「あの変態男め。自分から誘っておいて遅刻するとはサイテーだな」
テワタサナイーヌが苛立った。
晩春の日曜日午後、上野駅公園口にテワタサナイーヌの姿があった。
白いややルーズな長袖のカットソーにぱっつんぱっつんのホットパンツを履き、足許はぴったりフィットした編み上げのロングブーツだ。
ホットパンツは、レザーで縫製され、革独特のぬめるような光沢を放っている。
カットソーは、ルーズなデザインでありながら、テワタサナイーヌの二つの十分に育った膨らみを隠しきれず、タイトにフィットしてしまう。
テワタサナイーヌは比較的背が高い。
168cmくらいある。
犬耳の高さを加えると175cmくらいにはなる。
それだけでも目立つのに、その日のテワタサナイーヌは、ヒールの高いロングブーツを履いて、筋肉質で程よい張りのある長くまっすぐな脚を付け根まで惜しげもなく晒している。
通りすぎる男性のみならず女性も振り返ってテワタサナイーヌを見ていく。
「どんどん見て。私かわいいから」
見せ物になるのが嫌で白バイを降りたあの頃とは、まるで別人だ。
あの頃のテワタサナイーヌは、とにかく自分を認めることができなかった。
自分は異形の化け物だという観念にとらわれていた。
「こうなったのも全部あのイタリア男二人組のせいよ」
自分を自由にしてくれたイタリア男二人組には感謝している。
イタリア男二人組とは、山口とテワタサナイーヌの部下にあたる池上のことだ。
池上は、テワタサナイーヌの下につく巡査部長の男で、とにかくノリが軽い。
違和感なく女性をほめることができる男だ。
山口については、言うまでもない。
この二人と関わる前のテワタサナイーヌは、肌の露出をできるけ抑えた地味な服装を好み、化粧っ気もなく、とにかく目立たないようにしていた。
目立って他人から見られるのが嫌だった。
それが、この男たちと出会ってテワタサナイーヌは人生を狂わされた。
(ほんと、人生を狂わされたっていう感じ。それまでの私はなんだったのよ)
「今日も超きれいっすね」
「俺、テワさんの脚めちゃくちゃ好きなんすよ」
「テワさん、なにやってもかわいいっすね。惚れていいっすか」
池上は、ほぼ毎日この調子だ。
山口は、テワタサナイーヌのちょっとした変化にも気づいて控えめにほめる。
「おや、今日はちょっと雰囲気が違いますね」
たいしたことは言わないが、変化に気づいてもらえると嬉しい。
ほめられ、おだてられしているうちに、徐々にテワタサナイーヌは肌を露出することに対する抵抗感が薄れていった。
「私はこれでいいんだ」
そう思えるようになった。
山口の口癖である「そういうものですから」にも強い影響を受けた。
山口の「そういうものですから」は、斜に構えた感じでも、ニヒリズムでも、シニシズムでもない。
「テワさんは、それでいいんですよ」
山口は、前向きに肯定してくれる。
自分のことを受け入れてもらえている安心感がある。
肌を露出し始めると、見られることが快感に変わった。
もともと背が高く脚も長い。
顔立ちも美形だ。
磨けば磨くだけテワタサナイーヌはきれいになった。
そして、気づいたらほぼお尻のラインが見えそうなくらいに短いホットパンツまで履きこなすようになっていた。
しかし、テワタサナイーヌは、どんなに露出をしても背中だけは絶対に見せることがなかった。
──二週間ほど前
「テワさん」
池上が後ろの席からテワタサナイーヌを呼んだ。
「んー、なにぃ?私、いまお煎餅食べてて忙しいんだけど」
テワタサナイーヌが椅子の背もたれに寄りかかり、のけぞるようにして顔だけ後ろを向き生返事をした。
「十分暇そうに見えますよ」
「なっ、失礼な小僧ね」
テワタサナイーヌは手に持っていた煎餅を池上の口に突っ込んだ。
「で、ご用は?」
相変わらずテワタサナイーヌは煎餅をかじっている。
「おいしいっすね、この煎餅」
「そうでしょー!高かったのよ」
「もう一枚あげる」
気をよくしたテワタサナイーヌは、追加の一枚を池上に差し出した。
