「やはり来ましたか」
犯罪抑止対策本部の副本部長室で山口は苦笑した。
B国大統領主催の答礼晩餐会で
「B国政府から、テワさんをSSのエージェントとして招へいしたいとの意向が寄せられました。また、その際、娘さんの日向さんにもご同行願いたいということでした」
副本部長の坂田警視長からB国政府の意向を伝達されたからだ。
もともとはテワタサナイーヌの能力に目を付けていた大統領とシークレット・サービスだったが、娘にも母をしのぐ能力があると知り、日向にも関心を示した。
「かなり重い案件ですので、早苗と大輔二人の意向を確認させてください」
山口は、坂田に返答して部屋を出た。
「大輔さん」
育児休業中で空席になっているテワタサナイーヌの席の後ろにいる大輔を呼んだ。
「はい、なんでしょう」
大輔が後ろを振り返った。
「ちょっと喫茶室に付き合ってもらっていいですか」
「あ、はい」
大輔が戸惑いを見せた。
(父さんが喫茶室に誘うっていうことは、ここでは話しにくいことだろう)
大輔は、用件を想像した。
(うん。わかんない)
思い当たらなかった。
山口は、大輔を連れて喫茶室に入り、皇居と国会議事堂を見渡す窓際の席に着いた。
「いつ来てもこの景色は見事ですね。四季折々の美しさがあります」
山口が窓の外を眺めながら言った。
窓の外は、午後の傾き始めた陽射しを受けて、木々や建物が長めの影を落としていた。
「B国永住。しますか?」
紅茶をすすった山口は、カップを置いて単刀直入に切り出した。
「へ?」
大輔は、声が裏返った。
まったく事情が理解できていなかった。
「すいません。なんのことか全然わかりません」
大輔の眉が八の字になっている。
「先日、迎賓館で日向が驚異的な能力をB国に見せつけました。早苗さんも警察犬並の仕事を何度もやってのけた実績があります」
「はい、自分の妻と娘ですけど、毎度驚かされてます」
「その能力をB国が見逃すと思いますか」
「オファーがあったんですね」
大輔は、用件を理解した。
山口は、紅茶を一口飲んだ。
「SSのエージェントとして招へいしたいそうです。招へいですから期間を切った派遣とは違います。おそらくSSに身分を移し、永住することを前提としています」
山口にしては珍しく相手の目を見ず、手元のカップを見つめながら話している。
「すごい話が来たんですね」
大輔も窓の外を見たまま返事をした。
長い沈黙が続いた。
窓の外の景色は、徐々に影が長くなっていく。
二人とも次の一言を切り出せずにいた。
「俺は……」
大輔が口を開いた。
「俺は、テワさんの気持ちを尊重します」
「早苗さんがB国に行くと言ったら着いていくということですか」
山口が大輔の考えを確認した。
「いえ、俺は日本に残ります。俺は、警視庁の警察官を全うします」
大輔が重い決断を口にした。
「離婚…… ですか……」
山口が恐る恐る訊いた。
「そうなるかもしれません。俺は、テワさんを愛してます。でも、俺は、警視庁の警察官です。日本が好きです。日本を守ります。B国には行きません。もし、テワさんがB国に行ったとしても、俺の気持ちは変わりません。離婚するか結婚を続けるかは、テワさんの気持ち次第です。テワさんの気持ちを尊重するというのは、そういう意味です」
大輔が山口の目を真っ直ぐ見つめて、一言ずつ言葉を選びながら答えた。
山口は、大輔がここまではっきりと自分の気持ちを表に出したのを今まで見たことがなかった。
「そうですか。よくわかりました。真っ直ぐな気持ちを聞けてよかったです。では、帰ったら早苗さんの意向を聞きましょう」
山口が席を立った。
大輔がそれに続いた。
「早苗さん、ちょっと大事な話があります」
帰宅後、山口は2階に上がり、テワタサナイーヌを呼び止めた。
「え、なーに? 大事な話?」
テワタサナイーヌが小首を傾げた。
いつもならテワタサナイーヌが小首を傾げると大騒ぎして喜ぶ大輔が今日は静かだった。
