当たり前の後ろ ~テワタサナイーヌ物語~   作:吉川すずめ

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ふたり旅

 山口との初デートを回想していたクリスマスイブの翌日、テワタサナイーヌはいつもより30分も早く、軽い足取りで独身寮から駆け出していった。

 前日、山口から電話で出張の話があると予告されていたからだ。

 しかも、デートではないがそのような感じの出張になるかもしれないという話をされてしまったら、テワタサナイーヌとしては期待せざるをえない。

 つい足取りも軽くなろうというものだ。

 じっとしていられず、早く寮を出てしまったというわけだ。

「おっはよーございまーす!」

 いつもの4割増くらいの明るさで警備の機動隊員に挨拶をすると、テワタサナイーヌは警視庁の玄関に続くスロープを早足で駆けのぼった。

「出張、出張、今日は出張~」

 出張は今日ではない。

 テワタサナイーヌは鼻唄を歌いながら玄関のゲートにカードケースをタッチした。

「ぶーっ、ぶーっ、ぶーっ」

 警報音とともにゲートの扉が左右から起き上がり中央で閉じた。

 勢いがついていたテワタサナイーヌは、そのゲートに突っ込んで止まり、あやうく前につんのめりそうになった。

「え? あれ? 私?」

 この手のゲートが閉じたとき、起こった事態が理解できず、思考が回らなくなることがある。

 今のテワタサナイーヌは、まさにそれだ。

「おっかしいなあ」

 テワタサナイーヌはタッチしたカードケースを確かめた。

「! 」

 テワタサナイーヌが手にしていたのは、交通系ICカードを入れた定期入れだった。

「ひーっ」

 悲鳴ともとれない情けない声を発しながらテワタサナイーヌは首から提げた身分証を入れたカードケースをタッチした。

「ピンポーン」

 今度は軽快な効果音を響かせてゲートが開いた。

 テワタサナイーヌは、自分の後ろに長く続いてしまった行列にペコペコ頭を下げながら、尻尾を巻いて逃げるように庁舎内に消えていった。

 後ろに並んだ人たちは、テワタサナイーヌがペコペコ頭を下げるたびに犬耳もお辞儀をするので、それが面白くて笑っていた。

「あー恥ずかしかった」

 階段を昇りながらテワタサナイーヌは顔の火照りを静めようと必死だった。

 テワタサナイーヌは、山口が犯抑のフロアまで階段を使っているのを知り、それを見習って階段を使うようになった。

 テワタサナイーヌにしてみれば、階段を使うのは毎日の散歩の延長のようなもので、まったく苦にならなかった。

 テワタサナイーヌは、10階まで一気に登りきると軽く息を弾ませながら部屋に入った。

 いつもより30分早く出てきたので、まだ誰も出勤していなかった。

 誰も出勤していない静かな部屋に一番乗りするのは気持ちがいい。

 今日は、気分よく仕事ができそうだ。

「よしっ、やるか!」

 テワタサナイーヌは声に出して自分に喝を入れた。

 そして、当番で担当することになっているデスク周りの掃除を自分からやり始めた。

 まずはじめに手を付けるのは山口のデスクと決めている。

 その日の一番きれいな状態のダスターで掃除したいからだ。

 とは言うものの、山口の机の上は乱雑に散らかっている。

 人に見られて困るような書類や資料は片付けられているが、よくわからない本やファイル、そしてフィギュアまである。

 そのフィギュアは、幕張メッセで開催されたワンダーフェスティバルで山口が買ってきたものだ。

 ワンダーフェスティバルというのは、造形物にまつわる展示即売会で毎回多くの参加者で賑わっている。

 その参加者に紛れて山口はテワタサナイーヌのガレージキットを買ってきたのだ。

 ガレージキットなので着色は自分でやらなければならない。

 山口は、自宅で家族から白い目で見られながら、毎晩コツコツと着色をしていた。

「目の前にもっとかわいい本物がいるんだから、本物を愛でろっつーの」

 テワタサナイーヌは、そのフィギュアに向かって悪態をついた。

 悪態に仮装した本音ではあった。

 雑然と散らかった物の隙間を縫うように山口のデスクを拭くと、次は副本部長のデスクに移った。

 

「ここに集った善良な皆さん

お耳拝借 私の講釈

ちょっとでもいいから聞いてって」

 

 テワタサナイーヌは、ゆっくりとしたリズムのラップを口ずさみながら掃除を進めた。

 このラップは、テワタサナイーヌが考えた自己紹介の口上だ。

 イベントなどで登場するときに歌い、観衆の耳目を引きつけるのが狙いだ。

 テワタサナイーヌは続けた。

 

「電車にカバンを忘れたオレ

オレが毎日大量発生

俺はそんなにアホじゃねえ!

でも、ありえなくない

消せない可能性

よく聞け私が授ける起死回生

それは簡単

いとも簡単

まずは一旦

俺のケータイ

元のケータイ

鳴らせばわかるぜ

すぐにわかるぜ

そのオレは俺じゃねえ! 」

 

 次に歌が入る。

 

「私は犬のお巡りさん

子供に泣かれることもあるのよ

私の名前はまたあとで」

 

 そしてまたラップだ。

 

「親の財産いずれは遺産

奴らに渡さん手放さん

詐欺(と)られた金

反映されない国民総生産

父さん母さん

じいちゃんばあちゃん

元気でいてくれ

いつか行こうぜ成田山」

 

 そして、最後に名乗りを上げる。

 

「申し遅れました私は

知らない人にお金を

知らない人にお金を

テ・ワ・タ・サ・ナイーヌ! 」

 

 1分30秒くらいの短い曲なので、口上として使うのにちょうどいい長さだ。

 これを何度か繰り返し歌いながら朝の掃除を手早く済ませた。

 ちょうど掃除が終わった頃にその日の当番が出勤してきた。

「あらおはよう。お掃除しといたわよ。感謝してよね」

 極めて上機嫌だ。

「うわっ、ありがとうございます。どうしたんすか今日は? やたらご機嫌みたいだし、それに、いつにも増してきれいすね」

 その日の当番は、池上という巡査部長の男だった。

 この男、とにかくノリが軽い。

 軽いというか、女をよくほめる。

「いつにも増してきれいすね」

 などというストレートなセリフは、嫌な相手から言われたら即セクハラとして通報するレベルの発言だ。

 しかし、池上は、わざとらしくなく、さらっとほめるからほめられた方は気持ちがいい。

 山口も同じような傾向にあり女性をよくほめる。

 しかも、山口は手練を感じさせるほめ方をする。

 たとえば、テワタサナイーヌが髪を切った翌日など、必ず小さな変化にも気づいてほめる。

「雰囲気が増しましたね」

 山口のほめ方はこうだ。

 前の髪型とその日の髪型、どちらがいいか優劣をつけない。

「雰囲気が増した」

 というわかったようなわからないような言葉だが、言われた方はなんとなく気持ちが良くなるほめ方をする。

 これは、花魁が客をほめるときに使う

「こちら様子がいい」

 という言い方の女性版といえる。

「いつにも増してきれいですね」

「あらありがとう」

 テワタサナイーヌは、左手を頬に当てて大仰に礼を言った。

 彼女は、ほめられたとき変に謙遜しない。

 

