当たり前の後ろ ~テワタサナイーヌ物語~   作:吉川すずめ

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警察犬イーヌ号

「ねえ大輔くうん」

 全裸のテワタサナイーヌが甘ったるい声で池上を呼んだ。

 クリスマスイブの翌日、テワタサナイーヌは夕方まで熟睡していた。

 池上が帰宅して目を覚ましたところだった。

 テワタサナイーヌは、寝るとき裸が好きだった。

 全裸で脚を抱えるように丸くなり、池上にくっついて寝ると落ち着く。

 もう背中の傷痕を見られることに怯えることもない。

 むしろ池上に傷痕を触られることに快感を覚えるようになった。

 テワタサナイーヌは池上の前では抵抗なく裸になれる。

「な、なんすかテワさん。どうしたんすか今日は?」

 いつも自分を呼ぶときは上から目線のテワタサナイーヌが、甘ったるい声を出したので池上は動揺した。

「私にー、なんかー、謝ることなあい?」

 テワタサナイーヌがものすごく甘ったるい声と艶かしい目で池上に迫った。

「昨日ね、私渋谷にいたでしょ。そしたらね、上京型のオレオレ詐欺の被害者になりそうなおばあさんを見つけたの。でね、おばあさんを神泉駅でステルスに引き継いで、そこからスクランブル交差点に戻ったわけよ」

 テワタサナイーヌは、相変わらずぬめるような艶かしい目で池上を見つめている。

 妖艶なテワタサナイーヌの表情に池上は欲情した。

 しかし、そのマズルが徐々に伸びているのに池上は気づき、戦慄した。

 テワタサナイーヌのマズルが伸びるとき、それはテワタサナイーヌの怒りが激しいことを示す。

 膨らみかけた池上の欲情が一気に萎んでいく。

「でね、道玄坂まで戻ったところで隊の無線であることを指示されたんだけどお、なんだと思うー?」

 声と表情が甘ったるいだけに余計に怖い。

「な、なんすかね」

 池上は後ずさりした。

 ベッドの上で裸のまま四つん這いになったテワタサナイーヌが迫る。

 弓なりに反った背中が美しいカーブを描く。

 背中でひきつる傷痕が別の生き物のようにうごめく。

 毛並みの揃った全身の獣毛が濡れたような光沢を放つ。

 牙を剥き尻尾を立てて這う姿は、まさに狂暴な雌犬だった。

 池上は、恐怖に震えながらもこのまま襲われたいという倒錯した欲望に駆られた。

「こっち来て」

 テワタサナイーヌが池上をベッドに誘う。

「は、はい」

 池上は恐怖で声が裏返った。

 ベッドに腰をかけた池上の耳許にテワタサナイーヌの濡れた唇が迫った。

「謝ることは?」

 テワタサナイーヌは、吐息混じりに囁いた。

 池上がぶるっと身震いした。

「あります!あります!思い当たることがあります!すんません!俺です!俺がやりました!ごめんなさい!だから噛まないで!ビーフジャーキーあげるから許してください!」

 池上は、あっさり自白した。

(この人、犯罪者になれないわ)

 テワタサナイーヌは、内心おかしくて仕方なかったが、マズルを伸ばしたまま演技を続けることにした。

「やったのね」

 耳許に囁き続ける。

「やりました!無線でいたずらしました!」

 池上は青い顔をしている。

「あれで、私がどれだけ恥ずかしい思いをしたか、あなたわかってる?」

「わ、わかってます!ごめんなさい!」

 池上は、動くこともできず謝り続けた。

「あはは、うっそー。怒ってませーん!」

 テワタサナイーヌが普段の表情に戻り、池上に抱きついて大笑いした。

「最初はね、機動隊の人がそんないたずらするはずないのにおかしいなーと思ってたのよねえ。でね、私がパフォーマンスを始めて、群衆の中に入っていくたびに、大輔くんとお父さんの匂いがずっと着いてくるのよ。それで私わかっちゃった。大輔くん、現場に来てたでしょ?」

