当たり前の後ろ ~テワタサナイーヌ物語~   作:吉川すずめ

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先導

「じゃあ行きますか」

 山口がヘルメットのシールド越しにテワタサナイーヌに声をかけた。

「うん」

 テワタサナイーヌが笑顔で頷いた。

(お父さんと白バイで走れるなんて思ってもみなかったな)

 山口は青い乗車活動服に、テワタサナイーヌは赤い乗車活動服に身を包んでいる。

 二人が駆るのは新車のCB1300P。

 ロングストロークの空冷4気筒エンジンが静かに鼓動を伝える。

 ホンダのCB1300Pは、ホイルベースが長く直進安定性に優れるため、低速で走り続けるマラソンの先導に適している。

「とうけい10001から警視庁」

「とうけい10001どうぞ」

「とうけい10002とともに東京マラソンの先導を開始する。どうぞ」

「警視庁了解」

「以上、とうけい10001」

 山口が無線で先導の開始を報告して東京マラソンがスタートした。

 とうけい10002は、テワタサナイーヌのコールサインだ。

 

──2月の日曜日早朝

 山口とテワタサナイーヌは、東京マラソンのコースを白バイで実際に走って確かめるため都庁前にいた。

 二人は、1月中に白バイ運転のブラッシュアップ訓練を受け、白バイ訓練所長から公道走行可の評価を受けている。

 実際にマラソンの先導を経験している現役白バイ隊員からも具体的な指導を受けた。

 この日は、山口とテワタサナイーヌのほか、東京マラソンの先導以外のポジションで参加する白バイ12台も帯同する。

 白バイの隊列は、山口が先頭、それにテワタサナイーヌが続き、さらにその後ろに他の白バイが追従する。

 山口はクラッチレバーを握り、左足でギアを1速に入れた。

 発進の合図で右のウインカーを点灯させる。

 目視で後方の安全を確認する。

「よし」

 安全確認後、前に向き直った山口が呼称した。

 山口がゆっくりと白バイを発進させた。

 テワタサナイーヌがそれに続く。

 山口は、車線の右側に寄せて走る。

 テワタサナイーヌは、山口の左斜め後方につく。

 テワタサナイーヌに続く白バイは、テワタサナイーヌの右斜め後方に入る。

 これを順次繰り返して隊列を組む。

 上から見ると白バイがジグザグに並ぶことになる。

 千鳥走行と言われる隊列の組み方だ。

 総勢14台の白バイが隊列を組んで走行する様は圧巻だ。

 山口は、ミラーに写る隊列最後尾の白バイにも気を配る。

 途中で信号などにより隊列が切れてしまうことがあるからだ。

 なるべく切れることがないように、交差点に進入する前から信号のサイクルを考えて速度を調整する。

 都庁前をスタートした山口は、靖国通りを東に進み飯田橋交差点を右折する。

 その先は、飯田橋一丁目、西神田、専大前と直進し、須田町交差点で右折、日本橋交差点から左折、茅場町一丁目を左折、浜町中ノ橋を左折する。

 そして、雷門前で折り返し、蔵前一丁目を左折、石原一丁目を右折、門前仲町を通り、富岡八幡宮前を折り返す。

 茅場町一丁目まで戻り右折、日本橋を左折、銀座四丁目を右折、日比谷を左折、芝五丁目を通り品川駅前を折り返す。

 あとは、芝五丁目、日比谷と通過して東京駅前でゴールとなる42.195kmのコースだ。

「あっ、かわいい耳の白バイ!」

 沿道の子供から歓声が上がる。

 テワタサナイーヌは、ヘルメットも犬耳付きのものを新調してもらった。

 テワタサナイーヌは、軽く手を振って笑顔で応える。

 きれいなエメラルドグリーンの瞳が隠れないように、透明レンズのメガネをかけている。

 その様子をミラーで見ている山口も笑顔になる。

 隊列は、ゴール地点の東京駅前に到着した。

 各白バイは解散となり、各々の部隊に帰っていった。

 東京駅前は、日曜日ということもあってたくさんの観光客が歩いている。

 テワタサナイーヌは観光客に取り囲まれ、 記念撮影を求められている。

 テワタサナイーヌは、ニコニコしながら写真に収まる。

