばらく呼吸ができなくなった。
プロテクターのおかげで骨折は免れたが、全身打撲を負い路面をのたうち回った。
それでもすぐに立ち上がるとテワタサナイーヌは白バイを引き起こし、身体に染み付いた正しい乗車方法で跨がった。
「痛いっ!!」
テワタサナイーヌは、全身の筋肉が引き裂かれるような痛みに悲鳴を上げた。
白バイにまたがったまま、タンクに突っ伏して嗚咽しながら痛みに耐える姿は、見ている指導員も辛かった。
そのあともテワタサナイーヌは何度となく転倒を繰り返した。
テワタサナイーヌは、あえて限界を超えた回避と制動を行い転倒していた。
破れない限界、つまり所長が言った物理法則の限界がどこにあるのかを確かめるためだ。
テワタサナイーヌは文字通りボロボロになっていった。
しかし、転倒を繰り返していくうちに回避の限界とタイヤのグリップの限界も体感できるようになった。
指導員も舌を巻く根性と体得の早さだった。
二週間の訓練を終えテワタサナイーヌが肘や膝など、身体のあちこちに包帯が巻かれた痛々しい姿で帰って来た。
傷だらけのテワタサナイーヌを心配する周囲に反して、本人は至って明るい表情で嬉しそうですらあった。
「この傷は私の勲章」
そう言ってテワタサナイーヌは傷口を山口に見せつけた。
テワタサナイーヌの脇には犬耳のついたヘルメットが抱えられていた。
ヘルメットには、路面との衝突や擦過からテワタサナイーヌの頭部を守った跡が無数に付いていた。
これだけ衝撃を受けたヘルメットは、もう使うことができない。
訓練の記念として持ち帰らせてもらった。
これからカゲとしてオートバイに乗るときは私服なので白バイのヘルメットは使えない。
私服用の新しい犬耳付きヘルメットを作ってもらうことになる。
「テワさん」
「なーに」
二週間ぶりの二人の会話もやはりここから始まった。
「本当にお疲れさまでした。明日から一週間休ませるように副本部長から言われています。寮でゆっくりするなり、温泉にでもつかるなりして疲れを癒してください」
山口がテワタサナイーヌの頭を撫でた。
「ありがとう。できれば代理と温泉に入りたいなあ」
テワタサナイーヌが山口に色目を使った。
「ダメです」
山口が少し残念そうに言った。
テワタサナイーヌの古傷の清算と厳しい再訓練が終わった。
休暇明けからテワタサナイーヌの新しい任務が始まる。
山口の胃が痛くなる日々と共に。
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。