当たり前の後ろ ~テワタサナイーヌ物語~   作:吉川すずめ

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クラッシュ

 またテワタサナイーヌが苦手とする夏が来た。

 上野動物園での初デートと、その日のうちのファーストキスを経験したテワタサナイーヌと池上は、その後も順調に交際を続け、デートを重ねていた。

 テワタサナイーヌと池上の二人は、職場では相も変わらず上司と小僧の関係であった。

 テワタサナイーヌが山口に交際の進展を知られたくないと池上に頼み込んだのだ。

 テワタサナイーヌは、いつもの夏と同じように薄着で危うい雰囲気を醸している。

 

「おはようございます」

 テワタサナイーヌが事務的に挨拶をして山口に紅茶をサービスした。

「おはようございます。いつもありがとうございます」

 山口は、いつもと変わらない笑顔でテワタサナイーヌに話しかけた。

「係長」

「はい、なんですか」

「今朝はお茶を出しましたけど、明日からはご自分でお願いします」

 テワタサナイーヌが紅茶のサービスをやめると宣言した。

「あ、はい。わかりました」

 山口は、テワタサナイーヌの態度の変化に戸惑いながらも、普段と変わらない答えを返した。

 なぜだろうと疑問に思ったが、あえて理由は訊かなかった。

「食事に行きますか」

 お昼になったので山口がテワタサナイーヌを誘った。

「結構です。お一人でどうぞ」

 いつもは大喜びで腕を取ってくるテワタサナイーヌだったが、素っ気ない態度で山口の誘いを断った。

 テワタサナイーヌの態度の変化をハラハラしながら見ている男がいた。

 池上だった。

(俺のせいで係長に迷惑をかけてしまった)

 テワタサナイーヌの変化が自分のせいだと感じていたからだ。

 池上は自分を責めた。

 テワタサナイーヌはといえば、山口に冷たい態度をとる他は、いつもと何も変わらない明るさで周囲と接している。

「テワさん」

「はい」

 テワタサナイーヌがきっちりとした敬語で返事をした。

「なにかありましたか?」

 山口は疑問を投げかけてみることにした。

「なにもありません。詮索しないでください」

 テワタサナイーヌは、山口と目も合わせずぶっきらぼうに言い捨てた。

「そうですか、失礼しました」

 山口も深追いしなかった。

(そういうものですから)

 山口は、自分に言い聞かせた。

「係長、すみません。俺のせいです」

 テワタサナイーヌの態度に耐えきれなくなった池上は、山口を喫茶室に連れ出して謝った。

 テワタサナイーヌとの約束はあったが、自分達を一番温かく見守ってくれている山口に黙っていることができなくなった。

「俺がテワさんと付き合い出してから、テワさんが係長に突っかかるようになってしまったんです。本当にすみません」

 池上がブロークンではない敬語で謝罪して頭を下げた。

 山口は窓の外を見たまま、しばらく無言で考えていた。

「通過儀礼ですよ」

 山口が口を開いた。

「どういうことですか」

 池上には理解できなかった。

「いずれ池上さんにもお話しする日が来るかもしれません。いえ、来て欲しいんですが、今はまだそのときではありません。ただ一つ言えることは、時間が解決するということです。元のテワさんには戻らないと思いますが、今のような態度はなくなるはずです。それまで見守ってあげてください。そのときにお願いしたいことがあります。テワさんを説得したり、善導しようとしないでください。ありのままのテワさんを受け入れてあげてください。そうすれば、いずれテワさんは自分から戻ってきてくれます。それまで待ちましょう」