 求められるポーズを取るのもお手の物だ。

 長身で脚が長くスタイルのいいテワタサナイーヌをカメラやスマートフォンを持った人が取り囲んでいると、まるでモデルの撮影会でもやっているかのような華やかさがある。

 もちろん、サインの求めにも気軽に応じ「アッテマーク」をさらさらと書いていく。

「お巡りさん、名前はなんていうの?」

「テワタサナイーヌっていうのよ」

「変な名前ー」

 子供が無邪気に話しかける。

「変でしょー。お巡りさんもそう思うのよ。ここにいるお巡りさんがつけた名前なの」

 テワタサナイーヌがひざまずいて子供と目の高さを合わせ、横にいる山口を見て言った。

「えっ、その名前はテワさんが自分で…」

「しーっ」

 山口が言い終わる前にテワタサナイーヌは人差し指を口に当てて制した。

「そういうことにしといて」

「仕方ありませんね」

 山口は納得できなかったが、テワタサナイーヌに言われると逆らえない。

「テワタサナイーヌっていうのは本当の名前?」

 子供は無邪気に追及する。

「ううん、違うよ。私の本当の名前は山口早苗。このお巡りさんの娘よ」

「へー、親子で白バイに乗っているんですね。素敵です」

 子供の母親が羨ましそうに言った。

「えー、でも男のお巡りさんは人間の顔だけど、このお巡りさんは犬みたいな顔してるよ」

 子供が母親に言った。

「あはは。そうよね。全然違う顔してるよね」

 テワタサナイーヌは笑いながら答えた。

「お巡りさんね、本当は捨て犬なのよ。子犬のときにダンボールに入れて捨てられてるところをこのお巡りさんに拾われたの」

 テワタサナイーヌが深刻そうな顔をして子供に話をした。

「え、かわいそう」

 子供も沈痛な面持ちになった。

「嘘よ」

 テワタサナイーヌは、笑いながら子供の頭を撫でた。

(でも、だいたい似たような生い立ちだけどね)

 

 平日は、通常の仕事をしながら、白バイの整備やコースの確認、爆発物の識別訓練をこなす。

 テワタサナイーヌは、だいぶ爆発物を嗅ぎ分けられるようになった。

 爆発物マーカーは、ほぼ完璧に識別できる。

(私の鼻ってすごくない?)

 自分でも鼻高々だ。

 鼻だけに。

「テワさん、話しかけていいすか」

 忙しく動き回るテワタサナイーヌに後ろの席から池上が声をかけた。

「ん?いいよ。忙しくてもあんたの話は聞いてあげる」

 職場では努めてクールを装おうとしているテワタサナイーヌであったが、言葉の端々に池上大好き成分が混ざる。

「さっき副本部長に呼ばれたんす」

「うん。で?」

 テワタサナイーヌは、池上が言いたい用件の見当がついてドキドキした。

「合格っす」

 池上がテワタサナイーヌの耳元で囁いた。

「やったじゃん!おめでとう!やっぱあんたすごい男だわ。さすが私のハンドラー」

 テワタサナイーヌが興奮して尻尾を振った。

 池上が警部補昇任試験の二次試験に合格したのだ。

 二次試験は、論文試験だ。

 単に知識があるかどうかではなく、正しく論を組み立てる能力が求められる。

 山口流仕事術が本領を発揮するのは、この論文試験だ。

 基礎、基本の理論を押さえておけば、ひねった問題でも結論を導き出すことができる。

「お父さん聞いた?小僧が二次試験通ったって」

 テワタサナイーヌが興奮冷めやらぬ様子で山口に話しかけた。

「いま知りました。よかったですね」

 山口も嬉しそうだ。

「これでもし最終合格したら、もう小僧とは呼べないね」

 テワタサナイーヌが池上に言った。

「別にいいすよ。小僧でも。俺は俺すから」

 まったく頓着しない池上だった。

(自信つけたね、大輔くん)

 テワタサナイーヌは、密かに喜んだ。

 その日から、池上は最終の三次試験に向けた勉強と準備を開始した。

 三次試験は面接だ。

 面接では知識の多寡ではない受験者の全人格が観られる。

(池上さんは大丈夫)

 山口は、絶対の自信を持っていた。

 自分が手塩にかけて育てた自慢の部下だ。

 合格しない方がおかしいくらいに思っている。

(緊張のあまり、すーすー言わなければ)

