当たり前の後ろ ~テワタサナイーヌ物語~   作:吉川すずめ

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過去からの別れ

 テワタサナイーヌと山口夫妻が三人で市役所に養子縁組届を提出した。

 養子縁組届には、20歳以上の成人の保証人が2人必要になる。

 池上と犯罪抑止対策本部副本部長の坂田警視長に保証人を依頼した。

 二人とも喜んで署名押印した。

 これによりテワタサナイーヌが山口夫妻の養子となった。

 

 山口早苗

 

 亡くなった山口夫妻の実子と同じ名前になった。

 テワタサナイーヌは、寮を出て山口の家に転居した。

 なぜかテワタサナイーヌに池上という付録が付いてきた。

 都内で一人住まいをしていた池上をテワタサナイーヌが半ば強引に連れてきたのだ。

「半ばじゃないっす。テワさんが俺を迎えに来たときは、もうマンションの賃貸契約まで解約して退去手続が済んでたんすよ。俺、来るしかないじゃないすか」

 池上が訴えた。

「あらー、なんのことかしら。全然思い当たらないわー」

 テワタサナイーヌは、セリフを棒読みした。

 山口の家は広い。

 山口夫妻が1階で寝起きし、テワタサナイーヌと池上が2階で暮らすことになった。

 2階にも簡易のキッチンとバス・トイレがある。

 このまま二世帯住宅として使えるように設計されていた。

「娘が長旅から帰ってきたと思ったら、こんなイケメンを連れてくるなんて嬉しいわあ」

 山口の妻、弥生は大喜びして池上を歓迎した。

「お姉ちゃん、ただいま」

 テワタサナイーヌは、亡くなった山口早苗の位牌に挨拶をした。

 同じ日に生まれているので、姉でも妹でもないのだが、なんとなく姉のような気がした。

 自分は亡くなった山口早苗の代替ではないということをはっきりさせる意味もあった。

 もちろん山口夫妻にもその意図はまったくない。

「え、あ、お姉さん、池上っす。よろしくお願いします」

 池上も位牌に挨拶をした。

「お姉ちゃん、大輔くんね、果てしないバカだけど怒らないでね」

 テワタサナイーヌが位牌に池上を紹介して言った。

「ちょ、テワさん。姉ちゃんにその紹介はないっすよ」

 池上がふてくされた。

 そのあと、二人で焼香をして手を合わせた。

「どうぞ2階を見てくれば」

「2階は、二人のものです。好きに使ってください」

 弥生と山口が言った。

 テワタサナイーヌと池上は、階段を上り2階に消えた。

 2階は、きれいに掃除が行き届いていて、長期間誰も使っていなかったような傷みや荒れた様子がまったくない。

 十分とはいえないが、当面生活するのに困らないだけの家財道具は二人分揃えられていた。

 ベッドもクイーンサイズの大きなものが1台寝室に据えられていた。

「テワさん」

「ん?なに?」

「俺が来るって知ってたんすか?係長は」

「言ってないよ」

「なんで家財道具が二人分あるんだろ?」

「あらっ、ほんとだ」

 テワタサナイーヌが部屋を出て階段を下りていった。

「お父さーん」

「はい、なんですか」

 二人の会話は、職場でなくてもここから始まるようだ。

「なんで2階に家財道具が二人分あるの?」

「たまたま買いすぎたんです」

 山口が目を合わせずに言った。

 いつもは必ずテワタサナイーヌと目を合わせて会話をする山口が目を合わせなかったので、すぐに嘘だとわかった。

「願望よ」

 弥生が口を挟んだ。

「願望?」

 テワタサナイーヌが小首を傾げた。

「お父さんね、池上くんのことが大好きなのよ。いつも『あいつは大物だ。あいつなら早苗を任せられる』って言っててね。『どうせ結婚するんだからうちに来ればいいんだ』とか言っちゃって、勢いで家財道具一式二人分買っちゃったのよ。バカでしょー」

