全身を獣毛で覆われたテワタサナイーヌにとって厳しい季節の夏が去り、秋、そして冬となった。
テワタサナイーヌは、天渡の名を捨てて初めての年末を迎えた。
名を捨てたといっても、仕事の上で名乗る名前がテワタサナイーヌになったというだけで、本名は相変わらず天渡早苗のままだ。
上司でありプロデューサーでもある山口は、天渡がテワタサナイーヌを名乗る前からテワタサナイーヌのことを「テワさん」と呼んでいる。
だから、テワタサナイーヌとしては、山口が自分のことをテワタサナイーヌとして呼んでいるのか、以前からの天渡として呼んでいるのか判別がつかないでいる。
山口がどちらのつもりで呼んでいるのか、とても気になっているが聞く勇気がない。
山口に呼んで欲しい自分は決まっているのだが、そうでなかったときの落胆が大きいので聞かない。
12月に入り、今年はオレオレ詐欺が増えてきている。
テワタサナイーヌは、その被害防止のため街に出て各署のキャンペーンに出演している。
今日も一日4か所のキャンペーンに出演した。
そのため、テワタサナイーヌは忙しく街なかを動き回った。
犬並みの体力があるとはいっても、やはり一日が終わる頃には疲れが出る。
今日の結果を報告書にまとめ、明日の予定を確認して警視庁を出ると外はすっかり夜の帳(とばり)が下り、小雪がちらついていた。
街には色とりどりのイルミネーションが行き交う人の目を楽しませている。
「そっか、今日はクリスマスイブか」
テワタサナイーヌは、街のイルミネーションでクリスマスイブに気づいた。
彼女の生活はクリスマスとは無縁だ。
一緒に夜を過ごす相手もいない。
テワタサナイーヌも女の子だ。
恋もしたいしお嫁さんに憧れもある。
異性に好意を抱いたことも一度だけある。
だが、自分の外見とDNAが恋に踏み出すことを躊躇させる。
テワタサナイーヌは、警視庁の玄関から続くスロープを下りながら皇居桜田門を見上げた。
かじかむ手に息を吐きかけ、警備の機動隊員に挨拶をして、少し背中を丸めながら足早に地下鉄の駅に潜り込んだ。
植え込みの木に薄っすらと雪が積もり始めていた。
テワタサナイーヌは、都内の女子寮に住んでいる。
寮は個室だ。
29歳で警部補のテワタサナイーヌだ。
独身寮を出てマンションなどを借りて一人住まいをすることを考えてもいいところだが、今のところそのつもりはない。
実務経験が豊富なお姉さんとして、寮に住む若い女性警察官や女性の行政職員から頼られる存在となっている。
相談をもちかけられることも多い。
自分としては、牢名主のような存在になっているのではないかと、少々気になっているところもある。
「ただいまー」
テワタサナイーヌは、重くなった足を引きずるように寮にたどり着くと、部屋のドアを開け誰もいない室内に向かって言った。
肩に袈裟にかけていたショルダーバッグを放り投げるように置くと、テレビの横にある小さな冷蔵庫から缶ビールを取り出してプルタブを引き抜いた。
ビールのアテはビーフジャーキーをかじることが多い。
「代理が飲めないのがいけないのよ」
本当は、山口と飲みに行きたいのだが、山口がまったくの下戸なので誘ってももらえないし、自分からも誘いにくい。
一度だけ所属の飲み会のあと、意を決して二次会に誘ったことがある。
普段、飲み会のあとはいつのまにかいなくなってしまう山口をその日は首尾よく捕まえることができたのだ。
「いいですよ。行きましょうか」
テワタサナイーヌは、断られるかと思っていたが、あっさりと許してくれた。
その日の飲み会は虎ノ門で開かれていた。
「少し歩きましょう。近いお店ですから」
山口はテワタサナイーヌの背に軽く手を添えてエスコートして言った。
下戸の山口がお店を知っていたことにテワタサナイーヌは驚いた。
それより、山口の手が背中に触れたことの方がずっと衝撃だった。
山口に触れられたことが初めてなのは言うまでもないが、他の男性にも背中に触れさせたことはない。
驚きのあまりテワタサナイーヌは、びくっと身体を硬直させた。
「あ、すみません。気に触りましたか」
慌てて山口が手を引いた。
「いえ、そうじゃないんです。嬉しかったんです。ただ、男性からこうしてエスコートされたのが初めてだったので驚いてしまって」
いつもは山口にため口で話すテワタサナイーヌが、珍しく敬語を使った。
