北宇治高校ダブルリードパートへようこそ   作:言巫女のつづら

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第17話 漢気あふれるトランペット

 木管、金管、打楽器。それぞれのパートですったもんだのあげく、ようやく全てを一回りして滝先生の指導が終わった頃には陽が暮れようとしていた。

 心身ともにくたびれ果てた背中に投げかけられたのが、

 

――明日もお願いしますね――

 

という滝先生からの有難いお言葉である。

 初日の指導の大トリを担った低音パートの教室で一息ついていると、長瀬さんがチューバの表面についた指紋を拭き取りながら話しかけてきた。

 

「一年生の面倒見なくて済むっていう借りと、滝先生の付き添いで針の(むしろ)になるという貸しって、どっちが大きいのかな?」

「貸しの超過だよ。これを一週間続けるのか……」

 

 その超過分の疲労がどっと押し寄せてきて、すぐにダブルリードの教室に戻る気にもなれない。しばらくは何もやりたくない気分だったので、低音パートの面々が楽器のお掃除をする様子を黙って見つめた。その中でもひときわ目立つのが、長瀬さんのチューバだった。

 彼女のチューバは傍目(はため)にも古めかしく、楽器の光沢など、とうの昔に絶えて久しい。それが金色に光り輝く楽器が集う低音パートにあって、田中先輩の銀色のユーフォとは別の意味で目を引いた。楽器に刻まれた、"Nicckan"のロゴ。楽器メーカーとして日本国内は言うに及ばず、世界レベルで見ても絶大な知名度を誇るヤマ〇において、1987年以前まで存在していたブランドだ。彼女が使っている楽器は、調達から三十年近くは経っている計算になる。

 

「俺も手伝えればいいんだが」

「後藤も爺さんのメンテがあるんだろ。気晴らしにもならない仕事を回せるか」

 

 長瀬さんほどではないにせよ、後藤のチューバも二十年越えと相当に古い。こまめな手入れは欠かせなかった。もっとも、チューバに限らず北宇治高校にある金管楽器は十年超えの代物ばかり。金管楽器の寿命についてはいろいろ言われているが、自分の周りでは大体十年が目安と聞いている。つまり耐用年数的にレッドゾーンに突入している楽器ばかりなのだ。

 

「チューバって、大きいし金属で出来てるんですよね? そんなにメンテって必要なんですか?」

 

 自分達のやり取りを興味津々といった風で眺めていた加藤が、後藤に質問してきた。

 

「ああ。いつも衝撃を与えてるから」

「衝撃?」

 

 何の事か分からず、加藤が抱えていたチューバから音を鳴らす。入部間もない初心者の彼女は、まだ楽器の手入れの仕方が身についていない。片づけは二人の楽器のメンテが済んでからだ。

 

「その音。どうやって出てるか、加藤は分かるか?」

「後藤先輩も馬鹿にしないでくださいよー。唇を震わせて、その振動で音出してるくらい、勉強しました!」

「そう、それだ。その振動が、楽器にダメージを与えるんだ」

「ええ!! これが!?」

 

 加藤が慌ててチューバのマウスピースから口を放す。きょとんとしたり怒ったり驚いたり、彼女のリアクションは傍目から見ていても忙しい。

 

「そういうこと。だから葉月ちゃんも、手入れの仕方をちゃんと覚えないと駄目だよ?」

 

 加藤は慌てて長瀬さんの(そば)に寄って、チューバの手入れをする彼女の一挙手一投足を食い入る様に見つめ始めた。楽器の外の汚れは、すぐわかる。中に溜まった水抜きが曲者だった。管の穴から水分を出して、布を通す。一度通せば十分だが、わざわざ布を二枚用意して二度通す。そうやって水分をしっかり抜く手間を、長瀬さんは惜しまない。共働きでも、確実に夫に手作り弁当を作るタイプとみた。

 振動による金属疲労で楽器がすぐに駄目になるという事はないが、楽器に使われている真鍮(しんちゅう)はあまり丈夫な金属ではない。メンテナンスがいい加減だと、手汗や皮脂で楽器が錆びて十年持たずに大穴が空いたりする。そういう意味では、後藤の脅しも言い過ぎという訳ではない。

 災い転じて福と為すというが、傘木達が退部したので楽器はかなり余りがあり、特に状態の悪いものまで使わざるを得ない局面には至っていない。ただ長い目で見ると、放っておいていい問題でないのも確かだ。だから誰の目にもはっきりと分かる実績を残して学校から予算を下ろして貰おう。……というある意味もっとも切実で、もっともリアリストな観点から、全国大会出場の方に手を挙げたのが後藤と長瀬さんだったりする。二人共もともと楽器の扱いは丁寧だったが、付き合うようになってからは考え方まで所帯(しょたい)じみてきた。

 

 そんな仲良し夫婦+1の仲睦まじい光景を横目に見やりながら、どっこらせと腰を上げて田中先輩に近づいた。同じ教室で練習しているのに、先輩はまるで他者を寄せ付けない様に教壇近くにポツンといた。低音パート内で音を合わせる時以外は、いつもそうしているという。