 山口はいつもの笑顔で諭すように池上に話した。

「承知しました」

 いつもと違う知性的な顔で池上が答えた。

 それからもテワタサナイーヌは、徹底して山口を避けた。

「触らないでよ!」

 山口がテワタサナイーヌをエスコートしようものなら、テワタサナイーヌは身体を捻って逃げ、大声で怒鳴った。

 山口と手を繋ぐこともなくなった。

 他の人のものは気にせず洗ったが、山口が使ったカップだけは触りたくないといって残した。

 仕事で必要な最低限のこと以外は一切話もしない。

 その間、池上とはデートを重ねた。

 池上といるときのテワタサナイーヌは、いつものテワタサナイーヌだった。

 池上にはテワタサナイーヌがわからなくなった。

 ありのままのテワタサナイーヌを受け入れて見守れと山口に言われていたが、テワタサナイーヌの態度の違いに戸惑いを隠せなかった。

「係長、最近のテワさんがわかんないす」

 池上が山口に相談した。

「お二人の関係はどうですか」

「前と同じっす」

「そうですか。それなら大丈夫です。いま、テワさんも自分が何者かわからなくて混乱している時期です。甘えたいテワさん、大人のテワさん、社会の矛盾に怒っているテワさん、テワタサナイーヌとしてのテワさん、天渡早苗さん。いろんなテワさんが、一人のテワさんの中にいます。しばらくすれば、一人のテワさんにまとまるはずです。もう少しの我慢です。池上さんならテワさんを受け止めてあげられるはずです」

 山口が自分で淹れた紅茶をすすりながらつぶやいた。

「俺にできることはないんすか」

 池上が歯がゆそうに言った。

「娘と仲良くしてあげてください」

 山口は笑いながら背伸びをした。

 

 夏になってもテワタサナイーヌは、覆面オートバイでオレオレ詐欺犯人を追尾するカゲと呼ばれる任務の手伝いを続けていた。

 バイク便を装ったオレオレ詐欺の発生はあまり多くない。

 テワタサナイーヌも待機の日が続いた。

 もちろん、その間にもオレオレ詐欺被害防止のキャンペーンに出演要請があれば可能な限り出演している。

 そのときは、山口と一緒に出かけることになるが、出かけてから戻るまで、一言も口を利かないことも珍しくなかった。

「父親ぶっててうざい」

「いつも子供扱いする」

 テワタサナイーヌは、池上とのデートでよく山口を攻撃した。

 テワタサナイーヌは、日増しに荒れていった。

 山口以外の職員にも食ってかかる姿が目撃されるようになった。

 山口は、犯抑の職員になにごとか説明しながら頭を下げ続けた。

「子供じゃないんだから我がままやらせないでくださいよ」

 ほとんどの職員からは理解を得られたが、中には苦情を寄せる者もいた。

(子供なんだよ)

 そう言い返したいのを飲み込んで、山口は黙って頭を下げた。

 