 池上に抱きついたまま、テワタサナイーヌが池上の顔を覗き込んだ。

「行ってたす」

 池上が観念したように言った。

「テワさんの嗅覚を侮ってたす」

 池上はうなだれた。

「いいのよ、来てくれてありがと」

 テワタサナイーヌが池上に微笑んだ。

「一晩中守ってくれたことで、いたずらは帳消し。ううん、お釣りがくるくらい嬉しかった。それに、大輔くんとお父さん、今日、仕事だったでしょ。徹夜だったのに大変だったね。お疲れさま」

 そう言ってテワタサナイーヌは池上にキスをした。

 二人の影がゆっくりとベッドに倒れ込んだ。

「いったーい」

 マズルを戻す痛みにテワタサナイーヌが泣いた。

 

 ──さらにその翌日の午後

「寒いけど気持ちいい天気ね」

「そうですね」

 テワタサナイーヌは、目黒区内の碑文谷警察署で特殊詐欺被害防止キャンペーンに参加して警視庁本部に戻るため、山口と柿の木坂を東急東横線の都立大学駅に向かって歩いていた。

 テワタサナイーヌは、小さめのショルダーバッグを袈裟に掛け、山口のコートの裾をちょこんと摘んでいる。

 以前であれば、テワタサナイーヌから手を繋ぎにいっていたことろだが、今は人目につくところでは手を求めなくなった。

 甘えたい気分のときは、人目のないところで恥ずかしそうに手を繋いでくることがある。

 山口は、テワタサナイーヌの衣装一式を詰め込んだ紫色のキャスター付きキャリーケースを転がしている。

 テワタサナイーヌは、キャメルのコートを着込んでいるが前を開けて颯爽と歩く。

 冬だというのに相変わらずコートの下はマイクロミニのスカートを履き、真っ直ぐで長い脚を惜しげもなく露出している。

「直りませんね、露出好きは」

 山口がテワタサナイーヌの脚を見ながらぼそっとつぶやいた。

「直らないね。これは虐待のせいじゃなくて私の趣味だから。ていうか、露出好きって言うと露出狂みたいで誤解されそうだからやめて」

 テワタサナイーヌは、自分の被虐待体験を平気で口にできるようになっていた。

「だいたい同じようなものだと思いますが」

 山口が苦笑した。

「あー、父親が娘のことを露出狂とか言っていいのー?ひどくないですかー?」

 テワタサナイーヌが膨れっ面をした。

 

 ぶぶっ

 

 テワタサナイーヌのバッグの中でスマートフォンが震えた。

(ん、なに?)

 テワタサナイーヌのスマートフォンが振動するのは、池上、山口、弥生からのメールとTwitter Alertsのプッシュ通知、それと防犯アプリDigi Policeのプッシュ通知だけに設定している。