 池上は普段ブロークンな敬語を使い、軽薄を装っている。

 しかし、実は正しい敬語も使えるしっかりした男だ。

 緊張のあまり、ブロークンな敬語が出なければ面接など恐るるに足りない。

「これであんたも果てしないバカから卒業かしらね」

 テワタサナイーヌが意地悪そうに池上を見た。

「俺は、果てしないバカより永遠の暫定2位を卒業したいとこすね」

 池上は、以前テワタサナイーヌに永遠の暫定2位を宣言されていた。

 もちろん1位は山口だ。

「あー、そうだったわね。いつになったら越えてくるのよ」

 テワタサナイーヌが頭を左右に揺らしながら言った。

(やっぱりまだ果てしないバカだな。大輔くんは、とっくに永遠の1位なのに)

「前から思ってたんすけど、『果てしないバカ』って意味がわかんないすけど、インパクトはすごいすよね。よく思いついたすね」

 池上がテワタサナイーヌをほめたのか、けなしたのか、よくわからないことを言った。

「思いつきよ。でも、我ながら言葉としての破壊力はあると思うの」

 テワタサナイーヌが自画自賛した。

「言葉の破壊力って大事ですよ」

 山口が口を挟んだ。

「え?どういうこと?」

 テワタサナイーヌが小首を傾げた。

「テワさん、超かわいいっす。惚れていいすか」

 池上が騒いだ。

「好きなだけ惚れて」

 テワタサナイーヌも慣れたものだ。

「なんだかよくわからないけど何か凄そうだ。そう思わせるのが還付金詐欺のやり方です」

 山口がテワタサナイーヌを見ながら説明した。

「あら、果てしないバカが還付金詐欺になった」

 テワタサナイーヌが肩をすくめた。

「なんだかわからないけど凄そうだと思うと、人はその相手の言うことを受け入れやすくなってしまいます。『ジンクピリチオン』をご存知ですか?」

 山口が二人に質問した。

「知ってる。あれでしょ。シャンプーとかに入ってるやつ」

 テワタサナイーヌが答えた。

「そう、それです。ジンクピリチオンという成分が一体なにものか、さっぱりわかりません。でも、なんとなく効果がありそうな気がしませんか?」

「するね」

 テワタサナイーヌが腕組みしながら頷いた。

「それが還付金詐欺にも使われているんです。まず、前提として、日本人の国民性として権威を疑わないという性格があります。それにジンクピリチオンを混ぜるわけです。社会保険庁、証券監視委員会など、なんとなくいかついイメージがあって逆らいにくい雰囲気、つまり権威がありそうな組織名を出します。そういった権威を仮装して還付金や保険料の払いすぎといった、自分では管理できないけど、なんとなくありそうで自分に有利な話を出されると、つい疑うことなく受け入れてしまうんです」

 いつものように山口がゆっくりと説明した。

「ジンクピリチオンねぇ」

 テワタサナイーヌが感心したように繰り返した。

「時代はジンクピリチオンすね」

 池上がしたり顔で言った。

「それ、ちっとも破壊力ないから。やっぱりあんたは果てしないバカね」

 テワタサナイーヌが池上の椅子を蹴飛ばした。

「でも好き」

 テワタサナイーヌが下を向いて小さな声で付け足した。

 

 テワタサナイーヌが池上の合格を祈りながら白バイで東京マラソンの先頭を走る。

 犬耳ヘルメットは、沿道の観衆に大人気だ。

 山口とテワタサナイーヌが乗る白バイのミラーには、セロテープが貼られている。

 マラソンの先導は、ランナーのペースメーカーになってはいけない。

 そのために、排気ガスを吸わせない程度の距離を保ちつつ、先頭ランナーの早さに合わせて走らなければならない。

 一定の距離を保つのは、目視では難しい。

 事前に仮のランナーを配置した状態で、もっとも適した距離を取ったとき、ランナーがミラーに写る大きさと同じ幅に切ったセロテープを貼ってある。

 ランナーがこのテープの中に収まっていれば、適度な距離が保たれているとわかる。

 テレビのアナウンサーが山口とテワタサナイーヌを紹介し始めた。

「今回の東京マラソン。先導は親子の警察官が務めています」

「親子でマラソンの先導をするのは、今までに例がないことだそうです」

「お一人ずつご紹介します」

「まず男性から。お名前は、山口博警部、52歳。所属は、犯罪抑止対策本部です。山口さんは、警視庁で最初にTwitterの公式アカウントを開設した方で、現在14万人のフォロワーがいるということです」

