当たり前の後ろ ~テワタサナイーヌ物語~   作:吉川すずめ

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ニトログリコール

「ねえお母さん」

 1階のリビングで小さなショーツ一枚だけを身に着けたテワタサナイーヌが椅子の背もたれを抱くように座り、弥生に声をかけた。

 他人が見たらかなり扇情的な絵だ。

 今日は、山口も池上もいない。

 池上は、警部補昇任試験の一次試験を受けに行っている。

 山口は、その試験官として出勤している。

 女同士なのでテワタサナイーヌは服装に気を使う必要がなく、ほとんど全裸に近い格好で2階から下りてきていた。

 弥生もテワタサナイーヌの裸には慣れてしまい、まったく気にする様子もない。

 家族の中では、「テワタサナイーヌ=裸」になっている。

「お母さんたちは、どこで結婚式を挙げたの?お父さん、そういうことを全然話してくれないから」

 テワタサナイーヌが口を尖らせた。

「私たちの結婚式?教会だったわよ」

 弥生が恥ずかしそうに答えた。

「へー、クリスチャンだったの?」

「そうじゃないの。二人ともただのミーハーだったからよ。なんとなく教会の方がおしゃれっていう感じがしない?それだけの理由」

「そうなんだ。教会ってことは、よくある結婚式場やホテルの中にあるチャペルとは違ったんでしょ?」

「そう、結婚式用の施設じゃない街の教会」

「なんか、かっこいい。写真ある?」

「あるわよ。見たい?」

「見る!!」

「じゃあちょっと待ってて。引っ張り出してくるから」

 そう言って弥生は寝室に入って行った。

(お母さんのお嫁さん姿ってどんなだったんだろう。私と同じくらい背が高いから、きっときれいだったんだろうな)

 テワタサナイーヌは、弥生の写真が自分の想像図になると思っている。

「あったあった」

 弥生が数枚のフォトフレームを持って寝室から出てきた。

「はいどうぞ」

 弥生は、テーブルの上にフォトフレームを並べてテワタサナイーヌに見せた。

「おぉー」

 テワタサナイーヌは、思わず声を上げた。

 きれいだろうとは思っていたが、予想以上にきれいな花嫁だった。

 まず目に止まったのは、弥生のウエディングドレス姿のものだった。

 弥生が単独で映っている。

 ウエディングドレスを着た弥生の後ろ、やや高い位置から俯瞰するようなアングルで撮影されていて、ドレスのデザインがよくわかる。

 純白のウエディングドレスを身に纏い、後ろのカメラを振り返るように身体を捻っている。

 元々締まっていたであろうウエストがポーズのとり方でより一層くびれて見える。

 ドレスは、定番のAラインのロングトレーン。

 ノースリーブでレースがあしらわれている。

 トレーンの長さは3mはあるだろうか、美しいドレープ感を見せている。

「すてき…」

 テワタサナイーヌはため息を付いた。

「お父さんが選んでくれたデザインなの」

 弥生が嬉しそうに教えてくれた。

「私が着るものは、お父さんが選んでくれると、だいたい間違いないの」

「お母さん愛されてるね」

「ええ、もちろんです」

 弥生は自信たっぷりに答えた。

「この結婚指輪だって、お父さんがデザインしてくれたオリジナルの一点ものよ」

 弥生は左手の指輪を見せた。

 薬指に輝く指輪は、プラチナ台にプリンセスカットのダイヤモンドが埋め込まれ、その両端に小さいブリリアントカットのダイヤモンドが2個ずつ寄り添うように埋め込まれている。

 普段の生活に支障がないようにと、突起を廃したデザインが山口の配慮だった。

「この世でたったひとつの指輪。同じものは世界中どこを探したってないわ」

 弥生の自慢の指輪だ。

(はぁ、素敵。羨ましい)

