当たり前の後ろ ~テワタサナイーヌ物語~   作:吉川すずめ

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褐色脂肪細胞

「いっただきまーす」

 家族4人で過ごす初めての大晦日。

 テワタサナイーヌは、焼肉を前にして満面の笑みだ。

 今日の焼肉は、山口の奢り。

 クリスマスイブ道玄坂走れ事件の首謀者が山口だったことがばれ、罪滅ぼしのために一席設けさせられていた。

「共謀共同正犯だからね」

 カルビを頬張りながらテワタサナイーヌが山口に笑いかけた。

 共謀共同正犯というのは、犯罪を犯す謀議をした者は、たとえその者が実行に加わっていなくても共犯になるという理論をいう。

 要はグルだ。

 山口が池上に無線でいたずらすることを持ちかけたのだ。

「教唆犯です」

 山口が焼き網の上で程よく焼けた肉を弥生の皿に運びながら言った。

「そうっす。だって俺はテワさんにいたずらするなんて発想全然なかったんすよ」

 池上が自分は悪くないというような顔でテワタサナイーヌに訴えた。

 元々罪を犯す意図がない人をそそのかした場合は、共謀ではなく教唆になる。

「ほんとにー?」

 テワタサナイーヌがジト目で池上を見た。

「池上さん、ちゃらいイタリア男ですが、案外真面目なんですよ」

 山口が池上をカバーした。

「わかる」

 テワタサナイーヌも同意した。

「お父さんは、その反対で、渋いイタリア男なのに案外不真面目よね」

 テワタサナイーヌは、山口の目の前の網の上から焼けた肉を奪って口に運んだ。

「あ、私の肉…」

 山口がしょんぼりした。

 テワタサナイーヌは、そんな不真面目な山口が好きだった。

「上カルビ10人前くださーい。塩でね」

「ハラミ5人前。塩で」

「生ビールおかわりー」

「上タン塩5人前!」

「焼肉おいしいよねー。特に奢りだとなおさら」

 テワタサナイーヌは、満足げに生ビールのジョッキをあおった。

 テワタサナイーヌには遠慮というものがない。

 特に山口に対しては。

 山口は、いたずらの代償の大きさに心底後悔した。

「早苗ちゃん、そんなに食べてよく太らないわね」

 弥生が感心した。

「んー、なんでだろ。なんにもしてないけど、なんでか太らないんだよね」

「そういえば、太らない理由で褐色脂肪細胞がどうたらこうたらって言われたことがあるよ。なんかね、犬化のせいで普通はなくなるはずの褐色脂肪細胞が大人になっても残ってるんだとかなんとか」

「それとね、筋肉が犬っぽくて、基礎代謝が高いらしいよ。私って、中身はまるで犬よね。あ、見た目もか」

 テワタサナイーヌの箸とおしゃべりは休むことがない。

「あら羨ましい。そのまま褐色脂肪細胞が消えなければ中年太りの心配もないわね」

 弥生が羨ましがった。

 網の上の肉から油が落ちて炎が上がる。

「焼肉は、おいしくて好きなんだけど、毛皮に臭いが染み付くのよね。あとでシャンプーが大変。ほら、私ってば身体中毛だらけじゃん。洗剤の減りが早い早い」

 そう言ってテワタサナイーヌは身体にぴったりフィットしたTシャツをまくり上げてお腹を見せた。

 Tシャツの中から見事に割れた腹筋が出てきた。

 テワタサナイーヌは、酔っぱらっていた。

「テワさん、ダメっすよ。お腹は毛が生えてないから普通の肌っす」

 隣に座っていた池上が慌てて制止した。

「あははは、そうだった。じゃあどこ見せればいい?」

「そういう問題じゃないっす。それに毛皮は、剥いだあとの製品っす」

 池上が困ったという顔をしてテワタサナイーヌを押さえた。

 

「あーおいしかった。お父さん、ごちそうさま」

 テワタサナイーヌは、池上と繋いだ手を前後にぶんぶん振りながら上機嫌で歩いている。

 ただし千鳥足で。

 テワタサナイーヌは、自分の歩調で手を振っているが、違う歩調の池上は、リズムが狂って歩きにくそうにしている。

「おいしかったねー。幸せだねー」

 テワタサナイーヌが弥生に言った。

「そうね。お父さんにとっては切ない大晦日になったみたいだけどね」

 山口と手を繋いだ弥生が山口の顔を覗き込んで笑った。

 散財させられた山口だったが、その顔は満足そうだった。

 家族揃って笑顔でお腹一杯食べられることが嬉しかった。

 二組の夫婦がそれぞれ手を繋いで仲良く帰宅した。

 家に入ると服や髪に着いた臭いが気になる。

「大輔くんお風呂入ろー。お父さん、お母さんおやすみなさーい。よいお年をー」

 テワタサナイーヌが池上を連れて2階に上がって行った。

「お腹一杯で動けないよー」

 テワタサナイーヌがベッドに倒れ込んだ。

「テワさん、お風呂入るんじゃなかったんすか」

 池上がたしなめた。

「そうだった。早く言ってよ」

(さっき下で自分で言ってたんだけどなあ)