 

「田中先輩、黄前さんに頼んでたっていう滝先生の観察ですけど、彼女がぐったりしてるので代わりに報告します」

「ん? ああ、そう言えば一仕事頼んでたね。で、どうだった?」

 

 田中先輩が、スマホを片手にいじりながら(つぶや)いた。

 

「低音とトランペット以外は惨々たるものでしたよ。口から出てくる言葉に、相手への遠慮とか気遣いとかが全く無くて。あの先生は、良心が鉄で出来てるみたいですね」

「人並みに心の痛みを感じてなさそうってワケかあ」

 

 乾いた笑いが、教室内に広がる。ざっと低音パートの面々を見回しても、異論反論は出てこない。海兵隊の合奏で見せた滝先生のインパクトはそれだけ大きく、一度の指導が大過なく終わったくらいで好転するはずもなかった。

 

「……滝先生、凄かったですもんね。いろんな意味で」

 

 滝先生と先輩達の板挟みで青息吐息の黄前さんが、片づけ半分のユーフォニアムに覆い被さりながら呟く。強豪出身の彼女をして、凄いと言わしめる先生なのだ。他の部員の目にどう映ったか、推して知るべしである。

 もっとも、道中の黄前さんは遠慮がちに先輩である自分の後ろについてくるという、後輩の特権をフル活用して陰に隠れていたので、口論になった時の仲裁に関して何一つ役に立ちはしなかったが。

 援護率0%。何しについて来たんだよ。

 

「先生に連れていかれたんですよ」

 

 そうでした。

 

「まあいいや。今回の反省を(かて)に、黄前さんも次頑張ってもらうとして……」

「次あるんですか!?」

「さあね。ただ次が無いという事は、滝先生が(さじ)を投げたという事になるのを忘れないでくれたまえ」

「う……」

 

 それはとりもなおさず、北宇治の全国行きを断念するという事である。

 滝先生のめぼしい指導内容を一通り伝え終えると、田中先輩は欠伸(あくび)を一つして呟いた。

 

「大体分かったよ。うちとトランペット以外は全然ダメだから、あの手この手で叩き直されてるってワケね」

「そうみたいです。それでこの情報、役に立ちそうですか?」

 

 先輩の視線はスマホの画面から動いていない。この話題に、大して興味無さそうに見える。

 

「うんにゃ、初めから何もする気ないし」

「あ。やっぱり練習の参考にするっての、混じりっ気なし純度100%の言い訳だったんですね」

 

 黄前さんの立場も考えてお(とぼ)けに付き合ってきたが、どうやらその必要もなかったようだ。あるいは気が変わって本当に何らかのアクションを起こすのでは、と思っていたのだが。

 

「当たり前じゃない。ま、付け加えるなら私は頑張ってますアピールかな。次の合奏でしくじったら、副部長の私も何か言われそうだし。予防線張った方が良さそうだったからね。それに今は滝先生が仕切ってるのに、私が横槍入れる必要ある?」

 

 自身の利害が絡みさえしなければ、対外的な行動はたいそう控え目になる田中先輩であった。

 

「黄前さんはその為の使い捨てですか。先輩の血は何色ですか」

「頭脳労働は幹部の仕事。肉体労働はヒラの仕事だよ」

 

 駄目だこの先輩。早く何とかしないと。

 

「だいたいねえ。私の副部長だって押し付けられたようなもんだし。なんでもかんでも私が前面に出るのを期待されるのも困るのよ」

「そうは言っても、仕事は出来る人のところに降り積もるのが宿命だと思うんですけどね」

 

 田中先輩が非凡なのは、誰しも認めるところである。だからこそ先輩が吹部を引っ張っていけば、滝先生の手を借りずとも状況は良くなっていくのにと思うし、自分も全面的に従うつもりでいるのだが、それを言ってものらりくらりと(かわ)されるだけだろう。

 一息ついて、田中先輩への追及はそこで止めにした。

 

「ただ今日一日ついて回って、滝先生の凄い所も分かりました。先生の吹奏楽の知識は確かです。そしてそれを、具体的な言葉で説明出来てもいる」

 

 「もっとハートを乗せて吹いて」とか、「(つや)のある音を出して」とか。どうとでも受け取れる抽象的な指示なら反論のしようもある。滝先生の言い方は不愉快であっても、具体的で説得力があるので、誰も言い返す事が出来ないでいるのだ。

 

「確かに、正攻法の口論では勝てない先生みたいだねえ。で、みんな言い返せなくてムカついてるから滝先生に一泡吹かせようと、今三年生総動員で先生の弱みを調べようよって話になってんだけど」

 

 さっきから、スマホをいじって何してるのかと思ったら。

 

