当たり前の後ろ ~テワタサナイーヌ物語~   作:吉川すずめ

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テワタサナイーヌ以前(2)

「短い間でしたけど、お世話になりました」

 天渡はグループホームの施設長にぴょこりと頭を下げて挨拶をした。

 今日から警察学校に入校するためグループホームを退所して東京の府中市にある警察学校に向かった。

 荷物はほとんどない。

 大きめのボストンバッグひとつで十分だった。

 服も学校の制服と数着の普段着しか持っていなかったので、学校の制服を着て入校した。

 警察学校では、制服の採寸があった。

 首から下は普通の人と変わらないので、既成のサイズで間に合った。

 ただ、お尻からぴょこんと伸びるフサフサの尻尾をどうするか、天渡と会計担当者で話し合いがもたれた。

 結局、支給されたパンツやスカートに尻尾を出す穴を開ける加工を施すことになった。

 その加工は天渡が自分でやらなければならない。

 立ったり座ったり、身体の動きに合わせて尻尾の位置も動く。

 うまく穴を開けないと尻尾が突っ張ってしまうことになる。

 天渡は、何度か試行錯誤を繰り返して、ベストな穴を開けることができた。

 まだ問題があった。

 帽子が合わない。

 犬の耳が天を向いてぴんと立っている。

 耳が邪魔になって普通の帽子が被れなかった。

 仕方がないので装備課にお願いして特寸で作ってもらうことになった。

 基本的なデザインは変わりないが、耳の部分だけ帽体に切込みを入れてもらった。

 出来上がった帽子を試着して鏡に写った自分を見たら、今まで見たことがない変な警察官が立っていた。

 自分でもおかしくなって笑ってしまった。

 同期生とも笑いあった。

 同期生には、自分の外見を笑われることに抵抗はなかった。

 むしろ連帯感を感じることができた。

 警察学校での生活は充実した毎日だった。

 身体を動かすことが好きな天渡にとって「訓練」と名のつくものは、さほど苦にならなかった。

 大変だったのは座学で、元々こぼれるほど大きな目をしているので、ちょっとでも居眠りをするとすぐ見つかってしまう。

 大きな耳が天に向かってぴんと立っているので、頭が揺れるとこれまた目立つ。

 よく居眠りしている割に試験の成績は良好だった。

 同期や教官からは「睡眠学習」とからかわれた。

 仲間と過ごす警察学校は、あっという間に卒業を迎えた。

 警察学校の川路広場で教官と助教から最後の指示を受けた。

 警察学校では、指導担当の警部補を教官、巡査部長を助教と呼ぶ。

 教官は、くどくどと長い話をしたが、話が長かったので何を言っていたのか忘れてしまった。

 助教は、たった一言

「死ぬなよ」

 とだけ声を詰まらせ目を赤く腫らしながら力強く指示をくれた。

 その助教は、昭和47年に発生した、共産主義革命を夢見た青年たちにより結成された「連合赤軍」のメンバー5人が浅間山荘の管理人を人質に立てこもり、包囲する機動隊にライフル銃などで応戦した「あさま山荘事件」に第二機動隊の隊員として出動した経歴を持つ。

 あさま山荘事件では、第二機動隊長が犯人の狙撃を受け隊員たちの目の前で壮烈な殉職を遂げた。

 当初、警視庁の第二機動隊は、山荘への突入部隊となる予定だった。

 しかし、指揮官を銃殺された状態で隊員を山荘内へ突入させた場合、犯人を射殺してしまうことが危惧された。

 警察庁からの司令は、犯人の逮捕であって射殺ではなかった。

 そこで、第二機動隊は後方へ下げられることとなり、犯人逮捕により隊長の死に報いることができなかった。

 今でも警視庁本部庁舎2階にある警察参考室に当時出動した第二機動隊員の寄せ書きが展示されていて、そこに助教の名を見つけることができる。

 もう定年目前の年齢で、普通であれば警察学校に助教として在籍していることはないはずだが、この経験を若い警察官に語り継ぐため、特例としてずっと在籍している。

 その助教が言う「死ぬな」は、天渡らに特別の重みを持って伝わった。

 