 テワタサナイーヌは、毛で隠れて見えないが顔を紅潮させている。

「このドレスってレンタル?」

「いいえ、買ったものよ」

「まだある?」

「あるわよ」

「着てみたいんだけど、私でも入るサイズ?」

「たぶん今の早苗ちゃんとこの頃の私は、ほとんど同じサイズだと思うから着られるはずよ。でも、結婚前にウエディングドレスを着ると、婚期が遅れるっていうけど、いいの?」

「うん、いいよ。大丈夫。大輔くんとなら結婚しなくてもいいと思ってるから」

「え?別れるつもり?」

 弥生の顔から笑顔が消えた。

「あ、ごめんなさい。そういう意味じゃなくて。大輔くんとなら、結婚という形式はどうでもよくて。今のままでも私は幸せっていうこと」

 テワタサナイーヌが両手のひらを弥生に向けて左右にぶんぶん振った。

「あーびっくりした。てっきり別れることを考えているのかと思った」

 弥生が苦笑した。

「そういうつもりはまったくございません」

 テワタサナイーヌも苦笑した。

「着てみる?ドレス」

「うん。着たい」

「ちょうど裸で着やすそうね」

 弥生が笑った。

 弥生がクローゼットから白い大きな箱を運び出した。

「これよ」

 箱を開けると、中から真っ白なドレスが出てきた。

 レースやチュールが豪華さを演出している。

「さ、着てごらん」

 弥生がドレスをテワタサナイーヌに手渡した。

「ドキドキする」

 テワタサナイーヌは緊張していた。

「パニエはどうする?パニエを履かないとスカートが十分に膨らまないけど」

 弥生がパニエを手に持って訊いた。

「それって着るの大変?」

 初めてのドレスなので勝手がわからないテワタサナイーヌだった。

「そうね。ちょっと要領がいるかも」

「そっか、じゃあ今日はドレスだけ着てみていい?」

「いいわよ」

 テワタサナイーヌは、ドレスの中に足から入り、弥生の介添でドレスを持ち上げて腕を通した。

「あ、ごめんなさい。これ着けないと、さすがにスタイルのいい早苗ちゃんでも背中が締まらないわ」

 弥生がコルセットを取り出して言った。

 コルセットでテワタサナイーヌのウエストを限界まで締め上げる。

「ぐえー、結構苦しいよ」

「そういうものなの」

「お父さんみたい」

 二人で笑った。

 ただでさえくびれているテワタサナイーヌのウエストが、不自然なほどくびれた。

 ドレスのジッパーは楽に締めることができた。

「やっぱり早苗ちゃんの方が細いわ。ちょっと悔しい。私はコルセットで締め上げてなんとかジッパーが上がったくらいだもん」

 弥生が少し悔しそうに言った。

 テワタサナイーヌは左右に首を回し陶酔したような目でドレスを眺めている。

 油断したのか柔らかな舌がてろんと出てしまった。

「お母さん」

「なんですか」

「これ着て結婚式挙げたい」

 テワタサナイーヌがうっとりした表情のまま言った。

「あら嬉しい。着てくれるの?あ、でもそれはダメだわ」

 弥生が申し訳なさそうに言った。

「え、どうして?」

 テワタサナイーヌが元の表情に戻った。

「どうしてかは言えないけど、このドレスは着せてあげられないと思うの。たぶん」

 弥生は歯切れが悪かった。

「えー、そうなんだ。残念。素敵なドレスなんだけどなー」

 テワタサナイーヌは、あえて追及をしない。

 自分にも隠したい過去があったように、人には隠したいことがある。

 そういうことを詮索しないのがテワタサナイーヌのポリシーだった。

「でもいいや。着せてくれてありがとう」

 テワタサナイーヌは、笑顔で弥生に礼を言った。

「ねえ早苗ちゃん」

「なに、お母さん」

「早苗ちゃんて、若いとき、あらごめんなさい。今でも若いわね。えっと巡査のときでしたっけ、白バイに乗ってたの」

 弥生がテワタサナイーヌに白バイ乗務の経歴を訊いた。

「うん。そうだよ」

「その頃の写真ある?」

「あったと思うよ。探してこようか?」

「見せてくれる?」

「オッケー」

 テワタサナイーヌが2階に上がって行った。

「乗車活動服の写真あったよ」

 テワタサナイーヌが1枚の写真を持ってきた。

 その写真は、青い乗車活動服を着てヘルメットを被ったテワタサナイーヌが映っていた。

 

