当たり前の後ろ ~テワタサナイーヌ物語~   作:吉川すずめ

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雪解け

 その後、テワタサナイーヌは、術後せん妄状態に陥ることもなく、徐々に覚醒し、順調に快復していった。

 経口で食事もできるようになったが、開放骨折した右胸の傷が塞がっていないため、まだ起き上がることはできない。

 開放骨折した部位は、右の乳房を避け、ちょうど身体の右側面だった。

(おっぱい助かって良かったわ)

 自分の乳房の形が気に入っていたテワタサナイーヌは、人には言わなかったが安堵していた。

 山口と池上は、毎日仕事が終わると霞が関から八王子医療センターまで見舞いに来てくれた。

 3人で他愛もない話をして笑えるようになっていた。

 テワタサナイーヌの山口に対する嫌悪感は、完全とは言えないが、相当薄らいでいる。

 その様子を見て池上も胸を撫で下ろした。

 山口と池上が毎日テワタサナイーヌを見舞うためには、残業をしていられない。

 山口は、普段から残業をしない。

 残業を拒否しているのではく、定時前には仕事が片付いてしまうからだ。

 一方、池上は、まだ山口のように要領よく仕事を片付けることができない。

 テワタサナイーヌを見舞いたいがために、池上は必死になって仕事に取り組んだ。

 その姿を見ていた山口も徹底して山口流の仕事術を池上に伝授した。

「いいですか池上さん、仕事はパターンで覚えないでください」

 山口は仕事術の肝となる心構えを伝えた。

「いろんなパターンに対応できた方がいいんじゃないすか?」

 池上が不思議がった。

「そうですね、その通りです。あらゆるパターンを網羅できるのならその方がいいのかもしれません。でも、世の中は想定問答のようには動いてくれません。それに、私たちが相手にしているのは、決定木のようなパターン化されたプログラムではなく、生身の人間です。人間が想定通り動くほうが不思議です」

「そうっすね。じゃあどうするんすか」

「簡単なことです。原理、原則、ルールを理解することです」

 山口がゆっくりと諭した。

「あ、いま係長、『理解』って言葉、わざと使ったすね」

 池上が得意気に言った。

「さすがですね。そうです。『覚える』ではなく『理解する』ことが効率よく仕事をするコツです」

 山口は、池上の理解の速さが気に入っている。

 テワタサナイーヌには、果てしないバカと言われているが、山口には可能性を秘めたバカとして映っていた。

「理解した原理、原則、ルールは、想定外のことに対応できます。パターンで覚えていると、まったく応用がききません」

 山口が力説した。

「そのためには勉強も必要です。法令、内部規則などです。自分の仕事の根拠を探すのです。手間がかかることですが、一度理解してしまえば、その後は爆発的に仕事が早くなります」

「そして、これをやっていれば昇任試験など怖くありません。楽勝です」

 山口にしては珍しく多弁であった。

「あともう一つ付け加えると、法律の解釈に迷ったときは、第1条に戻ってください。たいていの特別法には、第1条にその法律の目的が書かれています。その目的を外れた解釈をしてはいけないということです。これは、昇任試験ではなく、実務で解釈に迷ったとき思い出してください」

 山口は惜しげもなく自分の警察人生で蓄積してきた仕事術を伝授した。

 池上も山口の熱意に応えた。

 その日から、池上は勉強の虫となった。

 仕事をしながら根拠となる法令や規程を探してはノートにメモをとる。

 判断に迷ったら目的に戻って考え直す。

 これらを実行した池上は、どんどん仕事のスピードを上げ、中身も見違えるほど濃くなった。

 まだ山口には負けるが、定時で帰ることが普通になっていった。

 定時で仕事を終えた二人は、八王子医療センターに直行してテワタサナイーヌを見舞った。

 そんな毎日が1か月ほど続いた。

 開放骨折の傷もふさがり、テワタサナイーヌは自力で動けるまで快復した。

 そして、ぐしゃぐしゃになってしまった右胸を元のきれいなラインに戻すため、テワタサナイーヌは形成外科に定評のある東京警察病院に転院することになった。

 転院を一番喜んだのは山口と池上だった。

 見舞いが近くなったからだ。

 仕事を終え、霞が関から八王子まで見舞いに行き、そこからまた自宅に帰ると帰宅は深夜になる。

 さすがにこれを長期間続けるのは辛い。

 警察病院で、何度か修復手術を受けたテワタサナイーヌの胸は、すっかり元のきれいなラインを取り戻した。

 その間、山口流仕事術の研鑽に励んだ池上は、山口を凌ぐほどの力をつけていた。

 元々、「果てしないバカに振れた果てしない可能性を秘めたバカ」と山口が目をつけた男だけのことはある。

 今では「犯抑に池上あり」と言われるまでに成長した。

(池上さんになら後を託せる)

 山口は目を細めた。

 

 事故から4か月が経過した。

 テワタサナイーヌが退院の日を向かえた。

 季節は暑かった夏から冬になろうとしていた。

 ストライプの入ったカットソーに茶色のミニスカートを履き、足元はかわいらしいブーティを合わせ、ファーの付いたダウンジャケットを羽織ったテワタサナイーヌがナースステーションに退院の挨拶とお礼を言っていた。