 警察学校卒業後、天渡は交番勤務から警察人生をスタートさせた。

 物怖じしない、誰にでも話しかけることができる天渡にとって、交番勤務は楽しいものだった。

 巡回連絡で一戸ずつ訪ねては住民と話をするのが好きだった。

 特にお年寄りの家を訪問して、他愛もない世間話をしていると時間が経つのも忘れてしまい、交番に戻る予定の時刻を過ぎてしまうこともあった。

 身寄りがない、幼いときの記憶もない天渡にとって、お年寄りとの交わりは、自分に欠けているパーツを補ってくれるような貴重な時間だった。

 そんな楽しい毎日を送っていたある日、事件は起こった。

 天渡の受け持ちのおばあさんがオレオレ詐欺の被害に遭ったのだ。

 何度も訪ねたことがあるおばあさんで、オレオレ詐欺の話もしていた。

 オレオレ詐欺の手口も説明していたし、そのおばあさんもよく理解してくれていた。

 オレオレ詐欺の手口をよく知っているし、気をつけてねと何度も言っていたので、おばあさんが被害に遭うことはないだろうと思っていた。

 そんな矢先におばあさんは、オレオレ詐欺の毒牙にかかってしまった。

 なぜ?

 あんなに何度も気をつけてねと念を押していたのに。

 天渡は、被害を防ぐことができなかった自分を責めた。

 なにが足りなかった?

 どうすれば被害を防げた?

 いくら自問しても答えを導くことはできなかった。

 しかし、本当に辛いのは天渡ではなく、被害者のおばあさんだった。

 被害に遭ったことを家族に打ち明けたところ

「毎日のようにニュースでもやってるのになんで騙されてるんだ! まったく信じられない。ボケてるんじゃないのか?!」

 と激しく叱責され、そのおばあさんはすっかり鬱ぎ込んでしまい、事件から一か月後「ごめんなさい」と短い遺書を残して自ら命を絶った。

 おばあさんの自殺を知り天渡はひどいショックを受けた。

「被害者が自殺をしなきゃならないなんて間違ってる!」

 お年寄りの老後の蓄えのみならず命まで奪い去ったオレオレ詐欺の犯人に激しい憤りを覚えた。

 それは、今まで感じたことがないほどの強い怒りだった。

 息が荒くなり涙があふれた。

 そのとき天渡の身体に変化が起こった。

 顔面の骨格がギチギチと音をたてて軋み始めた。

 鼻骨が前にせり出し、それに引っ張られるように上顎も前に伸び始めた。

 普段はかわいい八重歯程度の犬歯が大きく伸びて鋭さを増す。

 下顎も上顎と噛み合うようにせり出して、下の犬歯も鋭く伸びた。

 いま、天渡の顔は、マズルが伸びて牙を剥いた狂暴な犬のそれに変貌していた。

 顔面が変化している間、骨格の変形が天渡に激痛を与えた。

 しかし、天渡の激しい怒りがその痛みさえも感じさせなかった。

 天渡は、息を荒らげながら自分の変化に戸惑った。

 鏡を覗くと完全に犬化した自分が牙を剥き今にも噛みつかんばかりの険しい顔つきをしていた。

 このとき、初めて天渡は激しい怒りが自分をより犬に近づけるということを知った。

 自分の変化に動揺し、怒りがかなり鎮まり落ち着きを取り戻した。

「ちょっと待って。この顔って治るの? このままってことはないよね?」

 若干落ち着くと今度は自分の顔の将来が心配になってきた。

「こんな恐い顔のままじゃお嫁に行けないよー」

 天渡は悲しくなった。

「ギギギ、ギシッ」

 また顔面の骨が軋んだ。

 それと同時に天渡の顔に激痛が走った。

「痛ったーーーーーい!」

 激痛のあまり天渡は泣きながらうずくまり両手で顔を覆った。

「痛いよー! ばかーっ!」

 誰に向けていいのか分からない怒りを言葉にして悪態をつき続けた。

 その間に天渡の顔面は、マズルが戻り長く伸びた牙も元の可愛らしい八重歯程度に短くなっていった。

 顔の骨が元に戻り、転げ回るほどの痛みから解放された天渡は、あの鈍く骨の軋む音はもう二度と聞きたくないと強く願った。

「たぶん怒らなければいいのよね」

 今回、顔面の変化をもたらしたのは、激しい怒りだった。

 その経験から、天渡は予防策として激怒しないということを学んだ。

 元々穏やかな性格の天渡にとって、激怒しないという命題はそれほど難しいものではなかった。

 事実、その後天渡が怒りで犬化することは少なかった。

 

