当たり前の後ろ ~テワタサナイーヌ物語~   作:吉川すずめ

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テワタサナイーヌ誕生

 山口が警視庁本部に異動となり、天渡は物足りない日々を送っていた。

 山口と一緒にいる安心感は、天渡にとって特別なものだった。

 しかし、仕事の手は抜かない。

 山口に教えられたクリティカルに考えるということを実践して、目覚ましい業績をあげた。

 その活躍が人事の目に留まったのか、天渡に異動の辞令が出た。

「犯罪抑止対策本部勤務を命ずる」

 警視総監名の辞令にはそう書かれていた。

 天渡は一瞬自分の目を疑ったが見間違いではなかった。

 犯罪抑止対策本部には山口がいる。

 また山口と仕事ができる。

 まるで恋人との再会のような胸の高鳴りを覚えた。

 

「天渡さん?」

 坂田の呼び掛けで天渡は我に戻った。

 坂田にソファを勧められ、腰を下ろしたところで山口のことを思い出し、しばし意識が飛んでいたようだ。

「あ、はい、すみません」

 天渡は慌てて姿勢を正して坂田にまっすぐ向き直った。

「天渡さんには、いま山口係長が進めている広報活動に加わってもらいます」

 山口の階級は警部。

 警察署では課長代理だが警視庁本部では係長となる。

 坂田が山口係長と言ったのはそのようなわけからだ。

「山口係長とは葛飾警察署でも一緒に仕事をしていました。あの頃から普通じゃないことをする人でしたが、犯抑でも変なことをしているんですか?」

 天渡の本領発揮である。

 天渡は、誰とでも臆することなく話をすることができる。

「そうですね。変なことといえばその通りかもしれません」

 坂田は苦笑しながら肯定した。

「山口係長は、いま警視庁で、いや、全国の警察でも過去に誰もやったことがない、まったく新しい道を切り開いています」

「天渡さんもご存知だと思いますが、役所というのは前例のないことにはものすごい抵抗を示します」

「山口係長もご多分に漏れず、新しいことを拒絶するクラスタからの強烈な逆風に曝されています」

「天渡さんには、たったひとりで逆風に耐えている山口係長の相棒となって欲しいのです」

 坂田の説明は、抽象的でわかったようなわからないような、モヤモヤした気持ちになる。

 山口が何か新しいことをやっているらしく、それが内部の抵抗に合っていることはわかった。

 しかし、山口が一体なにをやっているのかさっぱり分からない。

「状況は理解しました。それで、山口係長は何をやっているんですか?」

 天渡はストレートに訊いた。

「天渡さんはTwitterをご存知ですか?」

「はい。存じ上げています」

「山口係長は、警視庁で初めてTwitterのアカウントを開設しました」

「へー」

 天渡は、感心のあまり気の抜けた変な声が出てしまった。

「そして、役所の広報の掟を破り、個人の発言を織り混ぜるという大胆な試みをしています」

「警視庁の公式アカウントですよね? そんなことをしていいんですか?」

 天渡は少し怖じ気づいた。

 警察学校から一貫して「勝手なことをしゃべるな」と教育されてきた。

 警視庁の公式アカウントで個人的なことをつぶやくなんて危険すぎる。

「それは危ないんじゃないですか?」

 天渡は感じたままを坂田に向けた。

 坂田は小さく頷くと説明を続けた。

「まったくその通りです。今までの我々が思っていた常識からすれば、組織のアカウントで個人が発言するなどあり得ないことでした」

「しかし、山口係長は、我々の常識が通用しない社会になりつつあることを肌で感じ取っていました」

「どういうことですか?」

「ソーシャルメディアが個人と大きな組織の関係に変革をもたらしたんです」

「今までは、組織の発言は広報担当がリリースを練りに練って、一分の隙もない、言い換えれば突っ込みを許さない内容、表現で発表していました」

「しかも、それは『誰』の発言でもない、主体のない無機質なものでした」

「ソーシャルメディアは、個人をエンパワメントしました」

「あ、あの、すみません。エンパワメントってなんですか? 難しくてわかりません」

 天渡は混乱した。

「エンパワメントというのは、簡単に言うと自らの力を自覚して行動できるようになることです」

「余計にわかりません」

 天渡はむっとした表情で坂田を睨んだ。

(ちっとも簡単になってない。これだからキャリアは困るのよね)