 

【挿絵表示】

 

 池上がテワタサナイーヌの荷物を持って付き添っている。

 まるで芸能人の付き人のように見えた。

「お世話になりました」

 テワタサナイーヌが笑顔で別れの挨拶をした。

「テワちゃん、元気でね。お大事に。あ、あとお幸せに!」

 入院中、すっかり仲が良くなった看護師が明るく手を振っていた。

 池上はまだテワタサナイーヌにプロポーズをしていない。

 にもかかわらず、その看護師はお幸せにと言ってからかったのだ。

「まだプロポーズされてないよお」

 テワタサナイーヌは恥ずかしそうに答えた。

 病院のエントランスでは、テワタサナイーヌの退院のために自分の車を出した山口が待っていた。

 仕事以外でのテワタサナイーヌのエスコートは、池上に任せている。

 池上がテワタサナイーヌの手を取り、山口のSUVの後部座席にゆっくりと座らせた。

 入院で足腰の筋肉が弱ってしまったテワタサナイーヌは少しふらついたが、池上が抱くようにしてテワタサナイーヌを支えた。

 テワタサナイーヌも池上を信頼して身体を預けた。

 池上がテワタサナイーヌに3点式のシートベルトをかけ、テワタサナイーヌの動きと位置に気を配りながらゆっくりとドアを閉めると、軽快な身のこなしで助手席に乗り込んだ。

「お願いします」

 テワタサナイーヌと池上が声を揃えた。

 二人の声を出すタイミングがあまりにもぴったりだったので、それがおかしくて三人で笑った。

(これが家族なのかな)

 家族で生活した記憶がないテワタサナイーヌには、とても新鮮で温かい空間だった。

 山口が運転する車は、警察病院をあとにしてテワタサナイーヌの寮へと向かった。

「ねえ代理」

「はい、なんですか」

 テワタサナイーヌと山口の会話は、いつもここから始まる。

「お願いがあるんだけど」

 車が環状7号線に入ったあたりでテワタサナイーヌが神妙に話しかけた。

「なんでしょう」

「私を代理の子にしてください」

「えっ!?」

 山口だけでなく助手席の池上も驚きの声をあげた。

「二人ともなに驚いてんのよ。今までだってお父さんみたいなもんだったでしょ」

 テワタサナイーヌがあっけらかんと言った。

「いや、でも係長には奥さんも子供さんもいらっしゃるんすよ」

 池上がテワタサナイーヌをたしなめた。

「子供はいませんよ」

 山口が池上を見て言った。

「えっ!?」

 今度は、テワタサナイーヌと池上が声をあげた。

「嘘!?だって富山に行ったときあっちの署長が妻子あるって言ってたよ」

 テワタサナイーヌが富山出張のときのことを思い出して山口に言った。

「そうですね。確かに署長がそう言ってましたし、私も否定しませんでした」

「だよね。否定しなかったから、そうなんじゃないの?ていうか、お子さんがいるものかと思ってた」

「俺もお子さんがいると思ってたす」

 テワタサナイーヌに続いて池上も意外という顔をして言った。

「あえて否定しなかっただけなんですよ」

「私は結婚指輪をしています。だから結婚しているということは誰にでもわかりますね」

 山口が続けた。

「うん」

 テワタサナイーヌが頷いた。

「そして、私に子供がいるとお二人も思っていた」

「思ってたす」

 池上が答えた。

「実は、ここがオレオレ詐欺のポイントなんです」

 山口が意外なところから変化球を投げてきた。

「なにそれ?」

 テワタサナイーヌが小首を傾げた。

「テワさん超かわいいっす!」

 久しぶりに見たテワタサナイーヌの小首を傾げるポーズに池上が大喜びをした。

「惚れていいすか?」

 池上がいつものようにテワタサナイーヌに言った。

「いいわよ。もっと惚れて」

 テワタサナイーヌは、両手を上に向けて手招きをした。

「ごちそうさまです」

 山口も嬉しそうに笑った。

「富山の署長、池上さん、そしてテワさんも私に子供がいると思いました。それはなぜでしょう」

 山口が二人に問いかけた。

「えー、だって指輪してれば結婚していると思うし、結婚してれば子供がいると思って当たり前じゃん」

 テワタサナイーヌが何を言ってるんだという表情で言った。

「そうですね。それが当たり前です」

「普段の生活でもこれと似たようなことが多くあります」

「これこれだったらこう、という思考が自動的に出てくることってありませんか?」

「あるっていうより、それで済ましちゃってることの方が多くない?」

 テワタサナイーヌが考察した。

「テワさん、相変わらず冴えてますね」

 山口がテワタサナイーヌをほめた。

「えへへへ」

 照れくさそうにテワタサナイーヌが頬を掻いた。

「皆さんは普段詐欺犯人を相手にしてますから偽名を使うことが普通になっていると思います。でも、一般の方が偽名を使うことってあるでしょうか」

「まずないっすね」

 池上が答えた。

「そうです。普段の生活で偽名を使う人なんていません。だから、息子や孫を名乗る人から電話があったらどう思いますか」

 山口が問いかけた。

「相手を息子や孫だと思うでしょうね」

 テワタサナイーヌが答えた。

「それはなぜですか」

「自分の周りに偽名を使う人なんていないから、そう思うのが当たり前っす」

 今度は池上が答えた。

(いい夫婦だな)