 ぞろぞろと、といっても総勢30名にも満たない小さな所帯の犯抑本部員が出勤してきた。

 山口も階段ホールから出てきて犯抑の部屋に入ってきた。

 まだ息が上がっているように見えた。

「おはようございます。私も30歳そこそこのころは、本部の16階まで一段抜かしで駆け上がっても平気だったんですけど、すっかり衰えました」

 山口はテワタサナイーヌに挨拶をして、自身の衰えを嘆いた。

 山口は52歳。

 最近は、老眼も出てスマートフォンを手に持つと、画面と顔の距離が遠くなってきている。

 電車で座っているときなど、気づくとスマートフォンを膝の上に置いて使っている。

「もうおじいちゃんなんだから、無理しないでいつまでも長生きしてね」

 テワタサナイーヌが冷やかしながら山口の肩を揉んだ。

「早苗ちゃんかい。いつもすまないねえ」

 二人の掛け合い漫才で周りを和ませた。

「ストレート、それともミルク?」

 テワタサナイーヌが山口に紅茶の種類を訊ねた。

「今日はミルクティにしてもらえますか」

「やだ。面倒」

「じゃあストレートでお願いします」

「かしこまりましたー」

「あのお、テワさん」

 山口が控えめにテワタサナイーヌを呼んだ。

「なに?」

「ストレートティしか選べないようですけど、ミルクティを選択肢にしたのはなぜですか?」

「愛ですよ、愛」

「全然意味がわかりません」

(わかれよ、この鈍ちん)

 テワタサナイーヌは心の中で罵った。

 もちろん顔は笑顔のままだ。

 山口は、いつも保温のボトルに紅茶を入れて持参している。

 だから職場でお茶をいれてもらうことは通常ない。

 若い職員がお茶をいれてくれる職場もあるようだか、山口は断っている。

 それは仕事ではない、その時間を仕事に回して欲しいと思っているからだ。

 しかし、それを口にして言ってしまうと他の人への嫌味になってしまうので、態度だけで示している。

 自分と同じように考えて行動する人が増えてくれることを期待して、細々と続けているレジスタンスだ。

 そんな山口だが、テワタサナイーヌのお茶だけは断らない。

 断らないのではない。

 断れない。

「私は自分のボトルで持ってきていますから、お茶はいれてくれなくていいです。放っておいてください」

 初めてテワタサナイーヌがお茶をいれてくれたとき、山口は他の人にするように柔かな口調で断った。

「ぎしっ」

 テワタサナイーヌの鼻骨が軋んだ。

「私が代理にお茶を出すのは、ただのサービスじゃないんだから、黙って飲みなさい」

 獣化したテワタサナイーヌに睨まれたら断るという選択肢はなくなる。

「は、はい。すみません、いたただきます」

 二人の力関係は、上司と部下が逆転しているようにみえる。

 山口がテワタサナイーヌに淹れてもらった紅茶を飲みながらTwitterに朝の挨拶を投げる。

「警視庁から各アカウント。おはようございます。ただ今から本日のツイカツを開始します。本日も皆さまのお役にたつ情報の発信に努めます。本日もよろしくお願いいたします。以上、警視庁」

 まるで無線通話でもしているかのような挨拶だ。

 挨拶にある「ツイカツ」は、山口の造語だ。

 ツイッター活動を略してツイカツという言葉を作った。

「今日もよろしく」

 Twitterに挨拶を投げると、山口は目の前のデスクにいるテワタサナイーヌから見えないように、自分のデスクに置いてあるテワタサナイーヌのフィギュアの鼻先を右手の人差し指で軽くつついた。

「くしゅっ!」

 テワタサナイーヌがひとつくしゃみをした。

 

「さて、テワさん」

「出張のことですね! いつ? どこ? 任務は? 代理と二人でしょ? きゃー、ワクワクする!」

 テワタサナイーヌが跳ねるように椅子から立ち上がり早口でまくし立てた。

「うおっ!テワちゃん痛いです」

 テワタサナイーヌの後ろから声が上がった。

 テワタサナイーヌが勢いよく立ち上がったせいで、座っていたキャスター付きの椅子が後ろに座っている池上のところまで転がって、池上にぶつかったのだ。

「あー!ごめんなさい!」

 テワタサナイーヌは、謝りながら池上のところまで椅子を取りに行き、自分の席に戻して山口に向き直った。

「テワさん、もう少し落ち着きましょうか」

 山口が苦笑した。

 しかし、それはテワタサナイーヌを諌めるという雰囲気ではなく、むしろ一緒に楽しんでいるように見えた。

「出張は、まだ決まったわけではありません」

 山口がそう言うと、さっきまで遠足前の子供のように落ち着きなくはしゃいでいたテワタサナイーヌが急におとなしくなった。

「なんだ、そうなの。早く言ってよ」

 テワタサナイーヌが山口に文句を言った。

「テワさんが勝手に早とちりしただけだと思うんですが」

 文句を言われた山口としても、これは納得できないところだった。

 こういうのを世間では逆ギレという。

「実はですね、富山県警からキャンペーンへの出演オファーが来ています」

「富山!北陸新幹線よね。私、まだ乗ったことない!」

「そうでしたか。私は一度だけ金沢まで行ったことがあります」

「なにそれ!?私を置いてひどくない?」

「家族旅行だったのでテワさんはお誘いできませんでした」

「私と家族、どっちが大事なのよ!?」

 テワタサナイーヌが理不尽な突っ込みを入れた。

「今までテワさんがテワタサナイーヌとして他県に出張をしたことはありません」

 山口は、テワタサナイーヌの安っぽい演技に付き合わず、仕事の話に戻した。

「そうね、まだない」

「ですから、まず東京を飛び出して他県で活動することが許されるかどうかということから確認をしていかなくてはなりません」

「私としては、特殊詐欺の被害防止は全国的な重要課題なので、都道府県の枠にとらわれて小さくまとめている場合ではないという認識です」

「テワさんが出張することで、たとえ他県であっても特殊詐欺の被害防止に役立つのであれば出張すべきと考えます」

 山口は、テワタサナイーヌがいれた紅茶を口に運びながら、今回のオファーに対する自分の方針を明らかにした。

「そう! 私もそう思ってた!」

 テワタサナイーヌが元気に乗った。

「本当にそう思っていましたか?」

 山口には、テワタサナイーヌが何も考えていなかったのがお見通しだった。

「ほ、本当だって。全国的な課題だもんね、うん」

 そう答えたものの、こぼれ落ちそうな大きな目が宙を泳ぎ、犬耳が後ろを向いて揃えられている。

「テワさん、耳」

 そう言って山口はテワタサナイーヌの耳をつまみながら笑った。

 犬の感情は、尻尾だけでなく耳にも表れる。

 犬が耳を後ろに向けて揃えているときは、緊張したりストレスを感じているときだ。

「やめてー」

 テワタサナイーヌは、眉をハの字にして困惑の表情を浮かべた。

 だが、耳をつまんでいる山口の手を振り払おうとはしない。

 それはそれで気持ちよかったからだ。

「私の考えはそういうところです。でも、組織としてそう判断されるかどうかはわかりません」

「これから上に上げていきます。行けない可能性もありますから、あまり期待はしないでいてください」

 山口がテワタサナイーヌに念を押した。

「わかった。期待して待ってる」

 テワタサナイーヌと山口の会話は、どこかずれるときがある。

 客観的には会話がすれ違っているのだが、当事者間では通じているらしい。

 山口は、富山県警からキャンペーン出演のオファーが来ていることと、それに対する自分の意見を添えて副本部長の坂田警視長に報告した。

 坂田の判断は速かった。

「初めてのオファーだし、せっかくですから行ってきてください。ただし、旅費は出せません。旅費を先方が出してくれるなら出張を許可します」

 このあたりは妥当な条件だ。

 遠方からの出演依頼を出すのであれば、いわゆる「アゴ(食事)、アシ(交通費)、マクラ(宿泊費)」を依頼元が負担するのが普通だ。

「出張は、テワタサナイーヌ単独でよろしいですか」

 出張の人員について伺いをたてた。

「プロデューサー兼マネージャー兼上司が行かないという選択はないでしょう」

 坂田が明るく山口に告げた。

 もし、坂田の判断がテワタサナイーヌだけの出張ということになれば、山口は休暇を取ってでも富山入りするつもりだった。

 坂田の判断を受けて、山口はオファー元である富山港署の生活安全課長と電話で協議をした。

「キャンペーンに出演することは可能です。ただし、往復の旅費をご負担願えますか? それであればオファーをお受けできます」

「やはり交通費が必要ですか」

 電話の先で富山港署生活安全課長がため息混じりに答えた。

「たった一日だけのキャンペーンのために東京から富山までの交通費をお願いするのは、予算のご都合もあって大変だとは思います。ですが、私たちとしてもぜひ出演させていただきたいと思っていますので、よろしくお願いします」