 天渡は自分の勉強不足を棚にあげた。

「ソーシャルメディアが発達する前は、マスコミが情報の発信者であり個人はその受け手でしかありませんでした」

「そのような社会で個人が発言したとしても、マスコミが発信する情報の波の中ではまったく無力でした」

「ところがソーシャルメディアの発達により、個人の発言でもクチコミによる拡散が行われるようになりました」

「しかも、それは爆発的な速さで拡散され、マスコミの情報量や速さを凌ぐほどになっています」

「こうなると個人はマスコミが発信する一方通行の情報やCMなどの押し付けられた情報を信用しなくなります」

「そこで重視されるのは共感です」

「どこの組織が発信しているのかではなく、誰が発信しているのかが重要視されるようになりました」

「それをいち早く感じ取ったのが山口係長です」

 坂田は一言ずつゆっくりと説明した。

(ようやく代理にたどりついた)

 天渡は少々疲れた。

 坂田は続けた。

「まださきほどの疑問、個人の発言を許すのは危険じゃないかという問いに答えていませんでしたね」

「山口係長が個人のつぶやきを入れ始めたとき、私たちはその発言について明確なルールをもっていませんでした」

「そんな中で個人の発言を問題視する意見が出されたとき、これでいいんだと反論することができなかったのです」

「それで、一旦山口係長には個人の発言を止めてもらったことがあります」

「そうしたらどうなったと思います?」

 坂田は風貌に似つかわしくない茶目っ気のある表情で天渡に問いかけてきた。

「まったく見当がつきません」

 天渡は正直に白旗をあげた。

「やめないでってものすごい数のメッセージが寄せられたんですよ」

「我々警察の仕事で、都民国民からやめろと言われることはあっても、やめないでと言われることなんてまずありません」

「ところが、山口係長のつぶやきには、そういう意見がどっと押し寄せたんです。これには正直驚きました」

「そのとき私は思ったんです。これは公式アカウントではあるけれども山口係長のメディアだなと」

「ソーシャルメディアの運用は、これでいいんだと直感的に感じました」

「私は山口係長に個人の発言を許容するようにポリシーの改正案を急いで作成するように命じました」

「そしてできあがったのが現在公開しているポリシーというわけです」

 坂田は天渡に一枚のペーパーを差し出した。

 そこには、犯罪抑止対策本部のTwitter運用ポリシーが書かれていた。

 天渡がそれを目で追っていくと、発信する情報の項目に「担当者の発言」と明記されていた。

 さらに「担当者の発言の性質」として一項目が立てられ「担当者の発言は、警視庁としての見解又は方針等を示すものではなく、担当者の日常における経験又は感想等を述べるものとする」とあった。

「うまいこと書きましたね」

 天渡は改めて山口の作文に感心した。

「このポリシーを定めたことで山口係長の発言に根拠を持たせることと公式アカウントの中に個人的な発言を混在させることができるようになったのです」

 坂田もこの一文は気に入っているようだった。

「さて、そこで肝心の天渡さんの任務です」

 坂田は一度姿勢を取り直して天渡に向き合った。

 坂田の真剣な姿勢に触れた天渡に緊張が走った。

「これは、天渡さんと信頼関係ができている山口係長からお話をした方がいいと思いますので」

 そう言って坂田は事務室でモニタを睨んでいる山口を部屋に呼んだ。

 久しぶりの再開に天渡は満面の笑みを浮かべ、目立たないように小さく手を振った。

 しかし、山口は軽く手をあげて応えたものの、いつになく固い表情をしていた。

 山口は坂田に促され坂田の隣に腰を落とした。

 天渡は、山口の表情から、これからの話が何か重いものであることを察した。

 天渡の表情からも笑顔が消えた。

「テワさん」

 応接テーブルに目を落としていた山口が顔を上げ、天渡に話しかけた。

 その目は、やや赤く充血しているように見えた。

 天渡は、山口が昔と同じ呼び方をしてくれたのが嬉しかった。

 これからの話が重いものであっても、山口は自分を昔と同じパートナーとして見てくれている。

 そう思うと天渡はどんな話が来ようとも受けて立つことができそうな気がした。

 

