当たり前の後ろ ~テワタサナイーヌ物語~   作:吉川すずめ

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祝福と懲戒コンボ

「なんか夫婦みたいね」

 テワタサナイーヌが池上の腕に絡み付きながら池上を見上げた。

 山口夫妻と最寄り駅まで一緒に帰ってきたテワタサナイーヌと池上は、駅前で山口らと別れて近所のスーパーマーケットに買い物に来た。

 池上が買い物カゴを持ち、その池上にテワタサナイーヌが絡み付くという図になっている。

「自分的にはもう夫婦す」

 池上がさらりと言った。

「まあそうよね」

 テワタサナイーヌも異論はなかった。

「あ、夫婦で思い出した。私が死にかけてたとき、大輔くんがお見舞いに来てくれて、私が退院したらプロポーズするって言わなかった?私、意識がほとんどないときに言われたからよく覚えてないんだけど」

 テワタサナイーヌは、死の境をさ迷っていたときに池上が言ったことをおぼろげながら覚えていた。

「覚えてないっすね」

 池上がとぼけた。

「えー、ほんとに?」

 テワタサナイーヌがむくれた。

「嘘っす。言いました」

「だよね。それ死亡フラグだって言ったような記憶があるもん」

「二人とも死んでないすね。よかったす」

 池上が穏やかな笑顔で言った。

「で、プロポーズは?」

「必要すか?」

「今さらかしらね」

「今更っすよね」

「じゃあさ、籍入れちゃう?」

 テワタサナイーヌが世間話でもするかのように池上に問いかけた。

「そうっすね」

 二人の結婚が決まった。

 スーパーで食料品や日用品を買い込んで、二人は家路についた。

 家に着くとテワタサナイーヌと池上は、食料品を冷蔵庫にしまい、山口夫妻がいる1階に下りた。

「お父さん、あ、お母さんも聞いて。重大発表をしまーす」

 テワタサナイーヌが陽気に言った。

「結婚するんでしょ」

 弥生がこともなげに言った。

「お母さんダメだって先に言っちゃ。感動がなくなっちゃったじゃない」

 テワタサナイーヌがしょげた。

「あははは。ごめんなさい。じゃあ今のはなしね。もう一度初めから言って」

 弥生が仕切り直しを提案した。

「うん。じゃあいい?言うよ」

 テワタサナイーヌがわざとらしい咳払いをひとつした。

「発表します。大輔くんと私は結婚しまーす!」

 テワタサナイーヌが大袈裟な抑揚をつけて高らかに宣言した。

「やっぱりそうなんじゃない」

 弥生が嬉しそうに言った。

「この二人の重大発表といったらそれくらいしかないですからね」

 山口も驚くことなく当然という顔をしていた。

「ねえ、なんかないの?まだ早いとか、娘は嫁に出さんとかさあ。そういう悶着があるもんでしょ、普通は」

 テワタサナイーヌが不満げに言った。

「あーそうですか。じゃあ、ちょっとは盛り上げましょうか?」

 山口がテワタサナイーヌに気のない言い方で答えた。

 テワタサナイーヌは、黙って2回大きく頷いた。

「池上さん、娘は嫁に出さんぞ。どうしても結婚したいなら、君が婿に来い!」

「これでいいですか?」

 山口がテワタサナイーヌに確認を求めた。

「お父さんよくできました!」

 テワタサナイーヌは喜んで拍手した。

「いいすよ」

 池上がこちらも当然といった言い方で応戦した。

「えっ!?」

 これには他の三人が驚いた。

「俺、山口になりたいす」

 池上はニコニコしている。

 悲壮感は、まったく感じられない。

「あらまあ、ずいぶん奇特な男の子だこと!」

 弥生が歓声をあげた。

「本当にそれでいいんですか?」

 山口が池上に確認した。

「はい。それでいいんじゃなくて、そうしたいんです。俺、父さんと母さんみたいな夫婦になりたいです。だから、山口になりたいです」

 池上が力説した。

「大輔くんの気持ちはよくわかったわ。でもね、その理由は山口になりたい理由になってないような気がするんだけど」

 弥生は苦笑いをした。

「やっぱりそうですか。もっと現実的な理由をつけないといけないですね。俺が山口になれば、このまま一緒に住まわせてもらえるし、表札も懸け替えなくて済むから無駄が省けます。どうですか、お得ですよ!」