 山口も会計をかじったことがあるので、このキャンペーンに東京から警察官を招くための予算支出が簡単ではないことをよく理解している。

「わかりました。なんとかします」

 富山港署の生活安全課長は、力強く答えた。

「なんとかしてみます」ではなく「なんとかします」と言い切るところに課長の意気込みが感じられた。

「ところで、なぜテワタサナイーヌにオファーをくださったんですか?」

 山口が課長に疑問をぶつけた。

「実は、私は犯抑Twitterのフォロワーなんです。それで、テワタサナイーヌさんのファンでもあるんです。ですから、どうしてもテワタサナイーヌさんに会いたくてオファーを出しました」

「そうですか。ありがとうございます。そういうことであれば、是が非でも出演させていただきたいです」

 好きを仕事にしている男同士の繋がりが生まれた。

 翌日、富山港署の生活安全課長から電話があった。

「お二人分の交通費を出せることになりました!」

 課長の声が弾んでいた。

「よかったです。キャンペーンを成功させましょう」

 山口も声に張りがあった。

「ところで」

「前泊でいらっしゃいますよね」

 課長が控えめな声で訊いてきた。

 宿泊費まで負担するのは難しいと判断しているのだろう。

 おそるおそるという感じの訊き方だった。

 山口は、電話をしながらパソコンで北陸新幹線の時刻表を出した。

「キャンペーンの開始時刻は何時ですか?」

「キャンペーンは10時からです」

「富山駅から署までは何分かかりますか?」

「だいたい20分くらいです」

「署からキャンペーンの現場までの移動にかかる時間は?」

「車で10分もかかりません」

(署について署長に挨拶をして、テワさんが制服に着替えるのにかかる時間が30分くらい。富山駅に着いてから60分を見積もれば現場に着けるな)

 課長に当日のスケジュールを確認しながら、山口は所要時間の組み立てをしていた。

「富山駅まで迎えの車を出していただけるのであれば日帰りで伺います」

「えっ、日帰りで大丈夫なんですか?」

 課長が驚いたように声を上げた。

「はい、6時16分東京発のかがやき501号に乗れば富山駅に8時27分に着けます。富山駅までお迎えをいただければ、9時には署に着けます。署で署長にご挨拶をさせていただいて、そのあとテワタサナイーヌが制服に着替えて支度する時間を30分としても、10時開始のキャンペーンには十分間に合います」

「帰りも北陸新幹線を使えば、普段の定時と同じくらいに仕事を終えて帰ることができます。富山は十分日帰り圏になりましたね」

 山口が組み立てたスケジュールを課長に説明した。

「ご負担をおかけして申し訳ありません。よろしくお願いします」

 課長が恐縮して言った。

「テワタサナイーヌが好きで呼んでくださる方のためなら苦になりません」

 好きなコンテンツのためなら労を厭わないという山口のオタク気質が垣間見えた。

 

 寒さが最も厳しくなる2月上旬。

 テワタサナイーヌと山口の富山出張の朝を迎えた。

 午前5時50分。

 東京駅21番線ホームに山口の姿があった。

 テワタサナイーヌの制服などを詰め込んだ紫のキャリーケースを側に置きスマートフォンを操作している。

 吐く息が白く凍りつく。

 テワタサナイーヌの姿はまだない。

 山口は、今日の出張をリアルタイムでTwitterに投稿するための写真を撮影していた。

 6時少し前になり、テワタサナイーヌが小さめのボストンバッグを腕にかけ、ヒールの細い靴独特の音を響かせながら山口のもとに駆け寄ってきた。

 その日のテワタサナイーヌは、丈の短いキャメルのトレンチコートに黒のタイトなニーハイブーツという出で立ちであった。

 トレンチコートのベルトをタイトに結んでいるためウエストのくびれが強調されている。

 ブーツとコートの間の脚、いわゆる「絶対領域」(ただし毛が生えている)が見えているところから、コートの下はミニスカートかホットパンツなのだろうと想像できた。

 ブーツのヒールは細く、8センチくらいはある。

 もともと身長が低くないテワタサナイーヌが、8センチヒールのブーツを履くと、楽に170センチを超える。

 身長が180センチ近い山口とその日のテワタサナイーヌが並ぶと、大柄なアベックになりかなり目立つ。

 唇は、ベージュ系の口紅にグロスを乗せて艶を出している。

 まつ毛もファイバー入りのマスカラで相当ボリュームアップさせている。

 マスカラの色は、髪と瞳の色に合わせたハイトーンのアッシュグリーンをチョイスした。

 どう見てもデートに行く格好だ。

 普段の仕事では、ベーシックなパンツスーツが多く化粧もごく薄いので、その日のテワタサナイーヌはイメージが大きく変わっていた。

「テワさん、今日はいつもと違う雰囲気で素敵ですね」

 山口がテワタサナイーヌをほめた。

 山口としては、ほめたつもりはない。

 素敵だと思ったからそれを口に出しただけだった。

「ありがとう。代理と出張なんで頑張っておしゃれしてきた」

「それは光栄です」

「それにしても、いつもうまくほめるよね。このイタリア人め」

 そう言ってテワタサナイーヌはニーハイブーツを履いた脚のひざで山口を軽く蹴った。

 

【挿絵表示】

 

 二人がじゃれ合っていると、21番線にかがやき501号が入線してきた。

 山口がテワタサナイーヌの背中に手を添えてエスコートした。

 テワタサナイーヌもそれが当たり前のように、山口と目を合わせ軽く微笑んで乗車をした。

 山口があらかじめ購入していた進行方向左側の二人がけの席にテワタサナイーヌを案内し、彼女を窓際に促した。

「ありがとう」

 そう言ってテワタサナイーヌは、ベルトを解き、ボタンを外してシュルっと軽い衣擦れの音をさせながらトレンチコートを脱いだ。

 コートの下からは、ぴったりと身体にフィットした縦にリブの入ったオフホワイトのセーターと、モスグリーンをベースにしたチェック柄のタイトなミニスカートが登場した。

 セーターのリブがテワタサナイーヌの身体に沿って曲線を描き、スタイルの良さを強調している。

 脚の毛を見せるため、あえてタイツやストッキングは履かなかった。

 テワタサナイーヌは、自分の獣毛は他の誰にもないセールスポイントだと思っている。

「ポケットには何も入っていませんね」

 山口は、キャリーケースを荷物棚に乗せ、テワタサナイーヌからコートを預かると皺にならないように慣れた手つきでコートを丸め、自分のコートと並べて荷物棚に置いた。

 テワタサナイーヌは、山口のこういった手際の良さというか、エスコート術が好きだ。

 押し付けがましくなく、ごく自然にやってのけるところがいい。

(どこでこういうことを覚えてきたのよ)