テワタサナイーヌは、自分のキャラにない初々しさを見せてしまったことに気づき恥ずかしくなり獣毛に隠れた頬を紅く染めた。
「こういうとき獣顔だとばれなくて便利だわ」
テワタサナイーヌは、自分が赤面しているのを山口に見られずに済んだことを安堵した。
「あのー、代理」
テワタサナイーヌは、いつになくおどおどしながら山口に話しかけた。
「はい、なんですか?」
いつものように山口が答えた。
「手を…… 手をつないでもらっていいですか」
「私、父にも母にも手をつないでもらった記憶がないんです。だから、一度だけでいいんです。手をつないで親子のように歩いてもらえませんか」
テワタサナイーヌの大きな目が潤んでいた。
一次会で酔っていたからではなさそうな真剣な面持ちだった。
親子のように手をつないで欲しいというのは言い訳だった。
嘘ではないが、本当の気持ちは別にあった。
「わかりました。どうぞ」
山口が右手を差し出した。
テワタサナイーヌが山口の右手に短い獣毛で覆われた左手を乗せ握りしめた。
テワタサナイーヌの左手が山口の手に包み込まれる。
「行きましょうか」
山口が促した。
「はい」
テワタサナイーヌが頷いた。
「私たちは、近くの店でもう少し飲んで帰ります」
山口は同僚にそう宣言した。
こそこそ二人で抜け出すようなことはしたくなかった。
いつも親子のようにしている二人を怪しむ同僚はいなかった。
「あ、そうですか。いってらっしゃい。山口係長、飲めないのに珍しいですね」
そう言って見送ってくれた。
地下の店を出て虎ノ門交差点を新橋方向から文部科学省方向へ渡る。
強いビル風がテワタサナイーヌの柔らかな緑の髪と犬耳の毛をなびかせる。
二人は目を細めながら向かい風に逆らうように横断歩道を渡りきった。
横断歩道を渡り終わると、二人の歩く速さがぐっと遅くなった。
この時間を少しでも長く、終わりを遅くするかのように。
文部科学省の前を横切り、財務省と文部科学省の間の坂道をゆっくりと登っていく。
辺りの官庁街は、庁舎の明かりがまだ煌々と灯っている。
だが、この坂道は官庁街の外れにありあまり明るくない。
テワタサナイーヌは、二度とないかもしれないこの瞬間を記憶にとどめようと、一歩一歩踏みしめるように、そして山口と歩幅を合わせるように歩いた。
その間、二人が言葉を交わすことはなかった。
言葉を発することでこの時間を安っぽいものにしたくなかった。
仄暗い坂道を手をつないで登っていく親子ほども歳の離れた二人は、傍から見たら不倫カップルのようだったに違いない。
「ここを左に曲がります」
坂を登りきったところでようやく山口が口を開いた。
そこは警視庁の前から国土交通省の前を通り、溜池交差点を経て六本木に至る広い通りだった。
目の前には首都高速の出入り口があり、道路の真ん中が広い口を開けている。
この坂の頂上を左に曲がると霞が関ビルの裏手に出る。
通りの左側は、ちょうど官庁街が途切れたところだ。
広い通りを少し歩いたところで山口は何の変哲もないオフィスビルのような建物にテワタサナイーヌの手を引いて入っていった。
その頃には、テワタサナイーヌも変な感傷はなくなり、父に連れられているようなウキウキした気分になっていた。
山口は、7段くらいの短い階段を下り、半地下のようなフロアに進んだ。
「飲めないのに行きつけのお店?」
まったく迷うことなく進む山口を見てテワタサナイーヌは不思議に思った。
半地下のようなフロアを少し進むと、木製の重厚なドアが目に入った。
「ガスライト」
テワタサナイーヌは、店の看板を声に出して読んだ。
ビルの外には一切看板もなく、外から見えない場所にひっそりとその店はあった。
隠れ家的な店なのだろう。
「官庁街のすぐ隣にこんな店があるとは知りませんでした」
テワタサナイーヌは目をまん丸にして山口を見つめた。
山口が木製のドアを開け、テワタサナイーヌの背中に手を当てて店内にエスコートした。
「ありがとう」
今度はテワタサナイーヌも緊張することなく山口のエスコートに身を委ねることができた。
店内は、それほど広くない。
カウンター席と二人がけのテーブル席が三つほどあるだけの質素な作りだ。
カウンターの中ではバーテンダーがミキシング・グラスに注いだドライ・ジンとベルモットをバー・スプーンで軽やかにステアしているところだった。
