当たり前の後ろ ~テワタサナイーヌ物語~   作:吉川すずめ

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突撃ホワイトデー

 富山出張の翌朝。

 警視庁犯罪抑止対策本部の事務室では、山口がいつものようにテワタサナイーヌフィギュアを愛でながら、本物のテワタサナイーヌが淹れた紅茶を楽しんでいた。

 富山で山口に対する恋心を告白したテワタサナイーヌも、その日は何事もなかったかのように紅茶をサービスした。

 二人にいつもと同じ朝の時間が流れている。

 ただひとつ、紅茶の茶葉がそれまでよりいいものになったことを除いては。

 今朝のテワタサナイーヌは、黒のパンツスーツにほとんど素っぴんに近い薄化粧という、いつもと同じ質素で清楚な女性警察官に戻っていた。

 昨日の華やかさはどこにもない。

(それにしても、こうまで雰囲気を変えることができるとは驚いた。どちらが本当のテワさんなんだろう)

 山口は、女性の化け方に感心した。

(昨日、富山港署で制服を着たテワさんが「こっちは営業用の私」と言っていたから、ミニスカにタテセタのテワさんが素なんだろうな)

 山口がぼんやりと考えていると、テワタサナイーヌが隣のデスクから山口の顔の前に手のひらを上にして差し出した。

「代理、お茶代」

「私はお茶代ではありませんよ」

 山口が答えた次の瞬間。

 がば!

 ぐい!

 テワタサナイーヌが山口の顔の前に差し出していた手で山口のネクタイをつかみ、ぐっと上に持ち上げた。

 よくある胸ぐらをつかみ上げるような動作だ。

 山口の顔が恐怖にひきつる。

「あのねお父さん。そんなヘソの曲がった小学校の先生みたいなこと言わないの」

 恫喝しながらも二人だけにわかる昨日の秘密を織り混ぜて遊ぶテワタサナイーヌであった。

「すいません、すいません。払います、払いますから!」

 山口が椅子から落ちそうになりながら謝り倒した。

 どう見ても部下が上司を恐喝している図だ。

 そのとき山口のデスクの電話が鳴った。

 テワタサナイーヌがつかんでいたネクタイから手を離す。

 山口は、ネクタイを直しながら受話器を取った。

「はい、犯罪抑止対策本部の山口です」

「あ、綿貫さん。昨日はありがとうございました。お陰さまで有意義な出張になりました」

 電話の相手は、昨日出張した富山県の富山港署生活安全課の課長だった。

 昨日の礼のために電話をかけてきたようだ。

「え、私たちですか?」

 山口の声が急に小さくなった。

「はい、特に変わったところはありません。はい」

 綿貫に、昨日あのあとどうなったのかを訊かれているようだった。

 普段なら電話の語尾に「はい」という無意味な言葉を遣うことがない山口だが、動揺を隠しきれない様子がテワタサナイーヌからもわかった。

「本当ですか。すぐに見てみます」

「はい、また機会がありましたらご一緒したいです。本当にありがとうございました。失礼いたします」

 山口が電話を切った。

「ふふーん」

 テワタサナイーヌがふんぞり返って顎を突き出し、片方の眉を上げて勝ち誇ったような表情で山口を見下ろした。

 山口はズボンのポケットから取り出したピーポくんの刺繍入りハンカチで額の汗を拭った。

「私もグッズが欲しいなー」

 ピーポくんに対抗意識を燃やすテワタサナイーヌであった。

「もっとメジャーになったら誰かが作ってくれますよ」

 山口にそのあてはなかったが、とりあえず言っておけば実現するかもしれないと思った。

「テワさん」

「なーに?」

 二人の会話は、いつもこの呼びかけから始まる。

 いつもならここから会話が始まるところだが、その日は山口がメモ用紙になにやら書き込んで、それをテワタサナイーヌに手渡した。

「なに、今日はメモなの。なんか中学生にでも戻ったみたい」

 テワタサナイーヌが楽しそうにメモを受け取った。

「二人だけの秘密で遊ぶのは楽しいですが、私たちが親子のようにじゃれ合っているのを楽しんでくれる人ばかりじゃありませんから、あまり目立つことはしないようにしましょう」

 メモにはそう記されていた。

 山口の耳には、二人の関係をよく思っていない者がいるという情報が入っていた。

 テワタサナイーヌは無言のまま山口を見て小さく頷いた。

「ところで代理、さっき綿貫さんとの電話で『すぐに見てみます』って言ってたけど、あれは何?」

 テワタサナイーヌが話題を変えた。

「あれですか、昨日はローカル局のカメラ取材が入っていましたね」

「うん、ずいぶんたくさん撮ってくれた」

「昨日の午後のニュースで放映されたそうです。それが局のwebで動画を見られるそうなんです」

 昨日のキャンペーンには、地元テレビ局のカメラ取材が入っていた。

 テワタサナイーヌと立山くんのコラボということで、キャンペーンの開始から終了までずっと取材をしてくれた。

 それが放送され、webでも見られるという。

「え、見たい!代理のネット端末はモニタが大きいから、それで見せて」

 テワタサナイーヌが弾んだ声で言い、自分の椅子を山口の隣に移動させて腰を掛けた。

「わかりました。いま探しますからちょっと待ってください」

 山口が開いていたブラウザのタブを一枚新規に立ち上げ、富山のローカル局を検索して昨日放映されたニュースを探した。

「あった、あった。これですね」

 ニュースをみつけた山口がテワタサナイーヌに指をさして教えた。

 山口が動画を再生した。

「今日午前、富山市内のスーパーマーケットで特殊詐欺の被害防止キャンペーンが行われました」

 女性アナウンサーがニュースを読み上げた。

「このキャンペーンには、富山県警のマスコット『立山くん』のほか、警視庁犯罪抑止対策本部の特殊詐欺被害防止マスコット『テワサタ……』、『テワタサナイーヌ』も参加して行われました」