 ときどき誰に対してするわけでもなく嫉妬することがある。

 定刻になり発車のベルが鳴り終わると、かがやき501号のドアが締まり、静かに東京駅を滑り出していった。

 流れていく車窓の景色に山口との旅の始まりを感じ、テワタサナイーヌは胸を高鳴らせた。

「テワタサナイーヌとともに富山に向けて出発いたしました」

 テワタサナイーヌの高揚をよそに、山口はTwitterに出発の報告をしていた。

 山口は、その日のスケジュールを簡単にテワタサナイーヌに説明した。

 テワタサナイーヌは、とりあえず聞いている素振りは見せているが、ほとんど聞いていない。

 どうせ現地では山口が細かく指示を出してくれる。

 自分はその指示に従って動けば万事問題ない。

 やはりタレントとマネージャーのような関係だ。

 そうしている間に、かがやき501号は都内を抜け速度を上げていった。

 しばらくすると車内販売が回ってきた。

 山口は軽く手を上げて販売員の女性を呼び止めた。

「アイスクリームをふたつください」

 アイスクリームをふたつ買った山口は、ひとつをテワタサナイーヌに差し出した。

「新幹線の旅といえばアイスクリームです」

「なんで?」

「そういうものだからです」

「わかんない」

 まったく意味のない会話も楽しかった。

「ちょっとアイスクリームを手で持ってください。写真を撮ります」

 山口はそう言うとテワタサナイーヌの手とアイスクリームをアップでスマートフォンのカメラに収めた。

「その写真をどうするの?」

「Twitterにあげようと思います」

「ふーん」

 山口がスマートフォンでなにごとかを入力してTwitterに投稿しているのをテワタサナイーヌは隣から覗き込んでいた。

「時速250kmくらいで移動しながらアイスクリームをいただいております」

 テワタサナイーヌのスマートフォンに山口のツイートが反映された。

「やっぱり意味わかんない」

「そういうものですから」

「ふーん」

「ところでテワさん」

「なに?」

「さっき私のことをイタリア人と言いましたね」

「うん言った。女と見れば誰でもほめまくるし、マメだよね」

「実は、妻にもイタリア人と言われるんですよ」

「奥さんわかってるわー」

 富山に向かう車内では、ほとんどがこういった意味のない会話に時間を費やしていた。

 意味のない会話が楽しく、それで何か通じるものがあるというのは、二人の関係が良好な証だ。

 また、そういうときは時間の経過も早く感じるもので、あっという間にかがやき501号は富山駅に到着した(ように二人には感じられた)。

 荷物棚からテワタサナイーヌのトレンチコートを下ろした山口は、コートの両襟をつまみ、テワタサナイーヌの後ろからコートをあてがい、片腕ずつ袖を通させて着せた。

「ありがとう」

 山口にエスコートされるのが当たり前になっていても、テワタサナイーヌが感謝の言葉を忘れることはない。

 山口は、手際よく自分のコートを着ると通路に出てテワタサナイーヌを先に出口に向かわせた。

 かがやき501号が富山駅のホームに滑り込み、間もなく停止しようというところで、それまでテワタサナイーヌの後ろにいた山口がテワタサナイーヌに軽く目配せをして前に出た。

 ドアが開くと山口は素早くホームに下りて、あたりを一瞥する。

 そして、テワタサナイーヌに向き直って「どうぞ」という表情で彼女に降車を促した。

 今回は新幹線なのでテワタサナイーヌはそのまま降りたが、車のときなどは山口がテワタサナイーヌの手を取ってエスコートをすることもある。

 山口は、テワタサナイーヌの左側、テワタサナイーヌより若干後ろに位置して歩き始める。

 その位置からテワタサナイーヌに行き先の案内をしながらエスコートする。

「なんでいつも私より少し後ろにいるの?」

 テワタサナイーヌは一度訊いたことがある。

「ここが一番テワさんを守りやすいからです」

「ふーん」

 テワタサナイーヌは、どうやら自分は山口に守られているらしいことを知った。

「私だって警察官なんだから逮捕術を習ってるし、体力的には代理よりずっと上だと思うんだけど」

 守られるのは嬉しいが、素直に嬉しがるのも悔しいのでテワタサナイーヌは少し拗ねたふりをして口を尖らせた。

「誰かを守るというのは、体力や武術の優劣で決められるものではないと思うのです」

「守りたいという気持ちがあるから守る。それ以外に動機も目的もありません」

「テワさんの方が私よりずっと強いのはわかっています。でも、私はテワさんを守りたいし、守らなければならない理由があるんです」

 山口がテワタサナイーヌに言った。

「私を守らなくちゃいけない理由って、代理が私の上司だから? 」

 テワタサナイーヌは「守らなければならない理由」が気になった。

「上司だからということではありません。テワさんが早苗さんだからです」

 山口がテワタサナイーヌを守る理由をいつになく真剣な眼差しで説明した。

「テワさんが早苗さんだから……」

「うーん、ちっとも理由がわからない」

「同じじゃないの?どっちも」

 テワタサナイーヌは混乱した。

「このエスカレーターで下に降ります」

 いつもの表情に戻った山口はテワタサナイーヌにそう言うと、ごく自然にテワタサナイーヌの左側を追い越して先にエスカレーターに乗った。

 万一、エスカレーターでテワタサナイーヌが足を踏み外したりバランスを崩すようなことがあっても、自分が下から支えて危険を回避できる。

 逆に上りのエスカレーターでは、山口が後から乗ることになる。

 先にエスカレーターを降りた山口は、テワタサナイーヌが安全にエスカレーターから降りたのを確認してから歩き始める。

 そのときは、いつの間にかテワタサナイーヌの左後ろに位置している。

 バタバタ走り回らずにポジションを自在に替える山口のエスコート術は、いつ見ても惚れ惚れする。

「あそこの改札を出ます。乗車券と特急券は重ねて自動改札に入れるんですよ」

「子供扱いしないでよね!」

 そう言ったテワタサナイーヌの尻尾は左右に元気よく振られていた。

「失礼しました。いつぞやの玄関ゲート定期券タッチ事件があったので、また間違えるんじゃないかと思いまして」

 山口が冷やかした。

「いやーっ!それは言わないで!傷をえぐらないでえ」

 テワタサナイーヌが身悶えして恥ずかしがった。

 

 新幹線の改札を出ると、駅のコンコースに年齢四十過ぎ、身長は山口と同じかやや低いくらい、ネイビーブルーのスラックスに革靴を履き、モスグリーンのMA-1を羽織った短髪の男性が立ち、改札から出てくる人を目で追っていた。

 山口と富山港署の生活安全課長は、お互いに面識はなく、当日の服装なども特に打ち合わせしていない。

 しかし、同業者同士、言葉を交わすこともなく、それが待ち合わせの相手であると同時に気づいた。

 お互いに歩み寄り挨拶を交わす。

「今日はお世話になります。警視庁の山口です。こちらがテワタサナイーヌです」

 山口が課長にテワタサナイーヌを紹介した。

「はじめまして。警視庁のテワタサナイーヌです。本日はお招きくださりありがとうございます。短い時間ですが、よろしくお願い致します」

 テワタサナイーヌは、深々とお辞儀すると丁寧に自己紹介と挨拶をした。

 山口に対する態度とは雲泥の差がある。

 山口は、テワタサナイーヌのTPOを使い分けられる粗雑さが好きだ。

「はじめまして。富山港署の生活安全課長綿貫です。いやあ、Twitterでいつも拝見していて、美しい方だと思ってはいましたが、実際にお会いすると驚くほどおきれいで背も高くて、まるでモデルさんですね」

