周囲から煽られたみぞれは乱心し、主人公は指導者の哲学を叩き込まれる、というおはなし
その日の鎧塚さんは明らかに妙だった。むしろ変だった。なんといっても教室での、出会い頭の第一声がこれである。
「はろー、蔵守君」
『!?』
すわ、周回遅れの高校デビューかとみんなびびっていたし、もちろん自分もひるんだ。その日は朝から、鎧塚さんのイメチェンで持ち切りとなった。
「おーい、蔵守、サッカーしようぜ!」
「おー」
ここのところ頭の中を占めているのは部活の事ばかり。いいリフレッシュになるだろうと二つ返事で席を立とうとすると、鎧塚さんがトコトコ寄ってきて
「……私もやる」
「えー? またまた御冗談を」
俺は手を上げた猫のAAみたいな顔して(どんな顔だ)やんわり断ろうとしたが、鎧塚さんはほっぺを膨らませてぐずる。
……え、本気?
「ほーい、パス」
「……きゃっ」
……断っておくが、何も難しいボールを送ったわけではない。どう見てもサッカー慣れしているようには見えなかったので、ごく弱めに転がしたのにボールを蹴る為に出す足が先か、駆ける為に出す足が先か悩んでいるような覚束ない足取りで、ドリブルのようなものをしていくらも経たないうちに
「よし! 勝ったぞ!」
でもなんだかんだでゲームには勝利。
「……いえーい」
鎧塚さんが無表情でぴょこぴょこ跳ねてる。気がふれたのかな?
「ああ……。あの鎧塚さんみたいの、もっと跳ねたらスカートの中のパンツ見えないかな」
「おい。あの……鎧塚?がハイタッチしたがってるみたいだぞ」
普段が普段なのでチームメイトからは本人と認識されず、というか信じてもらえずにいる鎧塚さんらしき人の求めに応じて、恐る恐るハイタッチすると鎧塚さん(仮)は嬉しそうに微笑んだ。そんな彼女の、ふわふわ柔らかい優しい手の感触にドキっときたけど、それ以上にコレジャナイ感が凄い。
そして極めつけはお昼休みのこの一言、
「……蔵守君、お弁当つくってきたんだけど、一緒にお昼にしない?」
『なにぃぃぃ!?』
その言葉に、黄色い歓声と野太い怨嗟で教室が埋め尽くされる。部活中ならいざ知らず、休み時間に鎧塚さんの方から声をかけてくるのは珍しい。ましてそんな彼女が男子をお昼に誘うなど未だかつて無かったことだ。
「え、自分と?」
「……うん。蔵守君、いつもお昼は学食。 用意してないなら、私のを食べてほしい」
そう言いつつ、返事を待たずに鎧塚さんが机をくっつけた。どういうわけかやたらと積極的な彼女に、またまた歓声と怨嗟の声が上がる。
「蔵守君、最近疲れてるみたいだから。特製の料理を作ってきたの」
明日は槍でも降ってくるのだろうか。あのシャイな鎧塚さんがここまで積極的に絡んでくるとは……。いやまあ、別に悪いことでもない。せっかくの厚意、遠慮なくいただく事にしよう。
口角を上げて、鎧塚さんが弁当箱を覆う風呂敷を開く。なんとも自信ありげな様子だ。
【料理ができる私を見て♡】
みたいな
【私の渾身の料理、とくと味わえ(ドヤァ)】
くらいの迫力を今の彼女から感じる。これは期待していいのかもしれない。
「それでは遠慮なく、いただき……まっ!?」
弁当箱を開けた途端、自分の目を疑った。
3つに仕切られた弁当箱には右半分に炊き込みご飯が、左上半分は粉吹き芋が。そして左下半分には褐色で、形は米粒のように見えなくもないがそれにしては大きすぎて、等間隔で
より具体的に言えば、どこからどう見ても虫の幼虫としか思えないモノが、仕切り一杯に詰められていた。
『ヒィ!?』
バリトン、テナー、アルト、ソプラノ。各種取り揃えた悲鳴を上げるクラスメイト達。かくいう自分も顔を引きつらせることしかできない。
「え、えーと。鎧塚さん、コレは……一体何かなあ?」
「スズメバチの幼虫で作った蜂の子。見た目は悪いけど、とっても栄養満点。お好みで、ご飯によそって食べてみて」
食べて、と言われても……。
食べるのか? コレを? もとい……食べられるのか? コレが?