 テワタサナイーヌと山口が二人揃ってデスクに突っ伏した。

「アナウンサーでも噛むんですね」

 山口が苦笑した。

「私、自分でも噛む」

 テワタサナイーヌが肩をすくめた。

「やっぱり言いにくいんでしょうか。テワタサナイーヌという名前は」

 腕組みをしながら山口が唸った。

 ニュースでは、テワタサナイーヌのインタビュー場面も放映された。

「オレオレ詐欺は、人が人を信じるという気持ちを逆手に取り、家族の絆をずたずたに断ち切る犯罪です。絶対に許しません!」

 画面のテワタサナイーヌが力強くインタビューに答えていた。

 

「ねえ代理」

「なんですか」

 テワタサナイーヌから話しかける二人の会話は、いつもここから始まる。

「私、インタビューを受けることが多いじゃん」

「そうですね、最近はインタビューを受けることも増えてきました。嬉しいですね」

「あのさ、たまには私がインタビューする側になってみたいんだけど」

「へ?」

 山口は、予想もしていなかったテワタサナイーヌの提案に素っ頓狂な声で返事をしてしまった。

「へじゃないの。私が誰か偉い人かなんかにインタビューをして、そこで特殊詐欺根絶の決意を語ってもらおうっていう企画よ」

 テワタサナイーヌが得意満面に答えた。

「いきなり企画が飛び出しましたね。それはいいかもしれません」

「で、誰にインタビューをしたいんですか? 手始めに副本部長とかですか?」

 山口がテワタサナイーヌに問いかけた。

「高柳さん」

 テワタサナイーヌがこともなげにさらっと言い放った。

「高柳さん?」

 山口が首を傾げた。

「えーっ!?」

 あることに気づいた山口が声をあげた。

「いや、ちょっと待ってくださいよテワさん。高柳さんというのは、総監ですよね。いきなり総監は無理なんじゃないですか。せめて各部長クラスくらいから始めるとか」

 山口が怖気づいた。

 テワタサナイーヌは、誰にでも親しく話しかけられる人懐っこさを持っている。

 それを活かせば総監にインタビューすることも可能だろう。

 それにしても、いきなり警視庁の頂点にアタックしようというテワタサナイーヌの肝の据わり方に山口は平伏した。

「なに言ってるの。私がインタビューするんだもん、総監くらいじゃなくちゃ釣り合わないでしょ」

 テワタサナイーヌは、本当にそう思っている節がある。

「どうしても総監じゃないとダメですか」

「どうしても総監じゃないとダメですよ」

 テワタサナイーヌが言い切った。

 山口はしばらく腕組みをしたまま天を仰いで黙考した。

「なにがなんでも総監ですか」

「なにがなんでも総監ですよ」

 今度は下を向いて考え込んでしまった。

 テワタサナイーヌはニコニコしている。

「私に玉砕してこいとおっしゃる?」

「パパは玉砕しちゃダメ」

「パパはやめなさい」

「はーい」

 つい先ほどの山口の注意がまったく届いていないテワタサナイーヌだった。

 しばらく黙っていた山口が顔を上げ、両手で顔を2回叩いて気合を入れた。

「やりますか」

「総監に突撃をかけるとなると、それなりの大義名分が必要になります」

 山口の腹が決まった。

「やったー! 総監に会える」

 テワタサナイーヌがバンザイをして喜んだ。

「まだ決まっていません」

「代理は、やると言ったら実現させる人でしょ。期待してるから」

 テワタサナイーヌもほめて伸ばすタイプのようだ。

 山口が関係すると思われる部署に問い合わせを始めた。

 総監秘書室。

「ダメです」

 企画課。

「無理ですね」

 広報課。

「やめてください」

 予想していた通りの答えのオンパレードだった。

 この手の話は、下から上げていったのでは、必ず途中で潰される。

 山口は強行手段に出ることにした。

 関係部署に対する問い合わせは、強行手段に出るための理由作りでしかなかった。

 山口は、最初から強行手段しか考えていなかった。

 その日の午後。

 当日の予定表で、今なら犯抑副本部長の坂田警視長と総監の日程が空いているのを確認した山口は副本部長室のドアをノックした。

「失礼します」

 副本部長室に入った山口は、テワタサナイーヌに総監への突撃インタビューを行わせたいということを具申した。

「警視庁のトップがご自身の言葉で特殊詐欺根絶の決意を都民国民に直接訴えるのです」

「プレスリリースのような練りに練られた文では共感が得られません。このSNSの時代に共感を得るには、人間らしい生の言葉が必要です」

「そのためにもテワタサナイーヌのインタビューというくだけた雰囲気の中で、総監に率直なお気持ちをお話しいただきたいのです」

 珍しく山口が熱く語った。

「そうだな。山口さんの言う通りだと思います」

 坂田が言うと山口はニヤリと笑いを作った。

「副本部長、今なら総監のスケジュールが空いています。これから総監にお願いに行きましょう」

「よしわかった」

 坂田も決断すると行動が早い男だった。

 山口と坂田が犯抑を出て1フロア上の総監室に向かった。

「坂田です。総監いらっしゃいますか」

 他のフロアとは明らかに雰囲気の違う総監室の受付に坂田が声をかけた。

 アポなしで警視長の坂田が総監に会いに来たことに秘書は驚きを隠さなかった。

「あ、はい、いらっしゃいます」

「ありがとう。それじゃあ失礼します」

 そう言うと坂田は山口を引き連れて総監室に入っていった。

 あっという間の出来事に秘書は呆気にとられていた。

「Twitter警部の山口係長です」

 総監室に入ると坂田は山口を総監に紹介した。

「山口さんですね。ズボンは大丈夫ですか」

 総監が穏やかな笑顔で山口に話しかけた。

(総監見てたのか)