 綿貫がテワタサナイーヌの頭のてっぺんからつま先まで芸能人を見るような目で見つめながら挨拶をした。

「ありがとうございます」

 テワタサナイーヌは軽くお辞儀をしてにっこりと微笑んだ。

 ベージュ系の口紅に乗ったグロスで濡れたような質感をもつ唇から、鋭い犬歯が覗き独特のフェティッシュな色香を醸し出す。

「やだーっ!返して!」

 女性の悲鳴がコンコース中に響き渡った。

「泥棒!誰かその人つかまえて!」

 山口たちが一斉に声のした方向を振り向くと、コンコースの途中で二十歳くらいの女性が走りながら、その十数メートル前を走って逃げていく男を指差している背中が見えた。

 男の手には、およそ男性が持つとは思えない赤いトートバッグが握られていた。

「カッ!」

 ヒールの細い靴で床を蹴る独特の高い音が響いた。

 テワタサナイーヌがボストンバッグを山口に投げつけると、その女性目がけて走り出していった。

「カッ カッ カッ」

 軽快な音を残してテワタサナイーヌはあっという間に男を追いかけている女性に追いつた。

 テワタサナイーヌの全力疾走を見たのは、山口もこれが初めてだった。

 イヌのDNAを持つとはいえ、あそこまで速く走れるとは思っていなかった。

「なんだよ、あのケモ娘。すげえ速くねえか」

 周りの通行人も驚きを隠せないという表情で事の推移を見守っている。

「警察です。あの男が泥棒ですね。男が持っているのは、あなたのトートバッグですか」

 テワタサナイーヌが走りながら女性に確認した。

「そ、そうです…… たった今、ひったくられました…… 」

 被害者の女性はすでに息を切らしている。

「わかりました。あなたはここで待ってて。あとから他の警察官が来るから!」

 テワタサナイーヌが女性に指示をした。

「ガッ!!」

 テワタサナイーヌは、一段と強く地面を蹴り先ほどよりさらにスピードを上げて犯人の男に向かって走り出した。

 犯人の男も全力で逃げている。

 男とテワタサナイーヌの距離は50メートルくらいはある。

 だが、男はテワタサナイーヌの射程内にあり、一度も見失っていない。

「ぎしっ、みしっ、がり…… 」

 テワタサナイーヌの鼻骨が軋む。

 いつもはチャームポイントの犬歯が牙に変わる。

 犯人の男は、駅の外を目指して逃げているようだった。

 2月の富山。

 外は雪が降っている。

 路面には雪が積もり一面白の世界となっている。

(外に逃げられたらこのブーツじゃ分が悪いわね。コンコース内で逮捕しなきゃ)

 テワタサナイーヌが牙を剥いた。

 さっきまでのエレガントな笑顔はどこにもない。

 完全に獣と化している。

 ブーツのヒールが折れんばかりに地面を蹴り続ける。

 間もなくコンコースから外に出るというところでテワタサナイーヌは犯人の男に追いついた。

 走っているときに相手に組み付くのは得策ではない。

 ふたりとももんどり打って転倒することになるからだ。

 テワタサナイーヌは、男の背後につくと男の背中を軽くぽんと押した。

 背を押された男は、上半身が先行してしまい足が追いつかない状態になり、両手を振り回しながらうつ伏せに倒れ、走っていた勢いで数メートルスライディングして止まった。

「どん!」

「ぐえっ!」

 うつ伏せに倒れた男の背中にテワタサナイーヌの右膝が勢い良く乗せられた。

 左右の肩甲骨の間にあたる場所、和服の紋付きで背中に紋が入っているあたりだ。

 ここを押さえられると身動きが取れなくなる。

 テワタサナイーヌは、左手に着けた腕時計で時刻を確認した。

「午前8時35分。窃盗の現行犯で逮捕します」

 犯人の男は息が切れて言葉も発せない。

 手足をばたつかせてなんとか抵抗しようとするが、テワタサナイーヌに紋所を押さえられてるため逃げることができない。

 タイトなミニスカートのテワタサナイーヌが片膝で男の背中を制圧している。

 スカートの中が見えてしまい、取り囲んだ通行人から写真を撮られている。

(スパッツ履いてるもんねーだ)

 テワタサナイーヌは、職務の執行のためなら下着が見えることも全く厭わないが、その日はスパッツを履いてきて正解だった。

 間もなく駆けつけた制服警察官に犯人の男を引き継ぐと、テワタサナイーヌはすっと立ち上がり服装の乱れを直し、縦にリブの入ったオフホワイトのセーターの中から首に提げた警察手帳を取り出して警察官に示した。

「私は警視庁の警察官です。この男を窃盗の現行犯で逮捕しました。私はこのあと富山港署でキャンペーンがありますから、それが終わったら手続書を作成しに署にうかがいます」

 そう言って現場を離れ、山口らの元に向かって歩き出した。

「かっこいいぞ、ケモミミ婦警さん!」

 現場を取り囲んだ通行人から歓声と拍手が起こる。

 テワタサナイーヌは、立ち止まると節度のある回れ右をして通行人の群れに向き直り、最高の笑顔を作って右手で敬礼をしてみせた。

 私服で挙手の敬礼は行わないが、サービスとしてはアリだと思った。

 ただ、マズルが伸びた獣顔のままだったので、少々強面だったかもしれない。

「代理、マズルを戻したい。どこか人目につかない場所に移動させて」

 テワタサナイーヌは、伸びたマズルを戻すとき耐え難い激痛を伴う。

 その様子は山口以外に見せたくない。

「わかりました。このマズルもかわいくて好きなんですがね」

 そう言って山口は右手の指先をテワタサナイーヌの鼻先に添えた。

「あれっ?」

 マズルの戻り始めに合わせて疼き出した痛みがすっと静まったのをテワタサナイーヌは感じた。

 山口がマズルから手を離すとまた痛みが増した。

「代理、すごい発見したかも。代理に鼻を触ってもらうと痛みが軽くなるみたい」

 テワタサナイーヌが山口に新発見の驚きを伝えた。

「え、そんなことがあるんですか?」

 そう言って山口はもう一度テワタサナイーヌの鼻先に触れた。

「うん、やっぱり間違いない」

 テワタサナイーヌは確信した。

「そのまま触ってて」

「はい、わかりました」

 山口がテワタサナイーヌの鼻先に指を添えていると、テワタサナイーヌのマズルがゆっくりと元に戻っていく。

 鼻骨の軋みもほとんどない。

 鼻骨の変形に伴う痛みが完全になくなるわけではないが、耐えられないほどではない。

 これなら人前でも平気だ。

「少し遅くなってしまいました。急ぎましょう」

 綿貫が二人を案内しながら言った。

 

 綿貫は、二人をコンコースから外のロータリーに誘導し、そこに待たせてあった銀色のミニバンに案内した。

 山口はテワタサナイーヌの手を取り、後部座席の奥に座らせた。

 そして、テワタサナイーヌの隣に乗り込み、ドアを閉めた。

 二人を乗せた車は、駅から富山港を目指して北上する。

 相変わらず雪が舞い、風も強く吹いている。

 冬の日本海側らしい厳しい天気だった。

 駅前を抜けると街なかに突然広い公園が現れる。

 富岩運河環水公園だ。

 ここは、元々あった運河を利用して作られた公園で、舟だまりを利用した水辺空間を中心に、遊歩道や芝生のスロープが配置された都市公園として住民に親しまれている。

「実は、ここに世界一のものがあるんです。なんだかわかりますか?」

 綿貫がもったいぶった言い方で二人に問いかけてきた。

「わかりません。なんですか」

 山口はしばらく考えたが、まったく思いつく答えがみつからなかった。

「世界一景色がいいスターバックスがあるのがここなんです」

 綿貫が誇らしげに答えを披露した。

「へー!」

 山口とテワタサナイーヌが声を合わせて驚嘆した。

「世界一景色がきれいなスターバックスっていったら、スイスとかなんかヨーロッパの方にありそうですよね!それが日本にあるなんてすごい!」

 テワタサナイーヌが興奮した口調で身を乗り出して言った。

「窓際から見る景色がとにかくきれいなんです。特に夕日が地平線に沈む頃や、うっすらと雪化粧したような日は格別です。今日はちょっと雪が降りすぎてますけどね。今度、お時間のあるときにでもぜひ立ち寄ってみてください」

