「もー勘弁して」
テワタサナイーヌこと天渡早苗は、白い薄手のブラウスの広く開けた胸元を左手でつまみ上げ、右手に持ったテワタサナイーヌうちわで風を送り込んでいる。
ブラウスが風を孕んで身体との隙間を広げ、中の健康的な丸みを覗かせている。
今年の夏はひどく暑い。
全身を獣毛で覆われているテワタサナイーヌは暑いのが苦手だ。
熱がこもる。
テワタサナイーヌが所属する犯罪抑止対策本部は、元々倉庫だったところで空調が考慮されていない。
夏暑く冬寒いという過酷な職場だ。
おまけに犯罪抑止対策本部は、警視庁でも一二を争う人口密度を誇る。
涼しさの要素は何一つない。
テワタサナイーヌは、ちょっと油断をすると血色のいい柔らかな舌がてろんと出てしまう。
犬であることを受け入れてからというもの、犬化が進んでいることに自分でも気づいている。
「えっと、テワさん」
山口がテワタサナイーヌに話しかけた。
「なに?」
テワタサナイーヌは、山口に対してすっかりため口になってしまった。
いつかがつんと言ってやらないといけないと思っている山口だったが、テワタサナイーヌが娘のようにかわいくて、つい甘やかしてしまう。
「暑いのは分かります。だからって、それはどうなんでしょう」
「胸元が見えすぎだと思うんです。目のやり場に困ります」
「えー、どうせ毛が生えてて素肌が見えるわけじゃないんだからいいでしょ」
「それに、目のやり場に困るとか言いながら、チラッチラ見てますよねー」
「いや、その、動くものが視界に入るから気になって見てしまうだけです」
山口は必要以上に吹き出す汗をぬぐった。
「ギシッ」
テワタサナイーヌの鼻骨が軋んだ。
鼻骨を軋ませながらテワタサナイーヌのマズルが少しだけ伸びた。
「嘘はいけません」
テワタサナイーヌは、わざと犬の顔を作って山口を睨み付けた。
以前、激しい怒りのせいで顔面が完全に犬化する第二形態を経験して以来、テワタサナイーヌは少しだけなら自分の意志で顔を変形させることができるようになった。
ただ、顔の形態変化には激痛を伴うので、あまりやらないようにしている。
「すみません、少し見ました」
山口は白状した。
「テワさん、さっき毛が生えてると言いましたけど、そこは毛が生えてないところです。やはり隠しましょう」
「なんで私の毛が生えてないとこ知ってんのよ! やらしー、セクハラよー」
テワタサナイーヌは面白がって山口をからかった。
山口には無防備な姿を見せてもまったく気にならなかったからだ。
その後テワタサナイーヌは、鼻を元に戻す作業に入った。
相変わらず顔の形態変化には激痛が伴う。
テワタサナイーヌは、泣きながらその激痛に耐えなければならない。
テワタサナイーヌが汗ばむ胸元に風を送り込んでいるうちわは、彼女のファンがこの夏のコミックマーケットで頒布してくれたものだ。
コミックマーケットは、夏と冬の年二回開催される国内最大の同人誌販売会だ。
来るものを拒まずの精神で運営されているイベントなので、同人誌以外の多彩なジャンルも集う。
テワタサナイーヌは、始発のりんかい線に乗り開場を待つ長い列に並び、開場とともに目指すサークルへ一直線に駆けつけた。
犬のDNAを持ち犬の血が流れる彼女の身体能力は驚異的に高い。
並の男性ではまったく勝負にならない。
目指すサークル一番乗りは楽勝だった。
テワタサナイーヌは、自分がプリントされたうちわを手に入れてご満悦だ。
そろそろ自分の薄い本が出るのではないかと楽しみにしているのだが、その気配はない。
やはり警察のキャラクターで薄い本を出すのは二の足を踏むのだろうか。
「先生怒りませんよ」
テワタサナイーヌは独り言で冗談をつぶやいた。
その後は、あらかじめ目当てのサークルにマーカーで印をつけておいたサークル配置図を見ながら、欲しい作品を買い回る。
