「お父さん、お母さん、おはよう」
「係長、奥さま、おはようございます」
テワタサナイーヌが池上と一夜を過ごした翌朝、テワタサナイーヌと池上が階下におりてきた。
2階には、まだ食事を用意することができる食材もない。
山口のところでご相伴に預かるしかない。
「あ、おはよう。早苗ちゃん、寝られた?」
山口の妻、弥生がテワタサナイーヌに言った。
山口と弥生は心なしか眠そうな様子だった。
「ドキドキして寝られなかった」
テワタサナイーヌが恥ずかしそうにしながら正直に言った。
「やっぱりそうよね。私もお父さんと初めて一晩一緒に過ごしたときは、ドキドキしちゃって寝られなかったもの。翌朝、目の下に隈ができちゃって大変だったわ。まあ慣れよ、慣れ」
「ところで大輔くんはどうだったの?」
弥生が池上に話を振った。
「ドキドキして寝られなかったす」
池上が胸を押さえながら大げさに言った。
「嘘言うんじゃないわよ。私の隣で熟睡してたじゃないの!耳元でぐーすか寝息立ててたよ」
テワタサナイーヌが反論した。
「あら、早苗ちゃん、大輔くんと一緒に寝たのね。やっぱりベッドは1台でよかったでしょ。おめでとう」
弥生は、とても嬉しそうだった。
「あー、あー、あー!」
自分の失言で藪をつついてしまったことに気づいたテワタサナイーヌは、両手で顔を覆って恥ずかしがっている。
(死ぬ!私、死ぬ!恥ずかしくて死ぬ!でも、なんで?なんか嬉しいよ?)
テワタサナイーヌは、自分もドMだったのかと思った。
弥生は、嬉しそうにクスクス笑っている。
「早苗ちゃん」
弥生がテワタサナイーヌに呼びかけた。
「なに、お母さん」
テワタサナイーヌは、まだ身悶えをしている。
恥ずかしすぎて涙目になっている。
「いくら大輔くんが好きでも、ちゃんと避妊はするのよ。望まない子供を作っちゃダメ。あなたたちと赤ちゃん、どちらにも不幸なことだから」
「それから大輔くん。大輔くんも、しっかり自覚なさい。早苗ちゃんを守れるのはあなただけよ。望まない妊娠で傷つくのは女性なんだから」
弥生は、思春期の交際中の男女に母親が注意するようなことを優しい笑顔で言ってきかせた。
「うん、お母さんありがとう」
セックスをしていることを前提とした内容であったが、弥生の態度が冷やかしや覗き趣味的なものではない、本当に自分のことを大切に思っていてくれていることが伝わる話し方であったことに、テワタサナイーヌも素直になれた。
もう恥ずかしさはなかった。
「それからもうひとつ、大事なことを言っておくわ」
弥生が笑顔から真顔になった。
真顔の弥生には凄みがあった。
テワタサナイーヌは少し緊張して身構えた。
「早苗ちゃん、あなた、男の人との距離が近いでしょ」
弥生がテワタサナイーヌの目を見て優しく語りかけた。
しかし、顔は真顔のままだ。
ぎゅっ
テワタサナイーヌは、弥生に心臓を鷲掴みにされたような胸の苦しさを覚えた。
「あなたは、4歳のとき父親に、あ、これは山口じゃない方の父親よ。父親に性的な虐待を受けていた。これは山口の話で知ってるわね。性的虐待は、逆らわなければ優しくされる。でも、逆らうと暴力が待っているの。それを繰り返し受けていると、暴力を加えられないためには、男を性的に満足させてやればいいって思うようになってしまうのよ。これは、思うというより、生き延びるためには、そう選択するしかない状況だからなのね。小さいときの早苗ちゃんも例外じゃないわ。今のあなたが男の人との距離が近いのもその名残よ。いい、早苗ちゃん。あなたの性はあなたが自分でコントロールできるの。していいの。性を提供しなくてもあなたは誰からも攻撃されないわ。今まで、あなたの周りに悪い男がいなかったのが幸運。おかしな男がいたら、たぶんあなたはもっと傷つくことになっていたはずよ。そして、その傷つくことを恐れる早苗ちゃんは、より危険な行動で男の人を誘惑して自分を守ろうとするわ。ひどい悪循環でしょ。でも、これが虐待サバイバーの現実なの。でもね、早苗ちゃんの場合、大輔くんのおかげで虐待の事実を客観視できるようになったはずだと思うの。どう?」
弥生には、ゆうべ何があったのかすべてわかっているようだった。
テワタサナイーヌは黙って頷いた。
「だからもう大丈夫。あなたは過去の虐待に支配されていた昨日までの早苗ちゃんじゃなくなったわ。あなたの身体、性はあなたのものよ。大事にしなさい」