 池上は、一層力を込めてプレゼンした。

「素晴らしい。いいプレゼンでした。ですが、山口にならなくてもこのまま住めますから、そこだけ減点で90点を差し上げましょう」

 山口が池上のプレゼンを評価した。

「恐縮っす」

 池上が頭を下げた。

 池上は、敬語とブロークンな敬語を使い分ける基準をもっているらしい。

「表札だけの理由で90点もあげちゃうんだ」

 テワタサナイーヌが苦笑しながらも喜んだ。

「私たちは、二人がどちらの姓を名乗っても構わないわよ。姓がどうだって、二人が私たちの子であることに変わりはないんですから」

 弥生がテワタサナイーヌと池上の手を取って言った。

「ね、旧姓若林さん」

 弥生が山口にウインクした。

 山口は、そっぽを向いて吸えもしないタバコを吸うふりをしている。

「なにそれ、聞いてないよ!」

 テワタサナイーヌが大騒ぎした。

「言ってないですからね」

 山口が相変わらずそっぽを向いたまま答えた。

 今でも結婚して女性の姓を名乗る夫婦は、極めて少数だ。

 山口が結婚した頃は、男性側の姓を名乗るのが当たり前と思われていた。

 その当時に妻となる女性の姓を名乗るというのは、世間の風当たりがかなり強かったに違いない。

 実際、山口は親族から「若林の名を絶やすのか」などと言われていた。

「名前がなんであっても、自分は父と母の子であることに変わりはない」

 こう言って山口は周囲の反対を押し切った。

 なぜ山口は弥生の姓を選んだのか。

「私は変えたくない」

 弥生がそう言ったから。

 それだけだった。

「そうですか。それではそうしましょう」

 山口は、物事を考えているのかいないのか、よくわからない男だった。

 今の池上とよく似ている。

「類は友を呼ぶわね」

 弥生が山口に言った。

「呼んでしまいましたね」

 山口が苦笑した。

「池上さん、それでいいんですね」

 山口が念を押した。

「はい。全然問題ナッシングす」

 池上が親指を立てた。

「そういうことみたいだけど、早苗ちゃんはどうなの?」

 弥生がテワタサナイーヌに尋ねた。

「私もせっかく山口になれたんだから、できれば山口でいたいなーと思ってたところ。でも、ほんとーに、ほんとーにいいの?後悔しない?」

 テワタサナイーヌが池上を気遣った。

「女のひとが姓を変えるといっても、そんなに念押しするすか?しないっしょ。同じっすよ」

 池上は頓着しない性格のようだ。

「大輔くん、いい男だわ」

 テワタサナイーヌが池上を拝んだ。

 こうしてテワタサナイーヌと池上の結婚が正式に承認された。

 