「ありがとうございます!」
池上が喜んだ。
「餌付けよ、餌付け」
テワタサナイーヌ基準で食べ物をくれる人はいい人なので、自分も池上に対していい人になろうという作戦だった。
「割と餌付けされてます。いつもごちそうさまっす」
池上も餌付けされることに抵抗はないようだった。
「あ、忘れてた。用は何?」
テワタサナイーヌが話題を戻した。
「あ、はい、えっと、用っつーほどのことじゃないんすけど…」
「なによ、いつもの小僧らしくないわね。すぱっと言いなさいよ、すぱっと」
テワタサナイーヌがイライラした表情を見せた。
「じゃあ言います。あのですね」
「あー、まどろっこしい!イライラするわねえ。マズルが伸びちゃうじゃん!」
いつもならずばずばと言葉を発する池上が珍しくしどろもどろになっているのをテワタサナイーヌはイライラしながら聞いていた。
「デートしてください。俺と」
池上は意を決して単刀直入に言った。
「え?は?え?なに?ちょっと待って、なにそれ?」
まったく予想もしていなかった言葉にテワタサナイーヌは戸惑いを隠せない。
池上は顔を真っ赤にしてテワタサナイーヌを見ている。
「えー、えーっ、えーっ!?ちょっと待ってよ。あんた本気?あんたが私とデートしたいって?え、ひょっとしてあんた私のこと好きなの?あ、そう。え、やだ、待って。あり得ないんだけど。だってさ、考えてみなさいよ。私はあんたの上司でしょ。あんたは部下なわけ。その二人がデートとかおかしいでしょ。え、いつも山口係長とデートしてるだろって?うるさいわね、ぶっ飛ばすわよ。あれはお父さんなの。もうおじいさんでしょ、見た目も。人畜無害だから付き合ってあげてんの。それに比べてあんたは若い!人畜有害!そりゃあデートに誘われたら嬉しいよ。うん、ありがと。でもさー、さっきも言ったけど上司と部下じゃん。三流エロ漫画だよ、その展開。黙れっての、読んだことなんかないわよ。そういう感じなのかなーって思っただけ。て、なんであんたが突っ込んでるのよ。分を弁えなさいよ、バカ。あ、ごめん言い過ぎた。ていうかさ、あんたいっつもイタリア人じゃん。なんで今日は奥ゆかしい日本人になってんのよ。こっちが戸惑うっつーの。恥ずかしかったって?言われたこっちの方が一億倍恥ずかしいわよ。まだ顔が火照ってるんだから。見えない?毛が生えてるからだよ!あんたのことなんかね、これっぽちも嫌いじゃないんだからね。あれ?間違えた?いや、いいの。うん。間違えてない。あんたのことは嫌いじゃない。むしろ普通に好き。いや、だから、あそこの人はお父さんだから。いくら好きでもお父さんとは結婚できないでしょ。実の親子関係じゃないんだから大丈夫だ?そんなことわからないでしょー。親の記憶がないんだから。ていうか、あんた何ぼけーっとしてんのよ。いま私なんて言ったか聞いてた?バカねー、もう言わない。そんな、恥ずかしくて好きなんて何回も言えるわけないでしょ。まったくもう」
明らかに嬉しすぎて舞い上がっているテワタサナイーヌだった。
「ねーねー、代理」
テワタサナイーヌは椅子をくるっと回転させて山口の方を向いた。
「なんですか」
二人の会話は、いつもこの呼びかけから始まる。
「ちょっと聞いてよ」
「さっきから大声でしゃべってるから全部聞こえてますよ」
「なら話が早いわ。後ろの小僧が私のこと好きなんだって。でね、デートしたいって言うのよ、でーと。お父さんとしてどう思う?」
まだ興奮冷めやらぬテワタサナイーヌがまくし立てた。
「まず、お父さんはやめましょう。デートに関しては、いいと思いますよ。池上さんだったら並んで歩いても釣り合いが取れる素敵なカップルになると思います」
山口は二人の会話を不安げに見守る池上を見て頷いた。
「え、ほんとにいいの?小僧に私とられちゃうかもしれないんだよ?」
テワタサナイーヌが悪魔のような問いかけをした。
山口は、本当はテワタサナイーヌを手放したくないと思っている。
しかし、それを公言できる立場ではない。
かといって、自分の元を離れて池上と交際しなさいとも言えない。