バーテンダーは、バー・スプーンを抜き去るとストレーナーを器用に使ってミキシング・グラスの中身をカクテルグラスに注ぎ込んだ。
ドライマティーニの完成だ。
テワタサナイーヌがその一連の鮮やかな作業に惚れ惚れしていると、山口がそっと背中を押して空いているカウンター席に座らせた。
テワタサナイーヌを座らせると、山口は彼女の左隣に座った。
「いらっしゃいませ。お連れ様には何を差し上げましょう?」
もう一人のバーテンダーが親しげに山口に話しかけた。
「彼女にはグラスホッパーを」
「かしこまりました」
ここまでテワタサナイーヌは、一言も発していない。
「なんで知ってるの?私がグラスホッパーを好きだってこと」
この前の胸の毛がないことといい、今日のカクテルのことといい、山口は自分のことを知りすぎている。
一体この男は自分のことをどこまで知っているのだろう。
もしかしたら自分が覚えていない幼少のころのことも知っているんじゃないか。
テワタサナイーヌはそう思えてきた。
ほどなくしてテワタサナイーヌの前には淡いグリーンのカクテル、グラスホッパーがバーテンダーの軽やかな手つきで供された。
山口は、自分で何も注文をしていない。
バーテンダーも注文を訊いていない。
「えっと、代理は?」
テワタサナイーヌは山口に問いかけた。
それと時を同じくしてバーテンダーが山口の前に一杯のカクテルを差し出した。
「プッシー・キャット、お待たせいたしました」
「ありがとう」
バーテンダーと山口は、当たり前のように会話をしている。
「注文もしないのにカクテルが出てくるなんてすごい! 代理ってば常連さんだったんですか!?」
テワタサナイーヌは狭い店内に響き渡りそうな嬌声を上げた。
「しーっ」
山口がテワタサナイーヌの唇に人差し指を当てて制した。
「あ、ごめん。ちょっと興奮しちゃった。本当に常連さんなの?それとも私を連れてこようと思ってあらかじめ仕込んでおいたとか?」
テワタサナイーヌが唇に当てられた山口の人差し指を右手に包み込み小首をかしげて質問した。
「この店は、そうですね、もうかれこれ30年くらい通っています」
「代理は飲めないんじゃないの?」
「はい。飲めないのはそのとおりですが、誰かと落ち着いて静かに話をしたいときや一人で考え事をしたいときに使わせてもらっています」
「そうなんだー」
「で、そのなんとなく性的な匂いのするカクテルは何もの?」
テワタサナイーヌが意地悪な表情で山口に詰め寄った。
「ノンアルコールのカクテルです。オレンジジュース、パイナップルジュース、グレープフルーツジュース、それとグレナデンシロップをシェークして作ります。シェーカーがなければステアでも作れますから、家でも飲めますよ」
山口は、テワタサナイーヌの質問の趣旨には答えず、作り方を答えることでお茶を濁した。
「あ、それから、なんで私が好きなカクテルを知ってるの? さっき、私に訊きもしないで注文したよね」
思い出したようにテワタサナイーヌが畳み掛ける。
「テワさん」
「なに?」
「テワさんは、ひまわり好きですか?」
山口がテワタサナイーヌに質問をした。
「うん、好き。大好き。たぶん一番好きな花だと思う。太陽に向かって真っすぐ伸びようとして、なんかすっごく一所懸命な感じがして好き。でも、一所懸命なんだけど、なぜかちょっと寂しく感じるときもあるの」
「やっぱりお好きなんですね」
山口はひとりで納得したように頷いている。
「ていうか、私の質問は無視なわけ!?」
テワタサナイーヌは忘れていなかった。
山口がバーテンダーにちらっと目配せをした。
「お代わり、いかがですか」
バーテンダーがテワタサナイーヌに声をかけた。
いつの間にかテワタサナイーヌのグラスは空になっていた。
「次はスクリュードライバーでいいですか?」
山口がテワタサナイーヌに確認した。
いいも悪いもない、それがいつものテワタサナイーヌの順番だった。
「うん、いい」
テワタサナイーヌは、山口の口から本当の理由を聞くことを諦めた。
驚いたり気持ち悪かったりすることはあるが、山口に任せようと思った。
きっと山口は間違わない。
自分のことを自分以上に知っているに違いない。
テワタサナイーヌにとって山口はプロデューサーというより創造主だった。