 綿貫が滔々と説明を続けた。

 そうこうしているうちに、車は富山港警察署に到着した。

 署の敷地入り口にはロシア語の看板が掲示されていた。

 署の玄関には、副署長が出迎えに出てくれていた。

 車の後部ドアを開け先に降りた山口がテワタサナイーヌの手を取り安全に降車させる。

「警視庁の山口とテワタサナイーヌです。本日はお世話になります」

 山口が代表して副署長に挨拶をした。

「ようこそいらっしゃいました。どうぞお入りください」

 副署長は二人を署内へと案内した。

「おぉーっ」

 副署長に先導されてテワタサナイーヌが署内に入ると、長身でスタイルがよくモデルのような出で立ちのテワタサナイーヌに署内からため息が漏れた。

 山口とテワタサナイーヌは、署員に会釈をしながら副署長の案内で署長室に入った。

 署長は、恰幅のいい、いかにも人の良さそうな初老の警察官だった。

 間もなく定年を迎えるくらいだろう。

「警視庁の山口警部です」

「同じくテワタサナイーヌ警部補です」

「特殊詐欺被害防止キャンペーンのため派遣されました」

 二人が署長に申告した。

「遠いところよく来てくれました。お二人の活躍は、綿貫からよく聞かされています。今日は、富山駅でひったくり犯人まで捕まえてくださったそうで、本当にありがとうございます」