 ──翌日

 テワタサナイーヌが正式に仕事に復帰する日だ。

 始業前に、もう一度全員の前で迷惑をかけたことへの謝罪と復帰までの支援に対する謝辞を述べた。

「謝罪と謝辞で謝謝(しぇしぇ)すね」

 自席についたテワタサナイーヌに、後ろの席から池上が話しかけた。

「面白くない。思いついたことを何の考えもなしに言うんじゃないの」

 そう言ってテワタサナイーヌは大笑いしながら池上の椅子に蹴りを入れた。

「いてっ、テワさん笑ってるじゃないすか」

 池上が恨めしそうにテワタサナイーヌを見た。

「ねえお父さん」

「なんですか」

 二人の会話は、いつもここから始まる。

「私が休んでる間にオレオレ詐欺は、新しい手口とか出てきた?」

 テワタサナイーヌが山口に向き直って訊いた。

「毎日のように新しいパターンが出ていますよ」

「えー、大変。よし、頑張って広報するからね。できるだけたくさんのパターンを紹介しなくちゃ」

 テワタサナイーヌがやる気を出した。

「テワさん、テワさん」

 池上が後ろから呼んだ。

「なによ小僧」

「詐欺もそうっすけど、仕事もパターンで覚えようとすると、新しい手口や想定外のことに対応できなくなるっすよ」

 池上が得意気に言った。

 池上の方に向いているテワタサナイーヌの後ろで山口が紅茶を吹いた。

「お父さん大丈夫?」

 テワタサナイーヌが心配して声をかけた。

「あ、なんでもないです。大丈夫です」

 山口は、むせながらなんとか答えた。

「どういことなの?」

 テワタサナイーヌが池上の方に向き直って質問した。

「原理、原則を理解するんす」

 池上は鼻高々だ。

「そうすれば、想定外のことにも対応できるす。新しい手口にだって対応できるすよ」

 池上は滔々と話した。

「ふーん、小僧が賢くなったのね。で、オレオレ詐欺の原理、原則ってなんなの?」

 テワタサナイーヌが疑問をぶつけた。

「え、それは、ほら、アタリマエの原理っすよ!」

(あんまり考えてないな、こいつ)

 テワタサナイーヌは、池上の答え方で直感した。

「じゃあさ、仮にアタリマエの原理を理解したとするよ。それでオレオレ詐欺が防げるの?」

 テワタサナイーヌの突っ込みが続く。

「いや、たぶん、防げる?のかなか…」

 池上の負けだった。

「係長、助けてください」

 池上が白旗を上げて山口に助けを求めた。

「池上さん、生兵法は怪我の元ですよ。アタリマエの原理は、オレオレ詐欺のメカニズムを説明したものです。それだけで被害を防げるものではないんです」

 山口が笑いながら言った。

「アタリマエの原理だけがオレオレ詐欺の原理、原則ではないんですよ」

「この前、車の中ではアタリマエの原理までしか説明できませんでした。でも、実はアタリマエの原理には、その先があるんです」

「アタリマエの原理で、相手を自分の子供や孫といった親族だと自動的に判断してしまいますね。人は、相手に応じた行動や態度を取ろうとします。ですから、相手が息子や孫だと認識すると、それに対応する自分の地位、それは?」

 山口は池上に質問した。

「親とか祖父母とかっすよね」

「そのとおりです。池上さん、いつも冴えてますね」

 山口が池上をほめた。

「相手が子供や孫だと思うと、これも自動的に親や祖父母として振る舞おうという反応が起きます。そこに、身内の恥は隠したい、穏便に済ましたいという日本的な文化が介在するわけですが、それは置いておくとして、親や祖父母として振る舞おうとするスイッチが入るわけです。これが『親心スイッチ』です」

「アタリマエの原理によって親心スイッチが入ります。しかも、ここまですべて自動です。被害者の考えはほとんど入りません。こうなると、あとは通帳と印鑑を握りしめて金融機関に一直線です」

 山口は、テワタサナイーヌと池上を交互に見ながら説明した。

「なんだか怖い。全自動詐欺じゃん」

 テワタサナイーヌがつぶやいた。

「そうなんです。テワさん、いい表現をしました。まさに全自動詐欺なんですよ。テワさんも池上さんも、オレオレ詐欺の実際の電話を録音したものを聞いたことがありますか?」

「うん、ある。へたっぴだった」

 テワタサナイーヌが答えた。

「そうでしょう。へたくそなんですよ、演技が。まあ、あれでも犯人グループの中では演技力があると認められた人がやっているそうなんですが。それにしても、客観的に聞いていると、こちらが恥ずかしくなるくらいへたくそな演技です。それでも被害に遭ってしまうんです。演技力で騙されているのではなく、被害者が自動的に犯人の作り出す世界に入ってしまうんです」

 山口がゆっくりと説明した。

「ちょっと待ってよ。そしたら被害を防ぎようがないじゃない!」

 テワタサナイーヌが腹立たしげに吐き捨てた。

 マズルが少し伸びている。

「テワさん、マズル」

 山口がテワタサナイーヌの鼻先に手を当てた。

「あ、お父さんありがとう。いたたた」

 テワタサナイーヌのマズルが元に戻った。

 マズルが戻るとき、テワタサナイーヌには激痛が走る。

 それを山口の手を添えることで軽減することができるのだが、やはり多少の痛みは残る。

「被害を防ぐ手立てはあります。相手が全自動で攻めてくるのですから、こちらも全自動で対抗するのです。全自動に意識で対抗しようとするから負け続けてしまうわけですから」