──7月の晴れた暑い日

「おはようございます」

 ふて腐れたように挨拶をしながらテワタサナイーヌが出勤した。

「あ、おはようございます」

 山口は、以前とまったく同じように笑顔で挨拶を返し続ける。

 テワタサナイーヌは、忌々しそうにそっぽを向いて椅子に腰かけた。

 朝の雑務をこなすとテワタサナイーヌはライダースジャケットとジーンズに着替えてカゲとしての出動に備えた。

 後ろの席にいた池上が、テワタサナイーヌの犬耳に口を寄せて何かを囁いた。

 それを聞いたテワタサナイーヌは、口をへの字にまげて頷いた。

 テワタサナイーヌは、デスクの引き出しからかわいい犬のイラストがついている正方形の付箋紙を取り出した。

 付箋紙にシャープペンで一行だけ記し、その一枚を剥がしたテワタサナイーヌは、隣に座っている山口のデスクに叩きつけるように貼りつけて部屋を出ていった。

「誕生日おめでとう」

 山口は、殴り書きの付箋紙をデスクから剥がすと、仕事用のダイアリーに貼りつけ、丁寧に撫で付けた。

 テワタサナイーヌが彼女を追って部屋を出た池上に連れられて戻ってきた。

「テワさん」

 山口が笑顔で話しかけた。

「はい」

 テワタサナイーヌが山口を見もせずに返事をした。

「ありがとうございます。よくおぼえてくれていましたね」

 山口が礼を言った。

 それに対するテワタサナイーヌの返事はなかった。

 山口は、小さく頷くと事務仕事に戻った。

 後ろの池上から見る山口の背中は、心なしか丸く小さくなったようだった。

「ぶー!ぶー!ぶー!」

 事務室の無線機が警報音を響かせた。

「ステルス出動!ステルス出動!福生市東福生駅。バイク便利用オレオレ。待機中のA班並びにカゲは緊急で現場へ」

 緊張感を持たせながらも落ち着いた声で出動命令が下された。

 緊急で現場へというのは、現場近くまで緊急走行で向かえという意味だ。

 テワタサナイーヌが跳び跳ねるように立ち上がり、無線機やウェラブルカメラをセットした。

「テワさん、まず安全に現場到着ですよ。特に今日の現場は遠いですから」

「わかってるわよ!」

 山口の注意にテワタサナイーヌが叫んだ。

 テワタサナイーヌは、苛立ったように犬耳をヘルメットに収めると部屋を飛び出そうとした。

「テワさん、キー!」

 山口が大きな声でテワタサナイーヌを呼び止め、テワタサナイーヌ目がけてオートバイのイグニッションキーを投げた。

 出動のとき、何かしら忘れるのが恒例となっていた。

「ありがとう!愛してる」

 これもいつもの決まり文句だった。

 テワタサナイーヌは、無意識に叫んでしまったあと、しまったという表情を浮かべ、慌てて部屋から消えていった。

 あとに残った山口は心なしか嬉しそうな顔をしていた。

 テワタサナイーヌは、警視庁の地下2階にとめてある愛車に跨がりエンジンを始動した。

 軽快な4ストローク2気筒エンジンの振動がテワタサナイーヌの腰に心地よく響いた。

 テワタサナイーヌは、イライラを静めるように大きく息を吸って吐いた。

 右ハンドルの前輪ブレーキレバーを握り込み、ステップに乗せた右足で後輪ブレーキを踏みしめる。

 左手でクラッチを握り、右足を地面に下ろして代わりに左足をステップに乗せる。

 左足でリターン式のチェンジペダルを踏み込みギアをニュートラルから1速に入れる。

 こつんと軽い振動が伝わりオートバイ全体に命が吹き込まれる。

 右後ろを振り返り直接目視で安全確認をする。

 安全が確認できたら前に向き直り「よし!」と呼称する。

 白バイ訓練所で叩き込まれた発進の手順だ。

 なにも考えなくても身体が自然に動く。

 テワタサナイーヌは、クラッチをつなぎ滑るように駐車場を出た。

 地上に出て警備の機動隊員に会釈をして桜田通りに入った。

 桜田門前を左折。

 皇居を右手に見ながら正面の国会議事堂に向かってまっすぐ走って行く。

 国会正門の前を左折、外務省の裏手の交差点をまた左折すると首都高速霞ヶ関ランプだ。

 ETCレーンを通り抜け、首都高速中央環状線に合流する。

 ここから緊急走行に切り替える。

 テワタサナイーヌは、サイレンと赤色灯のスイッチをオンにした。

 けたたましい電子音のサイレンが鳴り響き、高輝度赤色LEDがカウルから点滅しながら反転して現れた。

 テワタサナイーヌは走っている車の間を縫うように環状線から首都高速4号線に入り信濃町、代々木と通過していった。

 新宿まではカーブが多く続くので無理はできない。

 自分の腕に自信はあっても他のドライバーのことはわからない。

 もらい事故にも気を配らなければならない。

 新宿から先は大きなカーブもなくスピードを上げていける。

 とはいうものの、250ccのオートバイでは、中央高速を緊急走行するには些か力不足だ。

 街なかでの取り回しやすさを優先したため、これは致し方ない。

 もどかしさを感じながら安全を確保できる最高の速度で八王子インターを目指す。

 調布、府中と通過し、八王子インターで中央高速を降りた。

 そこから国道16号線の外回りを北上する。

 右手に横田基地が見えてきたらもう間もなく東福生駅だ。

 テワタサナイーヌは、無線の指示に従って東福生駅近くの細い路地に入りエンジンを停止した。

 犯人はまだ現れていない。

 テワタサナイーヌは、一旦オートバイのサイドスタンドをおろして降車した。

 緊張をほぐすため、その場で膝の屈伸運動を数回、そのあと腕を前後に振り回した。

 無線は静かなままだ。

 テワタサナイーヌはスタンドをかけたままシートに横向きに座り片足をステップに乗せた。

 静かな時間が過ぎる。

 国道16号線から少し入っただけなのに車の喧騒がほとんどない。

(代理、ごめんね)