 署長はこぼれんばかりの笑顔で二人を歓迎した。

「署長、予定より少し遅れていますので、テワタサナイーヌさんにはすぐに準備に入ってもらおうと思いますが、よろしいでしょうか」

 綿貫が署長に伺いを立てた。

「うん、そうだね。それじゃあテワタサナイーヌさん、山口さん、よろしくお願いします」

 二人は署長室を出て、狭い署内の廊下を幾度か曲がり、生活安全課の部屋に通された。

 部屋の中には大きな石油ストーブがあり、勢い良く炎が舞い上がっている様子がのぞき窓から見えた。

 テワタサナイーヌが室内のデスクの数を数えたところ、生活安全課は課長以下8人くらいのようだった。

「警視庁の山口とテワタサナイーヌです。本日はよろしくお願いします」

 山口が挨拶をした。

「よろしくお願いします」

 生活安全課の課員から元気な挨拶が返ってきた。

「さっそくテワさんは、着替えをさせてもらいましょう」

 山口がテワタサナイーヌに着替えを促して、持参した制服などが入っている紫色のキャリーケースを渡した。

「うん、行ってくる。着替えはどちらですればいいですか?」

「着替えは女性更衣室でお願いします。こちらです。ご案内します」

 女性の警察官がテワタサナイーヌを案内して室外に出ていった。

「署の入り口にロシア語の看板がありました。ロシア人の方が多いんですか?」

 テワタサナイーヌの着替えを待つ間、山口は綿貫に署の入り口で見たロシア語の看板について質問をした。

「そうです。港にロシア船が多く入港するので、ロシア語の表記が多いんです」

 綿貫が答えた。

「そうなんですか。そうすると署にもロシア語の通訳ができる人もいらっしゃるわけですか?」

「はい、通訳できる警察官が3人ほどいます」

「そうですか。港を管轄内に持っていると大変そうですね」

「お待たせしましたー」

 山口と綿貫が話をしていると、着替えを終えたテワタサナイーヌが元気に生活安全課の部屋に戻ってきた。

 きっちり制服を着こなし、今日は特注の耳が出る制帽も被っている。

 最近は、ズボンの制服を着る女性警察官が多くなっているが、テワタサナイーヌの衣装としての制服はスカートだ。

 それも、膝上10センチくらいの比較的短いスカートになっている。

 やはり見栄えが良くなくては、多くの人の目に留まらない。

 膝上10センチのスカートだが、テワタサナイーヌが履くとかなり短い裾丈に見える。

 テワタサナイーヌは、膝から下が長い。

 膝から下が長いと脚が長く見える。

 実際脚が長いのだが、膝下が長いことで脚全体がより長く見える上にスカートも実寸より短く見えるようになる。

「お化粧落としすぎてないかな」

 テワタサナイーヌが山口に恥ずかしそうに訊いた。

 さきほどまでのマスカラとグロスはすっかりオフされ、警察官らしい薄化粧に変わっていた。

「素材がいいから薄化粧が映えますね」

 山口がテワタサナイーヌをほめた。

「さすがイタリア人」

 テワタサナイーヌが尻尾を左右に振った。

「さあ、それではそろそろ出かけますか」

 課長席で事務仕事をしていた綿貫が顔を上げて二人を促した。

 テワタサナイーヌを見た綿貫は、その変わりように少し驚いた表情を見せた。

「あ、いつも見ているテワタサナイーヌさんになりましたね」

 綿貫がテワタサナイーヌを眺めながら感心したようにつぶやいた。

「こっちの私は営業用の私ですけどね」

 テワタサナイーヌがいたずらっぽくウインクしながら綿貫に暴露した。

 生活安全課の部屋を出て、署内の狭い廊下を何度か曲がり、署の玄関に出た。

 玄関前には、駅から乗ってきたミニバンが横付けされていた。

 署長室から見送りに出てきた署長に愛想よく挨拶をすると、テワタサナイーヌは山口に手を取ってもらい車の後部座席に腰を沈めた。

 今回は、乗ったドア側にテワタサナイーヌが座ったため、山口は車の後ろから右側に回り込み、右側のドアを開けてテワタサナイーヌの隣に乗り込んだ。

 署の玄関では、署長以下署員総出で手を振りながら見送ってくれた。

 テワタサナイーヌは、それに深々と頭を下げて応えた。

 テワタサナイーヌと山口を乗せた車は、署を出ると署の前の通りをまっすぐ進んだ。

 綿貫が事前に説明したように、5分ほど走るとキャンペーン会場であるスーパーマーケットに到着した。

 雪が降りしきる午前10時の開店前だ。

 スーパーの駐車場には、まだほとんど車が停まっていない。

「これでキャンペーンになるのかしら」

 テワタサナイーヌは少々不安になった。

「10時を過ぎるとお客さんが集まりだしますから」

 テワタサナイーヌの不安を察したのか、綿貫が説明を加えた。

「それと、今日は富山のローカル局と新聞の取材が入ります」

 綿貫が取材予定を告げた。

「あらっ、じゃあ張り切っていい絵を撮ってもらわなきゃ」

 取材慣れしたテワタサナイーヌがやる気を出した。

「それから、テワタサナイーヌさんと共演させてもらうために、富山県警のシンボルマスコットである立山くんも連れてきました」

 立山くんは、立山連峰を模したような顔の形をして警察官の制服を着用した、いわゆるゆるキャラだ。

 今日は、その着ぐるみを用意したというのだ。

 立山くんの中の人は、署でテワタサナイーヌを着替えに案内してくれた女性警察官だという。

 着替えが必要なため、すでに先に現場に入り待機しているということだった。

 午前10時になりスーパーが開店すると、徐々に客が集まりだした。

「さあ、始めましょう」

 スーパーの中で準備をしていた綿貫が駐車場に停めたテワタサナイーヌたちが乗った車に駆け寄ってきて声をかけた。

「雪で滑りやすくなってますから、足元に注意してください」

 綿貫は、そう言うと顔にかかる雪を手で防ぐようにしながら、また店内に走って戻っていった。

 先に右側のドアから降りた山口が左側に回り込み、後部のドアを開けた。

「テワさんは犬だから、雪ではしゃぎたくなりますか?」

 山口が冗談ぽくテワタサナイーヌに訊いた。

「うーん、その点はまだ犬化してないみたいよ」

 テワタサナイーヌもすっかり自分が犬だということを受け入れている。

「どうぞお嬢様」

 そう言って山口はテワタサナイーヌに手を差し出した。

「ありがとう」

 テワタサナイーヌもにっこりと微笑んで山口の手に自分の左手を乗せた。

 山口は、テワタサナイーヌの乗降時にパパラッチされないよう、身体でカバーをして見えないようにする。

 テワタサナイーヌが車を降りると、山口はテワタサナイーヌと手を繋いだまま、若干テワタサナイーヌの前に出て雪の状態を確かめながら、身体を半身に開いてテワタサナイーヌを見ながらゆっくりと歩いた。

「テワタサナイーヌさん入りまーす」

 スーパーの入口前で山口はテワタサナイーヌに向かって言った。

 テワタサナイーヌの女優スイッチを入れる合図だった。

「やっぱり成り切るスイッチって大事よね」

 テワタサナイーヌが山口の自分の扱いのうまさに感心しながらつぶやいた。

 そこからのテワタサナイーヌは、まるでスーツアクターが入っている着ぐるみのような動きになった。

 身振り手振りを交え、身体全体で感情を表現する。

 夢と魔法の国にいる王子様の恋人のような動きといえば想像できるだろうか。

「富山港署です。知らない人にお金をテワタサナイーヌ!」

「おうちの電話は、いつも留守番電話にしておいてくださいね」

「携帯が変わったと言われたら、息子さんやお孫さんの元の携帯番号にかけ直してね」

 テワタサナイーヌは、通りかかる買い物客に自分から走り寄っては笑顔で話しかける。

 いっときも動きが止まることはない。

 動きを止めてしまうと、自分の外見からお人形さんのように見えてしまうことを知っている。

 テワタサナイーヌの首元に玉の汗が浮かんでいる。

 普段、都内でのキャンペーンでも決して手を抜かないテワタサナイーヌだが、請われてはるばる駆けつけた現場だ。

 いつも以上に動き回り多くの買物客をつかまえては注意喚起をしている。

 真冬だというのに汗をかくほどの運動量だ。

 それだけオレオレ詐欺の被害防止に向けたテワタサナイーヌの気持ちが強いということだ。

 見慣れているはずの山口だが、この光景を見るたびに目頭が熱くなるのを隠せない。

 キャンペーン開始から1時間が経過して予定の終了時刻となった。

 テワタサナイーヌは、この間、一瞬たりとも笑顔を絶やさず全力で走り抜けた。

 山口に手を引かれ、乗ってきた車に戻ったテワタサナイーヌは、山口に支えられながらステップを上ると、倒れ込むようにしてシートに沈んだ。

 呼吸も浅くなっている。

 山口も車に乗り込みドアを閉めると、テワタサナイーヌの制服の前を緩めた。

 制服のボタンを外すと、中で窮屈そうにしていたものが自由になろうとして、弾けるように左右に広がった。

「お疲れさまでした」

 山口は、テワタサナイーヌの汗をタオルで拭い、制帽を脱がすと彼女の頭を撫でた。

 一本の現場でこれだけ消耗する。

 これを一日三本から四本かけもちする日もある。

 テワタサナイーヌの疲労は想像を絶するものがあるに違いない。

「代理、水、水」

 うわ言のように水を欲するテワタサナイーヌ。

「はいどうぞ」

 山口は、用意しておいたペットボトルのミネラルウォーターをテワタサナイーヌに差し出した。

 テワタサナイーヌは喉を鳴らしながらボトルの半分くらいまで一気に水を飲み干した。

「あー生き返った!」

 テワタサナイーヌに生気が戻った。

「代理、どうだった今日のキャンペーン?いつもよりいっぱい頑張ったよ私」

 テワタサナイーヌはほめて欲しかった。

 山口は、自分のことを無条件にほめてくれるのを知っている。

 山口には甘えていい。

 自分を肯定してくれる。

 テワタサナイーヌにとって山口はそういう存在だ。

「素晴らしい活躍でした。泣けてきました」

 山口は感じたことを正直に伝えた。

「もっとほめて。私えらい?えらかった?」

「早苗さん、とってもえらかったですよ」

「でへへへへ」

 キャンペーンのあとは、無条件に山口に甘えさせてもらえるので、疲労困憊するが幸せな時間でもあった。

 むしろこの瞬間のためにキャンペーンで走り回っているとも言える。

 

 キャンペーンを終え、テワタサナイーヌと山口が署に戻ると署長が玄関で出迎えてくれた。

 おそらく到着前から玄関にいて待っていたのだろう、頭と長く伸びた眉毛に白く雪が乗っていた。

 テワタサナイーヌが山口に手を引かれて車から降りると署長が近寄ってきた。

「私も現場を見ていました。すばらしい活躍でした。お陰でキャンペーンは大成功です。本当にありがとうございます」

「粗肴ですがお食事を用意しています。着替えが終わったら一緒に出ましょう」

 署長が感謝の言葉と食事の用意があることをテワタサナイーヌに伝えた。

「ありがとうございます。それでは遠慮なくいただきます」

 テワタサナイーヌは、必要以上にへりくだらない。

 更衣室に入り、制服から私服に着替えて出てきたテワタサナイーヌは、警察官からモデルのようなお姉さんに戻っていた。

 トレンチコートを着ていないので、タイトにフィットした縦にリブの入ったオフホワイトのセーターがテワタサナイーヌの筋肉質な身体の丸みを惜しげもなく見せつけている。

 富山港署側のメンバーは、署長、副署長、生活安全課長の綿貫、警務課長。

 それにテワタサナイーヌと山口の6人が2台の車に分乗して署を出発した。

 10分ほどで目指す料理屋に到着した。

 古風な平屋建ての落ち着いた店構えだ。

 警務課長が引戸を引いて店内に顔をのぞかせた。

「予約していた富山港署です」

「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」

 着物を自然に着こなした中居が出迎えた。

 署長一行は、店内の一番奥まった半個室のような席に案内された。

 全員が席につくと温かいお茶とおしぼりが供された。

 テワタサナイーヌ以外は、思い思いにおしぼりで手や顔を拭いている。

(顔は拭くなよー。私なんか拭ける顔が出てないんだからな)

 テワタサナイーヌが少々がっかりしながら山口を見ると、山口はさっと手を拭いただけで、おしぼりを皿の上に戻していた。

(さすが私の代理は違うわ)