「そんな事してる暇あるんですか。大体、具体的にどうやって」

「滝先生が担任のクラスの子を総当たりしたり、滝先生の音楽の授業受けてる子を総当たりしたり、滝先生が顧問してる部の子を総当たりしたりとか。そんな感じにやるみたい」

「……先生が顧問してるのって、この吹部しか無いですよ」

 

 最先端の文明の利器で連絡を取り合った結果が、ただの人海戦術ときた。

 

「総当たりしないとここの吹部って、情報沸いてこないんですか。風通し良くないですね」

「コミュニケーションに問題あり、ですね」

 

 やめてくれ黄前さん川島さん。現部員としてその台詞は地味に効く……。

 

「……そもそも滝先生は今年赴任したばかりだろ。総当たったところでロクな情報にありつけるかどうか」

 

 後藤が正論を吐く。

 

「それよりもー、"【粘着イケメン】滝昇【吹部顧問】"とかのタイトルでSNSに掲示板立ててみた方が前の学校の教え子さんから、情報が手に入りそうな気がしませんか?」

「タイトルで出所を特定されるからダメ」

 

 加藤がいかにも現代っ子的なアイディアを披露するが、ネットに情報を上げるのは諸刃の剣なので却下した。

 

「じゃあ、"【もっと罵って!】滝昇【興奮しちゃう!】"とかどうです?」

「お前はうちの吹部を変態の巣窟にしたいのか?」

 

 前の学校にも風評被害が及んでしまうではないか。

 

「下手くそな上に変態な吹部……。うん、イロモノここに極まれりって感じだけど、その路線でいくのもいいかも。何が流行るか分からない世の中だし、去年のコンクールもバラバラだったし。いっそ今年も不協和音ネタ合奏枠でウケを取りにいこうか?」

「どうしてコンクールに出てまでやらないといけないんですか……? そんな寸劇を」

 

 見ている分には笑えるだろうが、自分がピエロになるのはごめんこうむる。

 この人が音頭を取り出すと、割と冗談で済まされなさそうなのが怖い。

 

「それより何度もふざけた合奏続けてたら出禁になるんじゃないか……?」

「主催者側としては凄く嫌な団体だよね……」

 

 ふざけるのはいい(よくないけど)。しかしそれも時と場所を弁えるべきだろう。

 それはさておき、この場に集う二年生三人の全会一致で、田中先輩の提案は否決された。なお、滝先生の指導後すぐにバックレるという、相変わらずの付き合いの悪さを発揮した中川は無効票の扱いである。

 中川といい、鎧塚さんといい、居残った南中の面々はいつになったら復調するんだろう。去年の事件が残した爪痕は、今なお吹部に生々しく残っていた。

 

 

 

 

 

 

「はあ……」

 

 校舎の一階、自販機が並ぶ渡り廊下のベンチにもたれながらため息をついた。部活の合間、息抜きに吹奏楽部員がよく訪れるこのスポットも最近は人気(ひとけ)が無い。それも道理で、飲み物片手に(にぎ)やかにくつろぐには、ここは人目につきすぎた。長居していれば滝先生に何を言われるか分かったものではない。

 

 三日目の指導は先ほど終わった。今日のお遍路(へんろ)巡りも、自分にとってなんら建設的な意義を有するものではなかった。先生は先生で、大半の女子部員の敏感な痛覚神経をことさら刺激する発言を重ねるばかり。大半の部員も、怒声と悲鳴でよくそれに応じた。顧問に対する従順など犬に食わせろとでも言わんばかりである。

 滝先生の口撃で、泣かされた人は初日から数えて十人にのぼる。反発して口論になった回数は二十まで数えた。それ以上は面倒になって数えるのを止めた。こんな調子では、コンクールどころかサンフェスを待たずして潰される部員が出てくるのではないか。去年とは逆の意味で部活の先行きに赤信号が灯りそうで、不安でたまらない。

 加えて自分には、滝先生について回って、先生の舌が滑らかになり過ぎたら退場させるという過重労働がオプションとしてついている。頼りにならない黄前さんは二日目にして付き添いからバックレるし。滝先生も「私のパシリは貴方一人で十分です」とか言うし。神も仏もいないのか。

 気分転換にベンチの(かたわ)らに置いた小箱から、作り途中のオーボエのリードを取り出した。

 

 純粋なオーボエの腕前では、自分はどうしても鎧塚さんに一歩遅れを取っている。一歩どころか二歩三歩は遅れてるだろうとは吉川さんの言だがそれはさておき、技量で追いつけないなら道具でその差を補えばよい。

 そういう訳で空き時間を見つけてはリードの製作に熱を入れている。鎧塚さんもリード作りはそれなりにやっているが、この分野では自分の方が長じている。リードの製作技術に関しては、鎧塚さんはまだまだだった。刃物の扱いが得手(えて)でないのもそうだが、いつまでもいじりすぎるのだ。

 