サークルと購入者双方の負担を軽くするため、なるべく釣り銭のいらないように支払いをするのが暗黙の了解事項となっている。
テワタサナイーヌも前日までに銀行の両替で大量の五百円硬貨を用意した。
五百円硬貨を詰め込んだ財布はずっしりと重い。
買い物を進めていくうちに財布が軽くなる代わりに薄い本を入れたトートバッグが重くなり、テワタサナイーヌの筋肉質ではあるが柔らかい肩に食い込むようになる。
夏場のコミックマーケットの暑さは半端なものではない。
見た目を気にしてなどいられない。
テワタサナイーヌは先ほど購入したテワタサナイーヌうちわで扇ぎながら、柔らかな舌をてろんと出して口呼吸で体温調整を図る。
彼女は、外見が普通ではないので、とにかく目立つ。
この日だけで何回写真撮影を求められたか分からない。
まだテワタサナイーヌの認知は広がっていない。
ただの面妖な生き物として珍しがったり、よくできた着ぐるみと思った人も少なくない。
ときおり「テワちゃんだ」と声をかけてくれる人もいる。
テワタサナイーヌを知る人からはサインを求められることもある。
テワタサナイーヌのサインは簡単だ。
メールアドレスなどに使われる「@」の中の「a」のところをひらがなの「て」に替えるだけだ。
「て」の最後の払いをぐるっと左回りにひと回りさせればできあがる。
テワタサナイーヌは、これを「アッテマーク」と呼んでいる。
テワタサナイーヌは、自分の風貌を面白がられることに抵抗がなくなっていた。
それどころか心地よさすら感じる。
自分の中の何かが目覚めた自覚がある。
なので、写真撮影の求めにも快く応じる。
求められるポーズを取ることにも慣れてきた。
もちろん、仕事も忘れない。
「警視庁のテワタサナイーヌです」
「知らない人にお金をテワタサナイーヌ!」
必ず口上を伝えてオレオレ詐欺被害防止の啓発をする。
そのために自分がいるのだから。
マスコットキャラクターは、存在自体がメッセージだ。
テワタサナイーヌは、そう山口から教えられた。
だから、何か特別なことをしなくてもいい。
「特殊詐欺被害防止のキャラクターなんだから、そういったイベントごとに顔を出すのはいい。だが、本来の趣旨が違うイベントに出演するのは目的外だからダメだ」
そう言う人もいる。
だが、その名前や顔を知ってもらうだけで、かなりの部分の目的は達成できている。
山口は、そういう方針でテワタサナイーヌをプロデュースしている。
コミックマーケットに参加することをためらっていたテワタサナイーヌに参加を勧めたのも山口だ。
「たくさんの人に見てもらってきてください」
そう言って送り出してくれた。
「コミックマーケット行ってきたよ。たくさんの人とご挨拶できてよかったー」
「でも、ちょっと残念なことがあったんですよ。コミックマーケットでは、ときどき偽造貨幣が使われたり、売り子さんを騙して薄い本を持っていってしまう人がいるんだって」
「参加者がお互いに信用しているから成り立つイベントなのに、ひどいことをする人がいるもんですよね。私、マズルが伸びちゃうかと思った」
コミックマーケット後、犯抑で山口と顔を合わせたテワタサナイーヌは、腹立たしげに山口に訴えた。
「信用していて裏切られると悲しいですよね」
山口はテワタサナイーヌに同調して答えた。
「やっぱりあれなのかな。親しい人でもまるっと信じちゃいけないのかな」
少し寂しげにテワタサナイーヌが俯いた。
「テワさん」
「なに?」
二人の会話は、いつもこのパターンから始まる。
「人はなんで他人を信じるんでしょう」
山口がテワタサナイーヌに問いかけた。
「また禅問答? うーん、なんでだろう」
当たり前に分かっているつもりのことでも、改まって訊かれると説明できないことは意外と多いことに気づく。
「世の中に悪い人はいないと思ってるから?」
テワタサナイーヌは性善説にもとづくという仮説を立てた。