テワタサナイーヌを突き放すことになってしまう。
「テワさんが池上さんのところにいってしまっても、早苗さんと私の関係は何も変わりません。大丈夫です、心配していませんよ」
山口は言葉を選びながらテワタサナイーヌに告げた。
「なんか、お嫁に行く日の父と娘の会話みたい」
テワタサナイーヌが大笑いした。
テワタサナイーヌは、椅子を回転させて後ろの池上と向かい合った。
「というわけで、お父さんの許しをもらったからデートしてあげる」
「ほんとですか。やった!お父さん、ありがとうございます!」
池上が拳を握りしめて喜んだ。
「お父さんではないんですが」
山口が苦笑した。
「ただし、さっきあんたのことをうっかり好きって言っちゃったけど、順位は低いから。1位はお父さんで、この地位は揺るがないでしょ。で、あんたは暫定2位ってとこ。でも、この1位と2位の間には、ふかーい溝やたかーい崖があって、超えられません。ダメです。それでいいわね?」
テワタサナイーヌは、永遠の暫定2位宣言を池上に突きつけた。
「テワさん、テワさん」
池上がテワタサナイーヌを呼んだ。
「なに?」
「暫定2位は了解っす。つきましては、デートの服装でお願いしたいことがあります」
「あんた図々しいわね。いまデートの確約したばっかりで、もう服装の指定するの?」
そう言いながらテワタサナイーヌはメモの用意をしていた。
「はいどうぞ。聞いてあげる」
「ありがとうございます。俺、テワさんのきれいな脚が好きなんです。だから、デートのときは、その脚をずっと見ていたいなって思ってたんです。なので、できるだけ脚が出てる服を着てきて欲しいんす。あと、ブーツでお願いします」
池上が恥ずかしそうに言った。
「あらー、あんた脚フェチのブーツフェチだったの。いいわよ、その要望承りました」
きれいな脚が好きと言われたら見せないわけにはいかない。
テワタサナイーヌも気分がアガってきた。
そして、上野駅公園口での待ち合わせとなった。
「すいません。遅れちゃいました」
遅れて来た池上が平身低頭謝った。
「初めてのデートなのに女を待たすんじゃないわよ。まったく。で、なんで遅れたの?」
テワタサナイーヌは機嫌が悪いふりをしていたが、別に気にしていなかった。
ただ、ここで女を待たせていいと思わせてしまうのは、今後の彼のためにもならないと思い、きっちり躾けることにしたのだ。
「地元でアメリカバイソンの群れと遭遇してしまいまして」
池上が真顔でテワタサナイーヌを見て言った。
「あんたすごいとこ住んでるのねえ。それじゃあしょうがないわ」
テワタサナイーヌは負けたと思った。
(この男、案外すごいか果てしないバカのどっちかだわ)
「ところで今日はどこに行くの?あ、あと、今日は上司と部下じゃないから、いつものブロークンな敬語なんか使ったらぶっ飛ばすよ」
テワタサナイーヌがニコニコしながら池上の顎に拳をあてがった。
「わかりました。じゃなくて了解!」
池上が挙手の敬礼をした。
「はい、ぶっ飛ばし一回目」
テワタサナイーヌは池上の背に回り込み右手でレバーにパンチを食らわした。
「いたっ!くない。テワさん優しいっすね」
「二回目欲しいの?」
テワタサナイーヌがいたずらっぽく笑った。
「いいわよ、あんたがその方が話しやすいっていうならそれで」
(そういうものですから)
テワタサナイーヌには、山口の顔が浮かんでいた。
「ごめん、余計な話が長くなっちゃった。行き先は決まってるの?」
テワタサナイーヌが小首を傾げて池上に訊いた。
「テワさんのそのポーズめっちゃ好きっす」
池上がイタリア人になった。
「えっとですね、今日は動物園に行こ」
「ちょっと待て!」
池上がまだ言い終わらないのを遮ってテワタサナイーヌが叫んだ。
「あんたやっぱりまだ小僧ね。私の顔見なさい」
「すっげーきれいっす」
「ありがと。いや、それはそうなんだけど、今言いたいのはそれじゃないの。犬、犬なの私。ちょっとここ嗅いでみなさいよ」