すっと、視線を周囲に泳がせる。つい先ほどまで弁当の中身に注目していたクラスメイトの誰も彼も、自分と目を合わせようとしない。
『……』
沈黙の間、長引く。
「蔵守君、どうしたの? ……食べないの?」
そんな捨てられた子犬みたいな顔しないでくれませんかね。
鎧塚さんの口調は疑問形だが、「……もしかして私のお弁当、口に合わない?」的な含みがありありと。
身長は155センチ弱。女子高生としても比較的小柄な彼女が上目遣いで、自分に
今一度、視線を周囲に泳がせる。SOS的な意味で。しかし返ってくるのは、普段見せない彼女のレアな御尊顔に頭をやられたクラスメイトのだらしない笑顔ばかりだった。ファック!! こらそこ、鼻血流してスマホでパシャパシャ撮影してるんじゃありませんっ!
いかん、どうにかしてこの窮地を脱しなければ。しかし誰に何を言えばいいのか。
「い、いや。そういうわけでは……。ただ、鎧塚さんの手料理を自分だけ独り占めするのは気が引けて……そうだ! 吹部仲間どうし、大野さんにもお裾分けするのはどうかなあ?」
「おいィ!?」
花も恥じらう乙女らしからぬ悲鳴を上げる彼女だが、今はなりふり構っていられない。が、しかし。だがしかし。敵もさるものひっかくもの。
「……蔵守君は優しい。でも今日は、今日だけは、蔵守君にだけ食べてほしい」
そう言って微笑む鎧塚さんからは、こんなブツを作った人間と同一人物とは思えないくらい清楚なオーラが放たれていた。綺麗なバラには棘があるとはこういうことを指すのだろう(錯乱)。
「食べてくれる……よね?(上目遣い)」
……圧がすごい。
「くっ……」
覚悟を決め、震える箸の先で、問題のブツを摘まむ。
プチ。
……なんか皮が破けて、体液みたいなの出てきたんですけど。
漬け汁とかタレとか、そういう方向性の奴だと信じたい。
ほんとに食べて大丈夫なのかコレは。
「くっ……(take2)。い、いただきます!!」
目を閉じ、脂汗を流しながら無心で
かくして、鎧塚さんのプライドは守られた。
自分の胃腸は、死んだ。
「今日のみぞれちゃん、なんかおかしいよねえ」
「……人間、死線をくぐると人が変わるという。鎧塚さんも生と死の境目を漂い、それまでの半生を省みているうちに、何か思うところがあったのかもしれないな」
「や、死線をくぐるも何も、ただの風邪だったんでしょ」
ところ変わって男子トイレ前。便器と吐しゃ物をこんにちはさせて、口周りをよく洗い流して一息ついていると、心配そうな顔をした大野さんがやってきた。
「言動もそうだけど。弁当の中身もねえ。私も時々みぞれちゃんとお昼取るけど、蜂の子なんて持ってきたの初めて見たよ」
「……滋養強壮や肉体疲労に効果あるとか言ってたが、あれを食べてからどうも腹の具合が」
鎧塚さんの笑顔と引き換えに食した(させられた)野戦料理は、ほどなく胃腸から盛大なブーイングをもってむかえられた。急用を思い出したといって中座する自分を、親指立てて見送ったクラスメイトが憎らしい。あとで鎧塚さんの上目遣いとか笑顔の写真とか、送ってもらおうと心に決める。
「……なんかゲテモノは残らずこの体から出ていけって感じで、まだ吐き気が酷いんだが」
「素人は手を出さない方が無難なんだけどね。ああいう食肉性の蜂の幼虫って、腐肉も食べる上に老廃物を体外に排出する仕組みが無いから。だからいわくありげな食材のなかでも、さらにいわくありげな部分が時間経過もあいまってそれはもうカオスな状態になってるのを体内に溜め込んでるわけで」