(あれっ、なんか今日は変だな)
テワタサナイーヌがいつもと違う空気を感じ取った。
「座っていいですか」
山口がテーブルを指した。
「うん。大輔くん、ちょっと日向をお願い」
テワタサナイーヌが日向を大輔に預けた。
「あー」
母親から引き離された日向は、一瞬不満そうな顔をして声を上げた。
「お母さんは、大事な話があるから、ちょっとばーばのところに行こうか」
大輔は、日向を抱いて階段を下りて行った。
「この前、迎賓館で日向がとんでもない力を発揮しました」
山口が話の導入を切り出した。
「うん。そうだったね。あれは見事だった」
テワタサナイーヌがニコニコして答えた。
「その力をB国が欲しいと言ってきました」
「えっ、どういうこと?」
テワタサナイーヌが大きな目をより大きく見開いた。
「早苗さんと日向さんをB国に招きたいと。特に早苗さんをSSのエージェントとして招へいしたいという意向です」
「すごーい! かっこいい!」
テワタサナイーヌが手を叩いて喜んだ。
「ただ、期間限定の派遣ではありません。おそらくB国に永住することになると思います」
「あら、そうなんだ。身分換えってことね」
「そうです」
「ふーん。B国に永住か…… なんかかっこいいね」
テワタサナイーヌがまんざらでもないという顔をした。
「すぐに答えを出さなくてもいいです。大輔さんと相談してください。大輔さんには、今日の午後に伝えてあります」
「あ、大輔くんはもう知ってるのね」
「はい」
テワタサナイーヌは、腕組みをして考えた。
考えながら頭を左右に振った。
大きなエメラルドグリーンの目は、真剣そのものだった。
「行かない」
テワタサナイーヌが一言だけ、しかし、はっきりとした意思を感じさせる声で結論を出した。
「私は、本当は死んでいたはずの命。それをお父さんに助け上げてもらいました。そのあとも、国や自治体の社会保障制度に助けられて今日まで生き長らえています。たくさんの方の善意で生かされた命です。まだその恩返しができていません。私は、都民の方々、国民の方々に恩返しがしたい。だからB国には行きません」
テワタサナイーヌは、山口の目を見て、力強く決意の理由を開陳した。
その目は自信に満ち、一切の迷いが感じられなかった。
「わかりました。早苗さんの気持ち、しっかり受け止めました。その旨、回答しますが、いいですか?」
「うん。お願い」
テワタサナイーヌは、笑顔に戻っていた。
「本当はね。私、英語できないから」
テワタサナイーヌが肩をすくめて舌を出した。
「大変光栄なお話ですが、今回はご遠慮申し上げます」
山口がテワタサナイーヌと大輔二人の答えを坂田に伝えた。
「そうですか。いや、ほっとしました。テワさんにB国に行かれると、警視庁にとって大きな損失ですからね」
坂田がほっとしたような顔をした。
「結論はわかりました。B国に行かない理由をお聞かせいただけますか」
「はい。早苗は、オレオレ詐欺被害を根絶するためにテワタサナイーヌになりました。それがまだ道半ばです。しかも、B国では、オレオレ詐欺の被害がほとんどないということです。その状況では、テワタサナイーヌの存在意義がないので、今回はお断りするということです」
山口が、取って付けたような理由を説明した。
「わかりました。そのように先方に伝えてもらいます」
「ありがとうございます。よろしくお願いいたします」
山口が頭を下げた。
こうしてテワタサナイーヌの海外移住はなくなった。
「内向きと言われようが、私は大輔くんが好き、日向が好き、お父さんが好き、お母さんが好き。そんな人たちが住んでる日本が好き。だから日本を守るのよ」
テワタサナイーヌが日向を抱き上げ、晴れ晴れとした表情で言った。
「しゅき」
日向が尻尾を振って喜んだ。
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。