テワタサナイーヌは山口にしたように、緑の髪を掻き上げて短い獣毛に覆われたうなじを池上の鼻先に差し出した。
池上は大きく息を吸い込んだ。
あこがれの女性の匂いを嗅げる機会を逃す手はない。
「実家で飼ってるチワワと同じ匂いがする」
「でしょ。犬の匂いがする私が動物園に入ったらどうなると思う?」
「子供たちに喜ばれそうっすよね」
池上は本当にそう思った。
「やっぱりあんたは果てしないバカに認定。ちょっとでもすごい人かと思った私もバカでした」
テワタサナイーヌが膨れっ面をした。
「え、まずかったすか?」
池上が慌てたように言った。
「今はね、私の匂いの話をしてるの。なんで子供が私の匂いで喜ぶのよ」
「あ!」
ようやく池上が自分の間違いに気づいた。
「そうっすよね。テワさんが動物園に入ると、テワさんの匂いでなにがどうなるんすか?」
池上は腕組みをして考え込んだ。
「動物は臭いに敏感でしょ。ちなみに私も犬並みの嗅覚だからね。臭気選別だってできるんだから」
テワタサナイーヌが余計な自慢をした。
「だから犬の匂いをさせた私が動物園をウロウロしたら、他の動物が敵の侵入と勘違いして騒ぎ出すかもしれないじゃない」
「それによ、飼育員さんに逃走した動物と間違われて捕獲されたらどうすんのよ」
「それやばいっす!」
テワタサナイーヌはボケたつもりだったが、池上は真に受けたようだった。
ぐりぐりぐり
テワタサナイーヌの拳が池上のこめかみを抉った。
「痛いっす。テワさん痛いっす」
池上が手足をばたつかせて涙目になりながら訴えた。
「いまのとこは真に受けちゃダメなの」
テワタサナイーヌは抉っている手を緩めずに低い声で池上に言った。
鼻骨が変形していないところを見ると本当に怒ってはいないようだ。
「行ってみよっか。動物園」
池上のこめかみから拳を離してテワタサナイーヌが優しく言った。
「え、大丈夫なんすか?」
池上が心配そうな表情を浮かべた。
「わかんない。私、こんな身体でしょ。だから今まで一度も動物園に入ったことないの。遠足で友達が動物園に行ってるときも私はひとりで学校に残ってた。だから、自分の身体が大っ嫌いだった。恨んだ」
テワタサナイーヌは、かろうじて残っている小学校時代の記憶を初めて他人に語った。
「寂しかったんすね。ちっちゃいテワちゃん」
池上がテワタサナイーヌの顔を覗き込んだ。
固く握りしめられたテワタサナイーヌの拳が小刻みに震えていた。
大きくこぼれそうな瞳から大粒の涙が一筋落ち、真珠のような玉となってアスファルトに黒いシミを作った。
「でも、果てしないバカのあんた。じゃない、大輔くん。大輔くんとなら行ける気がする。大輔くんなら、飼育員さんから守ってくれるよね?」
泣き笑いのテワタサナイーヌが小首を傾げた。
「泣いてても、そのポーズはめっちやかわいいっす」
池上は、心の中で慟哭しながら、あえてバカを演じた。
「ばーか、ばーか!」
テワタサナイーヌは、人目を憚ることなくぐしゃぐしゃに泣いた。
しかし、その表情はどこかしら嬉しそうに見えた。
池上はニコニコしながらテワタサナイーヌに寄り添っている。
周りから見たら、イケメンがモデル並みのいい女を泣かせてニヤニヤしているという最低な状況だったに違いない。
「テワさんを守りたいんすけど、絶対テワさんの方が俺より強いから、自力で逃げてください」
「やる気ない野郎だな」
テワタサナイーヌは、泣きながら池上のレバーにパンチを入れた。
「痛っ、くないのかと思ったら今度は痛いっす」
池上がうずくまった。
「十分泣いたすか」
立ち上がった池上がテワタサナイーヌの顔を見て言った。
「うん、ありがと。すっきりした」
またひとつ過去を清算したテワタサナイーヌだった。
「行くよ」
池上がテワタサナイーヌにため口をきいた。
「うん」
テワタサナイーヌが池上に従った。
上野恩賜公園の敷地は広い。
美術館や博物館を横目に通りすぎ、交番の前で記念撮影をして職務質問され、ようやく動物園の入口に着いた。