 テワタサナイーヌと池上が交互に答えるところを見て、山口はそう思った。

「そうです。当たり前なんです。犯人の話術で信じ込まされているのではなく、当たり前のように相手を息子や孫だと思ってしまうのです」

「そうよね!代理すごい!」

 テワタサナイーヌがはしゃいだ。

「なにも考えず、当たり前のように結論が出てしまうわけですから、『息子や孫を名乗る電話に気をつけましょう』という注意喚起は」

「響かないっす!」

 池上が人差し指を立てて自慢げに言った。

「池上さん、果てしないバカから脱しつつありますね。無駄と言わず響かないという言葉がとっさに出ました。注意喚起は決して無駄ではありません。それで防げる場合もあるわけですからね」

 山口は池上をほめた。

「特に高齢者はこの傾向が顕著です。これを専門用語では自動思考というそうですが、わかりにくいので坂田さんと私で『アタリマエの原理』という名前をつけました」

 山口が付け足した。

「アタリマエの原理ね。なんかいろいろ応用がききそう」

 テワタサナイーヌが考えを巡らせた。

 3人を乗せた車は、ところどころ渋滞に巻き込まれながら練馬区に入っていた。

「ところでテワさん」

「なーに?」

 いつもの呼びかけと返答が戻った。

 テワタサナイーヌは笑顔で山口に答えられるようになった自分が嬉しかった。

「私の子供になりたいというのは、どういうことですか?」

 山口が会話のきっかけになったテワタサナイーヌの発言の趣旨を訊いた。

「正々堂々お父さんて呼べるから」

 テワタサナイーヌがキラキラと目を輝かせた。

「ね、お父さんて呼ばせて」

 テワタサナイーヌが手を合わせて山口を見つめた。

「呼ぶだけでいいんですか?」

 少し考えていた山口が意外なことを言った。

「どういうこと?」

 テワタサナイーヌが小首を傾げた。

「テワさん、かわいい!」

 池上が喜んだ。

「本当の子供としてお迎えする用意はできていますよ。妻も待っています」

 山口が目頭を押さえた。

「山口早苗になりますか?またすぐ姓が変わるかもしれませんけど」

 山口がテワタサナイーヌを養子に取るというのだ。

「お父さん…」

 テワタサナイーヌが窓の外を見ながらがつぶやいた。

 三人が沈黙した。

 テワタサナイーヌは、左手の平に右手の人差し指でなにかを書きながらぶつぶつ言っていた。

「やっぱり山口早苗はダメです」

 テワタサナイーヌがきっぱりと言った。

 池上がうろたえながら二人の顔を交互に見た。

「そうですか。残念ですが仕方ありませんね。ですが、父と呼んでくれるのは構いませんよ」

 山口が静かに、しかし、決して落胆した様子は見せずに答えた。

「画数がよくないのよ」

 テワタサナイーヌが真顔で言った。

 次の瞬間。

「お父さん大好き!!」

 テワタサナイーヌがこぼれんばかりの笑顔で叫んだ。

 その声は、何かを吹っ切ったように弾んでいた。

「ありがとうございます。私もテワさん大好きですよ」

「わっ、お父さんが初めて私を好きって言ってくれた」

「父としてですよ」

「うん、わかってる。今まで、お父さんへの好きっていう気持ちと大輔くんへの好きっていう気持ちの違いがわからなかった。だから気持ちがぐっちゃぐちゃになってたけど、入院してる間にいろんな夢を見て、いろいろ考えて、同じじゃないって気づいた」

 テワタサナイーヌが山口を父として見ることができるようになったことを話した。

 テワタサナイーヌの中の人格が整理された。

 山口がテワタサナイーヌを好きだと言ったのも、テワタサナイーヌが二人の関係を父と娘に整理できたことを感じたからだった。

 池上は、二人の会話をニコニコしながら聞いている。

「ねえお父さん」

「はい。なんですか」

 どことなくぎこちなさを感じる呼びかけで二人の会話が始まった。

「お父さんの奥さんのことを…ていうのもすごく変な感じがするけど、お父さんの奥さんのことをお母さんて呼んでもいいの?」

 テワタサナイーヌが素朴な疑問を口にした。

「早苗さんは、まだ妻に会ったことがありませんよね。会って話をしてみないと、母と呼べるかどうかはわからないと思います。ただ、妻はその用意ができています」

 山口は、安易に答えることを避けた。

 これからのことを決める大事な決定だからだ。

「これから妻に会いますか?」

 山口がテワタサナイーヌに訊いた。

 テワタサナイーヌは少し戸惑った。

 まったく心の準備ができていない。

 しかし、これは避けて通れないのも理解している。

 テワタサナイーヌは、意を決した。

「奥さまに会いたいです」

 