 山口は背中に冷たい汗が流れるのを感じた。

 というのも、その日の午前中、山口がデスクでミカンを食べていたとき、ふとした弾みでみかんの汁がズボンに垂れてしまった。

「みかんの汁がズボンに落ちました」

 そのことをTwitterに投稿していた。

 総監は、それを見ていて部屋に入ってきた山口をからかったのだ。

(総監がTwitterを見てくれているなら話が早い)

 山口は坂田と目を合わせて自分が説明するということを無言のうちに伝えた。

「マスメディアを通さない、都民国民に直接訴求できるTwitterは、強力な情報発信ツールです」

「そこで総監がご自身の言葉でメッセージを発信する意義は大きいです」

「ついては、テワタサナイーヌにインタビューをさせるという形で行わせていただきたい」

 山口が落ち着いた雰囲気の中にも熱のこもった話し方で総監に伺いを立てた。

「いいよ」

 総監は即答した。

「ありがとうございます」

 坂田と山口は声を揃えて礼を述べた。

「場所は総監の執務室でよろしいでしょうか」

「そうだね。そうしようか」

 山口の提案に総監が快諾した。

「具体的な日程などについては、秘書を通じて調整させていただきます」

 坂田と山口は総監室をあとにした。

「副本部長、ありがとうございます」

 部屋へ戻る途中、階段を下りながら山口が坂田に頭を下げた。

「いえ、こういうことはスピード感が大事です。じっくり検討なんてしていると、できない理由ばかり出てきます。方向はつけましたから、あとはお任せします」

 坂田が具体的な内容に関する権限を山口に委ねた。

 坂田は、マイクロマネージメントをしない。

 方針の決定には携わるが、あとは現場に委ねるというスタイルだ。

 このようなスタイルなので、坂田は「聞いてない」という台詞をほとんど言わない。

「Twitterの運用は山口さんにお任せします。いちいち事前に伺いを立てる必要はありません。ですが、なにか問題が起こっても山口さん個人の責任にはしませんので、思い切りやってください」

 山口のTwitterも坂田の方針で自由にやらせてもらっている。

(自由にやらせてもらえるのはいいが、テワタサナイーヌが暴走しないように抑えなければ)

 山口の懸念はテワタサナイーヌの暴走だった。

 高柳総監はフランクな人柄で、多少のおふざけも喜んでもらえるという確信はある。

 ただ、やり過ぎると周りが許してくれなくなる。

 そうならないギリギリのことろを攻めなければならない。

 

「やったわね、代理」

 山口が部屋に戻るとテワタサナイーヌがニヤニヤしながら迎えた。

 坂田と山口が部屋を出て間もなく、総監秘書室から犯抑に電話があり

「いま、副本部長がアポ無しで総監室にお入りになっています」

 と連絡をよこしていた。

 坂田がどこに行ったのかを誰も知らなかったので、電話を受けた庶務の係員も驚いた。

(これだから代理は面白いのよ)