「一体何を食わされてるんだ俺は……うっぷ」
余計な事実を知ったせいで再びぶり返してきた嘔吐感とともに、なにか見えてはいけないものまで見えてきた。
「昆虫食にあたって異世界転生とか、絵面がひどくてウケないと思うよ」
「そもそも、そんな何十代も前のご先祖様に親近感持たれそうな死に方は遠慮したい……」
とまあ、こんな感じにアホなことを考えるだけの余裕が生まれたあたりで、とりあえず峠は越せたようであった。胃は相変わらずシクシク泣いていたが。
ちなみに、つけあわせの粉吹き芋も緑がかった皮がこびりついていて、これもこれでイレギュラーな品だったりする。
「……あれにも毒があるんだけどなあ」
「え、ジャガイモって毒あるのは芽の部分じゃないの?」
「もちろん芽にも毒あるけど、動物が簡単に掘り返せるような浅いところで育ったやつは皮も毒をもつようになるんだぞ」
「へー。そっちは私も知らなかったよ。芽を取り除けば大丈夫と思わせて皮で食あたりを狙ってくるなんて。ジャガイモ、手ごわいね」
「そうだね。ジャガイモはどこでも育つ根性入った野菜だから。簡単に食われないように少しは進化したんじゃないの」
幸い、自己防衛の為に進化したジャガイモはテイクアウトということで逃げを打てたが、弁当箱の底に敷かれたメッセージカードの方はどうにもならなかった。
――明日もつくってくる。がんばる( *`ω´*) ≡3――
「……次こそ俺の腹に穴あける気か」
「あはははは」
朗らかに笑う大野さんだが、こちらとしては笑いごとではない。お昼の度に現世と異世界を行き来するわけにもいかなかった。今回は初回特典お試しツアーで済んだが、次は片道切符になるかもしれないのだ。何とかしなければ。
「要するにだ。受け身に終始して、後手後手に回るからいけないんだ。明日は既に先約を取られてしまったが、明後日からは何もできないようにしてやる。こちらから先手を打って鎧塚さんの動きを封じることにしよう」
「うわー、蔵守君たら、悪人面してるー」
大野さんがケラケラ笑う。悪の組織の幹部のような台詞を口にした自分は、彼女にそう思われても仕方がないかもしれぬ。だが、このままではいつまで経っても平穏な日々が戻ってこないのだ。
「それで、具体的にはどうするの?」
「今のところ、弁当攻勢以外実害はないんだ。なら弁当を作らせないようにすればいいだけだ。明後日からはこちらから二人分の弁当を作ってこよう。これで鎧塚さんを傷つけることなく、俺も毒弁当を食わずに済むぞ」
「えぇ……(お昼のお弁当作り合うとか、ノリが完全にカップルのそれなんだけどなあ……。もしかしてみぞれちゃん、それを狙ってわざと毒弁当作ったとか……いやいや、ないか)」
大野さんが何かブツブツ言っているが、よく聞こえない。自分が難聴系主人公だから、というわけでは決してなく、トイレの水音にかき消されたせいである。
さて、鎧塚さんの問題はとりあえずにせよ片が付き、
「相手は滝先生。 事前の対策は必要だね!」
と、いうことで当然想定されうる毒舌攻撃への返し技虎の巻をいただいた。チラシの裏に書かれて随分と安っぽい感じだが。
【問:なぜ人間には耳や手足は二つあるのに口は一つしかないか、分かりますか? 誰かに何か指示されたとします。それについて文句を言う倍は行動しなければいけないからですよ】
滝先生なら言いそうだ。さて、これに対する返し技は?