 池上がやれやれという顔をした。

 テワタサナイーヌは、着ていた服をぽいぽいと脱ぎ捨て全裸になった。

「三助ー、行くぞー」

 テワタサナイーヌが池上の手を引いた。

 三助とは、銭湯で客の身体を流すサービスを提供する人のことだ。

「はいはい。わかりました」

 池上がテワタサナイーヌについて行く。

 池上は、三助と呼ばれることに疑問を感じていないようだ。

「はい、じゃあそこに座って」

 池上は、バスルームでテワタサナイーヌを椅子に座らせた。

「はーい」

 テワタサナイーヌは、相変わらずご機嫌だ。

 池上にシャンプーしてもらうのがテワタサナイーヌのお気に入りだからだ。

 池上は、シャワーの温度を確かめる。

「下向いて」

 池上がテワタサナイーヌに指示する。

 テワタサナイーヌは、頭を下げて目を閉じる。

 池上がシャワーのお湯を耳の先から当てていく。

 耳の毛が濡れて見る見る体積を小さくしていく。

 毛がフサフサしていない耳は、意外と小さい。

 耳から髪に移ってお湯をかける。

 池上がポンプ式のボトルからシャンプーを手に取る。

 両手に軽くなじませて左右の耳にシャンプーを付ける。

 耳を揉むように先から付け根に向けて洗う。

 テワタサナイーヌが震えた。

 耳を洗われるときは、いつもゾクゾクする。

 池上がシャンプーを追加して髪全体に行き渡らせる。

 池上のシャンプーは気持ちがいい。

 爪を立てず、指の腹で地肌をマッサージするようにまんべんなく洗ってくれる。

「痒いところはない?」

「うん。ない」

 池上はシャワーでシャンプーを洗い流した。

 次にトリートメントを適量手に取り、耳と髪にまんべんなく揉み込む。

「寒くない?」

「大丈夫。私、あんまり寒さは感じない身体だから。感じないっていうか調節できる」

「犬だから?」

「うん」

 テワタサナイーヌは尻尾を振った。

「犬って言われるの嫌じゃない?」

「前は、すっごく嫌だったよ。でもね、最近は気にならない。特に大輔くんに犬って言われるのは好き」

「なんで?」

「わかんない。大輔くんの前だと犬になってるのかもしれないね」

「テワさんの犬成分は可変なんだ。首輪する?」

「あはは、いいよ」

 そんな会話をしているうちに1分くらいが経ち、トリートメントを流す時間になった。

 池上がトリートメントを軽く流してシャンプーが終わった。

「これでいい?」

「おー、三助ありがとう。あと、背中だけ洗ってくれる?」

「いいよ。今日はトリートメントする?」

「うーん、まあ一年の最後だからトリートメントしてお正月を迎えよっかなー」

「了解」

 池上は、ボディソープを手に取り背中の毛並みに沿って泡立てる。

 池上が初めてテワタサナイーヌの背中を流すとき、シャンプーで洗うべきかボディソープにすべきか迷った。

「どっちで洗えばいいんすか?」

「別になんでもいいんじゃない?」

「そうすか」

(毛が生えてるんだからシャンプーかな)

 池上は、シャンプーで洗ってみた。

 確かにシャンプーで洗うときれいにはなった。

 ただ、毛の油分が抜けすぎてパサついてしまった。

 その経験から、それ以降はボディソープで洗うことにしている。

「あーだめだめ。ぎゃははは!」

 池上が傷痕を洗うとテワタサナイーヌがくすぐったがって身をよじった。

 洗い流した後は、背中にトリートメントをして池上の任務は完了だ。

「じゃあ三助終わりっす」

「いつもありがとねー」

 池上がバスルームを出た。

 

「明けましておめでとうございます」

 大晦日から一晩明け、元旦を迎えた。

 テワタサナイーヌと池上が山口夫妻に新年の挨拶をするため、1階に下りてきた。

 二人ともまだ寝ぼけた顔をしている。

 テワタサナイーヌは、例の薄手のシャツ一枚だ。

 家にいるときは、この格好が普通になっている。

 お尻が見えているが、山口をはじめ誰も気にしない。

(家族って気楽でいいわ)