 電話のやり取りを聞いていたテワタサナイーヌが一人で肩を震わせた。

「空中戦をやってしまったので、問い合わせをした企画課や広報課には嫌われることになりました」

 空中戦というのは、事務方を通さず上層部だけのやり取りでものごとを決めてしまうことをいう。

 山口は企画課や広報課のメンツを潰したことになる。

「もともと煙たがられてるんだからどうってことないでしょ」

 テワタサナイーヌは、山口には辛辣だ。

 Twitterで目立っているので、煙たがられているのは事実だった。

「ちょっと待ってて、いまお茶を淹れてあげるから」

 テワタサナイーヌが紅茶を淹れるために席を立った。

 微かな獣の匂いが残された。

 山口は、テワタサナイーヌの獣の匂いが好きだ。

 だが、面と向かって言うことはできないし、匂いをかぐわけにもいかない。

 そうなると、残り香を楽しむくらいしかない。

「はい、お茶。大役お疲れさま」

 山口が嗅覚に集中していると、テワタサナイーヌが紅茶の用意をしてくれた。

「あ、すいません」

 山口は、なにか自分が悪いことをしているような気になって、つい謝ってしまった。

「あら、代理が『ありがとう』じゃなくて、『すいません』て言うの珍しい」

 テワタサナイーヌがそのあたりを見逃すことはない。

「ねえ、なんで?」

「なにか後ろめたいことあるんじゃないの?」

 テワタサナイーヌが畳み掛ける。

「いえ、なにもありませんよ」

 山口がとぼけた。

 山口は、普段ならテワタサナイーヌと目を合わせて会話をするはずなのだが、そのときはパソコンのモニタから目を離さなかった。

「やっぱりあるんだ。言いなさいよ」

 紅茶とお茶請けとして切ってきた栗蒸し羊羹を山口の前に置きながらテワタサナイーヌが笑顔で凄んだ。

「怒りませんか?」

 攻められて守りに入ったときの山口は子供のようだ。

「もー、子供じゃないんだから。怒らないから言ってごらんなさいよ」

 テワタサナイーヌがお盆を両手で胸の前に抱えて呆れ顔で言った。

「わかりました。実は、テワさんの匂い。テワさん、犬の血が入っているわけですよね。だから、微かに獣の匂いがするんです。それが好きなんです」

 山口にしては珍しく理路整然としていない話し方になっていた。

「なーんだ、そんなことだったの」

 おどおどする山口を見下ろしてテワタサナイーヌは楽しそうに笑った。

「全然怒るポイントじゃないよ。匂いフェチって結構多いと思うの。だから普通なんじゃない?」

「それなら」

 テワタサナイーヌがいたずらっぽい目つきで山口に迫った。

「もっと嗅いでいいのよ」

 そう言うとテワタサナイーヌは、緑の髪を掻き上げて短い獣毛の生えたうなじを見せた。

 髪の毛の緑色と薄茶色の獣毛のコントラストが、普通の人にはない不思議な色気を感じさせる。

 山口は、思わず匂いを嗅ぎたくなったが自制した。

「ダメです。ここは職場です。いや、職場じゃなければいいとかそういう問題でもありません」

 山口が落ち着きなく自分に突っ込みを入れた。

「やっぱりダメかー」

「普通に考えてダメでしょう」

「まあいいや。代理の秘密をひとつ知っちゃったから、今晩はビールがおいしそうだわ」

「私をビールのアテにしないでください」

 アテというのは、酒の肴という意味だ。

 山口は、自分を落ち着かせるためにテワタサナイーヌが淹れてくれた紅茶を一口飲んだ。

「さて、テワさん」

「なに」

 いつものようにテワタサナイーヌが答えた。

 これで普段の会話に戻れそうだ。

「総監室で何をしたいですか?」

 山口がテワタサナイーヌに希望を募った。

「ふたつありまーす!」

 テワタサナイーヌは、小学生が授業中に自信満々で先生に指して欲しいときのように元気に手を上げた。

「はい、テワさん」

 山口が先生になりテワタサナイーヌを指名した。

「まずひとつは、総監の椅子に座りたい」

 テワタサナイーヌが一つ目の希望を言った。

「そのあたりは妥当なアイデアですね」

 テワタサナイーヌの一つ目の希望は、山口も考えていたことだった。

「もうひとつは?」

 山口が訊いた。

「執務机で仕事をしている総監の机の下から顔だけ出して写真に撮られたい」

「なんですかそれは?」

 テワタサナイーヌの説明を頭のなかで映像として組み立てた山口は、そのシュールさに脱力した。

「そういうものですから」

 テワタサナイーヌが山口の口癖を盗んだ。

「おそらく総監は、どちらも許してくださると思います。ですが、本当にやるんですか?」

「やるんです」

 このあたりのテワタサナイーヌの胆力というか大胆さには驚くほかない。

「やるんですね。わかりました。その話を総監秘書室と進めるのは私なんですよ」

 山口は先のことを考えて少々げんなりした。

 