【答:確かに文句言うより、殴るなり蹴るなりしてその減らず口を叩けないようにした方が生産的ですねwww(煽り気味で)】
草を生やすな、草を。こんな返しをしたら、冗談抜きで血の海を見る事になりそうじゃんか。却下だ却下。……あ、もう一つあった。
【答その2:いつもいつも減らず口をうるせえんだよ!! その口、縫い付けてやる!!(キレ気味で)】
返し技とは一体。
先手を取るか、挑発させて
役に立たない虎の巻で紙飛行機を作って飛ばしたら、これも話を聞きつけて通りかかったらしい鳥塚先輩にぶつかった。
「抗議じゃないの?」
「話し合いです」
「抗議してくれないの?」
「しません」
「ガツンと抗議してくれたら、来年の部長に推薦してあげてもいいんだけどなあ」
鳥塚先輩からは、とんでもない交換条件を出されて煽られる。いや、そもそも当代の部長からして誰もやりたがらなかったので、渋々就任した経緯がある事を思えば交換にすらなっていない。不良債権の押しつけだ。
鳥塚先輩と別れると、今度はトロンボーンとホルンの先輩達に出会った。とりわけ滝先生に対して敵愾心を募らせている両パートの手により、たまりにたまった鬱憤を新しい不良債権(虎の巻)の余白に書き込まれた。話し合いで使え、ということだろう。
「勘弁してほしいなあ……」
自分がやるのは滝先生への抗議ではなく話し合いだと、何度も説明したのだがまったく理解してもらえない。言いたいことは星の数ほどあるけど矢面に立つのは嫌。そういう人達からすると先生に向かって誰かが何がしかのアクションを起こすというその一点だけでたまらなく嬉しいらしい。
もっとも、滝先生を積極的に支持する層からすれば逆に面白くないわけで
【ウザイウザい! うっとうしいー!!】
「語彙力……」
ただの罵倒メールがやってきた。多分、滝先生は凄い人云々という差出人不明のメールを寄越してきたのと同一人物だろう。推し先生を
「……随分と滝先生にぞっこんみたいだし、詫び石がわりに滝先生のスナップ写真でも送ってみるか」
なぜ野郎が野郎のスナップなんて持ち歩いてるのか。
それは別に自分にソッチの気があるからではなく、来年の部活紹介のために、絵になりそうな写真を集めていたからだ。何せ滝先生はあの通りのイケメン。来年は中世古先輩も田中先輩もいなくなるし、下手に吉川や鎧塚さんをメインに据えるより華はあったりする。まあ、それもこれも滝先生の来季の続投が決まればの話だが。
それはさておき、めぼしい画像を数枚送りつけた途端、執拗に送り続けられた吠えメールはぷっつり止んだ。どうやら、効果は抜群だった模様。
ボスとの対決を前にして余計な労力を割かれたが、邪魔があらかた消え失せたところでようやく職員室に辿り着いた。
「失礼します」
扉を開いて職員室を見回した。教員はほとんど出払っていて、片手で数られえるほどしか残っていない。なるべく大事にはしたくない。ひそかに話し合うには好都合だった。
「あの、滝先生……」
声をかけたが返事は無い。
滝先生は、窓際の座席に座って腕を組んでいた。机の上に置かれた紙面に注がれる、滝先生の真剣な目。容姿が整っているだけに、そういう仕草の一つ一つが同性から見てもサマになる。何か仕事の途中だろうか。近寄っても気づかないほどに集中している時に声をかけるのが躊躇われて、ただじっと立ち尽くした。
「滝先生、また音楽の研究ですか」
滝先生が気付くまで待つべきか、出直すべきか悩んでいると、場に居合わせた年配の教頭先生が、滝先生に声をかけてくれた。顔には皺が刻まれ、声もよる年波を隠せないしゃがれ声だったが、それがかえって威厳というものを感じさせる。また、という言葉からすると、職員室で先生がこうしているのはもう珍しくも何ともないのだろう。
「ええ、そろそろ切り上げようと思ってはいたのですが」
「熱心なのには頭が下がりますが……、生徒が声をかけづらそうにしていますよ。ほどほどにね。私どもは部活の顧問である以前に、まず教師なのですから」
そこでようやく、滝先生は自分の存在に気付いたようだった。申し訳なさそうに、先生が頭を下げてくる。
「あ、いえ。先生には部活の事で話にきたんです」
助け船を出してくれた教頭先生に軽く一礼し、こちらに向き直った滝先生に話しかけた。
「滝先生は、何をご覧になっていたんですか?」
「音楽指導についての論文ですよ。見てみますか?」