 山口は、いま自分の隣で話をしているからメールが飛んでくるはずがない。

 残りの可能性は、池上か弥生のメールとプッシュ通知のどちらかだ。

 テワタサナイーヌは、バッグの中からスマートフォンを取り出して、カバーのフラップを開けた。

「あ、お父さん、Digi Policeだよ」

 テワタサナイーヌが山口にスマートフォンの画面を見せた。

「本当ですね。何の通知でしょう」

「ちょっと待ってね。いま開くから」

 テワタサナイーヌが画面ロックを指紋認証で解除して、青い背景に警察手帳のエンブレムがあしらわれたアイコンのDigi Policeを立ち上げた。

「ひったくり(碑文谷署)」

 プッシュ通知にタイトルが表示された。

「わっ、碑文谷の管内でひったくりだって!」

 テワタサナイーヌが驚いたように声を上げた。

「近くなんでしょうか」

 山口が心配そうに言った。

 テワタサナイーヌが続きの情報をDigi Policeのマップに表示させた。

「えーっ、大変!すぐ近くみたい!」

 テワタサナイーヌが山口に画面を見せて騒いだ。

「12月26日午後3時30分ころ、目黒区柿の木坂1丁目でひったくり発生。犯人は徒歩で逃走」

「まだ10分くらいしか経ってないね」

 テワタサナイーヌが山口に言った。

「場所もここから300mくらいしか離れていません。このまま駅に向かうと現場を通ることになりそうです」

 山口が地図を見ながら言った。

「私たちが役に立つことはなさそうだけどね」

 テワタサナイーヌがスマートフォンをしまいながら山口を見た。

 山口とテワタサナイーヌが都立大学駅に向かって歩いていくと、赤色灯を点灯させたパトカーが2台と取り外し式の赤色灯を屋根の上に載せたセダンが停まっているのが見えた。

「あそこが現場みたいね」

「そうですね。ちょうど採証活動をしているみたいです」

 テワタサナイーヌと山口が現場を通り過ぎようとした。

「あ、靴が落ちてるよ。犯人のやつかな」

 テワタサナイーヌが見ている先では、鑑識の係員が薄汚れたスニーカーに洗面器のようなカバーをかけようとしていた。

「さっきの情報だと犯人は徒歩で逃走となっていました。もしかしたら逃げるときに靴が片方脱げてしまったのかもしれません。カバーをかけているということは、警察犬を要請していて、臭気が散逸するのを防ぐためだと思います」

 山口がスニーカーについて推理をした。

「へー、お父さん物知りね。警察犬てどこから来るの?」

 テワタサナイーヌが小首を傾げた。

(テワさん、めっちゃかわいいっす)

 山口が頭の中で池上のセリフを再生した。

「警察犬は、東大和市にある警察犬訓練所から来るんですよ。東大和からだとここまで来るのにずいぶん時間がかかりそうですね。年末でもありますし」

「そうよね。1時間かそこいらじゃ来られそうにないんじゃないかな。ねえねえお父さん、警察犬で臭いの追跡をするんだと思うけど、臭いってどれくらい残るものなの?」

 テワタサナイーヌが疑問を投げかけた。

「条件にもよると思いますが、普通は8時間くらいといわれています。でも、繁華街のような人通りや臭いの発生源が多いところでは、1時間くらいで消えてしまうともいわれています」

「えー、じゃあこのあたりは割と拓けてるから、1時間も待ってたら臭いが消えちゃうんじゃないの?」

 テワタサナイーヌが心配そうな顔をした。

「そうですね。さすがに消えてなくなってしまうことはないと思いますが、かなり薄くなってしまうとは思います」

 そう言った山口は何かを思いついたような顔をした。

「テワさん」

「なーに、お父さん?」

「やってみますか?」

「へ?なにを?」

 テワタサナイーヌは、きょとんとしている。

「テワさんの鼻です」

 山口がにやりとした。

「ははーん」

 テワタサナイーヌもにやりとした。

「やったことないからダメ」

 テワタサナイーヌがきっぱりと断った。

 テワタサナイーヌは犬並みの嗅覚を持っている。

 この嗅覚により上野動物園で受け子を嗅ぎ分けて大規模グループの摘発につなげたこともある。

 警察学校時代、警察犬の展示訓練を見学したとき、遊びで臭気選別をやらせてもらったことはある。

 しかし、臭気による追跡は経験がないし、できる自信もない。

「未経験なのは知っています。ですが、警察犬の到着を待っていては、犯人がどんどん遠くに逃げてしまいますし、臭いも薄くなってしまいます。被害者がいるんです。ここはやってみる価値があると思います。いかがですか」

 山口が熱く説得した。

「被害者がいる」

 山口のこの一言がテワタサナイーヌの心を動かした。

(被害者のことを忘れてた。一番大事なことじゃない。なにやってるんだ自分は。バカ!)