最後は笑顔でテワタサナイーヌの手を握りながら言葉を噛みしめるように諭した。
弥生は、一番最後の「大事にしなさい」に特に力を込めて伝えた。
「うん。わかった。お母さん、ありがとう!」
テワタサナイーヌに笑顔が戻った。
「それでね」
弥生がテワタサナイーヌの耳元に口を近づけた。
「山口もあなたにドキドキしてたらしいわよ。男ってバカよね」
弥生が囁いた。
思い起こせば、自分はずいぶん山口を性的に誘惑していた。
あまり意識していなかったが、山口の関心を引きたいがためにやっていた。
それが、自分の過去のトラウマから出ていたのだとわかり、過去を恨めしく思ったが、今のテワタサナイーヌは、過去は過去だと思えるようになっていた。
「ねえお父さん」
「はい、なんですか」
テワタサナイーヌと山口の会話は、いつもここから始まる。
「私にドキドキしてた?我慢してくれてたの?」
テワタサナイーヌが弥生のようにあっけらかんと訊いた。
「なんですか、いきなり」
弥生とテワタサナイーヌの内緒話を知らない山口は、きょとんとした顔をしている。
「私がいろいろお父さんを誘惑してたじゃない。よく手を出さないで我慢してたね」
テワタサナイーヌが笑いながら言った。
「ああ、そういう話を二人でしたんですね。はい、ドキドキでした。道を誤るかもしれないと思ったこともありました。ただ、早苗さんとのことは、すべて妻に話をしていましたから、なんとか自制できました」
山口が照れくさそうに言った。
「男の人に性欲があることは隠せない事実でしょ。結婚しているから性欲が消えてなくなるなんてことはないのよ。だから、山口が早苗ちゃんに誘惑されてドキドキするのもおかしなことではないわ。だって、早苗ちゃんかわいいし、とってもいい匂いがするから。山口はね、早苗ちゃんの匂いが好きなのよ。匂いフェチだから。それで、そこで我慢するか突っ走るかで男の値打ちが決まるのよ。山口は耐えたわよ。偉いでしょ。まあ、なんだかんだ言っても私のことが好きだからなんだけどね」
弥生が勝ち誇ったように言った。
テワタサナイーヌは、ちょっと負けたような気がしたが、負けたのが嬉しかった。
「で、今も早苗ちゃんにドキドキしてるの?」
弥生が山口を追及した。
「いえ、いい匂いは好きなので楽しませてもらっていますが、ドキドキはしなくなりましたよ」
山口もあっさり匂いフェチを認めた。
ただ、以前のようなドキドキはないという。
「山口も早苗ちゃんと一緒に成長したのよ。ただの男から父親になれたってところかしら」
弥生には、山口とテワタサナイーヌの関係がすべて見通せていたようだ。
「なんか、お母さん、ごめんなさい。私、ずいぶんお父さんを誘惑しちゃってたから、お母さん気が気じゃなかったんじゃない?」
テワタサナイーヌが弥生を気遣った。
「そうねえ、ちょっと二人に嫉妬したのは事実ね。まあ私も山口と同じで早苗ちゃんのおかげで成長できたんだと思うの。娘に嫉妬する母親っていうのも変でしょ」
弥生が肩をすくめた。
池上は、目を丸くして三人のやり取りを聞いている。
「すごい親子っすね。こんなにオープンに話ができる親子って羨ましいっす」
池上が誰に言うともなく感嘆の言葉を口にした。
「なに言ってるのよ。あなたも私の息子、家族じゃない」
弥生が池上の頭を撫でながら言った。
池上の顔がぱっと明るくなった。
「じゃあ、母さんって呼んでいいんすか?」
「いいわよ、呼んでみて」
「母さん」
「なーに、大輔くん」
「うわー、なんか照れるっす」
池上が地団駄を踏んだ。
長い立ち話のせいで朝食の時間が少なくなってしまった。
四人は、急いで朝食を済ませるとそれぞれ出かけて行った。
山口と池上は言うまでもなく犯抑に一緒に出勤した。
山口の妻の弥生も山口らと同じ路線で出勤した。
弥生は、山口たちより少し先の駅まで通勤している国家公務員だ。
テワタサナイーヌは、今日は警視庁本部で産業医の診察を受けることになっている。
交通事故が公務災害と認定され、復職の可否について産業医の意見をもらうためだ。
寮に住んでいるときは、有楽町線の桜田門駅を使っていた。
しかし、事故を起こし休んでいる間に千葉県下の山口の家に引っ越していたので、今日からは千代田線で通勤することになる。