山口がなんでも知っているのではなく、山口が自分のすべてを作り出しているのだ。
そう思えてきた。
テワタサナイーヌと山口は、カウンター席で2時間ほど語り合った。
仕事のこと、最近観た映画のこと、Twitterのことなど、他愛もない話ばかりではあったが、テワタサナイーヌにとっては何ものにも代えがたい時間となった。
ただ、山口はある程度の時期より前の経歴に話が及ぶと、急に口を濁した。
山口は、警部になってからの経歴はよく話に乗ってくれた。
しかし、それ以前の経歴に触れられるのを避けたがっている様子であった。
テワタサナイーヌに警部補以前の山口と仕事での接点はない。
なので、自分に関わることで何か言いたくないことがあるわけではないだろう。
テワタサナイーヌは、そう考えて深く追及しなかった。
「チェックを」
山口はバーテンダーに財布の中からカードを取り出して渡した。
二人分の精算が済むと、山口はまたテワタサナイーヌをエスコートして店を出た。
半地下のようなフロアを抜けて外に出ると、夜風が気持ちよく二人の頬を撫でた。
山口に勧められるまま、スクリュードライバーを数杯飲んだテワタサナイーヌは、かなり酔っていた。
ウォッカベースのスクリュードライバーは、別名「レディ・キラー」と呼ばれている。
口当たりは良いが、アルコール度数が高めなので、飲みすぎると足腰に来る。
「歩けますか?」
山口がテワタサナイーヌに訊ねた。
「だーめー、支えて」
テワタサナイーヌは、本当は歩けるのに酔ったふりをして山口の右腕に掴まった。
山口と腕を組んで歩く格好になった。
山口は、ちょっと困った表情をしたが、そのままテワタサナイーヌの体重と体温を感じながら六本木通りの歩道を溜池交差点に向かって歩き出した。
溜池交差点でタクシーを停めた山口は、後部座席にテワタサナイーヌを座らせた。
「この人は普通の人ですか?危なくないんですか?」
テワタサナイーヌの顔を見たタクシーのドライバーは、ぎょっとした表情を隠そうともせず山口に確認した。
「あはは、見た目は犬みたいですけど、おとなしい酔っぱらいです。噛み付いたりはしませんから安心してください」
「釣り銭は、レシートと一緒にこのお嬢さんに渡してください」
山口はそう説明すると、運転手にテワタサナイーヌの独身寮の所在地を簡潔に伝えて一万円札を手渡した。
テワタサナイーヌは、ビーフジャーキーをかじりながら、山口との初デートを思い出していた。
いや、テワタサナイーヌにとってはデートだったが、山口にしてみれば単なる部下と飲みに行っただけだったのかもしれない。
「なにニヤニヤしてるんすか」
不意に後ろから声がした。
いつの間にか同じ寮に住む後輩が部屋に入ってきていた。
「うっさいわね。ニヤニヤなんてしてないっつーの! 」
「あー、そうですかー。どうせまた山口係長のことを思い出してたんじゃないすか」
図星だった。
「しっし」
テワタサナイーヌは後輩を部屋の外に追いやった。
そのとき、テワタサナイーヌのスマートフォンから「ぽぽいのぽい」という曲が流れた。
山口からの着信だった。
ぽぽいのぽいは、山口が作曲しテワタサナイーヌが詞をつけた歌だ。
山口からの着信だけこの曲に設定しているため、山口からの着信はすぐにわかる。
「はい天渡です」
テワタサナイーヌはスマートフォンを取り上げて応答した。
普段の電話応答より声のトーンが高くなっている。
「テワさんですか。遅くにすみません。帰りにお伝えし忘れていたことがありましたので電話しました」
「え、なに? デートのお誘い?」
テワタサナイーヌはとぼけた。
「そうですね、デートではありませんが、それに近いようなお話になるかもしれません」
「なにそれ!?」
「出張の話が来ています。詳しくは明日お話をしますので、とりあえず心づもりだけしておいてください」
山口は事務的に話すと電話を切った。
「出張? 私が?」
「でも、ちょっと待ってよ。代理は、デートではないけどそれに近いような話だって言ってたよね」
「ていうことは、代理と二人で出張?」
「よしっ!!」
テワタサナイーヌは右拳を握りしめ、ガッツポーズをとった。
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。