 山口が紹介されるとTwitterが賑やかになった。

「Twitter警部がテレビに出てる」

「款さん白バイ乗りだったのかよ」

「款さん歳ばらされてるし」

 次にアナウンサーは、テワタサナイーヌを紹介した。

「山口さんの次は、女性の白バイ隊員です。真っ赤な制服を着ている女性は、テワタサナイーヌ警部補、30歳。所属は山口さんと同じ犯罪抑止対策本部です。テワタサナイーヌさんは、山口さんの娘さんということです。それにしても不思議な外観をお持ちの女性ですが、科学捜査研究所の鑑定でイヌの遺伝子とヒトの遺伝子の両方を保有するという極めて珍しい遺伝情報をお持ちとのことです。テワタサナイーヌさんは、イヌの遺伝子を持っていることから、身体能力も特殊で、聴覚と嗅覚が犬と同等という高い能力をお持ちです。その能力を活かして、ひったくり犯人を臭いで追跡して逮捕したり、遠く離れた川に落ちた子供を助けたことがあるということです。ヘルメットに付いている耳がとてもかわいらしく、先程から沿道のお客様からたくさんの声援が送られています」

「お二人は、ともに巡査のとき白バイに乗務していたそうで、山口さんは実に30年ぶりの白バイだそうです」

 テワタサナイーヌの紹介でもTwitterのタイムラインが華やいだ。

「テワちゃーん」

「テワちゃん凛々しい」

「親子で白バイとかすげーな」

「款さんとテワちゃん、いつの間にか親子になってた」

「これは、いい親子」

 山口のとき以上に賑やかだった。

 山口とテワタサナイーヌは、ミラーのセロテープに先頭ランナーが収まるよう、絶妙なアクセルワークで速度と距離を調整し続ける。

 

──山口の自宅

 弥生と池上がテレビに釘付けになっている。

「お父さん紹介されたっすよ!」

 池上が興奮しながら弥生に話しかける。

「そうね、そうね。見ればわかるわ」

 弥生も普段にない盛り上がり方をしている。

 弥生の手には亡くなった早苗の位牌が握られている。

(爆弾だけはみつからないで)

 池上と騒ぎながらも、爆弾のことが気にかかる。

「うおー、テワさんすよ!テワさんテレビに映ってるす!」

「やっぱりテワさんかわいいっすね。惚れていいすか!?」

 池上は大騒ぎだ。

「惚れてあげてね」

 弥生も楽しそうに池上で遊んでいる。

 先導の白バイは、先頭ランナーにピントが合っていても、必ずカメラアングルに入り込んでいるので、山口かテワタサナイーヌのどちらかは常にテレビに映っていることになる。

 そうなると、常に池上が騒いでいるということにもなる。

 

 マラソンも中盤を過ぎ、先頭グループが形成され、その中で誰が飛び出すか、熾烈な駆け引きが繰り広げられている。

 誰かがスパートを仕掛けては下がるという状況が続くため、山口とテワタサナイーヌは、その度に速度と距離を調整しなければならない。

(思ったより疲れるな)

 テワタサナイーヌは緊張感を途切れさせないように努めた。

 ヘルメットの中のスピーカーからは、交通規制の状況などの無線通話が頻繁に聞こえてくる。

 しかし、心配された爆弾の情報は、いまのところない。

 

 レースが後半に入り、先頭グループから二人のランナーが飛び出して後続を引き離すという展開になった。

 ランナーのペースも徐々に上がってくる。

「警視庁からとうけい10002!」

 スピーカーから緊張した無線の声が飛び込んできた。

(とうけい10002って誰だっけ?早く応答しなさいよ)

 テワタサナイーヌはマイペースで走り続けている。

 横を走っている山口がテワタサナイーヌの方を見て、盛んにヘルメットを指差すようなジェスチャーをしている。

(お父さんなにやってんの?あ、頭痒いんだ!)