 オーボエの先端に差し込むリードの表面は、本来ならなだらかな凸面で見た目に粗は無い。そこまでものが出来るようになれば、あとは教えようがないと講習会の講師さんは言っていた。(あご)の形。歯並び。呼吸筋(こきゅうきん)。唇の筋肉。そういう一人一人異なる物が、干渉し合って音を出す。作る数をこなして、リードを自分に合わせていくうちに、ある日いいものが出来るらしい。ある程度までは経験がものをいうが、そこから先は調整という名のローラー作戦。

 自分のオーボエに最適化されたリードが出来るのは、一体いつの事になるだろう。頭を下げて、リードをいじり続けた。

 

 しばらくして、かつんかつんと、足音が近づいてきた。自分の鼻孔(びこう)を、さわやかで清浄な香りがくすぐる。男ではない。

 ままならない部活の状況から、現実逃避してリード作りに逃げていたせいもある。よく見知った顔が陰気な雰囲気を漂わせたまま自分の手前に立ち止まるまで、誰なのか気付けなかった。

 

「……?」

 

 足音は、島と、フルートの井上だった。

 フルートの井上調(しらべ)は自分と同じ二年生。シンバルを任されることになったパーカッションパートの井上と同姓だが血縁関係はない。全くの赤の他人で、出身中学も違う。特に親しくしている訳ではない。喧嘩している訳でもないが、傘木の件がしこりを残していた。

 フルートパートは傘木に対する卒業生の無視に心ならずも加担してしまった後ろめたさで、自分は力になれなかった無力感で、お互いひどくやりづらい。鎧塚さんも鎧塚さんで、フルートとの練習が決まるといつも困ったような顔をする。嫌とまでは言ってこないが、普段から重い口はますます重く、目をキラキラさせて一番いい表情を見せる時が、練習後の雑談を早めに切り上げて暇乞(いとまご)いするタイミングなのだから救いがない。

 そんなのを毎度毎度見せつけられるフルートパートもたまったものではないだろう。自然、オーボエとフルートだけで同席する場は極力減り、同席せざるを得ない時も至極あっさりした時間にする。それが今のオーボエとフルートの間の、暗黙の了解だった。

 

「……ちょっといい? 話、あるの」

 

 部活時間外に、直接会わないといけない用事なのか。苦い表情をして見つめると、井上は全身を(すく)ませた。もともと、気の小さい方だ。傘木のように、上級生に反抗するなど考えもしない。

 

「話? 木管だけで合奏練習の相談でも?」

 

 そんな話にはならないだろうと思いつつも、わざと的外れな返事をした。今は自分の事で、手一杯だった事もある。

 

「違うよ……。滝先生の事なの。もう私、ついていけないよ」

 

 か細い声で、井上が(つぶや)いた。泣き落としなら、する相手を間違えている。本当に耐えられないなら、フルートの先輩に相談すればいい。大して親しくもない自分にこういう事を言ってくるという事は、つまり愚痴なのだ。それで自分が滝先生に対して何らかのアクションを起こしてくれれば儲けもの、という事だろう。

 

「私も、もう耐えられない! 何なのあの顧問! パワハラじゃない! ヒロネ先輩また泣かされたのよ! 何とかしてよ!」

 

 (から)め手で攻めてくる井上に比べれば、島の率直で遠慮のない言動は、いっそすがすがしい。

 

「二人の言いたい事は、よくわかる。自分だって、先生のやり方に諸手(もろて)を上げて賛成してるわけじゃない」

「それなら……」

「だけど多数決で、全国大会出場を目標とする方針に二人とも反対しなかったじゃないか。だったら、ここは我慢のしどころじゃないのか?」

 

 型どおりの返答に、二人は失望しているようだったが、ここで安請け合いしようものなら、それが前例になる。それでなくても二年生ゆえに末席とはいえ、ただ一人のパーリーという事で同級生から何かと突き上げを喰らう身の上だ。

 

「我慢できなくなったら?」

「先輩達に、もう限界ですと。相談したのか?」

「言える訳ないでしょう! 先輩達だって我慢してるんだから!」

 

 それもそうだ。二人にも体面や見栄がある。そういうものを気にしている余裕があるうちは、島も井上もまだ耐えられる。

 そうと分かって、二人の滝先生に対する非難……島は率直に、井上は回りくどいやり方でまくし立ててくるのを適当に聞き流した。言うだけ言えば、二人も多少は気が晴れる。

 

 反省すべき点があるとすれば、せめて表情だけでも真剣に聞いている風を装う事だったのかもしれない。しかし今の自分は心身ともにくたびれていて、ポーカーフェイスを正す気力すら失われていた。

 

「ねえ、ちゃんと聞いてるの!?」

 

 島からすれば、自分の応対はいかにものんびりしたものだったのだろう。業を煮やした彼女は、これまた型どおりの突き上げを仕掛けてきた。

 

「蔵守は私達二年生のなかでただ一人のパートリーダでしょ? それなら私達の代弁者として何かすべきじゃないの?」

 

 パーリーと言っても、二人とはパートが違う。二人から突き上げを喰らう義理なんて無い。そう言ってやりたかった。多分それは正論だ。その正論で突き放す気が起きないのは、正論で相手を容赦なくやり込める滝先生を(そば)で見ていたせいだ。あの人と、同じようなやり方はとりたくない。