 三人の行き先が変更になり、千葉県下にある山口の自宅へと向かった。

 池上は、自分がいてもいいものか疑問に思いながら、なんとなく成り行きで着いてきてしまった。

 山口の自宅は大きな一軒家だった。

 一見すると木造のようだが、がっしりとした耐震構造のように見えた。

 車が停まると池上がさっと降車して後部ドアを開けた。

 テワタサナイーヌの両脇に手を差し込み、抱き抱えるようにして車から降ろした。

 山口も降車して池上がテワタサナイーヌを降ろす様子を見守った。

「でっかい家っすねー」

 山口の自宅を見て池上が感嘆の声を上げた。

「これで夫婦二人きりですから、広すぎました」

 山口が苦笑した。

 山口が二人を連れて玄関を入ると、奥から山口の妻が出迎えに現れた。

 山口より10歳くらいは若そうに見える長身の女性だった。

 山口の妻は、かけていたエプロンを外しながらテワタサナイーヌ目がけて早足で近づいてきた。

「早苗ちゃん」

 山口の妻はテワタサナイーヌの頬に手を当てて撫でた。

「大きくなったわね」

 そう言うとその場に膝から崩れ落ちて泣いた。

 テワタサナイーヌと池上には事態が理解できなかった。

 なぜ山口の妻がテワタサナイーヌを知っているのか。

 仮に山口から話を聞いていて知っていたとしても、大きくなったと言って泣き崩れる理由がわからなかった。

(奥さまも私の過去を知ってる?)

 テワタサナイーヌは、ますますわからなくなった。

「ごめんなさいね。みっともないところをお見せしちゃって」

 山口の妻はエプロンで涙を拭きながら立ち上がった。

 山口は、二人を応接に案内した。

 テワタサナイーヌと池上が大きな窓に向かって並んで座り、その反対側に山口夫妻が座った。

「改めて紹介すると、早苗さんと池上さん。お二人はたぶん夫婦になります」

 山口が妻に二人を紹介した。

「ずいぶん大雑把な紹介ね」

 山口の妻がくすりと笑った。

「早苗さんは、今日退院したばかりで、本当は寮に送らないといけないんですが、頼み込んで来てもらいました。というのも、早苗さんが私たちの子供になってくれるというんです。それで、弥生さんと話をして欲しいとお願いしました」

 山口が妻に今日の経緯を説明した。

「そう。早苗ちゃん、わざわざ来てくれてありがとう。ここからは、私がお話させてもらっていいかしら?」

 弥生が山口から話を引き受けた。

「なにからお話ししたらいいかしら。30年分のお話だから大変なのよ」

「もう30年前のことよ。私たちは若い夫婦だった」

「私は山口の子供を身籠っていたの。そりゃあ二人で楽しみにしてたわよ。子供が生まれてくるのを」

「でもね、そんな幸せは長く続かないのね。6か月の検診のとき受けた超音波検査で、赤ちゃんの心臓に心配な影が見えると言われてね。そこは産婦人科でしょ。心臓のことは詳しくないから、念のため大学病院で検査してもらってと言われたの」

「私たちは、ちょっと不安になったけど、念のためっていう程度だから大丈夫だろうと思ってたわ」

「それで、紹介された大学病院で詳しく検査、といっても胎児だから超音波で見るだけなんだけどね。まあ検査してもらったの。」

「超音波検査だから、検査の結果はすぐにわかるはずなんだけど、その日はずいぶん待たされたわ」

「ようやく呼ばれて山口と二人で診察室に入ったの。そのときもまだ二人は笑えてた」

「検査をしてくれたお医者さんが、ものすごく神妙っていうか深刻な顔をしてたの。それを見て、なんかよくないことが起こったなとは思ったわ」

「お医者さんは、まず紙に病名を書いたの。エプシュタイン奇形と。私も山口も初めて見る病名だったわ」

「お医者さんはこう言ったわ」

「お子さんの病気は、エプシュタイン奇形、最重症です」

「そう言われても私たちにはなんのことかさっぱりわからなかった」

「お医者さんは、紙に心臓の絵を描いて説明を続けたわ」

「エプシュタイン奇形というのは、右心房と左心室を隔てている三尖弁という弁の奇形です。三尖弁は、文字通り三枚の弁葉でできています。そのうちの何枚かが本来あるべき位置にできず、多くの場合右心室側に落ち込んでいます。そうするとどうなるか。右心室が収縮したとき、本来であればそこから肺に出ていかなければならない血液が三尖弁でせき止められずに右心房に逆流してしまいます。心臓の部屋の収縮する力は、室が強く房は弱いです。収縮する力が弱いということは、部屋の筋肉も弱いということです。そこに右心室の強い力で拍出された血液が逆流すると、右心房は圧力に耐えられず拡がってしまいます。心臓の壁は一度伸びると元に戻ることができません。ですから、右心房はどんどん拡大し続け、胸郭の中で肺を圧迫します。胎児は、肺が未成熟ですから、その段階で圧迫されると生まれた後の呼吸ができなくなります。更に拡大がひどくなると心不全を起こして、最悪の場合胎児死亡となります。もし、分娩までこぎつけられたとしても、出生後、呼吸ができずに死亡します。生まれてすぐにおぎゃーと泣けるかどうか、これが生死を分けます」