 山口が続けた。

「被害を防ぐには、物理的に動かせるもの。言い方を変えると、外力で変更を加えることが可能なものを動かしてあげればいいのです。白バイ乗りのテワさんならわかりますよね」

 山口はテワタサナイーヌに話を振った。

 テワタサナイーヌは、腕を組んでしばらく考え込んでいた。

 珍しく難しい顔をしている。

「あっ!」

 テワタサナイーヌの顔が輝いた。

「法則や原理は破れない!だから、アタリマエの原理じゃなくて親心スイッチを攻めるのね!」

「そのとおりです。さすがテワさんですね」

 山口は、二人を別け隔てなくほめる。

「スイッチは物理的に動かせるものですからね」

 山口は、うまいことを言ったという顔で満足げだ。

「間違えて犯人側に入ってしまった親心スイッチを本来の子供や孫の方に切り替えてあげればいいのです」

「でもどうやるんすか」

 池上が首をひねった。

「ご本人に登場してもらいましょう」

「本人を呼んでくるの?そんなことしてる時間はないよ」

 テワタサナイーヌも小首を傾げた。

「テワさん、めっちゃかわいいっす」

 池上が興奮した。

「お二人は、消火訓練をやったことがありますか?」

 山口が質問した。

「消火訓練てあれでしょ。お水が入った消火器で火の絵が描いてある板に水を当てるやつよね」

 テワタサナイーヌが答えた。

「そうです。それです。あの訓練ですが、実に茶番といいますか、くだらないと思いませんか?」

 珍しく山口が汚い言葉を使った。

「消火器で水を飛ばすんだもん。バカバカしいとは思うよ」

 テワタサナイーヌも同意した。

「火を消すという意味においては、実にバカバカしい訓練ですよね。本当に火を消すわけではないのですから」

「でも、あの訓練は、火を消すことが目的ではないのです。消火器の扱いを体で覚えることが目的です。考えなくても消火器を扱えるようになることです。頭で消火器の使い方を知っていても、いざ本当の火事の場面では体が動きません。実際に動作をして体で覚えたことは、火事という非常事態の中でも再現することができるのです」

 山口の説明に力が入る。

「理屈だわ」

 テワタサナイーヌが感心している。

「オレオレ詐欺の被害防止にも、この訓練が有効だと思うのです」

「そんな訓練があるんすか?」

 池上がテワタサナイーヌの脚を撫でながら訊いた。

 テワタサナイーヌが池上の手をはたき落とした。

「あるから言ってるんです」

「道理だわ」

 またテワタサナイーヌが感心した。

「子供や孫から電話がきたら、とにかく元の携帯電話番号に折り返し電話をかける訓練をするのです」

「あらかじめオレオレ詐欺の手口に沿ったシナリオを作り、それを親子、孫祖父母で共有しておきます。そして、抜き打ちではなく、これから訓練をやるということを予告してから訓練を始めます。インシデント対応の訓練ではありませんからね。まず、子供や孫が親や祖父母に電話をかけます。そして、理由はなんでもいいですから、携帯電話の番号が変わったと言い、新しい番号をメモさせます。それだけです。そこで、通話を終えた親あるいは祖父母には、さきほど電話で言われた新しい電話番号ではなく、元の携帯電話番号に折り返しの電話をかけてもらいます。元の番号に電話がかかってくれば成功です。失敗したらもう一回やってみましょう」

「ここで気をつけてほしいのは、訓練が成功したか失敗したかではありません。折り返し電話の動作を実際にとったということだけが重要となります。水を飛ばす消火訓練で火が消えたかどうかは問題になりませんよね。動作をすること、それが訓練の目的です」