 

「だからもう少し様子を見るべきだと言ってる。どうにもならないと思ったら、二人から言われるまでもなく、自分から滝先生に直談判しに行くよ」

 

 どこまでいっても、話は平行線。

 

「……もうっ! ホント二股なんだから」

「なに?」

 

 非友好的な態度を取り続けてきた島の口から、非友好的な言葉が飛び出てきた。

 

「どこのパートでも先生と先輩達の口論の間に入って(なだ)めてる。それって滝先生にも先輩達にもいい顔しようとしてるって事でしょ。それを二股って言わないで何て言うの」

 

 去年、卒業した三年に楽器を隠されたが、あれはまだ悪戯という範疇(はんちゅう)だった。ここまで率直に悪意をぶつけられるのは初めての事で、島が何を言っているか、すぐには吞み込めなかった。

 井上が言い過ぎだよと(さと)すが、口元は笑っている。それを見て、ようやく怒りが湧き上ってきた。

 こいつらは、二股云々の発言はそのまま己自身にはね返る事に気づいていないのか。

 怒りだけでなく、悔しさもこみ上げてくる。二股かけてると受け取られる様なことをやっている自覚はある。しかしそれは、去年みたいに吹部がバラバラにならない為にやっている事だ。

 二人も去年は、大なり小なり嫌な思いをしてきたはずだ。だから自分のやり方も、どこかで分かってくれている。そう考えていた。それは甘い考えだったのか。

 

 

 

 本音をそのままぶちまけてやろうかと、立ち上がろうとした時だった。

 

「二股って聞こえたんだけど」

 

 渡り廊下の先から、この場にいる誰のものでない声がした。頭にのせた、大きな黄色いリボンが風に揺らめいている。

 

「蔵守の事を二股って言ってるように聞こえたんだけど、何かの罰ゲーム? マジで言ってるなら、アンタたちも相当に(つら)の皮が厚いわね。化粧のし過ぎじゃない?」

 

 腕を組んだまま近づく吉川は、唇の端を()り上げ、いかにも相手を小馬鹿にしたような表情で、島に近づいた。

 

「りえ。アンタ今年の吹部の方針を決める多数決の時、どれにも手を上げなかったじゃない。全国を選ぶこともなく、思い出作りを選ぶこともなく。だからどちらの方針で問題が起きても、私はその方針を支持してないからって言い逃れできる。自分はそういう保険をかけてるくせに、蔵守のやってる事を二股って言ったりするんだ」

「……!」

 

 吉川が、唇を噛み締めて睨みつけてくる島に向かってふんと鼻息を鳴らした後、井上に向き直った。

 

「調、アンタは去年やる気にあふれる希美がハブられてるのを見殺しにしておいて、今年は全国を目指す方に手を挙げた。そうよね?」

「な……。優子だって傷害事件の時、最後の最後で怖くなって喧嘩に加わらなかったでしょう!? 希美の決起に参加しておいて……」

 

 あのとき吉川が怖気づいた、という見方は正しくはないだろう。傷害事件に先立つ長瀬さんの虐めの責任を取る形で、中世古先輩がコンクールを辞退した。それが吉川の心に引っかかって、最後の最後で自制心を働かせたのかもしれない。

 

「そうよ。私には香織先輩が居てくれたおかげで、部内で孤立せずに済んだ。だから香織先輩みたいな人がいなかったフルートで、アンタが保身を優先した事に文句を言う気はないの」

 

 吉川の発言が、危険な水域に差し掛かり始めた。彼女は言外にフルートパートの先輩は頼りないと、よりにもよってフルートの部員相手に放言している。

 

「自分は保身を優先してる癖に、他人が保身を優先しようとするのに文句をつけている。そのダブスタっぷりが気に入らないの。確かに私も希美を(かば)いきれなかった。その上で今年、全国を目指そうなんて目標を掲げてることにいくらか後ろめたさを感じてる。だから他人を二股呼ばわりなんて、恥ずかしくてできない」

 

 一つ一つ、言い訳の余地を潰していく吉川を相手に、井上はもう泣きそうだ。一方、島は(うめ)きながらも(なお)言い募る。

 

「滝先生のやり方に文句言ってるのは、私達だけじゃないんだから! みんなそう言ってる。私はそれを、伝えに来たの」

「みんなって、だれ?」

「クラリネットと、フルートのみんな! トロンボーンやホルンだって、そう思ってる人、きっと多いはずなんだから」

「そこまで意見をまとめてるなら、蔵守を通してなんて面倒くさい事してないで、りえが滝先生に直接言えばいいじゃない」

「蔵守から言った方が、まだ効果を期待できそうじゃない。何だか知らないけど、滝先生は蔵守の事を連れまわして気に入ってるみたいだし」

「なら私が、滝先生に直談判してくる。ちゃんとした答えをもらえるまで。もちろん、先生のやり方に誰がどう文句を言っているかもはっきりと伝えてくる。まさかとは思うけど、蔵守に頼むのはそこら辺をぼかした上で矢面に立ってくれると期待してるからじゃないでしょうね?」