滝先生が差し出してきたのは、フランス語で書かれた論文らしきものだった(トレビアン、という単語があったのでそうと分かった)。紙面のところどころに五線譜が散見され、何やら音楽について書かれている事はなんとなく分かるが、それ以上の事となるとよく分からない。
「最近発表された論文なのですが、吹奏楽にも通じる内容なので、目を通していたのです。常に新しい情報を頭に叩き込んでおかないと、ライバル達に追いつかれてしまいますからね」
吹部の指導の参考にするため、勉強していたという事だろうか。
「先生は、以前も弱小吹部を立て直したそうですが、その時もこういう事をなさってたんですか?」
滝先生は直ぐには答えず、甘い香気を漂わせるコーヒーカップをデスクからとりあげた。ミルクたっぷりで、すっかりココア色に染まったコーヒーをすすって悦に浸る姿は、少なくとも吹部での顔を知らない一般の女生徒の顔を赤くする程度の効用はあるかもしれない。
「勿論ですよ。強豪と弱小の違いは、生徒一人一人の意識の差もありますが、積み重ねた練習量の差もあります。意識の差は、何かきっかけがあれば埋まりますが、練習量の差は、そう簡単には埋まりません。だから、未だ世間には広まっていない、新しい指導理論について、アンテナを張っているのですよ」
「新しい指導方法を取り入れれば、練習量の差は埋まるのですか?」
「立華も洛秋も、強豪と呼ばれるようになったのは今の顧問の代ではありません」
はぐらかすかのような滝先生の返事に、先生が何を言おうとしているか、はかりかねた。
「部活ですから。結果を残しても顧問の代替わりは避けられません。強豪といえど、いえ強豪だからこそ、結果を残した顧問のやり方に固執するのはよくある事です。新しいやり方を取り入れるということは、これまでのやり方を変えるという事で、それは顧問にとっても部員にとっても、手間でしんどい。これまでのやり方で結果を残してきたのであればなおさらです」
「確かに、今現在のやり方で上手くいっているなら変える必要を感じませんし、変えて今以上に結果を出せるのか、上手くいかなかったらどうするんだと反発する人もいるでしょうね」
「ええ、それが普通なのですよ。ですから成功している、結果を残している組織ほど変化を嫌う。部員だけでなく、顧問もね」
「つまり、強豪校には強豪校なりの縛りがある、と?」
滝先生は、我が意を得たりという感じで、笑顔で頷いた。
「ええ。ダークホースには結果が、実績が無い。それゆえにそういう縛りから自由でいられます。私はそこに、北宇治が躍進する鍵があると思っているのですよ」
同じやり方を漫然と続けるだけでは、進取の精神にあふれるライバルや新興勢力に遅れを取って先細りになる。だから滝先生はいつも新しいやり方を取り入れる事を考えている、という事なんだろう。
「先生の言う通りなら、他の弱小校も顧問がやり方を工夫すれば飛躍できるのではありませんか?」
「勿論です。ですが、先程教頭先生がおっしゃられたように、私達は部活の顧問である以前に教師ですから。ただやみくもに新しい事をすればいい、というものでもありませんし、工夫には大変な労力と時間が必要になります。私のように、学生時代に経験した競技の顧問になれて、フリーの時間まで部活の事を考えるのが苦にならない教師というのは、とても恵まれているのですよ」
曖昧にうなずいた。一生徒の身の上では、教師の勤務実態など想像の範囲を超えている。
「最近は多少見直されてはいますが、部活の顧問というのは教師にとって基本サービス残業ですからね」
タダ働きという訳か。なるほど、それでは好きでもなければ腰を据えてやってなどいられない。
急に、後ろめたさがこみ上げてきた。部活の顧問が、義務でもなければ給料もつかないというのであれば。善意でやってもらっているものであれば。そのやり方がいささか手厳しいからといって、あれこれ文句をつけるのはいかにも子供の振舞いであるように思えたからだ。
だが。先生が善意でやってくれているのなら。尚更生徒の立場から意見したほうがいい事もある。滝先生がどれだけ熱意をもって指導しようが、部員達に伝わらなければそれまで。もし追い詰められた部員が早まった事をすれば、ひとたび間違いが起きたら。その時は、どう弁解しようと独りよがりのものでしかなかったと断罪される事になりかねない。それは滝先生にとっても不幸なはずだ。
「おっと。私ばかり話してしまいましたね。それでは、蔵守君の用件を伺いましょうか」
「……いえ。先生もお忙しそうですし。急ぎの用という訳でもないので、また出直してきます」
「そうですか?」
あせる事はない。事態はそこまで切迫していない。