 3月14日、ホワイトデー、そしてテワタサナイーヌの誕生日。

 テワタサナイーヌの総監突撃インタビュー実施の日となった。

 ホワイトデーに設定したのは、特に理由があったわけではない。

 その日の朝、山口はテワタサナイーヌに手作りのハンカチをプレゼントした。

 バレンタインのお返しだ。

 バレンタインでは、テワタサナイーヌから山口にこれまた手作りの栗蒸し羊羮がプレゼントされていた。

「もー、作るのめちゃくちゃ大変だったんだから。二度と作らないから心して味わってよね」

 羊羮に似つかわしくないかわいらしいラッピングが施された栗蒸し羊羮をテワタサナイーヌは大事そうに手渡した。

「ありがとうございます。わざわざ作ってくれたんですか。嬉しいです」

「早速いただいていいですか」

「どうぞどうぞ」

 テワタサナイーヌが言うと、山口はラッピングをほどき棒状の羊羮にかじりついた。

 切らずにそのままかじりついた。

「おいしいです!テワさんもいかがですか」

 羊羮を一口頬張って、その味に感動した山口は、テワタサナイーヌにも食べるよう勧めた。

「私、作りながら何回も失敗したやつ食べたからいいよ」

 初めて取り組んだ栗蒸し羊羮作りだったようで、かなり失敗していた。

「そんなこと言わずに、すごく美味しいからテワさんとシェアしたいんです」

 そう言って山口は手に持った羊羮をテワタサナイーヌの口許に差し出した。

「はい、あーん」

「あ、あーん」

 テワタサナイーヌが周りの目を気にしながら口を開けた。

「どうぞ」

 山口が羊羮をテワタサナイーヌの口に運ぶ。

 テワタサナイーヌは、一口かじって羊羮から口を離した。

「うん、なかなかいいじゃない。私ってば天才」

 テワタサナイーヌが自画自賛した。

 そのあと、山口はまたテワタサナイーヌがかじった羊羮を食べ始めた。

「栗蒸し羊羮は紅茶に合うんですよ」

 テワタサナイーヌが淹れた紅茶を飲みながら栗蒸し羊羮を頬張り続ける山口であった。

 栗蒸し羊羮は、10分もかからず山口の胃に落ちた。

「ごちそうさまでした」

 山口が両手を合わせてお辞儀をした。

「一本食べちゃった……」

 テワタサナイーヌが珍しい生き物を見るような目で山口を見つめた。

「どうかしましたか」

 テワタサナイーヌの視線に気づいた山口が不思議そうな顔をしてテワタサナイーヌに尋ねた。

「どうしたもないでしょ。羊羮を一度に丸々一本食べきる人、初めて見たよ」

 テワタサナイーヌがウエットティッシュで山口の口の周り を拭きながら感心したように答えた。

「あ、ありがとうございます」

「皆さん食べないんですか?」

 山口もまだ不思議そうな顔をしている。

「絶対ないから。一本食いは変態だから」

 テワタサナイーヌが断じた。

「変態は困ります」

 山口は、苦笑しながらもまんざらでもない顔をしている。

 変態だったのか。

 そのバレンタインデーのお返しにハンカチをプレゼントしたというわけだ。

 山口がテワタサナイーヌにプレゼントしたハンカチは、薄手ではあるが、しっかりとした上質な生成りのリネン(亜麻)を使い、白の糸でバラの刺繍が刺してある。

 ハンカチの縁は、巻きロックという手法で処理している。

 巻きロックは、普通の家庭用ミシンではできない縫い方で、ロックミシンを使わなければならない。

 その巻きロックは、テワタサナイーヌの髪の色に合わせた緑のロックミシン用糸で仕上げられている。

 山口の家にはロックミシンがあるということだ。

(どこまで凝るのよ、この男は)

 テワタサナイーヌは、正直少し気持ち悪くなったが「そういうものですから」という山口の口癖を思い出して受け流すことにした。

(この人は、そういう人。それでいいの)

 そう思うことにした。

 

「さてテワさん」

「なに」

「そろそろ制服に着替えましょうか」

「うん、わかった」

 総監へのインタビュー時間が迫っていた。

「ねえ代理」

「はい、なんですか」

「今日は、晴れ舞台だから、いつもよりお化粧しっかりしていいかな?」

「いいと思いますよ」

 普段は、ほとんどすっぴんに近い薄化粧のテワタサナイーヌだが、総監に会うということと、その絵を山口がTwitterで発信するというので、しっかりと化粧をしたいというのだ。

「じゃあ行ってきまーす」

 テワタサナイーヌは、足取り軽く更衣室に消えていった。

──20分後

 そろそろ総監室に行かなければならない時間になったが、まだテワタサナイーヌは戻ってこない。

 山口が一眼レフカメラを手に時計を気にしながらウロウロしている。

 女性をよくほめる軽いノリの池上もビデオカメラを用意して、いつでも出られる態勢で待っている。

 

【挿絵表示】

 

「お待たせ!」

 元気な声とともにテワタサナイーヌが部屋に戻ってきた。

 膝上10センチの特注ミニスカートに上着をきっちりと着ている。

 上着は、ぴったりのサイズの支給品のウエストを絞り、身体にフィットするように改造している。

 身体にフィットした制服は、普通にしていても目立つテワタサナイーヌの上半身の凹凸をこれでもかというほどに強調する。

 テワタサナイーヌの制服姿は、いつ見てもため息が出る。

 長身のうえに脚が長くウエストの位置も高い。

 今日は、ヒールの細い黒のパンプスを合わせている。

「では、総監インタビューに行って参ります」

 山口とテワタサナイーヌ、それと池上の3人が副本部長の坂田警視長に挨拶をして部屋を出た。

 テワタサナイーヌと池上は、総監室に入ったことがない。

 警部補や巡査部長が総監室に入ることは滅多にない。

 山口でも総監室に入ることは稀だ。

「犯罪抑止対策本部山口警部以下入ります」

 総監秘書が総監室の入り口ドアを開けて中の総監に入室者があることを告げた。

「あー、どうぞどうぞ」

 中から総監の鷹揚な声が聞こえた。

「テワタサナイーヌさん入りまーす」

 山口がテワタサナイーヌの耳元で囁いた。

 この一言でテワタサナイーヌの女優スイッチがオンになる。

 室内に入ると、カーペットに靴が沈み込む。

 部屋に入るところから池上がビデオに撮影している。

 20畳はあろうかという広い室内に、卓球ができるのではないかと思うほどの大きな机が据えられている。

(あの机をどうやって搬入したのか知りたいもんだわ)

 テワタサナイーヌは、まったく緊張した様子がない。

 制服を着た総監が椅子から立ち上がり、卓球台のような机を大きく回り込んで山口たちの方に歩み寄ってきた。

 総監の制服は、普通の警察官の階級章が付いていない。

 左右の肩章に星が3個ずつ付いている。

「お待ちしていました」

 総監が先に声を出した。

「本日はお忙しいところ恐縮です。よろしくお願いします」

 山口がかしこまって挨拶をした。

「そうかーん、会いたかったです!」

 テワタサナイーヌがいきなり総監の腕に抱きついた。

 これには山口も肝を冷やした。

 山口が部屋の入口近くで様子を見ている総監秘書の方に目を向けると、見ていないふりをしてはいるものの、明らかに不愉快そうな顔をしているのがわかった。

(いきなりやり過ぎたか)