【挿絵表示】

 

「ねえねえ早苗ちゃん」

「なーに?」

「早苗ちゃんは、メガネかけてないわよね?写真でかけてるメガネは度付きなの?」

 写真のテワタサナイーヌは、赤いフレームのメガネをかけている。

「あ、これは伊達メガネ」

「オートバイで走ると風を切るでしょ。メガネをかけてないと目にゴミが入るし、風で目が乾いちゃうのよ」

 テワタサナイーヌが説明した。

「そういうことなのね」

 弥生が納得という顔をした。

「でもさ」

「でもなに?」

「早苗ちゃん、目が大きいからメガネのフレームから目がはみ出してない?」

 弥生が笑いながら写真を指差して言った。

「見つかっちゃったか。そうなの。メガネからはみ出すのよ。だから、本当はメガネよりゴーグルの方がいいんだけど、ゴーグルはおしゃれなのがないから、ちょっと目がはみ出してるけどメガネで押し通した」

「目が大きいって、かわいいだけじゃなくて大変なのね」

 弥生はテワタサナイーヌの目をまじまじと見つめた。

 

 弥生が白バイの話を出したのは理由があった。

 

 仕事始めの日、山口は総監秘書室から電話があり総監に呼び出されていた。

(またお叱りを受けるのか)

 山口は気が進まなかった。

「犯抑山口警部入ります」

 総監秘書が部屋の入口で声をかけた。

「あ、どうぞ入ってもらってください」

 総監の明るい声が聞こえた。

「失礼いたします」

 山口は一礼して部屋に入った。

 総監室には、卓球台ほどもあろうかという大きな机と、その脇にシンプルなテーブルセットがある。

 テーブルセットは、打ち合わせや決裁で説明が必要なときなどに使っている。

 その日は、すでに総監の他に1人の幹部がテーブルに付いていた。

 交通部長だった。

(これは恐ろしいところに呼ばれたものだ)

 山口は部屋を出て帰りたい思いに駆られた。

「山口さん、どうぞかけてください」

 総監がテーブルの空いた席を指して言った。

「はい。失礼します」

 山口は、交通部長に一礼して椅子に座った。

 まったく座り心地の悪い椅子だった。

 落ち着かない。

「今日、山口さんに来ていただいたのは他でもありません」

 総監が口を開いた。

「2月に東京マラソンがあるのはご存知ですね」

「はい、存じております」

 山口が緊張しながら答えた。

「その先導をやっていただきたい。お嬢さんと一緒に」

「えっ!?」

 山口は思わず大きな声を出してしまった。

「し、失礼しました。青天の霹靂で驚きました」

「そうでしょうね。わかります。今現在白バイに乗っていない。それだけではなく親子で先導しろと言われたら、誰だって驚きます」

 総監が山口に同情した。

「大変光栄なお話ではありますが、通常マラソンの先導は大会で優秀な成績を収めた方などが務めていると思います。私たち親子のような特に実績もなく一線を退いた者が先導を務めたという話を聞いたことがありません」

 山口は焦った。

「そうです。『今までは』そうでした。ですが、山口さん。あなたは、今まで誰もやってこなかったことを数多く手がけてきています。そのあなたが『先例がない』と言ってしまっていいのですか?」

 総監が山口をからかった。

「おっしゃるとおりです」

 山口が頭を下げた。

「今回、山口さんに先導をお願いするのは、親子で先導という話題作りが表立った理由です。しかも、その親が国民に親しまれているTwitter警部、娘がチャーミングなケモノ娘のテワタサナイーヌさんです。話題にならないはずがありません」