「そうですね。実際、世の中にはそんなにたくさん悪い人はいません」
「でも、毎日のように犯罪のニュースが流れています。世の中に悪い人がいるということもみんな知っています」
「それでも多くの人は基本的に他人を信じます」
「言われてみればそうね」
テワタサナイーヌは思考が振り出しに戻ってしまった。
「人が他人を信じるのは、生きるためです」
「生きるため?」
テワタサナイーヌは訝しげに聞き返した。
「はい。人は他人を信じる生き物なんです」
「私は半分犬だけど、やっぱり人を信じるよ」
「いやいやいや、犬は人間と共生する道を選んだ動物だから人を信じるのは当然でしょう」
珍しく山口がテワタサナイーヌをからかった。
テワタサナイーヌは、ぷーっと頬を膨らませて不満げな顔を山口に向けた。
しかし、尻尾が勝手にパタパタと動いてしまう。
テワタサナイーヌの感情は尻尾に表れる。
「他人を信じられないと他人に対して常に警戒態勢を維持しなければなりません」
「それは、社会を形成するヒトという生き物として、とても生きにくい状況です」
「だから人は他人を信じるようにできているんです」
「それ知ってる! 杞憂っていうんでしょ!?」
テワタサナイーヌが元々大きな目を更に大きく輝かせて得意げに口を挟んだ。
「よくご存知ですね。杞憂は、心配してもどうしようもないことを心配するあまり身動きが取れなくなるとか、取り越し苦労というような意味ですから、人を信じられないということとはちょっと意味が違うかもしれません」
「でも、あらゆることを心配しすぎて疲れてしまうのと、人を信じられずに生きにくくなってしまうのは、どちらも結果としては似ていますね」
「いずれにしても、ヒトが野生動物としてではなく社会性を持つ人間として生きるためには、他人を信じる必要があったんです」
「ですから、人は生きるために他人を信じ、それ故、他人から騙されてしまうという悲しい性を持っています」
「そういう心のメカニズムを持っているので、人は基本的に騙されやすいです。騙された人に対して注意が散漫だったとかバカだとか言って非難してみても、なにも解決しません」
山口はテワタサナイーヌが淹れてくれた紅茶を飲みながら、いつものようにゆっくりと話した。
相変わらず紅茶の銘柄はわからない。
テワタサナイーヌは、山口が紅茶の味の違いがわからないことを知っている。
それでも、そこそこいい茶葉を用意している。
山口に対する心遣いだ。
もちろんお茶代は山口に請求する。
「ちょっと待ってください」
山口はテワタサナイーヌに言うと、役所のデスクには似つかわしくないモニターアームで支持された24インチのモニタに目を移し、手元のキーボードから軽快なブラインドタッチでなにごとか入力する。
モニタにはTwitterの画面が映されている。
(テワタサナイーヌに淹れてもらった紅茶をおいしくいただいております……)(款)
そこには犯抑のタイムラインが表示され、山口がエンターキーを叩くとタイムラインにツイートがひとつ追加された。
山口は警視庁で最初にTwitterの公式アカウントを開設した人物だ。
犯罪発生情報や防犯情報に山口の個人的な発言を織り交ぜるスタイルが人気を博し、警察アカウントの中では群を抜く14万フォロワーを擁する巨大アカウントとなっている。
山口が先鞭をつけ、それに続くようにして警視庁では、広報課、災害対策課、採用センター、刑事部公開捜査の4アカウントが開設された。
他道府県警察からアカウントの運用ノウハウなどの問い合わせや視察が後を絶たない状況になっている。
山口の運用スタイルに倣った警察アカウントも誕生し始めた。
大阪府警、神奈川県警、熊本県警、愛知県警、福島県警、宮城県警などが担当者やマスコットキャラクターの発言としてツイートするスタイルを採用している。