降りる駅も霞ヶ関駅に変わる。
久しぶりの中央官庁街。
地下鉄の駅から地上に出たテワタサナイーヌは、陽の光が眩しくて手のひらで光を遮った。
今日のテワタサナイーヌは、黒のパンツスーツをきっちりと着こなし、ほとんどすっぴんに近い薄化粧だ。
それでも十分にテワタサナイーヌの美しさを表現できている。
肌を露出するのは好きだが、それだけが自己表現ではないと気づいた。
診察の予定まではまだ時間があった。
テワタサナイーヌは、山口との聖地となっているガスライトというバーまで足を伸ばすことにした。
霞ヶ関駅からだと警視庁とは反対方向になるが、懐かしい官庁街の風景を見たかった。
総務省の前から外務省側へ横断歩道を渡る。
外務省前の桜並木をゆっくりと歩く。
警備の機動隊員に軽く会釈して前を通り過ぎる。
テワタサナイーヌが警視庁の警察官だということは、警視庁の中でも多くの人が知るようになっていた。
テワタサナイーヌが会釈した機動隊員もテワタサナイーヌだと気づき、笑顔で挙手の敬礼を返してくれた。
外務省の前から財務省側に道幅の広い横断歩道を渡った。
財務省の前を通り過ぎると、山口と幾度も手をつないで歩いた懐かしい坂道が見えてきた。
(お父さん、いろいろ我慢しながら歩いてたんだ)
そう思うと、なぜかおかしくなり、一人で笑ってしまった。
坂を登りきると、ガスライトが入っているビルが目に入る。
(もうお父さんと二人で来ることはないかな)
なぜか泣きそうになった。
テワタサナイーヌは、なにかを断ち切るようにガスライトの入っているビルに背を向けて財務省の裏手の道を皇居方向に歩き始めた。
そのまま真っ直ぐ、いくつか横断歩道を渡ると皇居の内堀に突き当たる。
そのまま道なりに右手に歩いていく。
左手に皇居、右手に警察総合庁舎を見ながら桜田門に至る。
警視庁正門の警備をしている機動隊員に新品の身分証を見せ、会釈をして門を入る。
あの交通事故で、携帯していた身分証はかなり傷つき血に染まってしまった。
テワタサナイーヌが休んでいる間に山口が新しいものと交換してきてくれた。
一歩一歩確かめるように玄関に続くスロープを上る。
「警視庁」
「東京都公安委員会」
玄関には、前と同じ二枚の看板が掲げられていた。
(帰ってこられたのね)
テワタサナイーヌは、生きていられたことに感謝した。
玄関を入り、ゲート前に立つ。
(ここで定期券と間違えないように)
自分に言い聞かせて、首から提げた身分証を確かめた。
(うん。間違いない)
身分証をセンサーにかざすと、軽快な効果音がしてゲートを通過することができた。
「なにあれ!?」
ゲートを通過したテワタサナイーヌが声を上げた。
玄関を入ると、副玄関に続く廊下と食堂やコンビニの方に行く廊下の二手に分かれる。
その廊下が合流する頂点に自分がいた。
(え?え?)
テワタサナイーヌは小首を傾げた。
「テワさん超かわいいっすね」
後ろから池上の声がした。
テワタサナイーヌが振り返ると、池上が満面の笑みで立っていた。
テワタサナイーヌは抱きつきたくなったが、職場では慎まなければならない。
「大輔くん、あれなに?」
テワタサナイーヌは、すぐ先にいる自分を指差して訊いた。
「あれっすか。係長が作ってくれたんすよ。等身大パネル」
池上が説明した。
そう、テワタサナイーヌのイラストの等身大パネルが展示されていたのだ。
制服制帽姿のテワタサナイーヌが笑顔で指鉄砲を作ったポーズを取っている。
「知らない人にお金をテワタサナイーヌ」
テワタサナイーヌのイラストに沿うように、テワタサナイーヌのキャッチコピーがかわいいフォントで描かれている。
「あのイラスト、見たことないんだけど」
テワタサナイーヌが初めて見るイラストだった。
「あれ、めちゃくちゃかわいいすよね。あれは、係長がオタクのネットワークを駆使して、お気に入りの絵師さんに描いてもらったそうっす」
「相変わらず変なことには力を発揮するのね、お父さんたら」
テワタサナイーヌと池上は顔を見合わせて笑った。
「部屋に寄ってく?」
池上がテワタサナイーヌに訊いた。
「うん。診察が終わったら、その結果を庶務に報告しないといけないから、あとで行くね」
「了解。待ってるす」
池上が挙手の敬礼をした。
(相変わらず敬礼好きか)
テワタサナイーヌは池上の敬礼も好きだった。
