当たり前の後ろ ~テワタサナイーヌ物語~   作:吉川すずめ

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オレオレ詐欺の被害がなくなりますように。
人を信じる人が傷つかない世の中になりますように。


テワタサナイーヌ以前(1)

「めっちゃ狭い部屋ですね」

 天渡早苗(てわたさなえ)はため息混じりにつぶやいた。

 ここは、千代田区霞が関二丁目1番1号、警視庁本部庁舎の10階にある犯罪抑止対策本部。

「悪く思わないでください。この部屋は、もともと倉庫だったのを事務室に改装したところなんです。だから狭いし採光も考慮されていません。おまけに空調も弱いから、夏は暑く、冬は寒いです」

 天渡を迎えに出た庶務の担当者が申し訳なさそうに説明した。

 犯罪抑止対策本部は、タスクフォースとして発足したという経緯があり、永続的な組織として考えられていなかった。

 だから部屋も倉庫を改装したところで間に合わされていた。

 警視庁で一番人口密度が高い部屋としても知られている。

「葛飾警察署天渡警部補は、犯罪抑止対策本部勤務を命ぜられました」

 天渡は、案内された副本部長室で副本部長を前に緊張の面持ちのまま着任申告を行った。

「副本部長室は大きな窓があって明るいじゃない」

 天渡は、眼球がこぼれるのではないかと思うほど大きなエメラルドグリーンの目で副本部長室の中を素早く一瞥した。

 事務室には小さな窓が2か所あるだけで、どことなく薄暗い。

 それに比べれば副本部長室は格段に明るい。

 副本部長室の窓からは、眼下に皇居の桜田門から半蔵門あたりまでを見渡すことができる。

 今は新緑が鮮やかだが、冬に雪化粧した皇居もまた美しい景色となる。

「天渡さん、よく来てくれました。待っていましたよ。天渡さんには、いま犯抑が取り組んでいる新しい仕事の担当をお願いしようと思っています。よろしく頼みます」

 犯罪抑止対策本部副本部長坂田警視長は、天渡から辞令を受け取ると穏やかな中にも威厳を保ちつつ天渡に訓示した。

 犯罪抑止対策本部という名称は長いので、内部の人間は通常「犯抑」と略称で呼んでいる。

 坂田は、国家公務員Ⅰ類採用のいわゆるキャリア警察官だ。

 犯罪抑止対策本部副本部長であるが刑事部参事官も兼務している。

 警視庁には、総務部、警務部、交通部、警備部、地域部、刑事部、生活安全部、そして組織犯罪対策部の8部がある。

 参事官というのは、警視総監、副総監、各部長に次ぐ地位にあたる。

 犯罪抑止対策本部は、八つあるどの部にも属さない。

 本部長は副総監だ。

 副総監が直接指揮する異端の部署である。

「犯抑が推進している新しい取り組みとはどのようなものですか?」

 天渡は、自分が何か特定の任務を任されるために犯抑に呼ばれたことを知り、それを坂田に質問した。

 通常、着任申告はセレモニーなので、着任者と所属長が会話を交わすことはあまりない。

 もちろん所属長が話しかければ会話をすることもあるが、着任者から所属長に話しかけることなど、まず考えられない。

 物怖じしない、相手が誰であろうとも臆せず話しかけることができるのが天渡の持ち味だ。

「詳しいことは管理官から説明させようと思っていましたが、せっかく天渡さんが質問してくれましたので少しお話ししましょうか」

 坂田は天渡に副本部長室の質素なソファを勧めた。

「失礼します」

 天渡は、坂田がソファに腰を沈めたのを確かめてから坂田と向かい合わせに腰をおろした。

 

 天渡は、外見がとても変わっている。

 髪はミディアムくらいの長さで緑という珍しい色をしている。

 さらに普通の人の耳たぶの付け根あたりから薄茶色の獣毛で覆われた耳が緑の髪を割って生えており、天に向かってぴんと立っている。

 わかりやすく言えば、人間の頭に犬の耳が生えている状態だ。

 顔は細面で顎まできれいなラインを描いている。

 しかし、両犬耳の付け根からそれぞれ両目の下までと、そこから頬を回り込んで喉元までを結んだところが耳と同じ薄茶色の獣毛で覆われている。

 そして、鼻の付け根から口の両側を通り顎の下で交差するラインで囲まれた部分だけが血色の良い肌を露わにしている。

 顔のそれ以外の部分は、犬耳より薄い茶色のごく短い毛で覆われている。

 鼻は、高くもないが低過ぎもせずきれいな形をしている。

 その鼻のてっぺんは褐色で常に湿っている。

 つまり犬の鼻だ。

 形は人間のそれだが、犬並みの嗅覚を持っている。

 獣毛の中に、眼球がこぼれるのではないかと思うほど大きな瞼が開いている。

 その瞳は髪の色をより深くしたようなエメラルドグリーンだ。

 じっと見つめられると吸い込まれそうになる不思議な眼力を持っている。

 ふっくらと柔らかな唇からは、左右一対の発達して尖った犬歯が顔を出している。

 首から下もほぼ全身が獣毛で覆われているが、毛の長さは短く短毛種の犬のようだ。

 ほぼ全身といっても、犬はお腹周りの毛が少ないのと同じように、鎖骨の下あたりから脇の下、両乳房の脇、脇腹から下腹部、そして腿の内側を結んだ範囲の中は、ヒトの肌が見えているという。