 総監が説明を続けた。

「そして、これは私からの置き土産でもあります」

 総監が笑顔で山口を見た。

「私もそろそろ総監としての在任期間が1年になろうとしています。間もなく次の総監がいらっしゃる頃です。山口さんとテワタサナイーヌさんには、就任後間もないころにインタビューで遊んでいただいた恩があります。その恩に報いたいと思い、今回、私から交通部長に無理を言って先導をお願いしたというわけです」

「は、はあ」

 総監の口から意外な理由が飛び出したことで、山口は何を言っていいのかわからなかった。

 総監がこのような個人的な理由で仕事に関する指揮を執ることは普通では考えられない。

 よほどあのインタビューが印象に残っていたのだろう。

「実は、その他にもう一つ理由があります」

 総監が真剣な表示に変わった。

「いま、毎日のように世界中でテロ事件が発生しています。そのテロの多くは、爆弾を使い、民間人が多く集まり警戒が手薄な場所、いわゆるソフトターゲットを狙ったものです。東京マラソンでもテロが行われる可能性があるという情報も入っています。そのテロを制圧するために、テワタサナイーヌさんの嗅覚をお貸しいただきたいのです」

「爆弾探知です…か…」

 山口が恐る恐る確認した。

「そうです。もちろん一義的には爆弾探知犬が警戒に当たりますし、事前に検索もします。しかし、大会開催中、爆弾らしいものが発見されたとき、緊急に現場に飛んでいける機動力が爆弾探知犬にはありません。その穴をテワタサナイーヌさんに埋めていただきたいのです」

 総監が切々と説明した。

 山口は総監の意図を理解した。

「先導をしながら、状況が発生した場合は、緊急で転進させたい。そういうことですね」

「そのとおりです」

 総監が頷いた。

「もちろん、そのような状況が起こらないのが理想です。最悪、そのような事態になった場合でも、山口さんが残って先導を続けていただけますから大会の続行は可能です」

 交通部長が言った。

「この件について、警備部や公安部は了解しているのですか」

 山口は爆弾探知犬を運用する警備部や情報を担当する公安部の了解が得られているのかどうか気になった。

「もちろん根回し、と言いますか総監の指揮により各部了解済みです」

 交通部長が言った。

「承知いたしました。テワタサナイーヌは、爆弾探知の経験がありません。訓練期間はとっていただけるのでしょうか」

 山口が質問した。

「もちろん警備二課の爆対にやらせます」

 総監が即答した。

「それともう一つ。テワタサナイーヌが爆弾探知をするときは、白バイの乗車活動服です。対爆スーツではありません。かなりリスキーな作業となります。危険手当若しくは事故発生時の手当てを特別に考慮していただけるのでしょうか」

 山口としては、考えたくない可能性ではあったが、やる以上は無視できないことだった。

「当然です。現行法規で取りうる最大の手当てを用意します」

 総監が保証した。

「ありがとうございます。ただ、本人の意向を無視して私の一存でお受けすることはできません。今週末は、娘の婚約者が警部補昇任試験に挑みます。その前にふたりに動揺を与えたくありませんので、お答えは週明けでよろしいでしょうか」

「そうでしたか。そうしてあげてください。お嬢さんの婚約者は池上さんでしたね。試験、頑張るようにお伝え下さい」

 総監が山口の提案を飲んだ。

 その日、帰宅した山口は、テワタサナイーヌと池上が2階に上がったタイミングを見計らって、弥生にマラソン先導の件を話した。

「またとない光栄なお仕事ね」

 弥生は喜んだ。

「爆弾探知だけは心配だけど…」

 喜んだあとに心配顔になった。

「池上さんの試験が終わるまで、二人には言わないでください」

「わかりました」

 

 この会話があったために弥生はテワタサナイーヌの白バイ当時の写真が気になったのだ。

(いつも危険な任務ばかりの早苗ちゃんを守ってあげて。早苗)

 テワタサナイーヌが2階に上がったあと、弥生は亡くなった早苗の位牌に手を合わせた。

 