「通常勤務に支障ないものと認める」
産業医の診察結果の所見が出た。
テワタサナイーヌの復職が決まった。
テワタサナイーヌは、産業医の意見書を持って10階の犯罪抑止対策本部に向かった。
「犯罪抑止対策本部」
墨書された木製の看板が、以前と変わりなく部屋の入口に掛けられている。
テワタサナイーヌは、文字を指でなぞって確かめた。
なぜそんなことをしているかというと、部屋に入るのが躊躇われたからだ。
入れば歓迎してもらえることはわかっている。
父も池上もいる。
なにも不安はない。
とは言うものの、やはり長期間の休みの後だ、気後れするのも無理はない。
テワタサナイーヌは、意を決して入り口から顔だけ出して中を覗き込んだ。
山口と池上の姿が見えた。
入口に近い席の職員がテワタサナイーヌの姿に気づいた。
「テワさんだっ!!テワさん帰って来ましたよ!!」
その職員が大声で皆に知らせた。
部屋の中の全員が一斉に入口を見た。
全員の視線がテワタサナイーヌに集まった。
次の瞬間、部屋にいる人数の倍くらいの人がいるのではないかと思えるほどの大きな拍手が起こった。
全員が立ち上がって笑顔でテワタサナイーヌを迎えている。
「おかえり!」
男性職員が親指を立てて歓迎した。
「おかえりなさい」
女性職員は号泣している。
「待ってたよ」
「おかえり」
「おかえり」
「おかえり」
テワタサナイーヌは、部屋に一歩入り、深々と頭を下げた。
拍手は鳴り止まない。
頭を上げたテワタサナイーヌは、大きなジェスチャーで拍手を制した。
拍手が止むと、もう一度最敬礼をした。
「この度は、私の身勝手な行いから、皆さまにご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。今後は、このようなことのないよう、法令、規則、指示に従うことをお誓い申し上げます。どうか、これからもご指導のほど、よろしくお願いいたします」
言い終わると、再度最敬礼をした。
部屋がまた大きな拍手に包まれた。
テワタサナイーヌは、全員に頭を下げて謝罪をして回った。
最後に、副本部長の坂田警視長に謝罪と診察結果の報告をした。
「庶務の手続きが間に合えばですが、明日からでも復帰してください。みなさん本当に首を長くして待っていましたよ」
産業医の意見書を見た坂田が復職の許可を出した。
テワタサナイーヌは、坂田の指示を庶務に伝えた。
庶務が関係部署に問い合わせをしたところ、明日からの復職が可能という回答であった。
「明日からオッケーです」
庶務係員がテワタサナイーヌに結果を知らせてくれた。
「ありがとうございます」
庶務係員に頭を下げ礼を言うと、久しぶりの自席に向かった。
自分の席の隣には山口がいる。
山口は、いつもと変わらない飄々とした表情で仕事をしている。
(もっと大歓迎してくれてもいいのに。職場だとほんとクールなんだから)
テワタサナイーヌは少し悔しくなった。
テワタサナイーヌは、山口の隣に歩み寄ると、山口の耳元に口を近づけた。
唇が触れるくらい、というか触れていた。
「愛してる」
テワタサナイーヌは、囁いた。
山口が赤面した。
「いきなりなんですか」
テワタサナイーヌの唇が触れたことと、愛してると言われたことに驚いて後ずさった。
「ぷっ、冗談よ。お父さんが大歓迎してくれないから仕返し」
テワタサナイーヌがケラケラ笑いながら言った。
「びっくりしました。そういうのはやめなさいと今朝妻から言われたばかりじゃないですか」
山口は、まだ動揺が収まらない様子だった。
「誘惑じゃないもん。大丈夫よ、ちょっとからかってみただけ」
「大人をからかうもんじゃありません」
「あー、また子供扱いした。また反抗期に入っちゃうぞ」
「すみません、それだけは勘弁してください」
山口が頭を下げた。
テワタサナイーヌの反抗期は、山口にとって相当堪えたようだった。
「ちょっと待ってて、お茶淹れてあげる」
テワタサナイーヌが心を込めて紅茶を淹れた。
「やっぱりテワさんの紅茶が一番おいしいです」
山口は満足そうに言った。
二人のやり取りをテワタサナイーヌの後ろの席から池上が見ていた。
「テワさん」
池上がテワタサナイーヌを呼んだ。
「なによ小僧」
久しぶりの小僧が登場した。
「俺には耳にキスしてくれないんすか」
池上が自分の耳を指差して言った。