 テワタサナイーヌは、自分の不甲斐なさに憤った。

「やらせて。必ず犯人までたどり着いてみせる」

 テワタサナイーヌの目が犬の鋭さを宿した。

 

 二人は立ち入りを規制しているテープの外から、その中にいる刑事課長と書かれた腕章をした私服の刑事に声をかけた。

「犯罪抑止対策本部の山口警部です。臭気追跡のお手伝いをさせてください」

 その声を聞いた刑事課長が二人の方に振り返った。

「犯抑が臭気追跡?所掌事務じゃないだろ」

 刑事課長はつっけんどんに答えた。

「所掌事務ではありません。ですが、東大和から警察犬の到着を待っていたのでは、臭気が散逸するおそれがあります。犯人は片方の靴が脱げた状態で逃げています。そう遠くへは行っていないかもしれません。臭気による追跡が有効と考えます」

 山口が刑事課長を説得した。

「いや、山口さんとやらよ。あんたの理屈はわかるよ。こっちだって一秒でも早く追跡したいんだよ。でも、犬がいなきゃできないんだ。それくらいわかるだろ」

 刑事課長が苛立った。

「犬ならいます」

 山口がテワタサナイーヌを前に引き出した。

「はあ?犬の着ぐるみを着た女じゃないか。あんたふざけてんのか?」

 刑事課長が怒鳴った。

「テワさん、手帳」

 山口も苛立っていたが、できるだけ冷静に話を進めようと努めた。

「テワタサナイーヌこと、山口早苗警部補です」

 テワタサナイーヌが警察手帳を開いて刑事課長に示した。

 刑事課長の顔色が変わった。

「え、あんた着ぐるみじゃないのか。ほんとにこの顔、この耳なのかよ」

 信じられないという顔で、ぽかーんと口が開いている。

 刑事課長がテワタサナイーヌに興味を示したらしく、二人に近づいてきた。

「いや驚いた。こんな女警さんがいたとは知らなかったよ。いや、顔は犬だってわかったよ。けど、能力があるのかい?」

 刑事課長の物言いが柔らかくなってきた。

「彼女の嗅覚は、犬並み、いえ、シェパードと同等です。嗅覚を使った情報収集で警視総監賞を受けています。必要であれば人事に問い合わせていただいて結構です」

 山口が落ち着いた口調で説明した。

 シェパードと同等というのは、山口のはったりだった。

 山口もテワタサナイーヌの嗅覚がどの程度なのかを確かめたことはない。

「わかりました。疑ってすまない。臭気追跡をやってもらえると助かります。手伝ってもらえますか」

 刑事課長が頭を下げた。

「お役に立てれば幸いです」

 山口も頭を下げた。

(マイクロミニはまずったな。パンツ見えちゃうよ、これは)