 テワタサナイーヌは山口を思い出した。

(一番心配してくれてるはずなのに、会うとイライラして我慢できなくなる)

(本当は甘えたいのに、もうそんなこと恥ずかしくてできない)

 山口のことを思い始めると、気持ちがぐにゃぐにゃにこんがらがってしまう。

(どうにかしたい。助けて代理)

 決して口に出せない悲痛な叫びだった。

「1から各局。犯人と思われるバイク便を国道16号線で発見。現在監視中」

 ヘルメット内から聞こえてくる無線がテワタサナイーヌの意識を現実に戻した。

 テワタサナイーヌは、すっと立ち上がるとハンドルを掴み、オートバイを起こして左足でサイドスタンドを払った。

 いつものように後方の安全確認をしたあと、長く美しい右脚を振り上げて優雅にオートバイに跨った。

(代理、守って)

 本当は出動のたびにいつも怖かった。

 オートバイでの追尾は、常に死と隣り合わせだ。

 一瞬の判断、操作の誤りが死に直結する。

「2から1。国道16号線のバイク便は、携帯で通話しながら周囲の様子を伺っている。見張りは見えない」

「1から各局。バイク便は、青と白のライダースジャケットに黒ジーパン、白フルフェイス、単車はスズキのGSF1200、タンク赤色。タンデムシートに白いボックスを載せている」

 バイク便の特徴が無線で流された。

 標的は絞られた。

「2から1。バイク便が乗車して東福生駅方向に移動を開始した」

 捜査員に緊張が走る。

 東福生駅前には、被害者に変装した女性捜査員が偽札を入れた紙袋を持って待っている。

「1からカゲ」

「カゲですどうぞ」

「カゲは、通過のオートバイに偽装して福生駅前に入り犯人の監視と捕捉にあたれ」

「カゲ了解」

 テワタサナイーヌは、いつもよりゆっくりと東福生駅前に入っていった。

 駅前には被害者役の女性警察官しかいない。

 テワタサナイーヌを追い越してバイク便が駅前に進入した。

(赤のGSF1200ね。間違いない)

 テワタサナイーヌが犯人をロックオンした。

 バイク便は、ゆっくりとした速さで被害者役の女性警察官に近づいていった。

 ステルスチームの捜査員は、徐々に包囲の半径を縮めている。

 バイク便が被害者役の女性警察官の前に止まった。

 バイク便と犯人役の女性警察官は、二言三言、言葉を交わした。

 そして、被害者役の女性警察官が偽札の入った紙袋をバイク便に手渡した。

「それでは、確かに預かりました」

 バイク便は、紙袋をタンデムシートに載せたボックスに放り込んでロックした。

「あのー、預かりの伝票はないの?」

 犯人役の女性警察官がバイク便を引き止めるために声をかけた。

「あ、いまお渡しします」

 そう言ってバイク便はポケットの中を探し始めた。

(まだしばらくあのままいるな)

 捜査員のだれもがそう思った。

 そのとき、突然バイク便がポケットの中から手を抜き出し、ハンドルを掴みエンジンの回転を上げて逃走した。

 バイク便がエンジンをかけたままだったことを見落としていた。

「テワ追え!」

 指揮官の1が無線で怒鳴った。

 その無線指令をうけたとき、駅前方向に向けて停まっていたテワタサナイーヌの右側をバイク便が軽やかに通り過ぎていった。

 バイク便は、追跡がないのをミラーで見て余裕のある走りをしていた。

 テワタサナイーヌは、エンジンの回転を上げ、絶妙な半クラッチで小道路転回をきめてバイク便の追尾を始めた。

 サイレンは鳴らさない。

 このまま気づかれなければ、信号待ちで停止している犯人の横に出て蹴倒すことができる。

 突然、バイク便が急加速で逃走を始めた。

(しまった、ミラーで見られてた)