 もっとも天渡が腿の内側以外の模様を見せた異性はまだいない。

 天渡は、ヒトとしては規格外の異形といえる。

 しかし、警察官として採用されているところをみると日本国籍を持っていることは間違いないようだ。

 もちろん戸籍もあるので人外種ではない。

 天渡自身、なぜこのような異形となったのか、その理由は知らない。

 天渡には、幼いころの記憶がない。

 天渡の手元には、太陽のような明るい笑顔の女の子が茶色の小さなチワワを抱きかかえている写真がある。

 天渡が育った児童養護施設の職員から、その女の子が幼い天渡だと教えられた。

 児童相談所から児童養護施設に送られてきたとき、天渡が持っていたものはその写真一枚だけだったという。

 いつ、どのような原因で今のような異形となったのか、天渡自身が知らないことはもちろんだが誰もそれを説明してくれなかった。

 天渡は、児童養護施設から都立高校に通っていた。

 ところが、児童養護施設は児童福祉法にもとづいて設置されている施設であるため、18歳未満の子供しか入所できない。

 18歳に達した子供は児童養護施設を出て自立の道を探らなければならない。

 たとえ高校に通っている子供であっても、だ。

 天渡も例外ではない。

 18歳を迎えた天渡は児童養護施設を出てグループホームに入り、そこから高校に通った。

 天渡は、自分は将来警察官になると確信していた。

 警察官になって悪い奴らをとことんとっちめてやりたい。

 そう思っていた。

 単純だが警察官を志望するのに十分かつ強い動機だ。

 高校3年在学中に警視庁警察官採用試験を受験し、みごとに合格した。

 警察官採用試験の受験資格は充足しているはずだった。

 試験成績も優良。

 面接による人物評価も問題なかった。

 普通であればなんの問題もなく合格となるところだ。

 ただ、戸籍上は明らかに日本人であるとはいえ、どう見てもヒトと犬のハイブリッドという外見の受験者を合格させるかどうかについて警視庁は大いに悩んだ。

 前例がない。

 役所は行政の一貫性を重んじる。

 前例踏襲とならざるをえない。

 そのような中で前例にないことをやろうとすると大変な抵抗に合う。

 新しいことをやりたがらない立場からは、「できない理由」が山のように出されてくる。

 結局、事務サイドでは決着がつかず、最終的な決断が警視総監まで持ち込まれた。

「いいんじゃない?試験の点数も立派だし、採用になんの問題があるの?」

 当時の警視総監は即断した。

「ただし、ヒトとして評価できないと受験資格が根本から覆ってしまうから、科学捜査研究所でDNA鑑定をしてもらいましょう。それでヒトのDNAだったら正式に合格とします」