 長い説明を終えた山口は、テワタサナイーヌが淹れてくれた紅茶で口を湿らせた。

「本人と通話をすれば、間違えた親心スイッチは、正しい方に切り替わります。これで詐欺は防げます。ですから、最悪、左手に通帳と印鑑を握りしめて銀行に走り出しても、その途中で右手の携帯電話で元の電話番号に折り返し電話をかける習慣を身に着けておけば、ギリギリ被害は防げます」

 山口が付け足した。

「お父さんすごい」

 テワタサナイーヌが半ば放心状態になっている。

「係長って何ものなんすか」

 池上も顔が上気している。

「私はお二人の父ですよ」

 山口が舌を出した。

 

「復帰初日です。みなさんにご挨拶しましょうか」

 山口がテワタサナイーヌにTwitterで復帰の挨拶をするように勧めた。

「そうだった。忘れてた」

 テワタサナイーヌと山口が席を代わった。

 山口のデスクにしかインターネットに繋がったパソコンがない。

 テワタサナイーヌがTwitterを使うときは、山口と席を代わってもらっている。

 テワタサナイーヌのブラインドタッチは軽快だ。

 山口のブラインドタッチは、どちらかというと力技だ。

 最後のエンターキーを叩く音がうるさい。

 テワタサナイーヌは、パラパラと軽やかなキータッチ音を響かせて、次々とツイートを投稿していく。

「みなさーん、お待たせしました。ゾンビ犬のテワタサナイーヌでーす。事故であやうく死にかけました。みなさんも安全運転してくださいね!」

「実は、私テワタサナイーヌが死にかけたのは初めてじゃありません。2回目なんですよ。しかもしかもしかも、2回とも私の尊敬する上司、款さんが命を救ってくれました。拍手ーっ!」

「一回目は、子供のとき、ある人に殺されかけてたとこを助けてもらいました。二回目は、この前の事故のときです」

「事故の直前に、款さんが無線で私を呼んでくれました。それで私は我に返ってブレーキをかけました」

「あそこでブレーキをかけてなかったら、たぶんもろに車に突っ込んで死んでました。事故って怖いですよね」

「ということで、款さんには二回も命を助けてもらいました。マジ感謝です」

「そしてご報告があります。テワタサナイーヌは、款さんの娘になっちゃいましたよ。びっくり?」

 テワタサナイーヌの復帰にタイムラインが湧いた。

「テワちゃん生きてた!」

「無事でよかった」

「心配してたよ」

「2度も死にかけたなんて最強の死に損ないですね」

「もう一生死なないから大丈夫です」

「おかえりなさい」

「款さんの娘になったの?いいなー、私もなりたい」

「款さん、スーパーマンかよ」

 メンションが思い思いの祝福で溢れた。

 口が悪いのはTwitterのお約束だ。

 悪口も祝福と読むくらいのメンタルでないと、公式アカウントの担当は務まらない。

 テワタサナイーヌと山口は、すごい勢いで流れていくメンションを一つも見落とすまいと、懸命に追っていった。

 祝福のメッセージは、長く続いた。

 ひとつのモニタを二人で見てもテワタサナイーヌが山口に異常接近することはなかった。

 