 呑気なテワタサナイーヌであった。

「警視庁からとうけい10002!」

(誰よー、しっかりしないさいよ。無線傍受は警備の基本よ)

「警視庁からとうけい10001」

 警視庁が我慢できずに山口を呼び出した。

「とうけい10001ですどうぞ」

 山口が応答した。

「とうけい10002の無線機が不良の模様。命令の伝達を願いたい。現在、日比谷公会堂前で沿道配置の警戒員が不審者を職質中。所持しているボストンバッグの所持品検査に応じない状況である。とうけい10002は、日比谷公会堂に緊急転進し、嗅覚により爆発物から否かのスクリーニングを実施せよ」

「とうけい10001了解」

 山口は、テワタサナイーヌのすぐ隣にぴったりと白バイを寄せた。

 驚いたのはテワタサナイーヌだ。

 先導がこんなに近くに並ぶことはないからだ。

「早苗さん!無線!」

 山口がテワタサナイーヌに向かって大声を出した。

 テワタサナイーヌは、その声がよく聞こえなかったらしく小首を傾げた。

 

「うわっ、テワさんかわいい!」

 テレビの前で池上が喜んだ。

 

「早苗さん、無線聞いて!呼ばれてる!」

 山口は、精一杯の声でテワタサナイーヌに伝えた。

(無線で呼ばれてる?私が?私のコールサインてなんだっけ?)

(とうけい10002だよね…)

「わあ!!」

 テワタサナイーヌは驚きの声を上げた。

(私じゃん、さっきから呼ばれてたの私じゃん!ひーっ、大変、どうしよう。怒られる。あー、私のバカ!)

 テワタサナイーヌは、青ざめた。

「とうけい10002から警視庁」

「とうけい10002、無線を傍受せよ!現在日比谷公会堂前で沿道の警戒員が不審者を職質中。対象者が所持品のボストンバッグを開披しない。現場に緊急転進し嗅覚による爆発物のスクリーニングを実施せよ」

(げっ、まさかないと思ってたら来たよ)

「とうけい10002了解」

(あーあ、やだなー)

(その近くに爆発物探知犬いないのかね)

 とにかく気が乗らないテワタサナイーヌだった。

(しょうがない。やるか)

 テワタサナイーヌは覚悟を決めた。

 覚悟を決めたテワタサナイーヌは強い。

「とうけい10002から警視庁」

「とうけい10002どうぞ」

「先導をとうけい10001に任せとうけい10002は、緊急で日比谷公会堂に転進する。どうぞ」

「警視庁了解」

 テワタサナイーヌは、右手の手元を確認した。

 すでに赤色灯は点灯している。

 ここでいきなりサイレンを鳴らすとレースの妨げになる。

 テワタサナイーヌは、山口に目配せをして先導から離脱した。

「おや、どうしたのでしょうか。先導の白バイが一台コースを外れました。故障かなにか事故があったのでしょうか」

 中継のアナウンサーがテワタサナイーヌの離脱を伝えた。

 

(任務が入ったのね。早苗ちゃん。しっかりやり遂げるのよ)

 その様子をテレビで見ていた弥生も覚悟を決めた。

 

 ランナーから離れたところでテワタサナイーヌは、自動で反復するサイレンのボタンを押し込んだ。

「ピューッ!」

 けたたましい電子音が響いた。

 テワタサナイーヌは、先程までのゆったりとしたライディングフォームから一転、背を丸めた戦闘的なフォームを取り、交通規制されている日比谷通りを弾丸のように走り去った。

 沿道の観衆がざわめいた。

 テレビのアナウンサーも何があったのかと緊張した声で伝えている。

 規制されたクリアな道路を走ったため、すぐに日比谷公会堂の前に着いた。

 日比谷公会堂の前には六、七人の制服警察官が一人の男を取り囲んでいる。

 男はボストンバッグを胸に抱え、絶対に見せまいとしている。

(胸に抱えられるということは、爆発物だとしても安定しているもの。おそらくC-4とかのプラスチック爆弾)