 

 その言葉に、二人がひるむ。確かに、名指しで誰彼がこれこれああいう理由で先生のやり方に不満を持っていますよ、なんて言えない。自分の性格がどうこうというより、吹部男子という立場の弱さがそうさせる。パートリーダーの肩書など、都合のいい時に持ち上げられる(かざ)(びな)でしかなく、むしろ邪魔だ。

 

「もういい。吉川も、それくらいにしてくれ……」

 

 吉川は、ものをはっきり言いすぎる。それが良い方向に運ぶ時も、悪い方向に運ぶ時も、極端なくらい進展を見せてしまう。良い方向に進めば何も問題ないが、悪い方向に進めば取返しがつかなくなる。吉川が話に割って入ったのは、自分を庇おうとしてか、あるいはまた別の理由か。いずれにせよこれ以上の口論は同級生部員同士の溝を深める事にしかならない。

 

「なにを……」

 

 そこまで言って、吉川も黙った。俺が、彼女の事を呼び捨てにしているのに気付いたらしい。これまでは、常に彼女の事をさん付けで呼んでいた。

 

「クラリネットやフルートが、苦しい状況なのは良く分かった。だから明日、いや明後日までに先生になんとかならないか、はっきり言ってくる。だから二人も、もう少しでいいから我慢してくれないか」

「まだそんな事言って……」

「島、井上」

 

 二人の事も、声色を低くして睨みつけた。二人が、顔色を青くして黙った。

 

「俺が思い出作りに手を挙げていた事、忘れるなよ」

 

 今の部活の方針に当初から反対していた俺も我慢している。あの時、反対しなかったお前達が我慢できないとは言わせない。

 暗に、そう伝えた。

 

 

 

 

 

 

「……私は、アンタが分からない」

 

 二人が、まだ何か言いたそうにしつつも大人しく引き下がってくれた後、吉川が呟いた。

 

「俺は、他人の事にそこまで怒れる吉川が分からない」

 

 中世古先輩の事ならまだしも。

 

「茶化さないでよ。この際だからはっきり言っておくけど、私はアンタのそういう生温いところが嫌いなの。何よ、いつも優等生ぶって。アンタだって、本当は言いたい事溜まってるんでしょう!言いたいことがあるなら、言えばいいじゃない」

「全国を目標にしていなければ、俺ももう少し言いたい事を言ってる」

 

 吉川も傘木と同じように、弱い吹部を強くしたいと思っている。そういう情熱は、全国に行くためには必要なものだ。ただ今は、その情熱を外に向かって吐き出しても空回りするだけだろう。

 

「また去年みたいな事になるって言いたいの!?」

「違う。ただでさえ自分達は、練習量で他校に(おく)れを取っている。たとえ滝先生の指導がうまくいったとして、まともな練習が出来るようになったとしてもだ。それでようやく他校との差が今以上に広がらなくなるだけにしかならない。追いつくために、少しでも多くの時間を、皆一丸になって練習に取り組まなくちゃいけないだろう。それなのに部員同士のまとまりを欠いて、どうして全国に行けるっていうんだ? 仲間割れなんてしてる場合じゃないだろう」

 

 自分の言葉に、逃げが入っているのは分かっていた。結局のところ、自分がやっている事は、吉川の逆を張っているだけでしかない。衝突を避け、お互いに落としどころを作って妥協する。事態が決定的に悪化しないかわりに、劇的に改善もしない。それが自分の限界だと自覚するようになっても、一度身体にこびりついた習性は容易に改まりはしなかった。

 

「喜多村先輩に岡先輩、中世古先輩に小笠原先輩、田中先輩、斎藤先輩、ナックル先輩。三年生にとっては今年が最初で最後のチャンスなんだ。特に中世古先輩には去年迷惑をかけた。自分が我慢すれば済むことで、先輩の足を引っ張りたくはない」

 

 中世古先輩の名を出されると吉川は弱い。つい先ほどまでの鋭い舌鋒も、目に見えて鈍り始めた。

 

「ふうん……。蔵守も蔵守なりに考えてるんだ……」

 

 言わないでいい事まで言ってしまったかもしれない。吉川の身なりに目を注いだ。

 トランペットの管に当たる人差し指に、マメでもできたのか絆創膏が張られている。唇はさすがに手入れが行き届いて傍目には荒れていない。ただ口の中に、小さな腫れ物でも出来ているのか、たまに喋りづらそうにしている。本気で全国に行くために、厳しい練習を己に課しているのだろう。全国を目指す吹奏楽部員としては、吉川の方が正しいあり方のはずだった。

 

「……あんまり鵜呑みにするなよ、俺個人の考えだから」

 