 犯人は、ミラーでテワタサナイーヌの小道路転回を見ていた。

 テワタサナイーヌの小道路転回がうますぎた。

 小道路転回とは、片側一車線程度の狭い道路でUターンをする技術をいう。

 エンジンの回転と半クラッチのつなぎ具合で倒し込みや起き上がりをコントロールする高度な技術だ。

 これを見事に決めてしまったため、白バイ乗りの技術とばれてしまったのだ。

 テワタサナイーヌは、赤色灯とサイレンのスイッチを入れざるを得なかった。

「カゲ追尾します」

 無線で一報を入れてフル加速で追尾を開始した。

 犯人は東福生駅前の通りから国道16号線を左折した。

 追尾するテワタサナイーヌは、犯人を見失わないようにするため犯人より無理な運転を強いられる。

 国道16号線に出る交差点をタイヤの山をぎりぎりまで使うリーンインで曲がり切り、直線に出る。

 敵はGSF1200、リッターバイクだ。

 すでに100m近く先を走っている。

 250ccのオートバイでは苦しい戦いだ。

 テワタサナイーヌは、フルに加速する。

 エンジンが悲鳴を上げる。

 追尾はフル加速とフルブレーキングの連続になる。

 あっという間に握力の限界を迎える。

 長くは追尾できない。

 テワタサナイーヌは、なんとか食いつくが加速にまさる犯人は決して止まることなく、かつしっかりと安全確認をして信号無視を繰り返す。

(絶対に負けない)

 テワタサナイーヌの鼻骨が軋んだ。

 牙を剥いてスロットルを開け続ける。

「1からカゲ、現在の速度を知らせ」

「140」

 現場の無線通話を事務室で傍受していた山口の顔色が変わった。

(やめろ早苗、打ち切るんだ)

 追尾は追う方が絶対に不利で危険だ。

「1からカゲ、追尾を打ち切れ」

「…」

 応答がなかった。

「1からカゲ、打ち切れ」

「いやです」

 テワタサナイーヌが追尾打ち切りを拒否した。

「必ず捕まえます」

 犯人は国道16号線外回りを北上し続ける。

「1からカゲ、速度知らせ」

「160」

 とっさに山口が無線機のマイクを取りPTTボタンを握りしめた。

 PTTボタンというのは、無線の受信状態と送信状態を切り替えるスイッチのことで、このボタンを押すと送信状態になる。

「止まれ!早苗!止まるんだ!打ち切れ!」

「お前は今度背骨にケガをしたら死ぬんだ!」

「頼む、止まってくれ!」

 山口は必死に叫んだ。

 その頃、テワタサナイーヌは犯人を追って埼玉県との境付近まで来ていた。

 速度は160km以上出ている。

 メーターを見る余裕も無線を聞く余裕もない。

 無線から山口の声が聞こえたような気がして一瞬我に返った。

 そのとき、犯人が信号無視で通過した交差点に青信号で乗用車が進入してきた。

 テワタサナイーヌはまだその交差点の手前にいた。

 目の前に乗用車が迫る。

「ザっ」

 無線に一瞬ノイズが入り、それきりテワタサナイーヌの応答は途絶えた。

「早苗!早苗!」

 山口はマイクに向かって怒鳴り続けた。

 応答はなかった。

 

 ──警視庁通信指令本部多摩司令センター

「はい、こちら警視庁110番。事件ですか、事故ですか」

 正面の壁には巨大な多摩地区の地図が映し出されている。

 110番を受ける受理台と無線指令を行う指令台が並んでいる。

 ひとりの受理係員が重大事案入電を知らせる赤いランプを灯した。

 このランプが灯ると指令センターに緊張が走る。

 指令台が無線を流した。

「警視庁から各局。福生管内交通人身事故。羽村市国道16号線外回り、大型トレーラーと覆面バイクの人身事故。覆面バイクの運転者女性は意識がない模様。近い局は至急臨場せよ」