池上が二人分の入場券を買って、一枚をテワタサナイーヌに手渡した。
「テワさんに手渡すって、なんか微妙な響きっすね」
「私もね、誰かになにかを手渡すたびに言われるのよ」
「お先にどうぞ」
池上がテワタサナイーヌを先に入園させようと、左手でテワタサナイーヌの背中に触れた。
その瞬間、テワタサナイーヌが右に体をさばいて池上と間合いを取り、右手の手刀で池上の左手を打ち払った。
「背中に触らないで!!」
テワタサナイーヌが牙をむき叫んだ。
「あ、ごめん。痛かった?」
すぐに正気に戻ったテワタサナイーヌが池上を気遣った。
「いや、大丈夫す」
池上が打ち払われた左手をさすりなが答えた。
「それより、こっちこそごめん。まだ触るのは早かったすね」
池上が謝った。
「いや、背中以外だったらどこ触ってもいいよ。でもごめん。背中だけは触らないで」
テワタサナイーヌが両手を合わせて懇願した。
「わかった。覚えておくっす」
池上が敬礼した。
(この男、よっぽど敬礼が好きなのね)
変なところに感心したテワタサナイーヌであった。
二人が動物園の入場ゲートを入ろうとすると、ゲートに立っていた係員に呼び止められた。
「あのお、大変失礼なことをお聞きしますが、こちら様はペットではありませんよね?当園では、犬や猫などのペットを連れてのご入場をお断りさせていただいておりますので」
係員がテワタサナイーヌを示して池上に訊いてきた。
二人は顔を見合わせた。
「あー!」
池上が声を上げた。
「この人、俺の彼女す。犬耳や牙が生えてるし、尻尾もあるけど一応人間も混ざってるす」
「ちょっと大輔くん、その言い方はひどくない?」
テワタサナイーヌが牙をむいて怒った。
「いや、ダメだってテワさん。今、人間かどうか訊かれてるのに牙むいちゃヤバいっすよ」
「すいません。彼女、犬っぽいけど警察官す。だから間違いなく人間す」
池上が頭を下げた。
ゲートの係員は、顔を真っ赤にして肩を震わせながら笑いをこらえている。
二人の掛け合いが面白すぎたのだ。
テワタサナイーヌが普通に言葉を話しているので、人間だということはすぐにわかった。
なので、すぐに通ってもらってよかったのに、二人で勝手に盛り上がっていたのでおかしくなったのだ。
「ねえねえ大輔くん」
「なんすか」
「さっきの駅前号泣事件だけどさ、いまの係員さんに言われたことで私気がついた」
「なにを?」
「私が小学生のとき、遠足に連れて行ってもらえなかったのは、匂いのせいじゃなくて動物園に犬猫を連れて入っちゃいけないからだったんじゃない?」
「あ、そうっすね!テワさん頭いいっすね」
(どうもこの男は感心するポイントがずれてるわね)
テワタサナイーヌも妙なところで感心していた。
「まあどっちにしても連れて行ってもらえないっていうことに変わりはないなんだけどね」
テワタサナイーヌが肩をすくめた。
「それもそうすね。テワさん、たいして頭よくなかったすね」
「ぶっ飛ばしてもいいかしら?」
テワタサナイーヌが牙をむいた。
「ママ、あのお姉ちゃんこわーい」
二人の近くにいた女の子がテワタサナイーヌを指差して泣いた。
「ちょっとあなた、なんてこと。すみません、ほんとに」
同伴の母親がテワタサナイーヌに謝った。
「あー、ごめんねえ、お姉ちゃん怖い犬じゃないから大丈夫よ。ほら、ね」
テワタサナイーヌは、女の子に駆け寄ってしゃがみ込み、目の高さを合わせて笑ってみせた。
女の子は、目に当てた手の隙間からテワタサナイーヌをちらりと見た。
「やっぱりこわーい」
テワタサナイーヌの眉がハの字になった。
「ときどき子供に泣かれるのよね」
女の子と別れた後、テワタサナイーヌがしょんぼりとつぶやいた。
「でもしょうがないっすよ。世界中の人みんなから好かれるなんてできないっす。だったら、怖がったり嫌ったりする人たちのために生きるより、好いてくれる人のために生きたほうが楽しいんじゃないすか」
「大輔くん、あなた本当は賢いの?」
テワタサナイーヌが真剣に訊いた。
「果てしないバカっす」