 異例の条件付き合格が出された瞬間である。

 合格通知を受け取った天渡は、夢がかなったと小躍りして喜んだ。

 しかし、同封されていた条件付き合格と科学捜査研究所への出頭通知をみつけ、自分がヒトとして信じられていなかったことを知り小躍りから一気に肩を落とすことになった。

 通知から二週間後、天渡は豊島区目白にある科学捜査研究所に出頭した。

 高校の制服に身を包み、電車を利用してきた。

 チェックのプリーツスカートは、今時の女子高生らしくかなり丈が短い。

 腿の内側の肌を見せないようにスカートの下にはいつもスパッツを履いている。

 腿の内側は、ミニスカートや短パンを履いたときに見えてしまう。

 今までの経験で、腿の内側を露出していると男性から好奇の目で見られることを天渡は知っている。

 運動が好きな天渡は毎日一時間の散歩を欠かさない。

 散歩をしないと運動不足が身体に溜まるような気がしてイライラする。

 自分でも犬のような性格だなと感じる部分だ。

 毎日の運動の甲斐があってか、天渡の脚はほどよく筋肉が発達して、触れると弾き返しそうな弾力を持っている。

 ただでさえ健康的で長い脚が人目を引くというのに、その脚のほとんどが獣毛で覆われ、腿の内側だけ艶やかな肌が露出してるのだ。

 男の目を引き寄せないはずがない。

 三つボタンの紺色ブレザーは、ウエストが絞られ身体に優しくフィットする。

 白のブラウスに紺色のリボンが付く。

 スカートは短いが着崩すことはしない。

 犬のような耳が生え、顔から手足まで獣毛で覆われている女子高生が歩いているのだから、道行く人の注目を集めないわけがない。

 振り返られる、指を差される、写真を撮られるといったことには慣れている。

 とはいっても決していい気分はしない。

 ときには落ち込んで涙することもある。

 自分の外見を恨めしく思わないといえば嘘になる。

「それでは、この綿棒で口の中、頬の裏側のところをこすってください。これで口腔内細胞を採取します」

 科学捜査研究所の研究員が事務的に説明して未使用の綿棒を天渡に差し出した。

 天渡が通された部屋には、明らかに必要以上の研究員が集まっているように見えた。

 今まで報告例のない獣人のDNAを分析しようというのだ。

 結果次第では、世界初の症例報告となる可能性もある。

 研究員が関心を寄せるのも当然だろう。

 天渡は、口の中を綿棒でこすると、その綿棒を研究員に戻した。

 普段、自分の外見を物珍しく見られることには抵抗を感じることがある。

 しかし、ここの研究員たちは、自分の外見より身体の構造、もっと低レベルの細胞やDNAに関心があるということが会話や態度から伝わってくる。

 天渡は、自分の細胞の中をくまなく覗き見され、医学的な研究材料にされることに軽い興奮を覚え、身体の中の深いところが柔らかく熱を帯びるのを感じた。

「結果は、およそ一か月後くらいに警視庁採用センターから通知されると思いますので、それまでお待ちください」

 学術的な興奮から顔面を紅潮させた研究員は、早口で説明するとさっさと別の部屋に検体を持っていなくなってしまった。

「あっちは学術的に興奮してるのに私ってばなにやってんの」

 天渡も頬を赤らめた。

 それから数日後、科学捜査研究所内は天と地をひっくり返したような大騒ぎとなっていた。

 天渡のDNA鑑定の速報が出たからだ。

「世界初のヒトとイヌとの生体キメラです!」

 DNA鑑定を担当した研究員が興奮を隠しきれない様子で所長室に駆け込んできた。

「今回の検体は、ヒトとイヌの遺伝情報を併せ持っています。現在の医学の知見からは説明不可能な現象です。詳細な研究は今後に回しますが今わかっていることは、どうやら元々はヒトだった種に何らかの原因でイヌの遺伝情報が入り込んだのではないかという予測です」

 研究員は一気にまくし立てた。

 研究員には、天渡の幼いころの写真の情報は伝えていないが、研究員の予測は写真の事実と符合する。

「しかも、血液型がDEA4です」

「なんだって!?」

 所長が椅子から腰を上げた。

 DEA4というのはイヌの血液型のひとつだ。

「とんでもない検体を手に入れたな」

「はい、とんでもない検体です」

 所長と研究員は興奮を通り越して薄ら寒い恐怖を感じ始めていた。

 まったく新しいヒト亜種、もしかしたら新しい種の発見となるかもしれないのだ。

「とにかくだ、採用センターからのオーダーであるヒトの遺伝情報を保有しているという結果は返せるわけだな」

 所長は、さっさとその結果を採用センターに返してしまい、じっくり研究をしようと考えた。

 一方の天渡といえば、自分はヒトの突然変異だろうくらいにしか考えていなかったので、多少結果が気になってはいるものの、いつもと変わらぬ毎日を過ごしていた。

 自分が世紀の大発見だとも知らずに。

 天渡がいつものように学校帰りに友達とファーストフード店でおしゃべりをして夕方ころグループホームに帰宅すると、警視庁採用センターと印刷された封書が届いていた。

 自分としてはヒトであることを当然と思っていたので、DNA鑑定の結果、合格が覆るようなことはないと確信していた。

 が、正直なところ少し不安だった。

 自分は誰とも違う化物なんじゃないか。

 物心付いたころからいつも天渡の心の底に澱のように溜まった感情があった。

 今日、その感情と決別できる。

 天渡は、その封書の中に自分の未来があると感じていた。

 平静を保っているつもりだったが封を開ける手が震える。

 無性に喉が渇いて仕方がなかった。

 封を開け中から三つ折りにされた、いかにも役所らしい純白「ではない」再生紙を取り出す。

「学校のわら半紙ほどじゃないけど、もう少しきれいな紙を使えばいいのに。警視庁ってお金ないのかな?」

 関係のないことを考えて緊張をほぐそうとした。

 通知文を持つ手がしっとりと汗ばんでいる。

「まだ受けたことないけど裁判で判決を言い渡される被告人の気持ちってこんな感じかも」

 天渡は、意を決して三つ折りの通知文を開いた。

「DNA鑑定の結果について(通知)」

 開いた通知文の冒頭には、そう表題が書かれていた。

「過日実施したDNA鑑定の結果は下記のとおりです」

 天渡は声に出して読み上げた。

「記」

「あなたの口腔内細胞から採取した検体を鑑定した結果、あなたはヒトの遺伝子情報を保有していることが判明しました」

「これにより、あなたは警視庁警察官採用試験の受験資格を充足しましたので、あなたを合格といたします」

 最後は声にならなかった。

 眼球がこぼれるのではないかと思うほど大きな目から、とめどなく涙が溢れ抱きしめた通知文を濡らした。

「ヒトだったんだ。私、ヒトだったんだ。みんなと同じなんだよね」

 その特異な外見から、疎外感を感じ続けてきた人生に区切りがついた。

 おそらくいじめにあったことも少なくないはずだ。

 「人外」と揶揄されても言い返せなかった。

 これからは胸を張って「私は人間です」と言える。

 心の底に溜まっていた澱が浄化されるのを感じた。




 この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

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