 弥生が笑いながら言った。

「お父さんもひょっとして…」

 テワタサナイーヌが言いかけると。

「ええ、果てしないバカですよ」

 普段見せないおどけた態度で山口が開き直った。

「この人ね、外では真面目でクールな感じを装ってるけど、うちでは歌ったり踊ったりしてるのよ。見たことないでしょ?ふふ、いずれわかるわ」

 弥生が山口の秘密を暴露した。

「あー!それは言わないっていう約束です!」

 山口が今まで見たこともないうろたえ方をした。

「ついでにさっさと教えちゃうけど、お父さん、高校は県内有数の進学校だったのよ。当然、みんな大学に進学するんだけど、お父さんは何を血迷ったのか就職しちゃって。みんな進学するのが当たり前の高校だったから、進路先一覧にも載せてもらえてないんだから。でね、進学しなかった理由を聞いたら『勉強したくなかった』ですって。でね、でね、ここからがまたバカなのよ。就職してから勉強が必要だってわかったらしくて、通信教育で大学に行ったのよ。あ、早苗ちゃんも通信教育で大学頑張ったわよね。偉かったわね。でも、お父さんの場合は、ただ自分がバカで大学行かなかったから後で苦労しただけだから。ほんと、果てしないバカでしょー」

 弥生とテワタサナイーヌが二人で爆笑した。

 山口はいたたまれなくなって、そこらじゅうを歩き回っている。

「でもね、バカはバカなりに通信教育でちゃんと大学を卒業したからね。そういうところは立派だと思ってるわ。通信教育で大学を卒業するのって大変なんでしょ?」

 弥生がテワタサナイーヌに話を振った。

「うん。自分で言うのもなんだけど、かなり根性がいると思う」

「へー、お父さん、大学行ってたんだ。なんで内緒にしてたのよ」

 テワタサナイーヌが山口を問い詰めた。

「聞かれなかったから言わなかっただけですー」

 山口は、普段絶対言わないような語尾の伸ばし方でテワタサナイーヌに言った。

「お父さんと大輔くんて、そっくりよね」

 弥生とテワタサナイーヌが同時に言った。

 そして、また二人で爆笑した。

「あ、そうそう。2階にベッドが1台しかないんだけど」

 テワタサナイーヌが思い出したように言った。

「2台あったって、どうせ一緒に寝るんでしょ。1台でいいわよね」

 弥生がくすくす笑った。

 テワタサナイーヌが困惑した表情を浮かべた。

「あら、まだそういう関係じゃなかった?」

 弥生は、普通の世間話のように際どいことを言う。

「う、うん…」

 テワタサナイーヌが小さな声で頷き、上目遣いで弥生を見た。

「あらごめんなさいね。でも、とりあえずベッドは1台しかないから、どうするかは二人で考えてね」

 そう言って弥生は笑った。

(なんか完全にセクハラなのに、まったく湿り気がないから、むしろ気持ちいい)

 テワタサナイーヌは、一見清楚に見えるのにカラッとした下ネタが言える弥生がますます好きになった。

「なんだか納得いかないんだけど」

 テワタサナイーヌは、ぶつぶつ言いながら2階に上がった。

 