池上がさらりと答えた。
「うわ、くっさ。夏場に1か月くらいお風呂に入ってない自分が5,000人くらいいるような臭いがする」
園内に足を踏み入れたテワタサナイーヌが顔をしかめた。
「やったんすか?夏場の1か月」
池上が食いつくポイントは、どこかずれている。
「やるわけないじゃん。イメージよ」
「たっくさんの動物の臭いがブレンドされたものすごく濃い臭いがしてるのよ。さっき言ったでしょ、私の嗅覚は犬並みだって。特に動物の臭いには敏感なのよ。たぶん野生動物の本能?」
ヒトには感じられない動物の臭いをテワタサナイーヌは感じていた。
「てことはよ。これに私の匂いが混ざったところで、全然問題なさそうよね」
テワタサナイーヌは、自分の考えが杞憂だったことに気づいた。
「問題なさそうっすね」
池上がオウム返しに答えた。
二人は動物園を満喫した。
ときどき匂いではなく、テワタサナイーヌが顔を見て吠えられることはあったが、おおむね平穏に見学することができた。
「あれっ?」
不忍池テラスで休憩しているテワタサナイーヌが鼻をひくつかせた。
「ねえ大輔くん、園内って禁煙よね?」
「そうっすね、たしか喫煙所がひとつだけあったと思うけど、ここからはずいぶん離れてるはずっすよ」
「なんでだろう。タバコの臭いがする」
テワタサナイーヌがあたりの臭いを嗅ぎ分けながら周囲を見渡す。
「あっ、あれ!大輔くん、あの二人見て」
テワタサナイーヌが不忍池テラスの一番はずれの席に座っている二人の男を顎で示した。
「あの二人のうちの片方からタバコの臭いが流れてくる」
テワタサナイーヌの顔が警察官のそれに変わった。
「それがどうかしたんすか」
池上が怪訝な顔でテワタサナイーヌを見た。
「そいつの服装をよーく見て。歳は若そうよね。だいたい20歳前後ってとこかしら。でね、スーツでしょあれ、一応」
「うん、ほんとに一応って言えるようなスーツすね」
「ジャケットの肩幅が全然合ってないから肩が落ちちゃってずんだれてる。ワイシャツの第一ボタンを外してネクタイを締めてる。いや、全然締まってなくて緩んでるよね。で、極めつけはスーツなのに腰パンよ」
「かっこわるいっすね」
「まるで高校生の着こなしよね」
「あーーーーっ!」
池上が声を上げた。
「バカ、声がでかい」
テワタサナイーヌが池上の口を手で抑えた。
「はあ、テワさんの手、いい匂いっすね」
池上がうっとりしている。
「果てしないバカね、やっぱり」
テワタサナイーヌが呆れた。
「わかったすよ。あれ、受け子っすね」
「うん、たぶん。受け子は、パチンコ屋でリクルートされることが多いから、身体にしみついたタバコの臭いが漂ってきたんだと思う」
「でも、動物園でなにやってるんすかね」
池上が不思議そうに言った。
「ライブ・ドロップ」
テワタサナイーヌが一言だけつぶやいた。
「スパイ映画みたいすね」
池上もライブ・ドロップという言葉の意味を知っていた。
ライブ・ドロップというのは、スパイが協力者と情報の受け渡しを実際に会って行うことをいう。
逆に、顔を合わせることなく情報のやり取りを行うことをデッド・ドロップという。
「おそらく受け子とその上位の人間が接触して、何かを受け渡ししているんだと思う」
「なんですかね」
「今日は日曜日でしょ。金融機関はお休みだから現金の調達は難しい。となると、カード預かり詐欺で騙し取ったカードの受け渡しじゃないかな。キャッシュカードならATMで預金を引き出せるから」
「さすが俺の上司っす」
「まあね」
「惚れていいすか」
「もう惚れてるんでしょ」
「そうす」
「じゃあもっと惚れなさい」
「了解」
緊張感のある気の抜けた会話を繰り広げた。
「こんなことろで受け渡しをしているとは誰も思わないわよね。悔しいけど、今日はあいつらを引っ張るネタがなにもない。大輔くん、大輔くんのスマホで私の写真を撮るふりして、めいっぱいズームしてあいつらの写真を撮ってくれる。情報としてあげとこうよ」
「よしきた」