「ただいま帰りましたー」

 池上が玄関を開けながら元気に挨拶をして帰ってきた。

「おかえり!」

 テワタサナイーヌが玄関で池上を迎えた。

 尻尾が元気に振られている。

 テワタサナイーヌには、誰かが家の門を入って玄関まで歩く足音で、誰が帰ってきたのかわかる。

 今日も、池上の足音に気づいたテワタサナイーヌは、椅子から飛び跳ねるように立ち上がると、尻尾を振りながら階段を駆け下りた。

(犬だよね、私)

 自分でも飼い主を玄関で大歓迎する犬のようだと思った。

「ただいまテワさん」

 池上が尻尾を振るテワタサナイーヌの頭を撫でた。

 テワタサナイーヌは、嬉しそうに目をつぶって舌を出している。

「試験、お疲れさま」

「ありがとっす。今回はいけそうっすよ」

 池上が自信たっぷりに言った。

「すごい!頼もしいね」

 テワタサナイーヌが池上に抱きついた。

 

「ただいま帰りました」

 池上より遅れて山口が試験官の仕事を終えて帰宅した。

 池上と山口の帰宅の挨拶は同じだ。

 ただ、池上の挨拶は語尾が伸びるところが山口と違う。

「おかえりなさい」

 弥生が奥から声を上げて迎えた。

「今年の試験は、ちょっと難しそうでした」

 ネクタイを緩めながら山口は試験問題の感想を言った。

「あら、そうなの。さっき大輔くんが帰ってきたとき『今回はいけそう』みたいなことを自信有り気に言ってたわよ」

「そうですか。普段の努力の結果でしょう。期待できそうですね」

 山口は嬉しそうだ。

「あとで二人に先導の話をしないといけませんね」

「そうね」

「早苗さんは、受けると思いますか」

「あの子は受ける。どんな危険があっても自分が必要とされていると思えば必ず受ける子よ」

「そうですね。私もそう思います」

「あなたの子らしいわね」

 

ぶぶっ

 

 テワタサナイーヌのスマートフォンが震えた。

(ん?)

 ほぼ全裸のテワタサナイーヌがスマートフォンを開いた。

「家族会議をします。池上くんと下に来てください」

 山口からのメールだった。

「大輔くーん、お父さんが下に来てだって」

「了解っす」

「家族会議だってよ。今までそんなことやったことないよね」

「ないっすね。なんだろう」

 二人は若干の不安を抱きながら階段を下りた。

「本当に寒くないんですか」

 小さなショーツ一枚のテワタサナイーヌを見て山口が訊いた。

「寒かったら服着てるから。犬はね、基本的に服着ないでしょ」

 テワタサナイーヌが当然だろうという顔で答えた。

(あ、だから私は露出好きなんだ)