 山口は焦った。

「あなたが噂のテワタサナイーヌさんですか。きれいな方ですね」

 そんな秘書の様子を気にすることもなく、テワタサナイーヌに腕を預けたまま総監が楽しそうに言った。

「そうなんです。きれいなんですよぉー」

 テワタサナイーヌのテンションはますます高揚する。

「総監、インタビューの前に数枚お写真を撮らせていただいてよろしいでしょうか」

 山口が総監に声をかけた。

「わかりました。例のあれですね」

 総監には、テワタサナイーヌのおふざけ企画をあらかじめ説明していた。

「その程度でいいんですか。もっと遊びましょう」

 山口が説明に入ったとき、総監は快く応じてくれた。

 もっと遊ぼうと言われたが、初めてのことでもあり、やり過ぎると今後に悪影響を与えかねないので、提示した二つの企画だけをお願いしていた。

「それでは、まずテワタサナイーヌを椅子に座らせてよろしいですか」

 山口が総監に訊ねた。

「どうぞどうぞ」

 総監がテワタサナイーヌに椅子に座るよう手で促した。

 テワタサナイーヌが卓球台の向こう側に行き、どっしりとした総監の椅子に腰を下ろした。

「思っていたより普通の椅子なんですね」

 テワタサナイーヌが総監に向かって軽口をたたいた。

「そうですよ。座っている時間が長くなるので、あまりふかふかだと疲れてしまうんです」

 総監がテワタサナイーヌに説明した。

 その間、テワタサナイーヌは座ったままお尻を支点に椅子を左右に回してみたり、後ろにのけぞっては前に戻ったりと自由に動いている。

 それを山口は一眼レフカメラで連写している。

「山口さん」

 総監が山口を呼んだ。

「はい!」

 山口が緊張して大きな声で返事をした。

「いや、そんなに緊張しなくていいです。ここで撮った写真はTwitterにあげるんですよね?」

 総監が訊いた。

「はい、部屋に入ってから出るまでを一連の流れとして投稿させていただきます」

「そうですか。それじゃあ打ち合わせになかったシーンを一つ作らせてもらっていいですか」

 総監から提案が出た。

「私が何かを起案してテワタサナイーヌ総監のところに決裁に来たところ、テワタサナイーヌ総監に書類の不備を指摘されて叱られているという図はいかがですか」

 大胆な提案をする総監であった。

「それいい! やりましょう」

 テワタサナイーヌが声を上げた。

「書類挟みひとつ持ってきて」

 総監が入り口で待機している秘書に命じた。

 秘書が慌てて部屋を出て秘書室から書類挟みを持って戻ってきた。

 それを受け取ると総監は、卓球台のような机の前に歩み寄って、書類挟みをテワタサナイーヌに渡した。

「私がここで首をうなだれてしょんぼりしますから、テワタサナイーヌさんは偉そうに書類の不備を指摘するポーズをとってください」

 総監がポーズをつけた。

「おっけー」

 テワタサナイーヌは、椅子に深く腰を掛け脚を組みふんぞり返った。

 書類挟みを左手に持ち、右手で総監を指差す。

 アゴを上げ見下すような表情を作り総監を睨みつけた。

 総監はというと、がっくりと肩を落とし首をうなだれて、すっかりしょげてしまった人になりきった。

 おそらくこんなシーンは二度と見ることができない。

 池上が動画に撮影し、山口はあらゆる角度から写真に収めた。

「ありがとうございます。それでは、次のシーンに移りたいと思います。恐れ入りますが総監は椅子にかけてください」

 山口が次のシーンに移る指示を出した。

「あーん、この椅子は譲りたくない」

 テワタサナイーヌが駄々をこねながら総監に席を譲った。

「そうしましたら、総監は普通にデスクで執務しているようなポーズでお願いします」

 山口は、まさか自分が総監に指示を出すことになろうとは思ってもみなかった。

「はい、それで結構です。そうしたら次はテワさん」

「テワさんは、総監の左隣に立って、一旦しゃがんでください」

「はーい」

 テワタサナイーヌが総監の左に立ち、その場でしゃがみこんだ。

 総監の机を真正面から見たらテワタサナイーヌは机の影に隠れてしまい、総監が仕事をしているようにしか見えない。

「はい、そうしたらテワさんは両手の指だけを机の上に出して、そこを支えに懸垂のようにして顔を出してください」

「懸垂嫌いなんだけど」

 テワタサナイーヌが不満げな顔をした。

 机の上に手がなければ、生首を置いたように見えるところだが、手が出ていることで生きている感じが演出できる。

 このシーンは、総監が執務中、総監室に忍び込んだテワタサナイーヌが机の下から顔を出していたずらしているという図になっている。

 山口は、このシーンだけでも50枚くらいの写真を撮った。

「ありがとうございます。次にインタビューに移りたいと思います」

 山口が指示を出した。

 インタビューは、総監室内にある打ち合わせ用のシンプルなテーブルで行う。

 卓球台のような執務机と違い、本当に普通のシンプルなテーブルとセットの椅子が6脚あるだけだ。

 そのテーブルの角を挟むように総監とテワタサナイーヌが座り、インタビューが開始された。

 ここからは、音声を収録するためビデオカメラは三脚で固定しての撮影となった。

 山口がキューを出した。

「総監、本日はよろしくお願いします」

 まず初めにテワタサナイーヌが挨拶をした。

「最初にお聞きしたいことなんですけど、私はかわいいですか?」

 山口が目を剥いた。

(打ち合わせなしのぶっつけ本番とはいえ、まさかそれを冒頭に持ってくるとは。というか、それを自分で聞くか)

「はい、とてもかわいいですね」

 さすが総監、テワタサナイーヌの無茶振りにもまったく動じることなくさらっと答えてしまった。

「ありがとうございます。よく言われるんです」

「さて、総監。私の名前はテワタサナイーヌです。この名前の由来をご存知ですか」

「知ってますよ。知らない人にお金を手渡さないということと、犬のお巡りさんですよね」

「大正解!総監素敵!」

 テワタサナイーヌは大喜びしてテーブルの上に置かれた総監の手を取った。

「今は、犯人がお金を受け取りに来る現金手渡し型のオレオレ詐欺が主流です。だから、知らない人にお金を手渡さないっていうコンセプトが重要なんです。そこで、総監。オレオレ詐欺は、家族のお互いを信じる気持ちに乗じた犯罪です。この犯罪に対して総監はどうお考えですか。がつんと言ってください」