 テワタサナイーヌは、誇らしい気分になった。

 間もなく、松花堂弁当と汁物が運ばれてきた。

「いただきましょう」

 署長がスタートの合図を出した。

「いただきます」

 山口とテワタサナイーヌは、両手を合わせて声を出した。

「ものを食べるときは、必ずいただきますをするんですよ」

 テワタサナイーヌは山口から口酸っぱく躾られ、今では自然に声と動作が出るようになった。

「今日は日帰りということで残念です。一泊されるのであれば、夜においしい寿司屋をご紹介したかったのですが」

 署長が刺身を口に運びながら残念がった。

「ホントに残念です。山口が堅物なもので、日帰りが可能だから一泊しちゃダメって言うんですよ」

 テワタサナイーヌがわざと膨れっ面を作って笑いを誘い、場を和ませた。

「いや、わかります。北陸新幹線の開通で私たちの出張もずいぶん変わりました」

 テワタサナイーヌの冗談を綿貫が引き受けた。

「以前であれば、東京出張は一泊と決まっていたんです。それが、北陸新幹線が開通してしまったもので、今では日帰りになってしまったんですよ」

 綿貫が続けた。

 新幹線の開通は、地方の仕事のスタイルまで変える。

 食後の氷菓が出され食事が済んだ。

「せーの、ごちそうさまでした」

 テワタサナイーヌの音頭でテワタサナイーヌと山口が声を揃えて手を合わせた。

「まるで家族ですね」

 署長が目を細めた。

「大事な家族です」

 山口がテワタサナイーヌの頭に手を乗せくしゅくしゅと髪を撫で回した。

 テワタサナイーヌは恥ずかしそうに俯いて身をよじったが、尻尾は上向きで元気に振られていた。

「そうだ、朝逮捕したひったくりの逮捕手続書を作りに行かないと! のんびりしてたら日帰りできなくなっちゃう」

 テワタサナイーヌが思い出したように声をあげた。

「そうでしたね。急ぎましょうか」

 山口が同調した。

「あー、でも私書類作るの遅いから終電に間に合わないかもしれないなー。ねぇねぇ代理、泊まっていかない?」

 テワタサナイーヌが甘ったるい声で山口にしなだれかかった。

「ダメです。今日中に帰りますよ」

 山口はニコニコしながらテワタサナイーヌの鼻先を指でつついた。

「ちぇ、代理と泊まれるチャンスだと思ったのにー」

「テワさん、もし泊まっても別々の部屋ですから、ただのお泊まり会ですよ」

 山口はテワタサナイーヌの鼻先から指を離して、いつものようにゆっくりと言って聞かせた。

「テワタサナイーヌさんは、山口さんのことを好きなんですか?」

 生活安全課長の綿貫がストレートに切り込んだ。

「好きなんてもんじゃないです。愛してます!」

 テワタサナイーヌが大きな声ではっきりとカミングアウトした。

 山口に対する告白でもあった。

 つい勢いで言ってしまったものの、とんでもないことを口走ったことに気づいたテワタサナイーヌは、急に恥ずかしくなり、顔を下に向け赤面した。

「いえ、あの、愛してるっていうか、その、上司として尊敬しているっていう意味でして……」

 懸命に弁解するが、時すでに遅しだ。

「わかっていますよ」

「えっ」

 山口の声にテワタサナイーヌが驚いて顔をあげた。

 そこには、いつもと変わらない穏和な山口の笑顔があった。

「テワさんの気持ちは受け止めました。私の宝物にします」

「これからも、どんどん投げつけてください。しっかり受け取ります」

 てっきり拒絶されるものと覚悟を決めていたのに、その予想が完全に外れて、テワタサナイーヌはどう反応していいのかわからなかった。

 山口は、自分のどんな感情も受け入れてくれる。

 その投げつけた感情に応えることを求めない限り。

 テワタサナイーヌは、それが山口の愛だと理解した。

「ありがとうございます。これからも全力で愛します。覚悟してください」

 テワタサナイーヌが山口に明るく宣戦布告した。

「望むところです」

 山口も不適な笑顔で応戦した。

「なんだか羨ましいですな」

 二人のやりとりを見ていた署長が嬉しそうに言った。

「私たち警察官は、採用のときから、とにかくあらゆることに自制を求められています。恋をすることも然りです」

「テワタサナイーヌさんのように好きな人、それも妻子ある男性に豪速球の直球勝負を挑むことなど考えられないことでした」

「それをいとも簡単に、そして軽やかにやってくださった。なにか積年の霞が晴れたような気がしました」

「テワタサナイーヌさんにしてみれば、叶うことのない恋です。片思いでしょう。叶えてしまったら不倫という我が社では許されない関係になってしまいます」

「そうならずに、とてもいい関係を築いていらっしゃる。本当に羨ましく素敵です」

「なにより素晴らしいのは、お二人がお互いに反対給付を求めていらっしゃらないということです」

 署長がテワタサナイーヌと山口の関係を分析してみせた。

「反対給付を求めないというのは、どういうことですか?」

 テワタサナイーヌが首を傾げた。

「お二人の間には、『あれをしてあげたのに相手が応えてくれない』ですとか『こんなに想っているのになんでわかってくれないのか』というように、自分が相手に何かをしていることに対する相手からの反対給付を求めることがありません」

「つまり『なになにしたのになになにしてくれない』という、何かをしたことに対する見返りを求めることで相手を束縛しようとする、『のにの束縛』がないのです」

「お二人を見ていると、幼い女の子が父親に対し『お父さん大好き』という感情を抱く時期のような関係に見えて実に微笑ましいのです」

「父親は、そんな娘の気持ちに応えることはできません。しかし、その気持を拒否することもなく受け入れます。娘は、父親に受け入れられている、自分が許される存在だということを知って安定した自我が育つのです」

「本当の親子より親子らしい関係です」

 署長は、テワタサナイーヌと山口の関係を本当の親子より親子らしいと表現した。

「お父さん大好き…… か」

 テワタサナイーヌが独り言をつぶやいた。

「私には父の記憶がありません。なので、お父さん大好きという気持ちはわかりません。でも、代理のことを愛しているという気持ちが、お父さん大好きに近いということに気づきました」

 テワタサナイーヌは、山口をまっすぐに見つめて懸命に自分の気持を伝えようとした。

「署長、今日はお招きいただきありがとうございました。また、私たちの関係に深い考察を加えてくださり感謝します。時間が押してまいりましたので、そろそろ失礼させていただきたいと思います」

 山口が署長に謝辞を述べた。

「そうですか。それでは、一旦署に戻り荷物をおまとめになって、気をつけてお帰りください。逮捕手続書の件については、私から中央署に電話を入れておきます」

 署長が山口に右手を差し出しながら心を込めて挨拶をした。

 山口とテワタサナイーヌが順に署長と握手をして別れを惜しんだ。

 富山港署で帰り支度をした二人は、綿貫に送られて中央署に向かった。

 中央署に着いた山口は、テワタサナイーヌが目を丸くする速さで現行犯人逮捕手続書を完成させてしまった。

「現行犯逮捕は、一番簡単なんですよ。事実をそのまま書くだけですからね」

 山口がいとも簡単に言ってのけたが、事実をそのまま書くということがテワタサナイーヌには難しく感じられ、いつも苦労する。

 中央署で逮捕手続書の作成やその他の手続を終え、署を出たのは午後3時すぎであった。

「これなら定時と同じくらいには帰れそうですね」

 中央署の玄関で山口がテワタサナイーヌに右手を差し出して言った。

「そうね。泊まれなくて残念」

 テワタサナイーヌは、冗談めかして言いながら、差し出された山口の手に左手を重ね、山口を見つめた。

 朝から降り続いていた雪がいつの間にか止み、鉛色をした雪雲の隙間から陽の光が差し込んでいた。

 テワタサナイーヌが山口に聞こえないほどの小さな声で囁いた。

 

「お父さん大好き」




 この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

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