 ──その日の午後

 テワタサナイーヌ、池上とともに昼食をとり、午後のまったりと時間を過ごしていた山口を副本部長の坂田警視長が副本部長室の中から手招きで呼んだ。

「お呼びでしょうか」

 部屋の入口で山口が声をかけた。

「どうぞ、お入りください」

 坂田はソファを勧めた。

「失礼します」

 坂田が座ったのを確認して、山口もソファに腰をおろした。

「14時になったら総監室に行ってください。テワタサナイーヌさんも一緒に」

 坂田が山口にさらりと言った。

「総監室ですか?」

 山口が聞き返した。

 総監室に警部や警部補が呼ばれることはあまりない。

 あまりないというか、ない。

 それが、総監直々に呼び出されたとなると、どう考えても普通のことではない。

「要件は何でしょうか」

 山口は要件が気になって坂田に訊いた。

「私の立場からは言えませんので、とりあえず14時に総監室に出頭してください」

 普段歯切れのいい坂田にしては、珍しく口を濁した。

「あ、きちんと上着も着て行ってください」

 坂田が付け足した。

 14時

 総監秘書室の待合にスーツを着た山口とテワタサナイーヌの姿があった。

 自分たちが何の要件で呼ばれたのかわからないのは不安だ。

 ふたりとも表情がこわばっている。

 総監秘書が入室の案内をした。

 総監執務室のドアを秘書が開ける。

「犯抑の山口警部、テワタサナイーヌ警部補入ります」

 秘書が中の総監に声をかける。

「どうぞ入ってもらってください」

 中から高柳総監の元気な声が聞こえた。

 高柳総監は、3月14日、テワタサナイーヌの誕生日に突撃インタビューをさせてもらった縁で、顔は覚えてもらっている。

 山口とテワタサナイーヌは、部屋に入ると卓球台ほどあろうかという大きな机の前に並んで立った。

「犯罪抑止対策本部、山口警部ほか1名参りました」

 山口が代表で申告した。

「お呼び出ししてしまい申し訳ありません。今日は、ちょっと厳しいことを言わなければなりません」

 高柳総監は、いつもどおりの明るい声で重大なことを言った。

(総監が直々に言う厳しいことって、どんだけ厳しいことなのよ)

 テワタサナイーヌは膝が震えた。

 総監のデスクには、漆塗りの四角い盆が置かれている。

 その盆の中をちらりと見た山口は、事態を理解した。

「辞令」

 盆の中には、そう書かれた白い紙片が2枚置かれていた。

 問題は、その中身だ。

「山口さん、前にどうぞ」

 総監が山口を呼んだ。

「はい」

 山口が返事をして、総監の前に進み出る。

 総監は、一枚の紙片を手に取り両手で持ち、胸の高さまで掲げた。

 山口はつばを飲み込んだ。

「辞令」

 総監が辞令を読み上げた。

「警部山口博 懲戒処分 減給100分の5(3か月)を命ずる」

 そう読み上げると、総監は辞令の向きを変えて山口に差し出した。

 山口は、いま一歩前に出て両手で辞令を受領した。

 受け取った辞令を一旦引きつけて、左手に持ち替えて気をつけの姿勢を取る。

 元いた位置に戻り、再度、気をつけの姿勢を取った。

「早苗さん、どうぞ」

 総監がテワタサナイーヌを促した。

 テワタサナイーヌの顔がひきつっている。

 テワタサナイーヌは、足が思うように出ない。

 ふらつくように総監の前に進み出て気をつけの姿勢を取る。

 総監が残りの辞令を手に取り読み上げた。

「辞令 警部補山口早苗 懲戒処分 減給100分の10(6か月)を命ずる」

 テワタサナイーヌが辞令を受け取ろうとするが、手が震えてうまく受け取れない。

 総監は、じっと待っている。

 どうにかテワタサナイーヌが辞令を受け取り、元の位置に戻った。

 テワタサナイーヌは、今にも泣きそうな顔をしている。

「敬礼」

 山口が号令をかけ、総監に敬礼をした。

「休んでください」

 総監が休めを勧めた。

「休め」

 山口が号令をかけ、二人で休めの姿勢を取る。

 休めと言われても、まったく休まらない。

「いま、お二人に懲戒処分を行いました。理由はおわかりかと思いますが、改めて説明します」

「まず、山口さん」

「はい」

 山口が返事をした。

「あなたは、山口早苗さんが交通事故を起こした当日、公用の自動二輪車を目的外に使用しました。さらに、緊急走行の要件がないにも関わらず、霞ヶ関ランプから八王子医療センターまで緊急走行を行いました。公用車の無断私用と、要件のない緊急走行を行ったということで、本日懲戒処分としました」

「次に山口早苗さん」

「は、はい」

 テワタサナイーヌの声が震えている。

「あなたは、ステルスチームとして活動中、逃走する犯人の追尾を行いました。その際、現場指揮官の追尾打ち切りの命令を無視し、追尾を続行するという指揮命令違背を犯しました。さらに、命令違背により交通事故を起こし、一般交通に重大な影響を及ぼしました。これは、非常に危険な行いで、場合によっては他人を死傷させるおそれのある行為です。ですから、重い処分を課します」