 自分の発言で自分の露出好きの理由がわかった。

「そうですね。訊いた私が愚かでした」

「わかればいいのよ」

 テワタサナイーヌが勝ち誇った。

「まあ座りましょう」

 山口が全員に椅子を勧めた。

 テワタサナイーヌは、椅子の背もたれを抱きかかえるように座った。

「早苗ちゃん、その座り方は脚が開きすぎ。男の人がいるときは前を向いて座りましょ」

 弥生が注意した。

「あ、そうね。ごめんなさい」

 テワタサナイーヌが座り直した。

 テワタサナイーヌの家での無防備さは、座敷犬の無防備さに似ている。

「えー、本日お集まりいただいたのは他でもありません」

 山口が家族会議の開始を宣言した。

「堅い」

 弥生がダメ出しをした。

「すみません。家族会議ということでメールをしたのは、理由があります。一度、家族会議というものをやってみたかったからです」

「それだけの理由?」

「それだけの理由です」

「帰っていい?」

 テワタサナイーヌが呆れて2階に帰ろうとした。

「まあお待ちください」

 山口が引き止めた。

「もったいつけてないでさっさと言いなさい」

 弥生が進行を促した。

「はい。それでは本題に入ります。早苗さんにご相談です」

「なによ」

 テワタサナイーヌは、半ば本気で不機嫌になっている。

「来月、東京マラソンがあります。知ってますね?」

「知ってる」

「知ってるっす」

 テワタサナイーヌは不機嫌に、池上はいつもどおりに返事をした。

「その先導を総監直々に下命されました」

 山口が大仰に言った。

「えっ、お父さんが?」

 テワタサナイーヌが驚いた。

「いえ、早苗さんと私の二人です」

「えーーーーーーっ!?」

 テワタサナイーヌが更に驚いた。

「親子で先導したら面白いだろうと総監に言われました」

 山口が総監の趣旨を伝えた。

「そりゃあ話題になるでしょうよ。お父さん有名人なんだから」

 テワタサナイーヌが山口のTwitter警部としての評価に言及した。

「有名なのは私じゃなくて『款』と名乗っている担当者ですから」

「そうだけど、先導やったら絶対紹介されちゃうよ」

「そうでしょうね」

「ところで」

 山口の顔が真面目になった。

「今回の先導、早苗さんにはもう一つ、重要な任務が付与される予定です」

「予定ってどういうこと?まだ決まってないの?」

 テワタサナイーヌが小首を傾げた。

「テワさん、めっちゃかわいいっす!」

 池上が喜んだ。

「はい、まだ決まっていません。総監から早苗さんの意思を確認するように言われています」

 山口が総監からの下命でテワタサナイーヌの意思を確認することを伝達した。

「なにやらせようってのよ」

 テワタサナイーヌは嫌な予感がした。

「爆発物探知です」

 山口が端的に言った。

「いいよ、やるよ」

 テワタサナイーヌは、こともなげに受けた。

「危険が伴いますよ」

 山口が念を押した。

「わかってるよ。でもあれでしょ。私のこれを使いたいんでしょ。いいよ」

 テワタサナイーヌは、自分の鼻を指差した。

「使いたいって言ってくれる人のためなら何だってやるよ」

 テワタサナイーヌに悲壮感はない。

 それが当たり前と思っている。

「ほらね、やっぱり早苗ちゃんは受けてくれたでしょ。そういう子よ、この子は」

 弥生がテワタサナイーヌの頭を撫でた。

 テワタサナイーヌが目を閉じて、てろんと舌を出した。

「ありがとうございます。早苗さんの意向は確認しました。池上さんのご意見は?」

 籍を入れていないとはいえ、実質的な夫である池上の意向も尊重しなければならない。

「俺はテワさんの気持ちを一番にします」

 池上も同意した。

「死ぬこともありますよ」

 山口が再度池上にも念を押した。

「覚悟してます。テワさんは、二度も死にかけてるんです。そう簡単には死にません。俺はテワさんを信じて送り出すだけです」

 池上にも悲壮感は感じられない。

(この二人の信頼関係は尋常じゃないな)

 山口は感心した。

 家族会議は、山口の予想を裏切る平穏な幕引きとなった。

 