山口は、ピンクレディーという女性デュオのヒット曲「ペッパー警部」をもじり「Twitter警部」と呼ばている。
これは、本人も気に入っているようで、ときおり自称している。
「ねえ代理」
テワタサナイーヌは、モニタをみつめる山口と頬が触れるのではないかというくらいの近さに顔を寄せモニタを覗き込んだ。
テワタサナイーヌの身体からは、ほのかに獣の匂いが漂う。
「なんですか?」
これくらいの近さに寄られることには、すっかり慣れてしまった山口は当たり前のように答えた。
山口は犯抑では係長だが、テワタサナイーヌは、山口を代理と呼ぶ。
これは、前任署である葛飾警察署で初めて一緒に勤務したとき、山口が生活安全課長代理だったことに由来する。
初めて一緒に勤務したときの印象が強烈だと、その後、その人が昇任や異動で肩書が変わっても、その当時のまま呼びたくなることがある。
テワタサナイーヌは、それを素直に口にして、まったく直そうという気もない。
「代理のツイートには、必ず最後に(款)ていう字がついてるけど、あれは何?」
山口のツイートをいつも見ているテワタサナイーヌは、いつか訊こうと思っていたことを質問した。
「あれはですね、私の署名です。つまり誰の発言なのかをわかるようにしているんです」
「なるほど。で、款って何か意味があるの?」
「役所の予算項目を知ってますか?」
「全然わかんない。会計は一度も関わったことがないから」
テワタサナイーヌは唇を尖らせながら首を左右に振った。
「そうですよね。警察官は会計に関わらない人がほとんどですから、無理もありません」
「款項目節というのは、会計でその用途などに応じて分類するときに使われていたものです」
「款が一番大きなくくりで、それに続いて項、目と細かくなっていき、節が一番細かい、つまり具体的な項目になります。その款です」
山口が署名に使っている文字の意味を説明した。
「会計はわからないなあ。なんで代理は会計のことなんて知ってるの?」
「実は私、東京都に派遣になっていたことがあるんです。そこでは、都の職員として仕事をしていましたから、入札や契約から始まって、最終的に予算を執行する支出命令を切るまで、一通りやらせてもらっていました」
「へー、なんかすごい」
テワタサナイーヌは、尊敬の眼差しで山口を見つめる。
ほとんど自分の頬にテワタサナイーヌの唇が触れんばかりの距離からエメラルドグリーンの瞳で見つめられると、さすがに慣れている山口でも鼓動が早くなる。
「会計に携わってよかったと思うことは、会計をよく知らない警察官は、年度途中で何かやりたい事業ができても、予算組みがされていないと言われるとそれで諦めてしまうんですが、実は予算を使えるようにする方法がいくつかあって、やりたいことを実現することが可能だということがわかったんです」
「へー、へー、へー、そんな抜け道があるんですね」
「いや、抜け道じゃないです。正式に認められている予算の執行です。だから、会計についても知らないより知っていたほうが仕事の幅が広がります」
テワタサナイーヌは、山口が次々に新しい企画を形にしていく姿を見て、その企画は全部前年から予算要求として上げていたのだろうかと不思議に思うことがあった。
そのからくりが今明らかになった。
「制度や手続きに縛られるのではなく、それをうまく利用するほうが仕事が楽しくなりますよ」
テワタサナイーヌの考えていることを察したように山口が付け足した。
「うん、わかった」
テワタサナイーヌは、娘が父親にするように大きく頷いて山口をまっすぐ見つめた。
窓の外では、アブラゼミやミンミンゼミからツクツクボウシの鳴き声に変わりつつあった。
テワタサナイーヌにとって厳しい季節は、もうしばらく続きそうだ。
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。