出てくる言葉はいつも悪いが、先生は先生なりに誠意をもって吹部の指導に取り組んでいる。ならば自分も、今しばらくは滝先生とみんなを繋ぎとめる労を惜しむべきではないのではないか。
背中で、今日この日の為に綴った書面を固く握りしめた。
「では、明日の合奏に向けて、皆さんの総仕上げに取り掛かる事にしますか」
「いや、みなさん本当に上達しましたね」
各パートでのレッスンをひとしきり終え、練習に使った備品を片づけに準備室に向かうなか、滝先生が感嘆の溜息をもらす。自分も、その見解には素直にうなずいた。
滝先生のレッスンが始まる前は二人で合わせるのがやっとだったリズムが、四人でも崩れない。三人では不揃いだった音程が、六人でも違和感無く耳に溶け込む。今までとは見違えるような演奏ができているという感触を、誰もが得ている。
ただそれは、あくまで滝先生のスパルタ指導開始前と後という相対評価の話であって、絶対評価ではまた違った見方になる。
「みんな、よくやってます。でも先生が求めているものは、この程度ではないのでしょう?」
夕焼けが差し込む廊下を、滝先生と隣り合わせに歩いた。
レッスンにくたびれ果て、眠りこけている部員たちの寝息が、そこかしこの教室から聞こえる。時間以上に密度の濃い練習をこなしているのだ。放っておいたら、下校の時間まで死んだように眠っている。つまり、限界まで気力を振り絞っている。それでも先生が言うようなダークホースには、到底仕上がらない。短い時間で高いものを望み過ぎる、と思った。
「私も、言ったことを皆さんが全部こなしてくれるとは思っていませんよ。そうですね……、今の時点では私の要求の3割もクリアできれば上出来です」
「!?」
聞き捨てならない発言に、俺はびっくりして訊き返した。
「それならどうして過剰なノルマを課したんですか? 必要十分なレベルのハードルに設定しておけば、先生だって無駄にヘイトを買う事もなかったでしょうに」
スパルタ指導の影響で、ごく軽度とはいえ体調を崩した部員が続出しているのだ。無用な酷使でそうなったというなら、奮闘している部員たちが浮かばれない。
「あれはよくあるフェイクですよ。最初に厳しい要求を突き付けて、本命であるそれなりの要求を通らせる。十円借りる為に、悲壮な顔して千円貸してと言うようなものです。どうです? 千円は無理だけど、十円なら貸すどころかあげてもいいという心境になりませんか? 人によっては百円頂けるかもしれんませんね」
「……」
開いた口が塞がらない。こんなやり方、ありなのか。
驚き呆れる自分を尻目に、滝先生は涼しい顔をして続ける。
「ハードルは、少なくとも表向きは、高くなくては意味がありません。簡単に突破できるハードルでは、緊張感が持続できない。緊張感が持続できないと、才能ある人間でも羽を伸ばして、思わぬ落とし穴にはまってしまうものです」
「各パートを指導する順番を固定しないのも、緊張感を維持させる為ですか」
気を取り直して、滝先生に尋ねた。
こうも毎日一緒に行動していると、滝先生の気まぐれなところも見えてくる。二日目は、音楽室に近い教室で練習しているパートの順。三日目は、メンバーが多いパートの順。今日に至っては、大学ノートにあみだくじを書き込んで指導の順番を決めている。まるで規則性が無い。そして、どこのパートに指導に出向くかを、パートリーダーにも自分にも事前に言わない。直前になるまで分からないのだ。
だから、指導が済むまで気が休まる事は無い。
「緊張し過ぎてガチガチになられるのも困りますが、ある程度は気合いを入れて練習してもらわないと良い合奏はできませんからね」
滝先生は、さらりとそう言ってのけた。俺は何とも言えない気分になる。どうやら俺のような青二才と大人の先生とでは、ものの考え方が根っこから違うらしい。
「とはいえ、ただハードルを上げればいいというものでもありません。誰にも限界というものはありますから。脱落者など認めない、死ぬ気でこなせとは、とても言えない。ともすれば挫けそうになる仲間を支える、かすがいのような存在がいなければ困る」
滝先生が足を止め、急に振り返って頭を下げた。
「
大の大人が、いち高校生の自分に頭を下げているのだ。まだ校内に残っていた生徒達が、何事かと足を止めて目を見張っている。
「ちょっ……。滝先生、みんな見てますよ。恥ずかしいから頭を上げてください」
「いいえ、本当に感謝しているのですよ。私もその方面に関しては鈍感で、気を付けても、少しやり過ぎてしまうところがありますから」