 尻尾や傷痕に気を遣わなくていいのは、テワタサナイーヌにとって本当にありがたいことだった。

「お父さんたちは、毎年初詣に行ってるの?」

 テワタサナイーヌが山口に訊いた。

「はい、行けるときは行っていますよ」

「へー、どこに行ってるの?」

「近所の神社が多いです」

「明治神宮とか有名なところには行かないんだ」

「あんまり人が多いと神様がお願い事を聞き逃してしまうかもしれませんから」

「なるほどねー。今年は私たちも連れて行って」

「もちろんですよ。おせち料理をいただいて、一息ついたら行きましょう」

「はーい」

 四人が身支度をして家を出た。

 今年の元旦は、例年になく寒い。

 吐く息が白く耳が痛くなるくらいに冷え込んでいる。

 テワタサナイーヌを除いた3人は、完全防寒といった出で立ちで着膨れしている。

 一方、テワタサナイーヌはといえば、相変わらずのミニスカートに生足で、トップスも薄手のカットソー一枚だ。

 それにトレンチコートを羽織っているが、例によってコートの前は閉めない。

 四人は、近くを流れる幅20mくらいの浅底の川に沿って歩いて行く。

 川の両岸が土手になっていて、その土手の上が幅2mくらいの舗装道路で人が歩けるようになっている。

 河川敷は草が霜で真っ白に凍りつき、土の部分には霜柱が立っている。

 テワタサナイーヌは楽しそうにくるくる回ったりステップを踏みながら歩く。

 回転するたびにトレンチコートが広がりテワタサナイーヌに冷気を纏わせる。

 テワタサナイーヌは、そんなことをまったく感じていないかのように楽しそうだ。

 ゆっくり10分ほど歩くと、川沿いに小さな神社がある。

 神社には近所から初詣の参拝客がちらほら集まっている。

「これなら神様もお願いを聞き逃すことはないです」

 山口が三人に言った。

 四人は頭を下げて鳥居をくぐり、手水舎で手と口を清めた。

 次に本殿に進み賽銭を投げ入れ、山口が鈴を鳴らした。

 四人揃って2回拝礼をする。

 そして、手を合わせてお祈りをする。

 

(早苗が元気な赤ちゃんを産めますように)

 山口の願いは飛躍していた。

 

(男二人の果てしないバカが治りますように)

 弥生の願いは切実だった。

 

(大輔くんと仲良く暮らせますように)

 テワタサナイーヌの願いは順当と言える。

 

(今年こそ警部補に昇任できますように)

 池上の願いは、神様にお願いすることではない。

 自分で頑張れ。

 

 それぞれのお願いが済んだら2回手を叩く。

 そして、最後にもう一度拝礼をする。

 二礼二拍手一礼といわれる作法だ。

 

「ねえ大輔くん」

「なんすか」

「大輔くんは、何をお願いしたの?」

 テワタサナイーヌが訊いた。

「俺すか。俺は、警部補に昇任できますようにってお願いしたっす」

「いいねー、いよいよ私に追いつこうっていうのね」

 テワタサナイーヌは嬉しそうだ。

「池上さんは、今年はいきますよ。大丈夫です」

 山口が口を挟んだ。

「え、なんで?」

 山口が自信満々に言ったので、テワタサナイーヌは不思議に思った。

「自分の頭で判断できる男に育ったからです。パターンを丸暗記したりマニュアルに頼らなくてよくなりました」

 山口が理由を説明した。

「パターンがどうのこうのって、聞いたことがあるような…」

 テワタサナイーヌが流し目で池上を見た。

「ごほんごほん」

 池上が咳払いをした。

「ここまで言われたら合格しないわけにいかないわね」

 弥生が少し気の毒そうに池上を見て言った。

「合格してみせるっす」

 池上が宣言した。

「ところで、試験っていつだっけ?」

 テワタサナイーヌは、自分が受験したときのことをすっかり忘れていた。

「お正月明けたらすぐですよ」

 山口が言った。

「えーっ、もうすぐじゃない!大輔くん、家で全然勉強してないけど大丈夫なの?」

 テワタサナイーヌが騒いだ。

「大丈夫です。池上くんは普段の仕事が勉強になっています。そういう仕事の仕方を身に着けています」

 山口が太鼓判を押した。

「そ、そんなに持ち上げられると逆に怖いっすね」

 池上がもじもじした。

 

ごぽっ

 

(なにこの音?)