「がつん」

 総監が一言でボケた。

「そうじゃねーよ」

 テワタサナイーヌが総監に突っ込みを入れた。

「大変失礼しました。オレオレ詐欺は、人が人を信じるという社会を構成するために必要な心の作用を逆手に取ります。オレオレ詐欺にひっかからないようにしようとすればするほど社会が冷たい住みにくいものになってしまいます。そんな社会を作りかねないオレオレ詐欺犯人を警視庁は絶対に許しません。必ず逮捕して罪を償わせます。オレオレ詐欺犯人に告ぐ。お前たちに安息の日はない。枕を高くして眠れると思うな。警視庁は本気だ」

 総監がオレオレ詐欺と対峙する決意を力強く表明した。

 テワタサナイーヌが無言になった。

 総監に見とれていたのだ。

「テワさん」

 カメラの後ろから山口が声をかけた。

「あっ、ごめんなさい。総監があまりにもかっこよかったんで見とれてしまいました」

 テワタサナイーヌが我に返った。

「次の質問なんですけど、よく権力者は孤独だとか言われます。総監も孤独なんですか?」

 オレオレ詐欺とは無関係の質問だった。

「警視総監は、警視庁4万4千人のトップですから強い権限を持っています。ですが、私自身は権力者だとは思っていません。たまたま警視総監という役職に就いているだけで、国民に雇われた公僕のひとりにすぎないと思っています」

「それから、孤独かということに関してはその通りです。自分では何も変わっていない普通の人だと思っていても、周りがそれを許してくれません。どんどん祭り上げられて、人が遠ざかっていってしまいます。ですから、今日のように遊んでいただきたい、そう思っています」

 総監が胸の内を吐露した。

「なるほど、やっぱり組織のトップは孤独なんですね。総監にならなくてよかった」

 テワタサナイーヌが身の程知らずな言葉を発した。

「さて、最後の質問になってしまいました。総監、これからの警視庁は、どうあるべきだと思いますか」

「はい、住民の皆さまの思いを知り息吹を感じること、これに尽きると思います。警察が独善的になってはいけません。住民の皆さまに寄り添った仕事をしなきゃいけない。私たちが守るのは正義ではなく法です。正義というのは、個人や集団、組織ごとにそれぞれ異なった定義を持っています。普遍的な正義はありません。私たちの考える正義を守ろうとすると、それは正義の押しつけになります。あくまでも守るべきものは法であり、その範囲内で形作られている秩序なのです。そのために住民の思いを知り息吹を感じることが重要で、双方向のコミュニケーションが必要となります。そういう意味で、Twitter警部とテワタサナイーヌさんが手を携えてやられているお仕事は、これからの警察にとってとても意義のあることです。生きた言葉で情報を伝える。そして国民都民の声を受け止める。警視庁は、そうなりたいと思っています」

 力のこもった長い答えになった。

「なるほどー。これって、もしかすると正義を人権や権利に置き換えてもいいんですね」

 珍しくテワタサナイーヌが真面目なことを言った。

「そのとおりです。それぞれの正義を主張すると衝突が生じてしまいます。人権や権利も同じです。自分の権利だけを主張すると、他人の権利を排除したり抑圧することになります。そうなると最終的には力での解決になってしまい、弱肉強食の世界になります。それを避けるためにあらかじめルールを決めておき、権利の衝突を調整しようというのが法です」

「ありがとうございます。これからどういう考えで仕事をすればいいのかわかったような気がします」

 テワタサナイーヌが真剣な面持ちで総監に答えた。

「総監、今日はお忙しいところインタビューにお答えいただきありがとうございました。最後にひとつだけいいですか」

「どうぞ」

「本当に私かわいい?」

「はい、かわいいですよ」

 総監が苦笑した。

 テワタサナイーヌがビデオカメラの方に向き直った。

「以上、総監室から突撃インタビューの模様をお伝えしました。インタビュアーは、知らない人にお金を手渡さない、テワタサナイーヌでした。ばいばーい!」

 テワタサナイーヌがカメラに向かって手を振った。

 打ち合わせにはなかったが、総監も笑顔で手を振っていた。

 山口のカットの合図で収録が終了した。

「総監、本日はインタビューにご協力を賜りありがとうございました。また、数々の非礼をはたらき申し訳ありませんでした。お許し下さい」

 テワタサナイーヌがさっきまでの笑顔を真顔へと変え、気をつけの姿勢から総監に対して警察礼式に定められた節度ある敬礼をして謝辞と謝罪の言葉を述べた。

「テワタサナイーヌさんの女優としてのお仕事、すばらしかったです」

 総監は、テワタサナイーヌの非礼な態度が演技であることを見抜いていた。

「おそれいります」

 テワタサナイーヌが恐縮した。

「また遊びに来てもいいかなー?」

「いいとも!」

 テワタサナイーヌと総監が笑顔でやりとりをした。

「失礼致します」

 テワタサナイーヌは、満面の笑みからすっと真顔に戻り、総監に挨拶をして総監室を出た。

(よくこれだけコロコロと表情を変えられるものだ)

 山口は感心した。

 