「少し……?」
滝先生がパート練習の陣頭指揮を取るようになってから、各パートに轟く阿鼻叫喚の嵐が頭に浮かんだ。先生の頭の中にある「少し」という概念を完全にゼロにして、一からインストールし直したい気分にかられたが、本音はそれとして建前というものは残る。
「だからこそ、貴方にはコンサートマスターとして、私の至らぬ点を補佐してもらいたいのです」
「コンマス? ですがそれは」
一瞬、耳を疑った。
指揮者の指揮棒や身振り手振りだけでは伝えきれない指示を、指揮者に代わって、いち演奏者の立場からみんなに伝える。それが
しかし音以外にも弓の動きで情報を伝えられる弦楽器と異なり、楽器ごとに奏法も大きく異なる管楽器は、外部に伝達できる情報は限られる。それゆえ吹奏楽においては、せいぜい合奏前のチューニングを先導するくらいしかコンマスの仕事はなく、実質的には名誉職に近い。
「貴方が懸念している通り、合奏での指揮者の補助とか、そういう技術的な面での仕事を期待しているわけではないのですよ」
自分の考えを読んでいたのか、滝先生は静かに微笑んで言葉を継ぐ。
「常に周りに気を配り、部員の些細な調子の変化にも気づいてフォローする。これまで貴方がやってきたことも立派にコンマスの仕事で、それをこなすにはただ優しいだけでは駄目で、感性が鋭くなくてはいけない」
静まり返った廊下に、滝先生のテノールが響き渡った。
「貴方は、音楽をつくる人ではなく、音楽を支える人だ。そういう人を、私は探していたのです」
翌日の海兵隊の再合奏は、滝先生の思惑通りに事が運んだ。
滝先生の手が降り下ろされた瞬間、一斉に楽器が鳴り響く。自分の手前から湧き起こるクラリネットの音色が、目前の壁に跳ね返されて音楽室全体に広がる。フルートの管体には、奏者の口から針の如く細く圧縮された呼気が吹きこまれる。行進曲らしく、リズムよくシンバルが鳴る。自分も集中する。銀色のキーを、指先の腹で抑える毎に、オーボエに送り込まれた呼気は管体の中で出口を求めて複雑にうごめき、楽譜に記された音を奏でる。五十を超える種々雑多な楽器群が整然と鳴り響く。音の波が隙間なく音楽室を埋めていく。
合奏は終わった。
緊張の糸がほつれたか、あるいは疲労しきったのか、みんな椅子に寄りかかって動かず、ロクに口も開こうとしない。滝先生は合奏の余韻に浸るように目を閉じていたが、やがてゆっくり目を開き、全員の顔を見回した。
「いいでしょう」
たった一言。だけど先生は満足そうに微笑んで、言った。
「まだまだ気になるところはありますが……皆さんは今、合奏をしていましたよ」
釘を刺しつつも送られた賞賛の言葉に、張り詰めていた空気が一気に緩む。
安堵のため息をつく人達がいる。互いに労をねぎらう人達もいる。何かの聞き間違いではないかと、まだ驚きで目を見張っている人達もいる。
それもそのはず、つい先日まで相変わらず先生からダメ出しを喰らっていた人も少なくない。まさかOKが出るとは思ってもみなかったに違いない。
「それでは、これから早速サンフェスの練習に取り掛かります。サンフェス本番まで残された日数は多くありません。ですが、皆さんが普段若さにかまけてドブに捨てている時間を……」
「ゴホンゴホン!!」
「……おっと。失礼」
滝先生がまたいつもの調子で毒舌を発動しかけたので、わざとらしく咳払いして待ったをかける。デリケートな人もいるのだから少しは言葉を選んでほしいと思いつつも、無理だろうなと思わずにもいられない。そこは先生のご要望通り、自分が目を光らせる事になるのだろう。
「サンフェスはお祭りではありますが、有力校の演奏が一度に聞ける大変貴重な場でもあります。今の皆さんに足りていないのは何か、彼ら彼女らの演奏を通して今後の糧とし、そして貴方達も、今年の北宇治はひと味違うと彼ら彼女らに見せつけるのです」
「見せつけるといっても、今からじゃ……」
小笠原先輩が弱気の声を上げると、周囲もそれに同調する。しかし滝先生は、そんな誰しもが思う懸念を、挑戦的で屈託のない笑みで吹き飛ばした。
「私は出来ると思っていますよ。なぜなら、私達は全国を目指しているのですから!」
身の程知らずか、それともとてつもない大物か。それは今の時点では分からない。
ただ一つだけ、皆も気が付いたはずだ。この先生は本気だという事を。
市販の蜂の子はちゃんとフン処理されている(はず)ので安心してご賞味ください
自作するならフン処理は勿論、絶対に火を通してから食べましょう