 テワタサナイーヌの耳に川の水から何かが落ちたような濁った音が飛び込んできた。

 人間の耳にはまったく聞こえない音だ。

 

じゃぽっ

 

 ほんのわずか遅れて空気の振動としての音が聞こえた。

(え、なに?なんか川に落ちた?)

 テワタサナイーヌは嫌な予感がした。

 他の三人は、平然としている。

 聞こえていないようだ。

 

 

ごぼっ、ごぼっ

 

 水の中で暴れるような音が川の水から聞こえてきた。

「誰か落ちた!」

 テワタサナイーヌが大きな声で言った。

 他の三人が驚いたようにテワタサナイーヌを見た。

「水の音が聞こえる。水の中で誰かが暴れてる」

 テワタサナイーヌは、その音が川の上流、下流のどちらから聞こえてくるか確かめようとした。

 右耳を上流に、左耳を下流に向けて聴覚に集中した。

 なかなか音の出どころが特定できない。

 かすかに下流側の左耳に音が入ってきているような気がした。

「あっち!」

 下流の方を指差すと、テワタサナイーヌは走り出した。

 100mくらい下流に走っていくと、前の方に橋がかかっているのが見えた。

 橋の上には男女がいて橋の欄干から身を乗り出して下を見ている。

 その男女の表情はものすごく切迫したように見えた。

 橋から川に目を移したところでテワタサナイーヌは事態を理解した。

 川の中で小学生くらいの男の子が暴れていた。

 暴れているのではなく溺れているのだ。

 おそらく、橋の上の男女は、その男の子の両親で、突然の出来事に声も出せない状態なのだろう。

 川幅は20mくらい。

 男の子は、川のほぼ真ん中にいる。

 その周辺には浮輪のような救命具はない。

(どうする私)

 テワタサナイーヌは走りながら自問した。

 テワタサナイーヌは、トレンチコートを脱ぎ捨てた。

 次に履いていたパンプスを脱いた。

 後から追いかけてきた池上と山口がそれらを拾い集めた。

「テワさん、やめろ!低体温になってテワさんも危ない」

 テワタサナイーヌがやろうとしていることを察した山口が制止しようとした。

「大丈夫!それより救急車!」

 そう言い残してテワタサナイーヌは川に飛び込んだ。

 浅底と聞いていたが、実際の水深がどれくらいかは知らなかった。

 大量の飛沫とともにテワタサナイーヌが水中に消えた。

 すぐにテワタサナイーヌは姿を表した。

「大丈夫。立てる!」

 テワタサナイーヌは、そう言うと暴れている男の子の方に水をかき分けるようにして歩いて近づいた。

 暴れる男の子にみつからないようにして、その背後に回り込んだテワタサナイーヌは、男の子の後ろ襟首をつかんで引き上げた。

 みつかって抱きつかれた場合、救助者ともども溺れる危険があるからだ。

 男の子の顔が水面から出た。

 テワタサナイーヌが男の子を自分の方に引き寄せて呼吸の有無を確かめた。

「げほっ、げほ、おえっ」

 男の子は水を飲んでむせていたが、呼吸も意識もあるようだった。

 テワタサナイーヌは、そのまま襟首を引っ張って山口らがいる岸に向かった。

「引き上げて!」

 テワタサナイーヌが大声で指示した。

「わかった」

 山口と池上が男の子を岸に引き上げる。

 それを追ってテワタサナイーヌが自力で這い上がってきた。

 男の子はむせながら恐怖のため泣いている。

 水中で体温が奪われた上、水上にあげられたことで冷気に晒されて急激に体温が低下している。

 唇がみるみる紫色に変色していった。

 水上に上がったテワタサナイーヌは全身を大きく震わせて、露出している身体の毛についている水を飛ばした。

 そして、すかさず男の子を抱きしめた。

「この子にコートかけて!」

 男の子に自分のコートをかけるよう指示した。

「いや、テワさんも濡れてるから危ないよ!」

 池上が心配した。

「いいから早くかけろ!」

 テワタサナイーヌが怒鳴った。

 池上がテワタサナイーヌのコートを男の子の上からかけ、できるだけテワタサナイーヌにもかかるように引っ張った。

 池上の手には、コートを通してテワタサナイーヌがぶるぶる震えているのがわかった。

「テワさん、無理じゃないすか」

 池上が心配して言ったが、テワタサナイーヌは返事をしなかった。

 そのうち、テワタサナイーヌの身体から白い湯気が上がり始めた。

 テワタサナイーヌの息が荒くなっている。

「早苗、もう無理だやめろ。お前まで低体温になる」

 山口が止めようとしてテワタサナイーヌの肩に手をかけた。

(熱い)