 テワタサナイーヌは、活動中にパンツが見えるのは厭わないが、見せたいわけではないので、若干の後悔を感じていた。

「どうぞ」

 刑事課長が二人を規制線の中に招き入れた。

「失礼します」

 山口とテワタサナイーヌが刑事課長に続いた。

「これを」

 刑事課長が鑑識係員から使い捨てのラテックス製手袋を2双受け取ると、山口に差し出した。

「ありがとうございます」

 山口は刑事課長から手袋を受け取り、1双をテワタサナイーヌに渡した。

 二人は手袋をはめ、カバーで覆われているスニーカーに近づいた。

「なるべく動かさないようにしてください」

 鑑識係員から注意があった。

「わかりました。テワさん、いいですか」

 山口がテワタサナイーヌの準備を確認した。

「ちょっと待って。鼻の用意をするから」

 テワタサナイーヌの嗅覚は、犬並みの能力を持っているが、普段からその能力をフルに使っているわけではない。

 普段からフルに使ってしまうと、周囲の臭いを拾いすぎて、とてもではないが正気を保てない。

 普段は嗅覚を大幅に抑えた状態で生活している。

 その能力を最大にするには、少しの時間が必要となる。

 テワタサナイーヌは、目を閉じ、鼻をひくつかせ、嗅覚に集中する。

 それまで感じなかった周囲のあらゆる臭いが鼻の神経から脳内に侵入してきた。

 テワタサナイーヌは顔をしかめた。

 正直言って、あらゆる臭いが無差別に脳内に侵入してくるのは不快だ。

 気持ちが悪い。

 だが、そんなことを言っている場合ではない。

 被害者がいるのだ。

 テワタサナイーヌは、悪臭に吐き気を催しながら必死に耐えた。

「用意できたわ」

 テワタサナイーヌの目が光った。

「じゃあお願いします」

 刑事課長が鑑識係員にカバーを外させた。

 テワタサナイーヌは、スニーカーを移動させないようにするため、地面に膝をつき四つん這いになった。

 池上の前以外では見せたくない犬のポーズだ。

 テワタサナイーヌは、大きく息を吸い、その息を吐き切った。

 スニーカーに鼻を近づけ、肺いっぱいにその臭いを吸い込んだ

「!!」

 テワタサナイーヌが言葉もなく地面に突っ伏して苦しんでいる。

「どうしました!?」

 山口が駆け寄ろうとした。

「臭いが混ざるから来ないで!」

 テワタサナイーヌが苦しそうに山口を制した。

(くっさ!くっさ!くっさ!なにこの靴。臭すぎ。一気に吸い込んじゃったよ。死ぬ。気持ち悪い!)

 薄汚れたスニーカーは、ものすごい悪臭を放っていた。

 それを肺いっぱいに吸い込んだものだから堪らない。

 テワタサナイーヌは、吐きそうになり何度も胃の内容物がこみ上げてきたが、なんとか飲み込んで耐えた。

(でも、この臭いを覚えるまで吸い続けなきゃ)

 テワタサナイーヌは、泣きながら耐え難い悪臭を吸い続けた。

(鼻が曲がるって、こういうことを言うんだ)

 本当に曲がるかと思った。

「臭い、覚えたよ」

 テワタサナイーヌが涙目で山口に伝えた。

「追跡できますか」

 山口はテワタサナイーヌが心配で仕方がなかった。

「できるできないじゃないの。やるかやらないかしかないでしょ。やるわよ」

 テワタサナイーヌは、まだ胃の内容物が反芻しそうなのを我慢していた。

 その日は無風。

 臭気追跡をするには好条件だ。

 テワタサナイーヌは、その場に立ち上がると服装の乱れを整えて目を閉じた。

 嗅覚を自分で調節できる最大にした。

(見えた!)

 テワタサナイーヌの脳内に臭いの帯が見えた。

「お父さん、行くよ!」

 テワタサナイーヌが山口に声をかけて歩き出した。

 テワタサナイーヌは、鼻に引っ張られるように現場から八雲通りを西に進む。

(だいぶ薄くなってるけど帯は切れてない)

 ときおり立ち止まっては目を閉じて臭いの帯を確かめる。

(帯が右に曲がってる)

 臭いの帯が八雲通りから細い路地を右折して北上していた。

 テワタサナイーヌは、帯をたどり続ける。

 しばらく帯を追って北上したところでテワタサナイーヌが山口を振り返った。

「臭いの記憶が薄れた。靴を嗅がせて」

 山口が現場に戻り鑑識係員を連れてスニーカーを持ってきた。

 テワタサナイーヌは、スニーカーを入れたビニール袋に顔を埋めて臭いを嗅いだ。

 強烈な悪臭が鼻を突く。

 また耐え難い吐き気が襲ってきた。

(被害者がいる。被害者がいるんだ。私がやらなきゃ被害者が泣き寝入りになる)

 テワタサナイーヌは、被害者のことだけを考えて耐えた。

(しかし、今の私ってば、どんなドMより被虐的だな。自分からこんなに臭い靴の臭いを嗅いでるなんて)