 テワタサナイーヌは、完全に血の気が失せている。

 貧血で倒れるのではないかと山口が心配になったほどだ。

「説明は以上です」

 総監が説明の終了を宣言した。

「気をつけ」

 山口が号令をかける。

「敬礼」

 二人で敬礼をした。

「さて」

 総監が、今までの厳粛な顔から、以前、インタビューを受けてくれたときの穏やかな顔に戻った。

「そちらに座りましょう」

 総監がインビューをしたときと同じテーブルを指して促した。

「失礼します」

 山口とテワタサナイーヌが並んで座った。

 総監は、山口と角を挟んで座る形になった。

「今回は、おふたりになかり重い懲戒処分を行いました。特に早苗さんには過酷な処分となりました。まずは、事実を受け止め、反省をしてください。」

「規律は組織の命綱です。これが緩むと組織が死んでしまいます。ですから、規律違反には、厳しく対処しなければならないのです。規律違反に温情をいれることは許されません。規律は絶対なのです。曲げてはいけないものです。わかってください。お二人を悪者にしようという意図はまったくありません」

「それはそうと、お二人が親子になられたそうで。おめでとうございます」

 総監が笑顔で祝いの言葉をかけた。

「しかも、同じ所属の池上さんと、近々ご結婚の予定だとか。益々めでたいですね」

「警視庁では、家族が同じ所属で勤務することはできないというルールがあります。ご存知ですね」

 総監が二人を見て言った。

「存じております」

 山口が答えた。

「そうなると、山口さん、早苗さん、池上さんのお三方は、別々の所属で勤務していただくことになります」

「覚悟しております」

 山口はすでに覚悟していた。

「山口さんはTwitter警部として国民に親しまれています。早苗さんも山口さんの相棒としてTwitterやキャンペーンなどで人気です。池上さんも山口さんの後を継ぐ人物として余人をもって代えがたいと坂田さんから報告を受けています」

 総監がにやっと笑った。

「この場合、変わるべきはみなさんの所属ではなく、ルールの方です」

「家族が同じ所属で勤務できないというのは、あくまでも暗黙のルールでしかありませんが、このルールは厳格に守られています。今回、お三方が家族になられた。あ、池上さんはまだ家族ではありませんが、いずれ家族になられます。そして、お三方にこのルールを適用した場合、いま山口さんやテワタサナイーヌさんとしての早苗さんが国民、都民と築いていらっしゃる信頼関係、相互理解の関係が解消されます。そして、山口さんから池上さんに受け継がれるはずのソーシャルメディア活用のノウハウやマインドが途絶えます。これは、警視庁にとって損失といえます。暗黙のルールを堅持するメリットとデメリットを比較衡量した場合、今回はデメリット、つまり警視庁としての損失の方がはるかに大きい。私は、そう判断しました」

「お三方には、現体制現任務続行を命じます」

 総監がにこやかに命を下した。

「例のものを」

 総監が秘書に向かって言った。

 総監秘書が別の盆を持ち卓球台ほどあろうかという大きな机の上に置いた。

「早苗さん、もう一度こちらいいですか」

 総監が自席に移動してテワタサナイーヌを呼んだ。

 テワタサナイーヌは、まだ青い顔をしている。

 よろよろしながら総監の前に進み出て気をつけの姿勢を取る。

 総監が盆の中に置かれたものを手に取る。

「賞誉 警部補山口早苗 君はバイク便を仮装したオレオレ詐欺事件の捜査にあたり、勇猛果敢な採証活動により事件の解決に多大な貢献をした。その功労は顕著であるからこれを賞する。警視総監高柳右近」

「ご苦労様。おめでとうございます」

 そう言って総監は賞状を反転させるとテワタサナイーヌの前に差し出した。

 テワタサナイーヌは、賞状を受け取ると総監に敬礼した。

「早苗さんが命がけで追尾をして撮影してくれた映像が犯人検挙の決め手になりました。本当にありがとう。よく生きて帰ってきてくれました。これからも活躍を楽しみにしていますよ」