「胎児死亡、よくて生まれてすぐ死んでしまうと言われたのよ」

「そのときは、赤ちゃんまだお腹の中で動いてるのよ。元気なのよ」

 弥生はハンカチで涙を拭った。

「それが、いつ死んでしまうかもわからず、もし生まれても呼吸ができないで死んでしまうと言われたの。どっちにしても死ぬと宣告されたわけよね」

「こういうとき、目の前は真っ暗にならないの。色が抜けるの。白黒になるのね」

「病院からの帰りの車の中で私と山口は言葉も出なかった。ようやく絞り出した言葉は『こういうことがあるんだね』ということだけ。まさか自分たち夫婦にそんな事態が降りかかるなんて考えるわけないでしょ」

「それからの毎日は、あらゆるものを恨んだわ。私も山口もよ。私たちにはなんの罪も責任もないのに、なんでこんな目に遭わなきゃならないの?て」

「いずれ死ぬことがわかっている赤ちゃんをお腹の中で育てなきゃならないなんて、なんの拷問よ!」

 弥生が感極まった。

「毎日幸せそうな妊婦さんを見ては心の中で呪ってた。死んでしまえって」

「それでもお腹の中の赤ちゃんは、毎日大きくなっていくし、くるくる動いてかわいいのよ。私たちは産着を用意したわ。一番小さいサイズの純白の産着を」

「白装束よ」

「着せられないことを祈りながら用意する産着っていうのもおかしなものよね」

 テワタサナイーヌと池上も泣いていた。

 山口は、かろうじて感情の堰を押し止めているようだった。

「結局、赤ちゃんは生まれて間もなく死んでしまったわ。産声を上げることもできずに、私の腕の中でだんだん黒くなって、最後に少しだけ痙攣して死んだの」

「3月14日だったわね、その日は」

 弥生が窓から見える青空を仰いでつぶやいた。

 テワタサナイーヌがびくっと身体を震わせた。

「産後だったし、とてもそんな手続きできそうになかったから、山口に出生届と死亡届を出してもらったわ。辛かったと思うわよ」

「その子は、ここにいるの」

 弥生は仏壇の位牌を指差した。

 

 俗名 山口早苗

 

「わた…し?」

 テワタサナイーヌは、なにがなんだかわからなくなった。

 自分と同じ日に生まれた子がその日のうちに亡くなった。

 そして、その子は自分と同じ名前だった。

 それだけだったら偶然として片付けられる程度のことだ。

 しかし、その子の両親と自分がこんなにも深い縁を結び、いま養子になろうとしている。

 どこでつながったのか。

 

「池上さん」

 山口が口を開いた。

「はい」

 池上が姿勢を正して山口を見た。

「早苗さんの命を、人生を引き受ける覚悟はありますか。その覚悟があるのなら、この話の先を続けます」

 山口は穏やかな中にも普段にない力強さを感じさせる話し方で池上に覚悟を質した。

 この問に対する池上の答えが実質的なテワタサナイーヌへのプロポーズになる問いかけだった。

 池上は考え込んだ。

 迷っているのではない。

 自分にはその覚悟はあったが、自分がテワタサナイーヌの人生を背負えるだけの器かどうかの自信がなかった。

「係長」

「はい、なんですか」

「俺は、早苗さんの人生を背負えるだけの男でしょうか」

 テワタサナイーヌは、池上のこれほどまでに真剣で悲壮感を漂わせた顔を見たことがなかった。

 軽々しく覚悟があると言わなかった池上にテワタサナイーヌは器の大きさを感じていた。

(果てしないバカになにがあったの。いつの間にお父さんみたいな男に育ったの)

 テワタサナイーヌは池上を尊敬できると確信した。

「お父さん、私は池上さんに命を託します」

 テワタサナイーヌは、今すぐにでも山口に言いたかった。

 しかし、ここは池上が自分で覚悟を決めなければならない。

 テワタサナイーヌは池上を信じて待つことにした。

(ていうか、私にはなにがあるっていうの?)

 テワタサナイーヌの素朴な疑問ももっともだった。

 自分が知らない自分のことで山口が池上に覚悟を問うという、わけのわからない状況だからだ。

(そもそも、なんでこの男たちは私の命のやり取りしてんのよ?勝手に人の命をやりとりしないでよ)

 テワタサナイーヌは、山口が叫んだ無線の内容を聞けていなかった。

「お父さん質問!」

「はい。早苗さんどうぞ」

「さっきから、私の命がどうのこうの言ってるけど何の話?」

 テワタサナイーヌは我慢できずに訊いた。

「早苗さんの背中の傷のことです」

 山口がさらりと言った。

「あー、この傷のことね」

 テワタサナイーヌが背中に手を回してさすった。

「て、なんでお父さんが知ってるのよ!いつ見たの?変態!」

 テワタサナイーヌが騒いだ。

 重苦しい場の雰囲気を和ませようという意図があった。

「そのなんでが大事な話なんですよ」

 山口がもったいぶった言い方をした。

「早苗さん、聞きたいですか?」

「うん、聞きたい」

「池上さん、聞きたいですね?」

 山口が言葉で池上の背中を押した。

「はい。聞きたいです」

 池上は覚悟を決めた。

「26年前のことです」

 山口が話し始めた。

 