「福生1から警視庁」

「福生1どうぞ」

「国道16号線の人身事故。覆面バイクが大型トレーラーの下敷きになり大破しています。運転者の女性は救急隊により病院搬送済みですが、意識レベル300どうぞ」

「警視庁了解」

 意識レベルとは、意識の状態を0から300の数字で表すもので、0がもっとも明瞭、300が呼びかけにも応じず痛みにも反応しない状態となる。

 

 ──犯抑本部

 重苦しい沈黙が犯抑本部を覆っていた。

 誰もが最悪の結果を覚悟しつつ、そうではないことを祈り続けていた。

 庶務係の電話が鳴った。

「はい。えっ、事故!?はい。わかりました」

 電話を受けた庶務係員が副本部長室に駆け込んだ。

「テワタサナイーヌさんが事故で意識不明です」

 その声は事務室の山口にも聞こえた。

 予想していたこととはいえ、その衝撃は尋常ではないものがあった。

 このような場合、よく目の前が真っ暗になるという表現が使われる。

 しかし、実際はそうではない。

 見えているものからごっそりと色彩が抜け落ち、モノクロームの世界になる。

 まるで水の中にいるかのように周りの音が鈍く響く。

 山口にとってこれは二度目の経験だった。

「どこの病院ですか!」

 なんとか正気に戻った山口が副本部長室に転がるように入って怒鳴った。

「東京医科大学八王子医療センターに搬送されたそうです」

 庶務係員が言った。

「緊定のバイク貸してください!」

 そう言うと山口は庶務の鍵ボックスから使っていない追尾用の覆面オートバイのキーを取り出し、ロッカーにある適当なヘルメットを掴み走って部屋を出ていった。

(死ぬな、早苗)

 山口は緊急走行で八王子に向かって走っていた。

 目的外の緊急走行だ。

 処分を受ける可能性もある。

(クビにでもなんでもしろ)

 そんなことに構っている余裕はなかった。

 病院までの道のりが異常に長く感じられた。

 山口は車の間をすり抜ける。

 30年のブランクを感じさせない走りだ。

 身体に叩き込まれた基本はそう簡単には抜けない。

 すぐに感覚を取り戻した。

(まずは安全に現場到着)

 山口は、はやる気持ちを抑えるよう繰り返し自分に言い聞かせた。

 不安と緊張と疲労で汗が吹き出す。

(死ぬなよ。待ってろ)

(死ぬなよ)

(死ぬなよ)

 頭に浮かぶ意識はそれだけだった。

 

 病院に到着した。

 山口は、オートバイから飛び降りると、ヘルメットも取らず救急受付ヘ走った。

 走りながらヘルメットを取った。

 救急入口前には所轄署のパトカーが1台停まっていた。

 テワタサナイーヌの容体を確認するための病院調査だ。

「犯抑です!」

 山口は、パトカーに乗っていた制服の警察官に警察手帳を示して窓ガラスを叩いた。

 ガラスを叩く勢いと山口の必死の形相に驚いた制服警察官は一瞬たじろいだが、すぐにドアを開け車から降りてきた。

「早苗、天渡早苗はどこですか!?」

「い、いま、中央手術室で治療中です」

「ありがとう!」

 言い終わらないうちに山口は中央手術室目がけて走り出していた。

 中央手術室の前には、もう一人のパトカー乗務員が立っていた。

「犯抑です。天渡は!?」

 山口が手短に訊いた。

「お疲れさまです。天渡さんはまだ意識が戻りません。医者の説明によると肋骨の開放骨折があって出血が多いそうです」

 山口の顔面から血の気が失せた。

「天渡には医療上特別なケアが必要なんです。医師に説明させてください!」

 山口が警察官に訴えた。

 警察官が病院側に話をしてしばらくしてから、中央手術室の中から青い術衣を着た医師が出てきた。

「天渡の職場の者です」

 山口が警察手帳を示して身分を明らかにした。

「天渡の様子はどうですか」

「事故の際に頭を強く打ったようで意識が戻りません。肋骨の開放骨折があって出血が多いのですが、血液型の判定ができず、輸血ができない状況で血圧が下がっています。輸血さえできれば血圧は戻りますが、輸血ができない状況が続くと生命の危険があります」