 天渡は高卒で警察官になった。

 大学に進みたいと思ったことはあるが、身寄りのない自分は経済的に自立することが先だと考え、就職してから大学に進もうと決めていた。

 天渡は、法律の勉強がしたかった。

 悪いやつらと闘うための武器は法律だと思ったからだ。

 仕事をしながら勉強するためには二部か通信教育がいい。

 天渡は、法学部に通信教育部がある大学を選び入学した。

 通信教育は、与えられた課題に対してレポートを提出する。

 レポートの提出に必要な勉強は自学自習だ。

 しかも、レポートは提出すればいいというものではなく、一定のレベルに達していると認められなければ合格とならない。

 その他にスクーリングといって通学して授業を受けなければならい期間が決められている。

 そのために自分の休暇を使わなければならないので、自分の休みは少なくなってしまう。

 通信教育で大学を卒業するためには、かなり強い意志を必要とする。

 しかも4年で卒業するのはかなり難しい。

 天渡は、これを見事に4年で卒業した。

 卒業の年、天渡は巡査部長への昇任試験を受けることができる資格を得た。

 大学の勉強と平行して昇任試験の勉強にも取り組んでいた。

 天渡は、一次試験、二次試験を順調にクリアした。

 だが、最終の三次試験で不合格となり辛酸を嘗めた。

 翌年の試験で合格を勝ち取り、天渡は巡査部長となった。

 天渡が24歳のときであった。

 高卒の場合、巡査部長から警部補に昇任するための試験を受けることができるまで、3年の実務経験を要する。

 ところが、天渡は大学を卒業したことにより大卒程度の採用区分であるⅠ類の認定を受けていた。

 大卒の場合は、巡査部長から警部補は1年の実務で受験資格が与えられる。

 そのため、天渡も巡査部長に昇任した翌年に警部補昇任試験の受験資格を得た。

 このとき天渡26歳であった。

 この年の試験も巡査部長のときと同じで最終の三次試験で不合格となった。

 三次試験の面接では、面接官に

「天渡さんは、若くて優秀なようですから、また来年も頑張ってください」

 と不合格の引導を渡されていたので不合格のショックはなかった。

 そして、翌年の試験で雪辱を晴らし、合格することができた。

 晴れて警部補に昇任したとき、天渡は27歳になっていた。

 27歳の警部補は、異例の若さといえる。

 当然、同期の中でも一番の早さだった。

 

 警部補に昇任して天渡は葛飾警察署に異動となった。

 そして天渡は、そこである男と出会うことになる。

 生活安全課長代理の山口だ。

 山口は生活安全課で犯罪抑止を担当していた。

 なかなかのアイデアマンで、事件功労以外ではめったにもらうことができない警視総監賞を防犯活動のアイデアで受賞している。

 葛飾警察署で天渡は山口とともに犯罪抑止担当として行動を供にした。

 山口は、よく紅茶を好んで飲んでいた。

 紅茶の銘柄にこだわりはないようだ。

「味の違いが分からないんですよ」

 そう言って山口は笑った。

 それは謙遜でもなんでもなく、本当にそのようだった。

 天渡も面白がって色々な銘柄の紅茶を出してみたが「今日のはおいしいですね」というのが定番の反応だった。

(今日の『は』じゃないでしょ。今日の『も』でしょ)

 天渡は心のなかで突っ込みを入れた。

(味音痴の紅茶党っていうのもあるのね)