「警視庁から各局。北沢管内子供の泣き声110番入電。場所、世田谷区経堂、アパート富士見荘1階3号室。子供の泣き声と男の怒鳴る声が数分前から続いている。近い局は現場方向へ」

 山口が警部補になり北沢署の地域課で係長をしていたときのこと。

 1月の寒い夜。

 山口は宿直勤務に就いていた。

「今日は静かですね」

 同僚と話していた矢先に110番が入った。

(子供の泣き声か。いつものいきすぎた躾だろう)

 そう思った山口は、特になんの用意もせず軽い気持ちで現場に向かった。

 自転車で現場のアパートに着くと1階の端にあたる3号室から男の怒鳴り声だけが聞こえてきた。

「こんばんは。警察です」

 山口はドアをノックして声をかけた。

 インターホンも呼び鈴もない古いアパートだった。

 中から返答はなかった。

 相変わらず部屋の中からは怒鳴り声だけが聞こえてきていた。

「生意気なんだよ!逆らうような目で見やがって!」

 男は誰かに怒っているようだった。

 怒りの相手が誰なのかは、外からはわからない。

 ぼこっ

 ぐしゃ

 肉を叩くような音が聞こえた。

(なんだこの音は)

 軽く考えていた山口に焦りの色が浮かんだ。

 どん、どん、どん!

 山口がドアを叩いた。

「警察です!開けてください!」

 大声で中の男に話しかけた。

「お巡りさん」

 遠巻きに様子を見ていた近所の住民が心配そうに声をかけてきた。

「はい。なんでしょうか」

 山口が答えた。

「お巡りさんが来る前のことなんですけどね、女の子の声でやめてとか痛いとか言ってるのが聞こえてたんですよ。それがお巡りさんが来るちょっと前に聞こえなくなっちゃったんです」

 住民が女の子の声を聞いていた。

 今は聞こえない。

(まずい)

 山口は事態が緊急を要することを理解した。

 相変わらず部屋の中の男は怒鳴り続けている。

 山口は部屋のドアを叩き続けた。

 ふっと男の怒鳴り声が止んだ。

(開けてくれるんだな)

 山口は安堵した。

「ぐちゃっ」

 何かが肉を割いたような生理的に寒気のする音が部屋の中から聞こえた。

「ぎゃーーっ!!」

 今まで聞こえていなかった女の子の声で獣のような悲鳴が響いた。

「ぐるるるる、ぎゃん!ぎゃん!」

 犬の唸り声に続いて甲高い吠え声が聞こえた。

「開けなさい!ドアを開けなさい!」

 山口は声を枯らして怒鳴り続けた。

「なんだ、このクソ犬!」

「ぎゃん!」

 男の怒声に続いて犬の悲鳴が聞こえ、それきり犬の声は途絶えた。

「室内で児童虐待が行われている可能性が極めて高いです。ドアを破って子供の保護に向かいます」

 山口が無線で報告した。

「待て。なんの根拠で立ち入るんだ?根拠がない立ち入りは違法だぞ。あとで問題になる。そのまま説得を続けろ」

 無線から宿直長の指令が飛んできた。

 その当時の警察は、法律は家庭に入らずといって、家庭内のことへの介入に消極的だった。

(この人は事態が理解できているのか)