 まだ余裕がありそうなテワタサナイーヌだった。

「ぷはーっ!」

 ビニール袋から顔を出したテワタサナイーヌが大きく息をした。

 テワタサナイーヌが北上を続けた。

 臭いの帯は北に向けて真っすぐ延びている。

「?」

 テワタサナイーヌが鼻を上げた。

「消えた」

 大きな墓地を右手に見るところで臭いの帯がぷっつりと途切れた。

 墓地からは線香の香りが漂っている。

(そんはずない。こんなところで切れるなんて。帯はどんどん濃くなってきてたのに)

 テワタサナイーヌは焦った。

 犯人に近づいている実感があった矢先の消失だった。

 線香の香りで他の臭いがわからなくなっていた。

 テワタサナイーヌは嗅覚を限界まで鋭くして周囲の臭いを嗅ぎ分けようとした。

 しかし、あたりに線香の香りが漂い、その香りがまったく動く気配を見せなかった。

(くそっ、近くまできてるのに)

 テワタサナイーヌは唇を噛んだ。

 悔しさでマズルが伸びる。

 そのときだった。

「あった!」

 テワタサナイーヌの脳に臭いの帯が再び現れた。

 ごく薄い、かすかに見える帯が墓地の塀を乗り越えていた。

 マズルが伸びることで嗅覚が高まったのだ。

「犯人は墓地の中にいる」

 テワタサナイーヌが山口に小声で言った。

「墓地の出入り口をかためて」

 テワタサナイーヌが続けて指示を出す。

 山口が後ろからついてきている刑事課長にテワタサナイーヌの指示を伝達した。

 刑事課長が部下に指示をして墓地の出入り口に刑事を付けた。

「行くわよ」

 テワタサナイーヌが山口に一言残して墓地の塀を乗り越えた。

 途絶えたと思った臭いの帯が墓地の中には濃く残っていた。

 臭いの帯は、墓地の中を幾度も折れて続いている。

 まるで犯人が隠れる場所を探していたかのようだった。

 墓地の奥まったところにある大きな墓碑の裏に帯が入って途絶えていた。

(あの裏にいる)

 テワタサナイーヌは足音を立てないように、ヒールの高いパンプスを脱いで裸足になった。

 ひたひたと墓碑に近づく。

 臭いは鼻を突くほどに濃くなっている。

 臭いで犯人の姿さえも見える。

 間違いなく犯人はこの裏に潜んでいる。

「警察だ!動くな!」

 テワタサナイーヌは、墓碑の裏に飛び込むとドスの利いた怒鳴り声を上げた。

「わあ!」

 突然現れたマイクロミニのスカートを履いた犬耳で裸足の女に怒鳴られて、墓碑の裏にうずくまっていた犯人は驚いて尻餅をついた。

 薄汚れたスニーカーを片足だけ履き、もう片方の足は真っ黒に汚れた靴下を履いていた。

 犯人の手には女性もののハンドバッグが握られている。

 テワタサナイーヌは、犯人の片腕を取り、絶妙な関節の極めで犯人をくるっと回してうつぶせにした。

「あなたがやったのね」

 犯人の紋所に膝を当てて制したテワタサナイーヌが確認の質問をした。

 犯人は苦しそうに無言で頷いた。

「わかりました。窃盗罪で緊急逮捕します」

 テワタサナイーヌが犯人に告げた。

 

「もうやりたくない!」

 碑文谷警察署で逮捕手続を終え、外に出たテワタサナイーヌが泣き言を言った。

「臭かったですか」

 現場でテワタサナイーヌの苦悶の表情を見ていた山口も辛かった。

「臭いなんてもんじゃないよ。ほんと、死ぬかと思った」

 テワタサナイーヌが悪態をついた。

「もうやめましょうね」

 山口がテワタサナイーヌに言った。

 本当にもうやめようと思っていた。

「は?なに言ってんの?」

 テワタサナイーヌが山口を睨んだ。

「え、もうやりたくないんですよね」

 山口が不思議そうにテワタサナイーヌを見た。

「被害者がいるのよ。やるに決まってるじゃん」

 テワタサナイーヌが胸を張った。




 この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

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