 医師が淡々と説明した。

「背骨、背骨に損傷はありませんか!?」

 山口が早口で医師に尋ねた。

「簡易なレントゲン検査の結果では背骨の損傷は認められません」

「そうですか。先生、天渡の血液型ですがヒトの血液型ではありません。DEA4です」

「は?そんなわけないでしょう」

 山口の説明に医師は信じられないという顔をした。

「詳しく説明している暇はないんです、大至急動物病院から供血用の犬を集めてください!DEA4です!」

 山口が叫んだ。

「し、しかし、血液型の判定もできていないのに犬の血液を輸血するなんてできませんよ。責任がもてません」

 医師の言うことももっともだった。

「天渡の血液に関する詳しいデータは科学捜査研究所が持っています。供血用の犬を集めながら平行して問い合わせてください!私も手配します!」

 山口は必死に訴えた。

「わ、わかりました。やってみます。ただ、私たちの病院では動物病院とのコネクションがありません。うまくいくかどうか保証はできませんよ」

 医師が自信なさげに言いながら中央手術室に戻って行った。

 山口はスマートフォンを取り出すと建物の外に出た。

「テワタサナイーヌが交通事故で重症を負いました。輸血に供血用の犬が必要です。血液型はDEA4。ご協力をお願いいたします」

 山口は犯抑のアカウントでTwitterに投稿した。

 そのツイートは14万のフォロワーに届きTwitter界に衝撃が走った。

「テワちゃん本当の犬だった」

「うちの犬連れていくよ」

「テワちゃん頑張れ!」

「供血に協力しよう!」

 山口のツイートは瞬く間に拡散され、トレンドの1位にまでなった。

 病院には、近くは八王子市内や周辺の神奈川県相模原市、町田市、日野市などから続々と供血用の犬を連れた人が集まり始めた。

 山口のツイートを見た獣医師会が動き、そのネットワークによりテワタサナイーヌの血液型に適合する大型犬が多数手配され、獣医師を伴って集められた。

 こうして犬から人間への輸血が開始された。

 犬を院内に入れることはできない。

 敷地内に簡易のテントが張られ、その中で獣医師が供血用の犬から血液を採取する。

 輸血用のパックに採取された犬の血液を中央手術室まで人力で運び込む。

 中央手術室でテワタサナイーヌに対する輸血が開始され、開放骨折の手術が可能となった。

 輸血によりテワタサナイーヌの血圧も上昇し、生命の危険はなくなった。

 この間も犬を連れた人が集まり続け、病院の敷地は犬を連れた人で埋め尽くされた。

 しかし、一般の人が連れてきた犬は血液型がわからない。

 血液型がわからない犬から輸血をすることはできない。

 山口は、一人一人に深々と頭を下げて礼を言い、帰宅してもらうようお願いして回った。

 

 ──手術開始から4時間

 手術は成功しテワタサナイーヌは中央手術室からICUに移された。

 まだ意識は戻らない。

 あとから池上も駆けつけ、山口とともにテワタサナイーヌの意識が戻るのを待ち続けた。

 

 テワタサナイーヌは、夢の中をさまよっていた。

 