 温い考えに吉川が影響される事は、毒になっても薬にはならない。彼女がストイックな姿勢で他の部員を引っ張るのなら、それでいい。引っ張る糸がほつれかけた時、自分が結び直せばいいだけだ。

 

 吉川が落ち着いてきたのを見計らって、話を練習内容のほうに切り替えた。アインザッツ(音の出だし)の揃え方のコツ、リズムを担当する打楽器と旋律を担当する自分達とのバランスの取り方。そういう話になれば、吉川は本来の明晰(めいせき)さを良い方向に発揮する。こちらの質問にひとつひとつ的確な答えを返し、逆に吉川の鋭い質問には何度も言葉を詰まらされた。さすがに強豪校出身なだけはあり、指摘はいちいちもっともで、学ぶところが多い。

 

「滝先生って、指揮棒使わないから打点(だてん)が分かりにくいのよね……」

「一本の指揮棒より、五本の指で指揮した方が表現豊かにできるって言うけど、分かりにくさも五倍だな」

 

 吉川と、吉川が持ってきた楽譜に、視線を交互に向けながら言葉を交わした。滝先生の指導に賛成していると言っても、吉川も何から何まで先生のイエスマンに徹している訳ではない。指揮棒無しの先生の指揮に対する不満では、お互い意見の一致を見た。

 配布されてまだ半月も経っていないのに、使いこまれた吉川の楽譜はところどころ破れて、テープで補修されている。注意書きも繰り返し書きこんだようで、白かったはずの楽譜は真っ黒になっていた。書き込みが繰り返された楽譜というのは、本人以外理解不能なものになっている事が多いが、夜の(とばり)が落ちてくる今時分は一層判別を難しくしていた。

 

「……そろそろ戻らないか?」

「もうちょっとだけつきあって。今は教室に戻りたくないの」

 

 吉川が、なぜタイミングよくこの場に姿を現したか、それでおおかた察した。

 

「高坂さんの放言、まだひきずってるのか」

「そっちもそっちで険悪な雰囲気になってたでしょ。お互い様よ」

 

 

 

 真面目さ度合い……というより、パーリーを中心にひとつにまとまっているという点では、トランペットパートは低音パートに勝るとも劣らない。初日そして二日目の指導も、あっさり済んでいた。

 雲行きが怪しくなったのは今日、滝先生が日頃の練習量について尋ね始めてから。今更誤魔化しようもないし、事実をありのまま伝えると先生は高坂さんに向き直った。

 

 ――高坂さんは、北中ではどれくらい練習していました?――

 

 強豪の北中が、北宇治より練習量が多いなんて聞くまでもなく察しはつく。露骨な誘導尋問だ。

 貴方たちは中学生に負けている。そういう言葉を引き出して発破をかけたいのは分かるが、何も一年生を生贄にしなくてもいいじゃないか。滝先生も気が利かない。彼女も足りないと内心思っているに違いないが、話の流れ的に先輩達のいる前で答えにくいだろう。

 自分なら適当にとぼけるが……

 

 ――自主練込みでも、中学の時の半分くらいです――

 

 んが。

 彼女は、臆面もなくそう言ってのけた。腹式呼吸の練習に来ない辺りから強心臓とは思っていたが、高坂さんとやらは、どうもそういうレベルでは収まりきらない存在らしい。傘木といい彼女といい、毎年この学校の吹部には釣り合わない人がやってくるものだ。

 

 

 

「……あの子って普段の練習からあんな調子なのよ。そのくせ口調は丁寧だから慇懃無礼(いんぎんぶれい)な事この上ないし」

「美人で、トランペットの実力もあるのに、愛想が追い付いていないのか」

 

 楽器振り分けの時の試し吹きでも、演奏の上手さを誉められたのに型通りの感謝の言葉を短く述べるだけ。確かに顔色一つ変えていなかった。

 

「それにちょっと前まで中学生だった癖に、たっかそーなモデルのトランペットをマイ楽器にしてて何て贅沢な……」

「……愚痴に私怨が混じってるぞ。その位にしときなよ」

 

 高坂さんを話題に出したのは失敗だった。吉川が愚痴りたくなる気持ちは分かるが、後輩の悪口を言い合うのは去年の三年と同レベルに堕ちたような気がして何となく嫌である。当たり障りの無い返答で済ませようとしたが、彼女は引き下がらなかった。

 

「ほら、そういうとこよ」

「?」

「こういう愚痴を言ってる時はね、素直に合わせてくれればいいの。今みたいに高坂の顔も立てようとするから、二股なんて言われるのよ」

 

 思わず苦笑した。

 新入部員達が各パートに振り分けられて、まだいくらも経っていないのにそうとう鬱憤(うっぷん)が溜まっているらしい。彼女の鬱憤をぶつける相手として、自分が適当かどうかは知らないが、まさかパートメンバーにぶつける訳にはいかないのだろう。人の良い中世古先輩の耳に入ろうものなら、いい顔をするはずがないのは分かりきっていた。

 