 ──その日の夜

 4人揃って1階で夕食をとった。

 初めての一家揃った食事だった。

 池上が一家と言えるのか疑問が残ったが、すでに気にする者は誰もいなかった。

「あ、俺が洗うっす」

 そう言って池上は後片付けを始めた。

「あらっ、なんていい子!」

 弥生が池上の頭を撫でた。

「でもね、食洗機があるから、ほとんどそれで済んじゃうのよ。食洗機に入らないものだけお願いしていいかしら」

 弥生が池上に言った。

「了解す。えっと、係長のうちの洗い物のローカルルールを教えてください。これから長く暮らすことになると思うんで、山口家のルールを知っておきたいんす」

 池上が袖をまくりながら言った。

「あんた偉いわねえ。じゃあ私が教えてあげる」

 テワタサナイーヌが口を挟んだ。

「え、あれ?あ、そうだ、私も知らないんだ!」

 びっくりしたようにテワタサナイーヌが手で口を押さえた。

「いいわ。二人ともいらっしゃい。うちのローカルルールをびしっと教えてあげるから」

 弥生が二人を連れてキッチンに入った。

「上にもキッチンがあるから、二人だけになりたいときは遠慮しなくていいから、上で過ごしなさい」

 洗い物を終えた弥生がエプロンで手を拭きながらテワタサナイーヌと池上に言った。

「あ、このエプロンね。実はお父さんの手作りなの」

 弥生が嬉しそうにエプロンを見せた。

「へー、係長器用っすね」

 池上が感心したように山口を見た。

「ざーっと裁断してがーっと縫うだけですから」

 山口が意味の分からない説明をした。

「職場じゃ絶対こんなこと言わないでしょ」

 弥生が山口を指差して笑った。

「職場にいるときのお父さんからは想像できないなあ」

 テワタサナイーヌが大きく頷いた。

「今も何か作ってるらしいわよ。何を作ってるのか私にも教えないんだから」

 弥生がテワタサナイーヌに耳打ちした。

「なんだろう。お母さん、こっそり偵察しといて」

 テワタサナイーヌが弥生に笑いかけた。

「わかった」

 弥生とテワタサナイーヌは、山口から見えない位置で親指を立てて同盟を結んだ。

「じゃあ上に行くね。おやすみなさい」

「あ、おやすみなさい」

 テワタサナイーヌが池上の手を引いて2階に上がった。

 2階に上がった二人は、なぜか落ち着かなかった。

 二人で夜を越すのは初めてだったからだ。

 何度もデートを重ねて二人の気持ちは確かめ合っていた。

 しかし、テワタサナイーヌの「背中だけは触らないで」という願いを池上はきっちり守り続けていた。

 背中を触れないので、抱きしめることもできず、キスをするときも池上がテワタサナイーヌの両腕を抱える程度に支えるだけだった。

 二人は、どこにいて何を話せばいいのかわからず、うろうろ部屋の中を見て回ったり、椅子に座ってじっと黙ってみたりした。

「お風呂入らなきゃね」

 テワタサナイーヌが言った。

 言った直後、この言葉の生々しさに恥ずかしくなった。

「あ、はい、そうっすね」

 池上もモジモジしている。

「お風呂洗ってくるす」

 池上が腰を上げた。

「あ、いいよ、私が洗うから」

 テワタサナイーヌが池上を制した。

「じゃあ、じゃんけんで決めますか」

 池上が提案した。

「上等よ」

 多少演技っぽいことをやっていないと恥ずかしくていたたまれなかったのだ。

「じゃんけん、ぽん!」

 二人で声を揃えてタイミングを合わせた。

 テワタサナイーヌがチョキ。

 池上がグー。

「俺の勝ちっすね。テワさんは、座って待っててくださいよ」

 池上が風呂掃除に行った。

 お互いの姿が見えていない方がドキドキが少なくて済むので助かった。

「2台あったって、どうせ一緒に寝るんでしょ。1台でいいわよね」

 寝室に1台しかないベッドと、弥生に言われた言葉がテワタサナイーヌに余計なことを意識させてしまっていた。

(私、大輔くんとひとつのベッドで寝るんだ)

 テワタサナイーヌは恥ずかしくて逃げ出したくなった。

 成熟した男女が同じベッドで寝ればなにがあるかは想像できる。

 でも、自分には経験がない。

 池上にその経験があるのかどうかは知らないし、そんなことはどうでもいい。

 恥ずかしさと不安。

 なにより、誰にも見せたことがない背中を初めて池上に見せることになるだろうと考えると、不安の方が大きくなってきた。

(大輔くんは、私の背中の傷を見て気持ち悪がらないかな)

(嫌われたらどうしよう)

 どんどん不安が膨らんでいった。

 テワタサナイーヌの尻尾がすっかり巻かれてしまった。

「お風呂洗ったす。お湯張りますよ」

 池上が元気に戻ってきた。

「ありがとう」

 テワタサナイーヌが池上にキスをした。

 照れ隠しと不安を払い除けたかったからだ。

 風呂が沸く間、やはり二人は言葉が少なかった。

「どっちが先に入る?」

 テワタサナイーヌがおどおどしながら訊いた。

「テワさん先にどうぞ。女の子の方が、お風呂を上がってからやること多いっすからね」

 池上がさらりと言った。

「ねえ大輔くん」

「はい、なんすか」

 テワタサナイーヌと池上の会話もここから始まる。

「大輔くんてお姉さんか妹いる?」

「いないっすよ。実家に兄貴が一人いるっす」

「そうなんだ」

 テワタサナイーヌがにやりとした。

「じゃあさ、女の子がお風呂上がりにいろいろやることがあるって、なんで知ってるの?」

 テワタサナイーヌが池上のちょっとした発言を見逃さず追及した。

「あれ、なんでですかね」

 池上が動揺した。

「まあいいわ。今のは聞かなかったことにしてあげる」

 テワタサナイーヌの不安が少し和らいだ。

(ごめんね。不安だったから少しいじっちゃった)