 テワタサナイーヌは、目の前の状況から考えられる可能性を上げていった。

 テワタサナイーヌは、サイレンを止め、サイドスタンドを下ろして白バイから降車した。

 テワタサナイーヌは、男に向かってゆっくりと自信たっぷりの表情で近づいた。

 男の顔がひきつった。

 テワタサナイーヌのマズルが伸びていた。

 マズルを伸ばすためにヘルメットのシールドを跳ね上げておいた。

 シールドを上げないと、中でマズルがシールドに当たって詰まってしまうからだ。

「こんにちは」

 テワタサナイーヌは、牙を剥きながらにっこりと笑いかけた。

 男の顔は青ざめて膝ががくがく震えている。

 それほどまでにマズルを伸ばしたテワタサナイーヌは怖いのだ。

 にっこり笑われてもまったく和まない。

 むしろ余計に怖い。

「バッグの中を見せてくれるかしら」

 テワタサナイーヌは、優しい言葉遣いで質問した。

 男は泣きそうになりながらも顔を激しく横に振った。

「危ないものを持っているのかしら」

 さらに追及する。

 もうテワタサナイーヌは笑っていない。

 見慣れた池上でも泣き出すレベルの怒りを顕にしている。

 しかし、あくまでも言葉遣いはソフトだ。

 そのギャップが恐怖心を煽る。

 男はボストンバッグをきつく抱えたまま脂汗を浮かべて黙っている。

(一番嫌なのは自爆されることよね。自爆されたら、ここにいる人みんな死んじゃう)

 テワタサナイーヌは、一刻の猶予も許さないと判断した。

「見せてくれないのなら、外から臭いを嗅がせてもらうわよ」

 男の返事はなかった。

「いいのね。いやなら返事なさい」

 それでも返事はない。

「黙認したと解します。これから臭気による爆発物検知を行います」

 テワタサナイーヌが最後の告知をした。

 テワタサナイーヌがバッグに鼻先を近づける。

 何度か場所を変えて臭いを嗅ぐ。

(爆発物マーカーは含有されてない)

 テワタサナイーヌの臭気記憶ファイルには引っ掛からなかった。

(じゃあ何なの?なにを頑なに拒んでるの?)

 テワタサナイーヌは、不思議に思った。

 テワタサナイーヌは、もう一度臭いを嗅いだ。

 さっきより慎重に臭気を選別しようとした。

(アンモニアっぽい?)

(やっぱり爆弾よね、これ。いや、爆弾じゃなくて原料)

「硝安」

 テワタサナイーヌが男に言った。

 男の顔が恐怖にひきつりバッグを落とした。

「わあ!落とした!」

 テワタサナイーヌが後ずさった。

 バッグに変化はなかった。

(強い衝撃は危ないって)

「硝安でしょ」

 テワタサナイーヌが追及した。

 男はがっくりとうなだれた。

「油は!」

 テワタサナイーヌが語気を荒らげた。

「ないです」

 男が口を開いた。

「どうするつもりだったの?」

 テワタサナイーヌは、口調を戻した。

「あとから買うつもりでした」

「そう。正直に話してくれてありがとう。署でちゃんと話すのよ」

 テワタサナイーヌは、男を優しく諭した。

 男は、テロリストではなかった。

 爆弾で自殺しようと思い原料を手に入れたところだったという。

(自殺だろうとなんだろうと、あんなところで爆発させられたらたまんないわよ)

 テワタサナイーヌは安堵した。

 

 レースは、山口の先導により無事にゴールすることができた。

 山口とテワタサナイーヌは、白バイを返納して犯抑に戻った。

「もーいや。疲れた」

 テワタサナイーヌが机に突っ伏した。

「テワさんのおかげで大勢の人が危険から守られました。ありがとうございます」

 山口がテワタサナイーヌを労った。

「ほんと怖かったんだから」

 テワタサナイーヌは涙目になっていた。

「怖かったでしょう。よくやり遂げてくれました」

 山口は、テワタサナイーヌの頭を撫でた。

 テワタサナイーヌは、嬉しそうに目を閉じた。

 

「ただいまー」

 帰宅したテワタサナイーヌが元気に玄関を開けた。

「おかえりなさい。早苗ちゃん、頑張ったわね。無事でよかった」

 弥生が泣いた。

「やだなー、お母さん泣かないでよ。爆弾じゃなかったからそんなに危険でもなかったんだよ」

 テワタサナイーヌが照れ隠しに言った。

「レースのあとは、早苗ちゃんの活躍ばっかりニュースでやってたわよ」

 弥生は、喜んでいいのかよくないのか複雑な心境だった。

「やっぱり死ななかったすね」

 池上が階段の上から声をかけた。

「大輔くんが警部補になるまで絶対に死なないんだから!」

 テワタサナイーヌが下から元気に宣言した。

「明日は礼拝行くよ」

「うん!」

 テワタサナイーヌが尻尾を振った。




 この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

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