 山口は憤った。

 部屋の中の男は大笑いしている。

 尋常ではない。

 山口は警棒を抜くと吊り紐を右手に巻き付け、両手で上下の端を握りしめた。

 警棒を抱えるように数メートル下がると、ひとつ大きく息を吸い込み、まだ男が笑い声をあげている部屋のドア目がけて身体ごと突っ込んだ。

 古いアパートのドアは簡単に破れ、山口は破れたドアとともに室内に倒れ込んだ。

 立ち上がった山口は目を疑った。

 今まで何度も悲惨な現場は見てきたが、それとは比較にならない凄惨な有様だった。

 年齢30歳くらいの男が大笑いしながら仁王立ちしている。

 上半身は返り血を浴びたように大量の血液飛沫が付いている。

 下半身はブリーフ一丁だ。

 男の足元に女の子と思われる三、四歳くらいの子供がうつ伏せに倒れ痙攣している。

 その背中のほぼ中心には刃渡り20cmくらいの鉈(なた)が刺さって立っている。

 傷口から大量の血液が吹き出し、女の子の周りが血の海となっている。

 血の海は徐々に面積を広げ、出血の多さを訴えている。

 そして、鉈が刺さっているところに元は茶色のように見えるが血に染まって黒く光る毛皮の塊のようなものが乗っていた。

 その塊は、まったく動かなかった。

「救急車を呼んでください!」

 山口は外に向かって叫んだ。

 ドアを破る音と山口の叫び声に気づいた男が山口の方に振り返った。

 山口は男に向かって走り出した。

 山口は男に真っ直ぐ突き進まず、男の右側を通り過ぎるようなコースを取った。

 そして、すれ違いざま右腕を鎌の刃のように丸みをもたせ、腰高から振り上げて男の顎下、喉仏のあたりにあてがった。

 山口の右腕は円を描くように山口の足元に向かって振り下ろされた。

 入り身投げだ。

 山口の入り身投げを受けた男は、足が宙を舞い後頭部から床に落ち、衝撃で失神した。

 山口は辺りを一瞥し、失神した男を台所に引きずって行った。

 台所の露出しているガス管に男を手錠で繋ぎ、動きがとれないようにした。

 すぐに痙攣している女の子のところへ走り、救命措置を取ろうとした。

 開いた傷口から鉈が背骨に食い込んでいるのが見えた。

 これを無理やり抜くと脊髄を傷つける可能性があり危険と判断した山口は、なんとか止血の措置を取ろうとした。

 しかし、女の子を動かすこともできず、止血することすら不可能だった。

「おい、聞こえるか」

 山口は女の子に声をかけた。

「ひまわり」

 大量に出血して痙攣しているにもかかわらず、女の子は目を開けずにっこり笑って一言だけつぶやいた。

 そして女の子の顔面から力が抜けた。

 顔面は蒼白で脈もほとんど振れなかった。

(救急車。早く!)

 山口は祈ることしかできなかった。

 女の子の背中に乗っている毛皮のようなものを見たら、どうやら犬だったような形跡がある。

 原形を留めないほど痛めつけられていたが、かろうじて判別できるマズルとそこから続く額の形と毛の長さからスムースコートのチワワのように思えた。

 間もなく救急車が到着し、女の子は病院に収容された。

 男は殺人未遂の現行犯で逮捕された。

 その後の調べでわかったことでは、犯人の男は女の子の父親だった。

 女の子は当時4歳。

 女の子は茶色いスムースコートのチワワを飼っていた。

 名前はヒマワリ。

 女の子が夏の向日葵が好きだったことから付いた名前だった。

 女の子とヒマワリは、いつも一緒だった。

 父親は酒飲みで仕事もせずにいつも酔っ払っていた。

 母親は、生活のため夜の仕事に出るようになった。

 女の子はヒマワリと父親の二人で夜を過ごす日が多くなった。

 父親は夜になると酔っては家で暴れた。

 女の子とヒマワリは、部屋の片隅で震えながら父親の怒りが収まるのを待つより他になかった。

 父親は、躾と称して女の子に手を上げるようになった。

 女の子に性的な暴力を振るうことも珍しくなかった。

 父親の暴力は日を追うごとに激しさを増した。

 殴る、蹴るは日常だった。

 髪をつかまれ引きずり回されることもあった。

 タバコの火を押し付けられることも少なくない。

 事件の当日、病院に運び込まれた女の子の身体には、無数の皮下出血と丸いケロイド状の火傷の痕が認められた。

 その日、昼過ぎに起きた父親は、なぜか機嫌が悪く女の子に当たり散らしていた。

 理由もなく何度も殴られた。

 夜になり、父親は酒を飲み始めた。

 酒を飲むと手を付けられなくなる。

 女の子は恐怖に震えた。

 そんなとき、ヒマワリがトイレの外で粗相をしてしまった。

 それを見た父親の怒りが爆発した。

 女の子は、ヒマワリが殺されると思い、ヒマワリを胸に抱きしめ丸くうずくまった。

 自分の身体でヒマワリを守ろうとしたのだ。

 父親は意味の分からないことを怒鳴り、女の子の背中や顔を蹴り続けた。

「やめて!殺さないで!お願い、痛いよ!もうやめて!」

 女の子は父親を睨んで叫んだ。

 初めての抵抗だった。

「生意気なんだよ!逆らうような目で見やがって!」

 父親の怒りが頂点に達した。

 父親は、押し入れから鉈を取り出して、うずくまる女の子の背中目がけて振り下ろした。

 ぐちゃっ

 肉を破り鉈が女の子の背骨に食い込んだ。

 女の子は悲痛な悲鳴を上げ、苦痛に悶絶した。

 ヒマワリを抱く手の力が緩んだ。

 そのとき、ヒマワリが女の子の腕をすり抜けた。

「ぐるるるる、ぎゃん!ぎゃん!」

 ヒマワリが父親に吠え、飛びかかった。

 まるで女の子を守ろうとしたかのようだった。

 しかし、所詮小型犬のチワワだ。

 簡単に父親に捕らえられてしまい、ものすごい力で背骨をへし折られ女の子に向かって投げつけられた。

「ぎゃん!」

 それが断末魔の叫びだった。

 父親は、気でも違ったのか大笑いしていた。

 そこに山口がドアを壊って転がり込んできた。

 事件の経過は、概略このような流れだった。

 女の子は、病院で懸命の治療を受けた。

 鉈が背骨に食い込み骨髄まで達していた。

 幸い脊髄の損傷はなかったが、骨自体の損傷がひどく、完全な修復は不可能だった。

 医師によると、もし同じ場所をもう一度痛めた場合、最悪死の危険があるということであった。

 