「あの様子じゃ、トランペットはピリピリしてそうだしね。自分は別のパートだからまだいいけど、部活の間、四六時中顔を合わせてる吉川は大変だろうな」

 

 愚痴という名の気晴らしに付き合うにしても、後輩を悪しざまに罵るよりは吉川を持ちあげる方が気は楽だった。学校の中だ。何処の壁に耳があるか、分かったものじゃない。

 

「そうよ! 私や香織先輩があの子の手綱(たづな)引くのに苦労してんだから、ちょっとは接待しなさいよね!」

「はいはい。ではお嬢様、お飲み物は何に致しますか?」

 

 自販機の前に立って、小銭で膨らむ財布を開いた。この時間まで練習していれば、喉も渇いているはずだ。

 

「もう少し練習するからミネラルウォーターで」

「了解」

 

 口が商売道具なだけに、練習中は飲み物も自由にならない。十分に冷えたボトルを手渡した。ん、と受け取りながら吉川は一気に飲み干す。少し落ち着いたようだ。

 

「あんたにはこれあげる」

 

 素早くボタンを押して、有無を言わせず吉川が放り投げた缶ジュースを受け取った。

苦手なトマトジュースだ。飲み物なのにどろどろしていて、いつまでも喉に残って、生のトマトにはない塩味も悪い意味でアクセントをつけている。つまり不味い。おごってやったんだから早く飲みなさいよという無言の圧力に抗しきれず、お愛想で一口つけて軽く顔をしかめた。

 吉川は、してやったりといった表情で話を再開した。

 

「コンクールで上を目指すのなら、今までのやり方じゃどうにもならない。それは私も分かってる。だから本当の事言うと、高坂の事、ただイラついてるってワケじゃないの。あの子、すごく練習熱心だし。だけどさ、もう少し言い方ってものがあると思わない?」

「ああ。それは良く分かる」

 

 本心から(うなず)いた。高坂さんは、先生の問いに素直に返答しただけだ。ただそこに至る過程で、先輩の顔を立てるという発想が出てこない。少なくとも、傍目にはそう見える。あるいは部活の為を思う情熱が言わせたのかもしれないが、明らかに(いさ)み足である。先輩の前であろうと言いたいことをはっきり言って、それで後から憎まれたり、困った事になったりするかもしれないと考えもしないのだろうか。孤立しても自分自身の力でどうとでも泳ぎ切れると思っているのだろうか。本気でそう考えているなら高坂さんは余程の大物か、救いようのない馬鹿か、どちらかだ。

 

「好かれる必要なんて無い。とでも考えてるのかしら」

「だとしても、敵に回さない程度の配慮をするに越したことはないと思うけどな」

 

 今後も角突き合わせるであろう二人の間に入って(たしな)める中世古先輩の姿が目に浮かぶ。もし高坂さんが自分達と同級生だったとして、去年の劣悪な部活環境に揉まれても同じ調子でいられるだろうか。

 そこまで考えて、苦笑した。

 今年の新入部員達には、去年の傘木達のような目に合わせたくないと思っていたのではなかったのか。一年生が先輩相手にも忌憚(きたん)なく発言できるのは、むしろ良い傾向ではないのか。それなのに、いざ先輩という立場になると生意気だと思ってしまうのだから。我ながら勝手なものだ。

 

「高坂さんも、一体何を考えてウチの吹部に来たんだろうなあ」

 

 今の吹部は、一人二人凄腕がいたところで、それを生かす事が出来ない。だから上手さを競い合う事に、あまり関心はなかった。興味はもっぱら、上手くない人の底上げか、やる気に欠ける人にどうやる気を出させるかに寄っていた。

 

 吉川はふと何か思い立ったように、財布を開きながら自販機に近寄った。

 

「あれ、おかわり?」

「ううん。みんなの分。みんな頑張ってるから差し入れ」

 

 自販機に千円札を投入して、吉川はミネラルウォーターのボタンを叩いた。ゴトン、とペットボトルが落ちる音がする。

 取り出し口から出てきたミネラルウォーターを、自分に寄越してきた。

 

「運ぶの手伝って」

 

 吉川がボタンを押す。自分がペットボトルを自販機から取り出す。そんなルーチンワークを六度繰り返した。既にある吉川の分と合わせればミネラルウォーターは七人分。トランペットパートのメンバーは全員で七人だ。自然と顔がほころんだ。いつもの、世話焼きな吉川に戻っている。

 

「あとで半分払うよ」

「はあ? いらないわよ。恩着せがましいわね」

「チームワーク、部員同士のまとまりを大事にする。素直に好意を受け取れよ」

「う……ありがと」

 

 やり返されたのが悔しかったのか、ぷいと自分に背を向けて、吉川は渡り廊下から校舎へ戻っていく。

 腹に据えかねる事があっても、それを抑える。そういう事については、自分よりも彼女の方が大変だったろう。時々なら、吉川のガス抜きの相手をするのもいいかもしれない。

 ペットボトルを抱えながら、憎めない同期の後をついていった。

 

 


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