北宇治高校ダブルリードパートへようこそ   作:言巫女のつづら

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第15話 本領発揮! コンダクター 前編

 結局、パーリー会議のほうは田中先輩の読み通り。滝先生の指示に従うという流れで落ち着いた。滝先生の方針に反発していた鳥塚先輩達も、休憩中に名案は浮かばなかったらしい。渋々ながら承諾して、それで会議はお開きになった。

 今までのやり方でも、追加で一週間もあれば合奏は立て直せる。そう見ていたので、その決定について異論はなかった。海兵隊の合奏に時間をかけたしわ寄せは、当然サンフェスの方にいく。だが、そちらの方まで気を回す余裕は無い。というより、考える気も起きない。

 

 諦観(ていかん)、とでも言うのだろうか。傘木達の退部、コンクールの大失敗。その後は大きな失敗こそなくなったが、かといって目に見える成功もなく。吹部の状態は低空飛行だった。そして先日の海兵隊。

 こうも上手く行かない事が続くと、どこか冷めた目で物事を見るようになってしまう。コンクール銀賞でショックを受けて、斜に構えるようになった鎧塚さんの気持ちが分かる気がした。

 

 これから、会議の結果を皆に伝えに行かなければならない。

 先輩達は一足先に、今の時間はまだ駄弁(だべ)っているであろうそれぞれのパートメンバーが集う空き教室へ向かっていった。自分は散らかった教室の後始末をする為、一人残っている。

 パーリー会議の為に崩した座席を元に戻していく最中(さなか)、会議の経緯を記したノートに目が向かった。惰性で書きつづった愚痴と慰撫の応酬。何の生産性もない。

 

――パートリーダーになってから、お前がやってきた事などこれと同じだ。何もしていない――

 

 ノートが、自分に語りかけてくるような錯覚に囚われた。確かにその通りだった。

 代替わりしても、北宇治の吹部が立華や洛秋のようになりきれないのは、技術より何より、まず部員達の意見をまとめるところで手間取るからだ。何かやろうとしても打算や感情から、反対意見が出る。そこで妥協して、ひとつにまとまる。

 みんなの意見を尊重すると言えば聞こえはいいが、そのせいで何をやるにしても方向性が曖昧(あいまい)になる事が多かった。

 去年のようになるわけにはいかないからそうしている。間違った事をしているつもりはない。ただ、これでいいと胸を張れる事も出来ていない。

 

 頭を振って、極力ノートを視界に入れないようにして目線を教室の隅に移した。そこにある教卓に置かれた花瓶には、鎧塚さんが持ち込んだ赤い花が活けられている。そういう気配りは、男子には出来ない事だった。飾りっけのない、地味な色ばかりが視界を覆う空間で、そこだけポツンと異彩を放っている。教卓に向かい合う先頭の机の引き出しには、教科書か、あるいは参考書と思しき厚めの書籍が埋まっている。高校生になって、学ぶ科目はぐんと増えた。科目ごとの教科書、参考書、ノート。それら全てを、授業のある日毎(ひごと)に持ち運んで家と学校を往復するのは、地味に重労働と言える。置き勉する人もいるのだろう。鎧塚さんの机の引き出しには、少なくとも遠目に見える範囲では、何も無かった。

 

(みの)りのある会議は出来ましたか?」

 

 先日、聞いたばかりの穏やかな声。おさまりの悪い黒髪とは対照的に整った顔つき、眼鏡をかけた音楽教師。そこまで言えば誰でも察する。我らが顧問が扉の前に立っていた。

 滝先生とまたしてもサシの場面に出くわしたのは偶然でも何でもない。自分のクラスであるこの教室は、職員室から音楽室までの最短ルートに面している。何がしかの理由があって、避けて遠回りするのでもなければ、部活に出向く先生や同級生と自然にすれ違う。

 

「小田原評定でした。先生のやり方にとりあえず従うしかないのを再確認しただけで」

「そうでしょうね。人というのは上手くいかない事が重なると、どうしても消極的になってしまうものです」

 

 負け犬根性が染みついている。自分には、先生がそう言っている様に聞こえた。

 にこやかに微笑む滝先生は、パーリー会議でこれといった結果が出なかった事に、大して失望している風でもない。吹部の面々が、部活の状況を自力で改善していくことなどハナからアテにしていないのだろう。

 

「まあ欲を言わせてもらえば、無駄な事に時間を割かずに、自主的に合奏の改善に取り組んで欲しかったのですが。今の時点でそれを求めるのは無理でしょうね」

 

 結果が見えているとか、無駄とか。田中先輩や滝先生みたいに周りを気にせず言いたい放題言えれば、どれだけ気が楽だろう。下級生がそういうスタンスを貫いた末路は、去年の事でよく分かっていた。

 

♪~!