「じゃあ、私先に入ってくるね」

 テワタサナイーヌがバスルームに入った。

 テワタサナイーヌが入浴している間も、池上は落ち着きなく歩き回っていた。

 テワタサナイーヌがバスルームから出てきた。

「お先でした。大輔くんどうぞ」

 頭にタオルを巻き、薄ピンクの前合わせのシャツを着て、別のタオルで尻尾をタオルドライしながら歩いてきた。

 シャツの胸には、左右に小さな突起が照明を受けて影を作っている。

 そんな状態でもテワタサナイーヌの胸は見事な形を保ち、存在を誇示している。

「テワさん、お尻見えてるすよ」

 池上が軽く言った。

 池上も緊張しているはずだったが、話し方にあまり現れない男らしい。

「しょうがないでしょ。尻尾があるんだもん。外出着は加工して尻尾が出せるようにするけど、部屋着まで加工なんてしてられないわよ。大輔くん、どうせ私のお尻見たいんでしょ。見せてあげるわよ」

 強気を装うことで不安を消したいテワタサナイーヌだった。

「それならしょうがないっすね」

 テワタサナイーヌのお尻から目をそらして池上が言った。

 見ていいと言われても、はいそうですかとは言いにくいものだ。

 次に池上が風呂に入り、Tシャツと短パン姿で出てきた。

 池上と入れ替わりにテワタサナイーヌが洗面所に入り、ドライヤーで尻尾を乾かし始めた。

 尻尾を身体に沿わせるように左から前の方に回し、それを迎えるように左に身体をひねって左手で尻尾をつかむ。

 それに右手で持ったドライヤーで風を当てる。

 これだと、どうしても尻尾の付け根が乾かせない。

 最後は、両手を後ろに回して尻尾の付け根を乾かさなければならない。

 本当は誰かにやってもらった方が楽なのだが、さすがにまだ池上には頼めない。

「テワさん、手伝いますか」

 テワタサナイーヌの気持ちを察したのか、池上が声をかけてきた。

「え、ありがとう。やってくれる?でもお尻触ったら承知しないからね」

 テワタサナイーヌがやってもらう立場にも関わらず池上に脅しをかけた。

 池上は、尻尾の毛の根元から乾かすようにドライヤーの風を当てた。

 毛の流れに沿って手で撫でながら付け根から先に向かって乾かしてくれた。

 テワタサナイーヌは、池上に尻尾を撫でられる眠気のような心地よさに、いつのまにか目を閉じて身を任せていた。

 この日以来、テワタサナイーヌの尻尾を乾かすのは、池上の仕事になった。

 

 池上は、テワタサナイーヌが子供の頃、性的虐待を受けていたことを山口の話で知った。

 性的虐待を受けた記憶がテワタサナイーヌにどんな影響を与えるのかわからない。

 池上は、テワタサナイーヌとの身体的接触には慎重になっていた。

 辛い思いをさせたくない。

 テワタサナイーヌが自分を受け入れてくれるようになるまで、決して急かすようなことはしないと決めていた。

 だから、今晩も同じベッドで寝ることなく、自分は床に毛布でも敷いて寝ればいいと思っていた。

「もう寝ようか。明日仕事でしょ」

 割と気まずい時間を過ごし、そろそろ寝なくてはならない時間になった。

 テワタサナイーヌから声をかけた。

「そうっすね。俺はベッドの横に毛布を敷いて寝るから、テワさん、ベッドで寝てください」

 池上が提案した。

「うん。わかった」

 テワタサナイーヌがベッドに入り、布団をかけて横になった。

 池上が毛布を敷いて寝る用意を整え、寝室の電気を消そうとしたとき。

「大輔くん」

 テワタサナイーヌが池上を呼んだ。

「なんすか」

 池上がベッドサイドから答えた。

「やっぱり二人でいるのに別々に寝るって違和感。大輔くんもこっちきて」

 テワタサナイーヌの本音だった。

 怖かったが、池上と一緒にいたかった。

「いいんすか、ほんとに」

 池上がいろいろな意味を込めて確認した。

「いいよ。きて」

 テワタサナイーヌが布団で顔を隠して答えた。

 布団の端から耳だけがぴょこんと顔を出していた。

 もう一度池上が電気を消そうとした。

「待って!」

 またテワタサナイーヌが制止した。

「大輔くん、座って」

 テワタサナイーヌが池上にベッドに座るよう指示した。

 池上はテワタサナイーヌに促されるようにベッドの端に腰をおろした。

 布団に潜っていたテワタサナイーヌが起き上がって池上に背中を向けた。

(これで嫌われて終わるかもしれない。でも、知ってほしい)