池上は、テワタサナイーヌを挟んでだらしないスーツ男と一直線になる位置に移動した。
スマホを取り出してカメラを起動する。
カメラのズーム機能を最大にしてスーツ男の顔と服装を写真に収めた。
ついでにズームを戻してテワタサナイーヌにピントを合わせた写真も撮った。
「大輔くん、ずいぶん時間かかってるけど大丈夫?」
池上が手間取っているように見えたテワタサナイーヌが心配した。
「大丈夫っす。ばっちり撮れました。いろいろと」
この日の情報をもとに捜査が行われ、後日、大規模なカード預かり詐欺グループが一斉に検挙され、グループの壊滅につながった。
「大輔くん、今日はほんとにありがとう。楽しかった」
生まれて初めての動物園を存分に楽しんだテワタサナイーヌが池上に礼を言った。
「我ながら動物園は、いいチョイスだったみたいすね」
「うん、なかなかよかったよ」
テワタサナイーヌがほめた。
動物園を出る頃には、日も傾いてうっすらと暗くなっていた。
「テワさん、このあとご飯食べに行きませんか」
池上が食事に誘った。
「デートだから、食事はありよね。うん、いいよ」
「ちょっと離れるんすけど、お店予約しときました」
「あらまあ、気合入ってるのね」
池上はタクシーを拾うと、テワタサナイーヌを先に乗せ、あとから乗り込んだ。
「西麻布まで」
池上がドライバーに告げた。
西麻布までの道中、テワタサナイーヌと池上は言葉が少なかった。
今さらだが、今こうして二人でいることが不思議に感じられたからだ。
金曜日まで上司と部下、それ以外のなにものでもなかったものが、今日は二人の距離がぐっと縮まった。
池上が案内した店は、西麻布から裏路地に少し入ったところにあるビストロだった。
そこは、赤を基調とした落ち着いた造りで、パリの路地裏にありそうな店だった。
あらかじめ下調べをしておいたのだろう、池上は手際よく、ところどころ思い出しながらオーダーをした。
料理はどれもおいしく、酒も進んだ。
2時間あまり食事を楽しんだ二人は店を出て西麻布から六本木へ通じる裏通りをゆっくりと歩いていた。
「大輔くん」
「なんすか」
「今日はありがとう。楽しかったし、おいしかった」
「いえいえ、どういたしまして。俺もテワさんと一緒にいられて楽しかったす」
「ひとつ苦言いい?」
「え、俺、なんかした?」
池上が怯えた。
「ううん、そうじゃない。大輔くんは、すごく頑張ってくれたと思ってる。とっても嬉しいよ」
「でもね、さっきのお店。普段使うようなところじゃないよね。今日のために探したんじゃない?」
テワタサナイーヌが訊いた。
「そうっす。初めてのデートだから奮発したんすよ」
「ありがとう。そうよね」
「でも、それはちょっとだけ無理してるでしょ」
「うーん、無理ってほどじゃないけど、毎回はできないすね」
「だよね。私はね、大輔くんという、いい男とデートしたくて来てるの。お店とデートしたいなんて思ってないから。デートに必要なのは、大輔くん、あなただけなの。高級なビストロは、お腹は満たしてくれても恋心は満たしてくれないのよ。だから無理なんてしないで。大輔くんと一緒ならファミレスでも居酒屋でも最高のお店になるんだから。ね」
「テワさん…」
池上が泣きそうな顔をした。
「ただし、その果てしないバカは直しなさい。わかった?」
「了解っす」
池上が敬礼した。
「わかったら、ほら」
テワタサナイーヌは立ち止まり、池上に向き合い大きな目を閉じて軽く顎を上げた。
震えるテワタサナイーヌの唇に池上の唇が合わされた。
粘膜の摩擦が心地良い。
かすかに開いた唇の隙間から温かいものが行き交い混ざり合う。
それがテワタサナイーヌには甘く感じられた。
長い沈黙の時間が流れ、二人の唇が静かに離れた。
「テワさんの顔、ちょっとチクチクするすね」
池上が照れ隠しに言った。
「バカっ!!」
テワタサナイーヌが思い切り池上の顔にビンタを食らわした。
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。