 この事件を受けて児童虐待として児童相談所が介入した。

 女の子はなんとか一命をとりとめて退院し、児童相談所に一時保護された。

 児童相談所で家庭環境などを調査した結果、両親には女の子を育てる監護能力がなく、殺人未遂を犯していることもあり、家庭裁判所が親権喪失の審判を下した。

 そして、家庭裁判所から指名された弁護士が女の子の法定代理人となった。

 事件の捜査の過程で山口は、女の子の名前を知る。

 天渡早苗

 3月14日生まれ(4歳)

 今のテワタサナイーヌだ。

 亡くなった山口の娘、早苗と同じ誕生日だった。

 山口は、天渡早苗をなんとか生かしたい、幸せにしたいと願った。

 山口にとって、天渡早苗は生かしてやることができなかった娘そのものだった。

 山口は、毎日のように病院に見舞いに行った。

 妻の弥生も同伴した。

 夫婦で天渡早苗を自分の子供のように心配して見守った。

 退院後も児童相談所に足繁く通って担当の児童福祉司から様子を聞いた。

「早苗ちゃんをうちにお迎えできないかしら。うちの娘としてお迎えしたいの」

 弥生が山口に相談した。

「いいですね」

 山口も同意した。

 山口は児童相談所に天渡早苗を里子として迎え、いずれは特別養子縁組で実子にしたいと相談した。

 通常、里子のペアリングは、児童相談所が里親と児童の相性などを調査した上で行われる。

 里親が特定の児童を指名することはできない。

 しかし、山口の場合は、背景事情などもあり、特別に天渡早苗とのペアリングが認められた。

「早苗が帰ってくるんだね」

 山口と弥生は手を取って喜んだ。

 ところが、間もなくお試しのお泊りが始まろうというとき、天渡早苗の身体に異変が現れた。

 普通では考えられない量の体毛が全身に生えてきた。

 そして、耳が変形し始め、どんどん大きくなり犬の耳のようになった。

 黒かった髪と瞳は緑色に変色し、犬歯が伸びて八重歯のようになった。

 すぐに天渡早苗は大学病院で検査を受けた。

 しかし、原因はわからなかった。

 形態から、犬のDNAが混在しているのではないかと推測されたが、確証が得られなかった。

 もし、犬のDNAが混入したとすれば、あの事件のとき、骨髄まで達した傷からヒマワリの血が骨髄に入り込んだ可能性があるとされた。

 それでも、犬のDNAと人間のDNAが混在できるというのは、医学で説明できない現象だった。

 この変化を受けて、天渡早苗には特別な医療が必要とされ、家庭での養育は不可能との結論が出された。

 山口と天渡早苗の、里子から特別養子縁組という夢は潰えた。

 

 それでも山口と弥生は、天渡早苗を自分の娘のように見守り続けた。

 小学校、中学校、高校と成長していく天渡早苗を見て、我が子のように喜んだ。

 高校を卒業した天渡早苗が警視庁の警察官になったことは山口にとって望外の喜びとともに驚きだった。

 山口は、天渡早苗の背骨のこと、虐待からの生還者であり心理的にケアが必要であることを天渡早苗の行く先々の所属に説明して回った。

 偶然にも天渡早苗は自分と同じような経歴をたどっていた。

 巡査のとき白バイに乗務したこと。

 高卒で警察官になり通信教育の大学を卒業したこと。

 同期の中でもぶっちぎりの若さで警部補に昇任したこと。

 偶然でもこれだけ自分と重なるところがあると、山口としては運命を感じずにはいられなかった。

 そしてついに葛飾署で山口と天渡早苗は同じ所属になった。

 それだけではない。

 次の所属でも一緒になり、仕事もペアを組んでいつも一緒にいられるようになった。

 人事に関しては、山口の力の及ぶ所ではない。

 まったくの偶然だった。

 

「ざっとこんなところです」

 山口が疲れも見せずに一気に話をした。

「やっぱり当たってた」

 テワタサナイーヌが得意げに言った。

「白バイ訓練所の所長が言ってた、私を見守っている人って、やっぱりお父さんだったんじゃない。なんで隠したのよ」

 テワタサナイーヌが山口の隣に座り肘でつついた。

「隠そうとはしていません。あのときは、続きを話そうとしたら出動が入ってしまって言いそびれてしまっただけです」

 山口が申し訳なさそうに言った。

 

「ところで早苗さん」

「なーに?お父さん」

 二人の呼びかけにぎこちなさがなくなった。

「妻を母として呼んでくれるんですか?」

 山口が大事なことを確認した。

 そのために今日は来ていたのだ。

 テワタサナイーヌは弥生を見た。

 弥生は不安げに下を向いている。

 テワタサナイーヌは、すっと立ち上がると弥生の前に進み、跪いて弥生の顔を覗き込んだ。

 

「お母さん、今日まで見守ってくれてありがとう。これからは一緒に生きようね」

 

 二人は抱き合って泣いた。

 




 この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

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