 

 出し抜けに、窓際からトロンボーンのくぐもったような音が聞こえた。

 三者面談で、今週は早めに部活が始まっているとは言っても、放課後しばらくは雑談混じりの暖機(だんき)運転の時間帯。こんなに早くから揃って練習に入っているのも珍しい。

 滝先生を見返してやろうと、気合いを入れているのかもしれない。ただ。失地を回復しようと張りきっているのはいいが、音はバラバラ。本来の海兵隊の曲とはかけ離れた音色なうえ、リズムも揃っていない。そして何より、昨日の事を引き摺ったままの、負の感情を隠しもしないぶつ切れのメロディーは、聞いていて気持ちのいいものではなかった。

 居心地の悪さを覚えて視線を左右にうろつかせていると、滝先生は無造作に髪を掻き上げながら口を開いた。

 

「小笠原さん達にも聞くつもりですが、あんな感じでは最初の合奏が上手くいかないのは、やる前から分かっていたのでしょう? それなのに、なぜ貴方達パートリーダーは手を打とうとしなかったのですか?」 

 

 分かりきった事を、先生は尋ねてきた。 

 (かす)かにほほ笑んだその表情からは、叱責するつもりで言ったのか、本当に分かっていないのか判断がつかない。

 

「吹部は、人が多すぎるんです」

「それは多いでしょうね。部長さん一人では、とてもまとめきれない。だからこそ、貴方達パートリーダーが補佐しなければいけないのでしょう?」

「……やる気がある人は、こっちから何か言わなくてもちゃんとやってくれます。そうでない人には、言えば言うだけ煙たがられるだけです。真面目にやっている人の背中を見て、それに(なら)ってくるのを気長に待つしかないじゃないですか……。親に勉強しろと言われて、素直に従うような物分かりのいい人達ばかりなら、誰も苦労しませんよ」

 

 本当にやる気ある人は吹部のあり方がどうであれ、周りに流されずに己を律する。田中先輩や中世古先輩のように。

 しかし、ほとんどの部員は、そこまでの境地に達しきれない。勉強や遊び、アルバイト。そういう他の時間を犠牲にしてまで部活に入れ込む人は、この吹部には多くない。それでいいと思っている人達に練習を強制させるのも、何かが違う。

 パーリー会議で自分が口を出すのは、部員の間でトラブルが生じそうになった時だけだ。去年の様な、陰湿な(いじ)めが横行するような部活にだけは、絶対にさせたくなかった。

 

「なるほど。部員同士では、まとめきれませんか。やはり、私が鍛え直さなくてはなりませんね」

 

 指導を厳しくしても、いい合奏が出来れば部員もやる気を出す。

 滝先生はそう考えているのかもしれない。事はそれほど単純ではなかった。

 

「滝先生。北宇治の吹部が、強豪でも何でもないという事を忘れないで下さい。自分も、今の状況を何とか出来ないかとは思ってます。だけど、難しいんです。この吹部には、興味本位で高校から吹奏楽を始めようと入部する人もいれば、熱意はそこまでないけど、中学で吹部だったから惰性で高校でも続けようとする人。弱小を強豪に鍛え上げようと気合いを入れて門を叩く人。そんな風にみんなバラバラなんです。緩い環境を望む人もいれば、厳しい環境を望む人だっている。どうしたって、不満を持つ人は出て来ます」

 

 部員一人一人の温度差が大きい現状では、結局どうにもならないのだ。

 小笠原先輩も、中世古先輩も、二人に従う自分も、結局その問題を解決できなかった。お茶を濁す程度の対応しか取れなかった。

 去年は、同級生の褒められない行状をなぜ改めさせないのかと、卒業した三年生を軽蔑しきっていた。今なら、あの人達の心境も多少は分かる気がする。状況が改善する見込みもなければ、誰だって相手の尻を叩くのに躊躇(ちゅうちょ)する。憎まれ役になりたくないのだ。