──週明けの月曜日

 山口は総監に先導を受けると回答した。

 また、テワタサナイーヌの爆発物探知も喜んで引き受けると併せて回答した。

 白バイの運転に関しては、昔の勘を取り戻すためのブラッシュアップでいい。

 テワタサナイーヌに至っては、夏まで乗務していたので、簡単に再訓練すればいい。

 問題は、爆発物探知の訓練だ。

 通常、犬の場合は、爆発物をみつけるとハンドラーが遊んでくれたり、ほめてくれるという動機づけを行う必要がある。

 しかし、テワタサナイーヌの場合は、自分の意志で動けるので爆発物の臭いを覚えるだけで済む。

 その週の水曜日、テワタサナイーヌは、総監の指示で警備二課の爆対に行き、爆発物の臭いや基本的な取扱いを習うことになった。

「テワタサナイーヌさん、爆弾を扱ったことありますか?」

 爆対の係長がテワタサナイーヌに質問した。

「あるわけないじゃないですか」

 テワタサナイーヌが笑った。

「ですよね。あったら怖いです」

 係長も笑った。

「爆発物探知は、爆発物特有の臭いさえ覚えてもらえればすぐできます。だからテワタサナイーヌさんには、本当に簡単な仕事だと思います」

 係長は爆発物の資料をめくりながらさらっと言った。

「そんなに簡単に覚えられるんですか?」

 テワタサナイーヌが小首を傾げた。

「犬が覚えられるんです。テワタサナイーヌさんにできないはずないですよ」

 あくまでも楽観的な人のようだ。

「軍用爆弾には、条約で『爆発物マーカー』といわれる物質を配合しなければならないと決めれているんです」

「へー、爆発物マーカーですか。それは何ですか?」

 テワタサナイーヌが質問した。

「爆発物マーカーというのは、テロ防止のため、爆発物探知機に反応するように配合させる物質のことです。あ、これはいわゆるプラスチック爆弾に限られます」

「へー、へー、へー」

 テワタサナイーヌは感心している。

 新しい知識が入ってくるのが楽しいようだ。

「要は、この爆発物マーカーの臭いを覚えてもらえれば、軍用のプラスチック爆弾については探知できるというわけです」

「なるほどねー」

「じゃあ軍用じゃない爆弾はどうするの?」

 テワタサナイーヌがもっともな疑問を呈した。

「鋭いですねえ、テワタサナイーヌさん。軍用じゃない爆弾で爆発物マーカーが入っていないものは、探知しにくいです。頑張ってください」

 そう言って係長は笑い飛ばした。

「それでいいんだ」

 テワタサナイーヌも苦笑するしかなかった。

「まあ、あれですよ。ニトログリコールの臭いでも覚えておいてくれれば、だいたい事足りますよ。あ、ニトログリコールも爆発物マーカーですから」

「だいたいなんだ」

 爆対の係長は、かなり大雑把な性格らしい。

「せっかくなんで爆弾、爆発させますか?」

 係長が恐ろしげな提案をした。

「ここでですか?」

 テワタサナイーヌは、怖くなった。

「いや、さすがにここで爆発させたら大事になります。ちゃんとした施設で安全が確保された状態のもとに爆発させます。それで、爆弾の威力を実感して欲しいんです」

 係長は、単に遊びとして提案したのではない。

 爆弾の威力を実感して、爆弾を正しく恐れる姿勢を身につけて欲しかったのだ。

「わかりました。見せてください」

 テワタサナイーヌも趣旨を理解した。

「では、明日、群馬県まで出張します」

「え、都内ではできないんですか?」

「都内に爆弾を爆発させられる場所があると思いますか?」

 係長が笑った。

「そうですよねー」

 テワタサナイーヌも笑った。

 翌日、テワタサナイーヌは爆対の係長に連れられて群馬県下のとある施設で爆弾の爆発実験を見学した。

(爆弾こわっ)

 テワタサナイーヌの正直な感想だ。

「テワタサナイーヌさん、これはどうでもいい知識なんですけど、爆発って急速な燃焼による気体の膨張なんですね。で、この膨張速度が音速を超えるか超えないかで呼び方が変わります。音速を超えないと『爆燃』といいます。音速を超えるものを『爆発』とか『爆轟』といいます。覚えておいて損はないですよ。得もないですけどね」

 そう言って係長は大笑いした。

(変な人だけど信用できそう)

 爆発物でわからないことがあったら、この係長に質問しようと思った。

 

 群馬県下の施設を出たところでテワタサナイーヌはスマートフォンの電源を入れた。

 その施設内は、セキュリティ確保のため通信機器の持ち込みは禁じられていた。

 

ぶぶっ

 

 電源を入れて間もなく、テワタサナイーヌのスマートフォンが震えた。

(はて、なにかしら)

 テワタサナイーヌはスマホカバーのフラップを開けた。

「一次試験合格したっす!ドヤァ」

 池上からのメールだった。

「やった!」

 テワタサナイーヌは、思わず声を出してしまった。

「どうしました?」

 係長がテワタサナイーヌに訊いた。

「あ、夫が一次試験合格したんです」

「おお、それはおめでとうございます!」

 係長も一緒になって喜んでくれた。

 

(もう夫でいいよね。大輔くん)




 この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

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