 夢の中のテワタサナイーヌは、自分の年齢もわからない。

 ただ、自分であることだけはわかった。

 テワタサナイーヌはフワフワとした毛皮に包まれて明るい陽射しの中で空に向かってまっすぐ伸びたひまわりの花を見ていた。

 とても気持ちのいい昼下がりの昼寝のような気持ちに満たされてテワタサナイーヌは幸せだった。

 突然背中に痛みを感じてテワタサナイーヌは泣き叫んだ。

 背中から真っ赤な血がとめどなく流れ落ちる。

 みるみる毛皮が血に染まりびしょびしょになった。

 テワタサナイーヌは苦しくて息もできない。

 誰かが自分に怒鳴っている。

 顔は見えないが強い怒りを向けられている気がした。

 そのとき、自分をくるんでいた毛皮が動いて自分に怒りを向けている相手に襲いかかった。

 しかし、その相手は笑いながらテワタサナイーヌの大事な毛皮をズタズタに引き裂いてテワタサナイーヌに投げつけた。

 テワタサナイーヌの視界から色が抜け落ち、だんだん暗くなっていった。

「どんどんどん!」

 大きなノックのような音がして知らない男が近づいてきた。

 その男は自分に怒りを向けている相手を力ずくで押さえ込み、どこかに連れていってしまった。

 そこから先は真っ暗な世界がいつまでも続いた。

「ひまわり…」

 テワタサナイーヌの隣で付き添い用ベッドに寝ていた山口が飛び起きた。

 テワタサナイーヌの声が聞こえたような気がした。

「早苗?」

 山口はテワタサナイーヌに優しく声をかけた。

「お父さんなんて大嫌い!人殺し!」

 テワタサナイーヌが叫びながらベッドの上で暴れだした。

 山口はテワタサナイーヌを押さえながらナースコールのボタンを押した。

「天渡さんどうしました?」

 呑気な声がスピーカーから聞こえた。

「天渡が暴れだしました」

 山口がインターホンに向かって訴えた。

 すぐに医師と看護士が駆けつけてくれた。

「やめて!殺さないで!お願い、痛いよ!もうやめて!」

 その間もテワタサナイーヌは叫び続ける。

 医師が看護士に指示をして強力な鎮静剤の注射を用意させテワタサナイーヌに施用した。

 再びテワタサナイーヌは深い眠りについた。

「術後せん妄かもしれませんね。ただ、せん妄が現れるということは、天渡さんの意識が戻った可能性もあります」

 医師が説明した。

 その後、テワタサナイーヌが暴れることはなかった。

 ──手術の2日後早朝

「代理」

 山口は夢の中でテワタサナイーヌから呼ばれた。

「代理。おはよう」

 弱々しい声だが、今度は、はっきり聞こえた。

 夢ではない本当のテワタサナイーヌだ。

 テワタサナイーヌのベッドに突っ伏したまま寝ていた山口が跳ねるように身体を起こした。

 テワタサナイーヌが目を開けている。

 鎮静剤の影響で目に力はないが、テワタサナイーヌの意志は感じられた。

「さっ」

 山口は大声が出そうになったが、テワタサナイーヌを刺激してはいけないと思い、あとの言葉を飲み込んだ。

「おはようございます」

 山口はいつもの笑顔でテワタサナイーヌに話しかけた。

「ごめんね、事故っちゃった」

 数日前に暴れたことがあった関係で動きを抑制されているテワタサナイーヌは、唯一自由に動かせる首から上を懸命に動かして山口に感情を伝えようとした。

「いいんです。テワさんが生きていてくれさえすれば」

 テワタサナイーヌが自分の左手の先を見ながら指先を動かし、目を移して山口を見つめた。

 山口はそっとテワタサナイーヌの手の上に自分の手を重ねた。

「ちょっと待っていてください。テワさん最愛の小僧もきてますよ」

 そう言うと山口は病室を出て待合室のソファーで仮眠していた池上を迎えに行った。

 池上が一人で病室に入ってきた。

 山口の姿はない。

「あー、テワさん生きてたんすね!」

 開口一番、池上が的はずれな言葉を発した。

「あんた、やっぱり果てしないバカね」

 テワタサナイーヌが嬉しそうに泣いた。

「俺、テワさんが退院したら、テワさんにプロポーズするんだー」

 池上が軽薄そうに言った。

「大輔くん、それ死亡フラグ」

「それにね、予告したら感動が半減よ」

 テワタサナイーヌは安心したように再び眠りについた。

 

「ひまわり…」

 テワタサナイーヌが寝言を言った。




この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

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