「明るいところでしっかり見て。これが私、早苗です」

 そう言うとテワタサナイーヌは、シャツのボタンを一つずつ外した。

 シャツの前が全部開くと、肩からするりとシャツを落とした。

 テワタサナイーヌは両腕で胸を隠した。

 肩がぶるぶる震えていた。

 池上は息を呑んだ。

 テワタサナイーヌの背中には、短い茶色の毛がびっしりと生えている。

 その毛は、首から腰に向かって毛並みが揃い、美しい艶を放っている。

 池上は思わず触れたくなった。

 しかし、それをためらわせるものがテワタサナイーヌの背中にはあった。

 肩甲骨の間あたりからくびれすぎているのではないかと思うほどの美しい線を描くウエストのあたりまで、長さにして30cmくらいはあるだろうか、毛が生えていない部分があり、そこはひどいケロイド状の傷痕が盛り上がっていた。

 テワタサナイーヌは、背中に何度も手術を受けた。

 一度開いて閉じたところは、内部で癒着が生じる。

 また同じところを手術するためには、癒着を剥離しなければならない。

 それを繰り返したテワタサナイーヌの背中は、ひどい崩れようだった。

 

 沈黙。

 

「ひゃんっ」

 テワタサナイーヌが声を上げて背中をのけぞらせた。

 池上の指が傷痕に触れた。

「ちっちゃいテワさん、いや、その頃は早苗ちゃん。たくさん頑張ったね。痛かったね。生きていてくれてありがとう。早苗ちゃんが頑張って生きていてくれたから、お兄ちゃんはおっきくなった早苗ちゃんに会えたよ。この傷は、恥ずかしいものじゃない。早苗ちゃんが生きてきた証。大事なもの。お兄ちゃんはね、この傷もなにもかも全部好き」

 池上はテワタサナイーヌの中に今もいる、震えて泣き続ける虐待を受けたときのまま時間が止まってしまった早苗にゆっくりと話しかけていた。

「それからね。早苗ちゃんが大好きだったヒマワリがいるでしょ。ヒマワリは、いまおっきくなった早苗ちゃんと一緒に生きてるよ。ずっと一緒。だからもう心配しないで。早苗ちゃんのせいで今のおっきな早苗ちゃんは苦しんでなんかないよ。早苗ちゃんは、自分を許してあげて」

 テワタサナイーヌは、池上の指先から傷痕を通して温かい気持ちが流れ込んでくるのを感じた。

 その温かい気持ちは、自分の心の一番深いところ、真っ暗で覗き込むこともできないところにある悲しみ、怒り、恐怖、自責といった負の感情を包み込んでいった。

 いつしかテワタサナイーヌは、ただ一枚残っている人間だったときの写真の女の子に戻り、ヒマワリと一緒に夏のまぶしい光の中で向日葵の花を見上げていた。

 そこから急に時間が高速回転で流れ始めた。

 辛かった虐待の事実を過去のものとして客観的に見ている自分に気づいた。

 病院で手当を受けている自分も見た。

 ベッドサイドに若い日の山口の姿をみつけることができた。

(あ、お父さんいた)

 そして、記憶が残っている小学生のころで時間の流れは消えていった。

 テワタサナイーヌは今の自分に戻ってきた。

 長い旅をしていたような気分だった。

 その間、ずっと池上の暖かさに守られて、少しも怖くなかった。

 テワタサナイーヌは泣いていた。

 悲しかったのではない。

 むしろ嬉し涙に近かった。

 温かい気持ちで泣いた。

 涙とともに辛かった過去が流れていくのを感じながら。

「抱いてください」

 テワタサナイーヌが泣きながら言った。

 池上がテワタサナイーヌを背後から包み込んだ。




 この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

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