「テワさんにお願いしたいことがあります」

「なんでも言ってください。山口代理のお願いなら断りませんよ」

 天渡は自分に言い聞かせるように答えた。

「犬として道化になって欲しい」

「は?」

 予想外の言葉に天渡は声が裏返った。

「いま、オレオレ詐欺をはじめとする特殊詐欺が猛威を振るっているのはテワさんもよく知っていると思います」

「はい。私もなんとしても被害をなくしたいと思っています」

「そのために私たちはずっと被害者になる可能性の高い高齢者をターゲットに広報啓発をしてきました」

「その結果、オレオレ詐欺などの手口を知らない高齢者は、ほとんどいないといっていいほど情報を浸透させることができました」

「でも、被害はなくなるどころか増える気配さえ見せています」

「私たちは考えました。高齢者に直接訴求することで被害を防ごうとするのは、そろそろ限界なのではないか。高齢者を家庭や地域で支えることで被害を防ぐことも必要なのではないか」

「特に犯人が成り済ますことの多い息子や孫といった世代に訴えていかなければならないのではないか」

「そのためには、ターゲットに合った訴求方法を取る必要がある」

「それが私」

「ですか」

 天渡は消え入りそうな声でつぶやいた。

「警視庁は、こんな異形の私に人としての尊厳を与えてくれました。それなのに今度はその尊厳を自ら捨てて犬になれと命じるのですか。私に見世物になれとおっしゃるのですね。私の存在とは何なんですか?皆さんは私を…… 私を…… 」

 ここまで一気にまくしたてると後は嗚咽で言葉にならなかった。

 重苦しい沈黙が続いた。

 口を開いたのは坂田だった。

「天渡さんのおっしゃる通り。私たちは非道の決断をしました。これは、天渡さんの尊厳を踏みにじるものです。もし、少しでも嫌だと思うのであれば断って欲しい。無理をさせるつもりはまったくありません」

 次に山口が言葉を繋いだ。

「テワさんは、私の大事なパートナーです。誰にも代わりはできません。テワさんがこの任務を受け入れられる日が来るまで私は待ちます。決して勧めはしません」

 山口も泣いていた。

 娘のように育ててきた部下の尊厳を奪おうというのだ。

 

「私、テワタサナイーヌになります」

 

 30分は泣いていただろうか。

 顔の毛を涙でぐしゃぐしゃにした天渡が顔を上げ、強い意志を感じる低い声で宣言した。

 その目に迷いはなかった。

「たとえ仕事の上で犬になっても、私は私です。私の尊厳は私のものです。誰も私の尊厳を奪うことはできません」

「私が犬になることでオレオレ詐欺の被害を防ぐことができるのなら、喜んで道化になります。どうぞ好きにプロデュースしてください」

 天渡は考え方を変えた。

「私は女優なんだ。何者になろうとも私が消えてなくなることはない」

「ところで、そのテワタサナイーヌって何かの名前ですか?」

 山口は礼も言わずに天渡に訊いた。

 天渡が自分で決めたことに他人からあれやこれや言われることを嫌うという性格であることをよく知っていた。

「私の名前です」

「私は今日からテワタサナイーヌですからね。天渡って呼んでも返事しませんよ」

 天渡は名を捨てる決意を明るく表明した。

 自分が自分でなくなることに、科学捜査研究所で検体にされたときに感じた快感に似た熱いものが湧き出るのを感じた。

「テワタサナイーヌという名前はどこから出てきたのですか?」

 坂田がテワタサナイーヌに尋ねた。

「今は、現金手交型が主流です。そして、お金を受け取りに来る受け子は、本当の息子や孫じゃない知らない人です」

「だから、知らない人にお金をテワタサナイという注意喚起と、ほら、私は犬じゃないですか。昔から童謡で親しまれている犬のお巡りさんを掛け合わせたんです」

「それに、本名の天渡早苗と読みが似てるから」

「さっき30分くらい泣いてましたけど、実はそのほとんどの時間は自分のネーミングをどうしようかって考えてたんです」

 テワタサナイーヌはぺろっと舌を出して肩をすくめた。

 

「さあ、明日からどんどん露出しますよ!」

 

 テワタサナイーヌ誕生の瞬間だった。




 この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

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