 テワタサナイーヌの身体が明らかに発熱していた。

 テワタサナイーヌが震えていたのは、寒さのためではなかった。

 筋肉を動かすことで熱を発生させていた。

 そうすることで体温が上昇し、水が湯気となって蒸発していたのだ。

 そして、自分の熱を溺れた子供に分け与えていた。

(寒さを感じないって言ってたのは、こういうことか)

 池上はバスルームでのテワタサナイーヌとの会話を思い出した。

 テワタサナイーヌの息が荒くなっていたのは、エネルギーの燃焼に必要な酸素の消費量が増えたためだった。

 テワタサナイーヌに抱きかかえられた男の子は、徐々に唇に血色が戻った。

 ほどなくして救急車が到着して、男の子を病院に収容した。

 男の子は、若干水を飲んだだけで、それ以外はまったく問題なく、すぐに家に帰れたという。

 橋の上にいた男女は、男の子の両親だった。

 男の子は、橋の欄干の上を歩いて橋を渡ろうとしていた。

 それが、ちょうど真ん中の辺りで凍結していた欄干で足を滑らせて、運悪く川側に落ちてしまったのだ。

 川は、テワタサナイーヌの腰くらいまでしか水深がなかったので、その男の子でも足が立つほどだった。

 しかし、落ちたときに水を飲んでしまったことでパニックに陥り、立てる深さであるにもかかわらず溺れてしまったというわけだ。

 

「あーあ、お腹すいた」

「なんか、エネルギーが補給できるおいしいものが食べたいなあ」

 服が濡れてしまったので、コートを着ることができないテワタサナイーヌが元気に言い放った。

 男の子を救急隊に引き継いだ直後のことだ。

 テワタサナイーヌは、まったく寒そうな様子がない。

 全身から湯気を上げて満足げだ。

「わかりました。いい働きをしてくれたご褒美です。なにがいいですか」

 山口は、テワタサナイーヌの要求通りのものをご馳走するつもりだった。

「お母さんのおにぎり!」

「あら、じゃあ早く帰って作らなきゃ」

 弥生が嬉しそうに言った。

「それよりまずはお風呂っす」

 池上が言った。

「そうよね。まずはきれいにしないと。三助、またシャンプーお願いね」

 テワタサナイーヌが池上を見て言った。

「三助?」

 山口が聞き返した。

「そう、三助。大輔くんにシャンプーしてもらうときは、三助なの」

 テワタサナイーヌが当然という顔をした。

「すっかり尻に敷かれてますね」

 山口が苦笑した。

「俺たちは、これでいいんす」

「そういうものっす」

 池上は屈託なく言った。

「そうですね。そういうものですね」

 山口も納得した。

 

「ねえお父さん」

「はい、なんですか」

「靴、履かせてもらっていいかな。足が冷たいの」

「あ、すみません。忘れていました」

 水から上がってずっとテワタサナイーヌは裸足のままだった。

「あのね、身体は熱を出せるんだけど、手足は冷えるのよ。普通に。だからちょっと足が辛いかなーって」

 テワタサナイーヌが足踏みをしながら言った。

「どうぞ」

 山口が靴を揃えてテワタサナイーヌの前に出した。

「ありがとう」

 テワタサナイーヌが礼を言った。

「俺の手袋使うといいっすよ」

 池上が自分の手から手袋を外して差し出した。

「大輔くん優しい!好き」

 手袋を受け取ったテワタサナイーヌは、池上の手袋に手を入れた。

「大輔くんの手、あったかい」

 手袋に残っていた池上の手の温もりが嬉しいテワタサナイーヌだった。

「それにしても早苗さんの褐色脂肪細胞の威力は凄いわね」

 弥生がため息を付いた。

「自分でもびっくりよ」

 テワタサナイーヌも自分にこんな能力があるとは思わなかった。

 寒さを感じないようにある程度コントロールすることはできていたが、気合で発熱させることができるとは知らなかったのだ。

 

「早苗さん」

「なーに、お母さん」

 弥生がテワタサナイーヌに呼びかけた。

「あなたって、根っからの警察官ね。とっても素敵よ」

 お世辞ではなかった。

 弥生は、絶対に自分ではできないようなことをやってのけるテワタサナイーヌを職業人として尊敬していた。

「うん。だってお父さんの娘だもん」

 テワタサナイーヌは誇らしげに山口を見た。

「早苗さん、また焼肉奢ってあげます」

 山口が相好を崩した。

 テワタサナイーヌが池上を見てぺろっと舌を出して肩をすくめた。




 この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

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