 紅茶好きがみんな茶葉にこだわりを持っているわけではない。

 その頃、オレオレ詐欺は振り込みから現金を直接受け取りに来る手渡し型へと変わっていった時期であった。

 天渡と山口も新しい手口に対応するため忙しく街を歩き回った。

 天渡は山口と出歩くのが好きだった。

 父親と言っていいほどの年齢差があり落ち着いた雰囲気の山口といると、自分が穏やかでいられることに気づいたからだ。

「一緒にいればマズルが伸びなくて済むし」

 天渡は、そう自分に言い聞かせていた。

 ある日、山口と外回りをしているとき天渡は自分が初めて変身したときのことを思い出した。

 自分が何度もオレオレ詐欺に気をつけるように注意していたのに、なぜあのときのおばあさんは騙されてしまったのか。

「ねえ代理」

 いつの間にか天渡は山口をため口で呼ぶようになっていた。

 二人の間ではそれが心地よかった。

 もちろん、公式な場では敬語を使う。

「はい。なんですか」

 むしろ山口の方が敬語を使うことが多かった。

「警察も行政もテレビや新聞も、みんなオレオレ詐欺に気をつけてって言ってるじゃないですか」

「そうですね。毎日のように注意喚起されてますよね」

「なのに、なんでまだ騙される人がいるの? 」

 天渡は、長年の疑問を山口にぶつけてみた。

 山口なら自分を納得させてくれる答えを持っているような気がしたからだ。

「テワさん」

 山口は天渡をそう呼ぶ。

「気をつけるって、どういうことでしょう?」

「そりゃあオレオレ詐欺にひっかからないように、電話がかかってきたら相手の話におかしなところがないかよーく気をつけるとかでしょ?」

「いま、テワさんは気をつけるということを説明するために気をつけると言いましたね」

「あっ、本当だ!なんか説明したような気になってたけど、私ってばなんにも言ってない」

「そうでしょう。気をつけるって言葉、実はなんにも言ってない空っぽの注意喚起なんです」

「空っぽなんだ」

 天渡は感心したように山口の言葉を繰り返した。

「それから、気をつけてっていう注意喚起をしていて、それでも被害に遭ってしまったとします」

「あ、私だ」

 天渡は、自分の過去を思い出し、少し暗い気持ちになった。

「そうすると、被害に遭ったのは気をつけていなかったから、つまり被害者の注意が足りなかったからだ。そういうことになります」

 山口はさらに続けた。

「被害者の注意が足りなかったとするのは、警察が犯罪の予防という重要な責務を放棄して、被害者に責任を転化することになってしまいます」

「気をつけなかったあなたが悪いってうことね。確かにそれはひどい話かも」

「だから私は、できるだけ気をつけてという注意喚起をしません」

「被害に遭わないために何をしてほしいのか、逆になにをやらないでほしいのかを具体的にお願いします」

「もちろん、具体的な行動を例示するわけですから、それだけでは足りないということもあります」

「でもそれでいいんです。なんにでも効く薬は結局なんの病気も治してくれない。副作用はあるかもしれないけど、ピンポイントに効く薬の方が効き目は高いんです」

「なんにでも効く薬が気をつけてっていうフレーズなのね」

 天渡は目から鱗が落ちる思いだった。

「ねえ代理」

「はい。なんですか」

「代理はどこでそんなものの見方を覚えたの?」

 天渡は、山口の頭の中を覗いてみたくなった。

「私は母からものごとを相対的に見るということを教わりました」

「お母様から?」

「はい。母です」

「どんなことを教わったの?」

「私が中学生だったころ、勉強に行き詰まり成績が伸び悩んだときがありました」

「へー、代理でも勉強するんだ」

「ずいぶん失礼な物言いですね」

「だって代理はいっつも勉強してるようには見えないもん」

「ばれてましたか。それじゃあかっこつけるのはやめましょう」

「私は、睡眠学習と言われるほど授業中によく寝ていました」

「えっ、代理も睡眠学習だったんですか!? 私もですよ!」

「変なところが似てますね。」

 山口は苦笑した。

「睡眠学習はおいておくとして、とにかく勉強が嫌いだったので好きな教科と嫌いな教科とで成績の差が激しかったんです」

「みんなそうなんじゃない?」

「なので、嫌いな教科の成績は悲惨なものでした」

「ただ、それでも母は叱ったりすることはありませんでした」

「母は、『ビリがいるから一番がいる。ビリがいなきゃ一番もない』と言いました」

「それを聞いて私は、ものごとを相対的に見るということに気づきました。かっこよく言えばクリティカルに考えるということです」

「なんだか難しくてよくわからない」

 天渡は山口が自分の理解を越えた存在だということだけは理解した。

 

 その後、山口は警視庁本部に異動してしまった。




 この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

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