 事務室に戻った山口は、副本部長の坂田に簡単に報告を済ませると、すぐに一眼レフカメラからメモリーカードを取り出して、撮影した写真データをパソコンに取り込んだ。

 大量の写真の中から一連の流れがわかるものをピックアップして画像解像度やホワイトバランスなど最低限の修正を加えTwitterに投稿した。

 Twitterには、総監室に入るテワタサナイーヌ、総監の腕に絡みつくテワタサナイーヌ、総監の椅子に座りふんぞり返えるテワタサナイーヌ、執務中の総監の邪魔をするテワタサナイーヌ、そして極めつけがテワタサナイーヌに叱られてうなだれる総監の画像が放流された。

 これらのツイートは、フォロワーの注目を集め、あっという間にリツイートが重ねられ拡散された。

「総監なにやってんすか」

「テワタサナイーヌぱねぇww」

「警視庁はじまったな」

 Twitter上には、さまざまなコメントが流され、大きなトレンドとなった。

 web系のニュースサイトなどでも取り上げられ、話題作りは成功した。

「テワさん」

「なに」

 山口とテワタサナイーヌの会話はこの呼びかけから始まる。

「今日は、うまく総監を誘導して言ってほしいことを言わせましたね」

「へへへ、どうやったらバカっぽく見せながらこっちの伝えたいことを言ってもらえるかって昨日の夜も7時間くらいしか寝ないで考えてた」

「しっかり寝てますよね」

「住民の思いを知り息吹を感じるっていうところがミソだと思ったの」

 テワタサナイーヌが何が狙いだったのかを明かした。

「私もそう思います。住民の思いを知り息吹を感じるというのは、実は信頼に深く関わっていると思うんです」

「信頼?私はただ住民のニーズに応えることが大事だからって思ったんだけど」

 テワタサナイーヌが首をひねった。

「テワさんは、警察に対する住民の信頼って何でできていると思いますか」

「え、信頼が何でできてるかって?考えたことない。信頼は信じるってことじゃないの?」

「その説明だと『火事が燃えてる』と同じようなことになりませんか」

「うーん、確かにそうかも」

「角度を変えて質問すると、住民の信頼を獲得するためにはどうしたらいいと思いますか?」

「そりゃあ不祥事を起こさないことでしょ」

 テワタサナイーヌが当たり前だろうという顔をした。

「そうですね。従来、私たちが考えていた住民からの信頼を獲得する方策というのは、不祥事を起こさないこと、それからしっかり仕事をすること、この二つでした」

「従来っていうことは、今は違うってこと?」

 テワタサナイーヌがまた首をひねった。

 山口は、テワタサナイーヌが淹れた紅茶をすすりながら続けた。

「この二つだけを信頼の源泉として考えると、『そこそこ仕事してくれるし、悪いこともしないから、とりあえず非難することもないよね』という消極的な支持しか得られません。非難されないというだけで、積極的な支持ではないんです」

「うん、まあそうよね。じゃあ積極的に支持してもらうためには、どうしたらいいの?」

「それが住民の思いを知り息吹を感じるということです」

「へー」

「信頼に関する比較的新しい学説なんですが、主要価値類似性モデルというものがあります」

「なにそれ?」

「相手を信頼するのは、相手と自分とで主要な価値観が類似していると感じるときだというものです」

「難しい。簡単に説明プリーズ」

「同じ目線、向いている方向が同じ、そういうことです。そういう意味でさっきテワさんが言った住民のニーズを知るというのも一つの要素ではあります」

 山口がテワタサナイーヌの意見を棄却せずに要素として考えると正解であると肯定した。

 山口は、否定から入らずにまずは肯定してくれるから意見が言いやすい。

 テワタサナイーヌが一見傍若無人に振る舞っているように見えるのも、山口のこの肯定から入るという態度があってのことだった。

「なんとなくわかってきたよ。あれでしょ、つまり、いくら頑張って仕事をして、不祥事も起こさなかったとしても、その仕事があさっての方を向いていたんじゃ信頼されないよっていうことよね」

「そうです。そのとおりです。さすがテワさん、賢いです」

「いやーん、またほめられちゃった」

 テワタサナイーヌが相好を崩した。

「そのために、一方通行の情報発信、出しっぱなしのプレスリリースのような無機質な広報ではなく、双方向のコミュニケーションが必要なんです。私たちがやっているTwitterでの交流は、そのためのものです」

「理屈ではそうなるけど、私にはただ遊んでるように見えるけど」

 テワタサナイーヌが疑いの眼で山口を見た。

「えーとですね、そんなことはありません。たぶん」

 山口が弱気を見せた。

「私は、ソーシャルメディアの中を自転車で巡回している駐在さんだと思っています。ソーシャルメディアという地域の中で住民と会話を交わしながら、お互いに理解を深めていきたい、そう願ってやっています。それがソーシャルメディア駐在所論です」

「どうせ後付けの理屈でしょ」

 テワタサナイーヌが鋭い指摘をした。

「まあ確かにそうなんです。最初は、面白ければいいんじゃないかという軽い気持ちだったんです。でも、やっているうちにこういう効果というか、側面があるということに気づいたんです」

 山口もテワタサナイーヌには飾らず実際のところを話せる。

「いずれにしろ、今日はお疲れさまでした。あとでガスライト行きますか?」

 ガスライトは、霞が関の官庁街の外れにある隠れ家的なバーで、二人が初めてデートをした記念すべき場所だ。

 そのときからガスライトは、二人の聖地となっていた。

「わっ、嬉しい。行く行く!」

 テワタサナイーヌが尻尾を振った。




 この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

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