「ばっかじゃないのあんた。職場であんたにキスなんかしたらしゃれになんないの。マジなキスになっちゃうからいやらしさ爆発でしょ。ほんとに果てしないバカねあんた」
そう言いながらテワタサナイーヌは池上ににっこり微笑んだ。
池上もテワタサナイーヌに果てしないバカと言われるのを喜んでいた。
それがテワタサナイーヌの愛情表現だからだ。
まだ復職していないテワタサナイーヌに仕事はない。
早く帰ってもよかったのだが、山口と池上の三人で帰りたかったので、定時までデスクでお茶を飲んだり山口の似顔絵を描いたりして過ごした。
「Twitterで復職の挨拶をしますか。皆さんお待ちですよ」
山口がテワタサナイーヌに挨拶を勧めた。
「ううん、明日、正式に復職してからにする」
テワタサナイーヌが断った。
「そうですか。ではそうしましょう」
山口もテワタサナイーヌの意向を尊重して、それ以上勧めることはしなかった。
午後5時15分、定時。
庁内に夕焼け小焼けのメロディが流れて定時を報せる。
全員が一斉に挨拶をして退庁となる。
山口と池上は、すっかり帰り支度ができていた。
池上の仕事のスピードは、もう山口より速い。
「席を替わりましょうか」
山口が冗談を言うくらいになっていた。
「5時30分くらいまで待ってもらってもいいですか」
山口が腕時計を見ながらテワタサナイーヌと池上に言った。
「いいよ。あと10分くらいね」
テワタサナイーヌがブルガリの腕時計を見て答えた。
「さあ、帰りましょう」
5時30分になり、山口がテワタサナイーヌと池上に声をかけた。
「失礼します」
三人は、まだ仕事をしている同僚に挨拶をして部屋を出た。
「早苗さん、階段使えますか?」
部屋を出たところで山口のテワタサナイーヌの呼び方がテワさんから早苗さんに変わった。
上司から家族に変わったのだ。
「うん、使える。階段で行こう」
テワタサナイーヌが元気に答えた。
階段は、池上が先頭、次にテワタサナイーヌ、後尾に山口という順で下りた。
池上が、今までの山口の役割を担い、テワタサナイーヌの手を取り気遣いながら下りていく。
山口は、二人の仲のいい姿をニコニコしながら見ている。
1階に下りたところで、廊下に飾られているテワタサナイーヌの等身大パネルの前を通り、三人で手を合わせた。
「オレオレ詐欺の被害がなくなりますように」
「私、神様じゃないんだけど…」
三人が笑いながら副玄関から桜田通りに出た。
総務省の前を横切り、霞ヶ関駅の地下に入る。
地下の長い通路を歩いて千代田線の改札を入ると、山口がスマホでなにやらメールのやり取りをし始めた。
「弥生は、次の電車に乗って来るそうです。それに乗りましょう」
山口が嬉しそうに言った。
(どんだけラブラブよ)
テワタサナイーヌも嬉しかった。
山口は、同じ路線で通勤する妻と、ほぼ毎日一緒の電車で帰るのが通常だった。
どこの車両のどのドアから乗るのかも決まっていた。
午後5時30分すぎの千代田線は、まだ帰宅の人も多くない。
電車がホームに入り停止してドアが開く。
車内に弥生の姿が見えた。
「あ、お母さんいたよ」
テワタサナイーヌが弥生に駆け寄り腕につかまった。
「おかえりなさい早苗ちゃん」
弥生が優しくテワタサナイーヌに言葉をかけた。
テワタサナイーヌは、目を閉じて幸せをかみした。
「早苗さん」
山口がテワタサナイーヌに声をかけた。
「なに、お父さん」
テワタサナイーヌが答えた。
「えっとですね、大変言いにくいのですが、弥生さんの腕は私のものということで、早苗さんは池上さんとくっついてもらっていいですか」
職場の山口からは想像もできない発言だった。
「あははは、お父さんかわいい」
テワタサナイーヌが笑いながら弥生の腕を離し、池上と手を繋いだ。
「すみませんね」
山口が言うと、弥生が山口の手を握った。
弥生がテワタサナイーヌと池上に言った。
「結婚ていいでしょ。よく結婚が人生の墓場だなんて言う人がいるけど、そういう人は、最初から墓場で結婚してるのよ。あなたたちも私たちに負けないくらい幸せになりなさい」
「よーし、負けないよ。ねー」
「お、おう!」
テワタサナイーヌと池上が顔を見合わせて山口夫妻に勝負を挑んだ。
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。