 総監は涙ぐんでいた。

「実は、私もテワタサナイーヌさん推しなんですよ」

 総監が笑顔で告白した。

 テワタサナイーヌの顔に血色が戻り、笑顔が出た。

「私からは以上です。早苗さん、いやテワタサナイーヌさん、また遊びましょう」

 そう言って総監は二人を送り出した。

 総監室を出て1フロア下の犯罪抑止対策本部のある10階まで下りる階段で、テワタサナイーヌは脚が脱力してあやうく転落しそうになった。

 山口がいつものように先行してくれていたのでテワタサナイーヌは下から支えてもらえた。

 奇しくも山口に抱かれる形になった。

(ちょっと幸せ)

 テワタサナイーヌは密かに喜びを噛み締めた。

 部屋に戻ると副本部長の坂田警視長に懲戒処分と総監賞受賞の報告をした。

「懲戒処分と総監賞を同時にもらった人は、たぶん初めてじゃないですかね」

 坂田が笑いながら言った。

「懲戒処分は、総監もおっしゃったと思いますが、組織のけじめです。減給を受けると退職金などに響きます。その点は申し訳ないと思いますが、温情で曲げるという恣意的な運用はできません。ただ、今回の懲戒処分が、お二人の今後に不利益とならないようにせよとの総監からの指示を受けていることをお知らせしておきます。つまり、昇任や人事配置には影響ないということです」

 坂田が総監の計らいを二人に伝達した。

「ありがとうございます」

 山口とテワタサナイーヌは、坂田に深々と頭を下げた。

 二人は副本部長室を出て、それぞれ自席に戻った。

「もー、怖くて死ぬかと思った」

 テワタサナイーヌが安堵した様子で椅子の背もたれに体を預けて背伸びをした。

「覚悟はしていましたが、いざ辞令を受けるとなると脚が震えるものですね」

 山口も脚が震えていたという。

「え、お父さんも?」

 テワタサナイーヌが意外という顔をした。

「びびりですから」

「うそつき」

 テワタサナイーヌが山口の椅子をこつんと蹴った。

「テワさん、なにもらってきたんすか」

 池上がわかっていながらわざと知らないふりをして訊いた。

「懲戒処分と総監賞。もうびびったり喜んだりで大変だったんだからね」

「そりゃそうっすよね。懲戒処分は普通所属長から辞令が交付されるのに、わざわざ総監が直々に呼び出して渡したんすから、よっぽどなにか言いたかったんすね」

「私とお父さんが親子になっても同じ所属で仕事していいって言われたよ」

 テワタサナイーヌが嬉しそうに言った。

「よかったじゃないすか。総監、ナイスっすね」

「あ、ついでにあんたが私と結婚してもここにいていいって。ここでお父さんの後を継げ、だって」

「ほんとすか!?いやー、総監わかってるすね」

 池上が腕を組んで頷いた。

「ところで、ついでってなんすか」

 池上が気づいた。

「ついでは、ついでよ」

 テワタサナイーヌが素っ気なくはぐらかした。

「相変わらずツンデレっすね、テワさん」

 池上は楽しそうだ。

 

 その日も例によって四人で一緒に帰宅した。

「お父さんと私からお母さんに見せたいものがあります」

 テワタサナイーヌがキッチンにいた弥生をダイニングに引っ張り出した。

「なんなの?」

 弥生が笑いながら言った。

「じゃーん!」

 テワタサナイーヌと山口が同時に懲戒処分の辞令を弥生に見せた。

「あらあら、ほんとに仲がいいこと」

 弥生は、クスクス笑いながら辞令を読んでいた。

「懲戒処分を受けるようなお間抜けさんでも私の大事な夫とかわいい娘よ。あ、ついでに大輔くんも大事な娘の夫になるかもしれない人で、それなりに大事ですからね」

「やっぱり俺はついでなんすね。しかもそれなりとか」

 池上が苦笑した。

「ふふ」

 弥生が池上の頭を撫でた。

 

 山口邸の窓から、温かい光が漏れていた。




 この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

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