 

 そんな自分の胸の内など知る(よし)もなく、滝先生は言葉を(つむ)ぐ。

 

「そんな吹部でも、貴方は見捨てようとはしない。それは何故ですか? オーボエが好きだから。本当にそれだけが理由ですか? それならば吹部は吹部、自分は自分と、もっと割り切ってもいいでしょう。何故二年生の身でパートリーダーを続けているのですか?」

「それは」

 

 吹部は吹部、自分は自分。そういう人の事なら、よく知っている。

 

「忠告は頭に入れておきましょう。貴方もなかなか、気苦労が絶えないようですからね」

 

 忠告したところで先生の指導が丸くなるとも思えないし、そんな期待もできない。

 ただ一言、言っておかずにはいられなかった。

 

「それでは蔵守君も、部活の準備に入って下さい。まずはダブルリードから、チェックさせて欲しいのです」

「分かりました……」

 

 机に置いたままのノートを閉じ、(かばん)に放り込んだ。片付けただけで、鞄を持っていくつもりはなかった。楽器準備室にあるオーボエケースの中に、基礎練の教本も、海兵隊の楽譜も挟んである。鞄の中に、部活に持っていかなければならないものは何も無い。

 

「綺麗な花ですね」

 

 教室の扉に佇んだまま、滝先生が(つぶや)いた。先生の興味は、自分から教卓の花瓶に移ったらしい。

 

「鎧塚さんが持ってきたんです。ベゴニアという名前らしいですが」

「ベゴニアですか。いかにも女の子らしいチョイスですね。知っていますか? この花の花言葉は"片思い"なんですよ」

「……そうですか」

 

 今の自分に精神的な余裕は、あまりない。普段なら好奇心をくすぐられたかもしれないが、鎧塚さんが誰に片思いしていようが、構っていられなかった。

 

 

 

 

「二人は、まず楽器を抱える姿勢から直しなさい」

 

 ダブルリードパートが練習に使う三年六組の教室では、喜多村先輩と岡先輩がファゴットの構え方を矯正されている。

 素人目には異様に長い、丸太のような楽器を、両手で脇に抱えるようにして持つ。それが普段であれば、見ているはずの先輩達の姿だった。

 滝先生の最初の指導は、どこから持ってきたのか、本物の丸太を抱えさせるところから始まった。いい演奏をする為に、姿勢を是正するという着眼は普通だが、その手段が普通ではない。

 

「なんでこんな事を……」

「楽器を落として壊されでもしたら、困りますからね」

 

 先輩達の顔が、苦痛にゆがむ。

 当たり前のことだが、首なり両肩なりに通して楽器を支えるストラップなんてものは、丸太に無い。両手にそのまま、楽器の重みがのしかかる。指だけで、ファゴットサイズの丸太を掴むように支えなければならない。

 始めのうちは、重さに負けて先輩達は背中を丸めていた。それが滝先生の度重なる横槍で、次第に直立気味の姿勢になる。

 ほどよく姿勢が改善されたところで、先生は丸太をファゴットに持ち替えさせた。

 もちろんストラップは付いている。

 

「そう。ファゴットを構える時、ストラップに頼って猫背になると身体に良くない。かといって、手に負担をかけ過ぎるのも良くありません。まず右足の太ももと左手で楽器を支えて。そしてストラップに楽器の重さを預けて。身体全体でバランスを取る事を意識しなさい」

 

 全体と言っても、身体には脚のように丈夫な骨とたくましい筋肉で守られた部位もあれば、首のように骨も華奢(きゃしゃ)なら筋肉も薄い部分もある。もろい部分への負担を抑え、頑丈な部分がそれを肩代わりする。それで身体の負担は、真の意味で均等になる。

 言葉にするのは容易いが、実際にやるのは簡単ではない。

 幾度となく駄目だしを出され、教室から響く喜多村先輩と岡先輩のうめき声は止む事が無かった。

 

「……先輩達、しごかれてる」

「ああ、そうだね」

 

 お互い、横目で教室を見やりながら呟いた。オーボエは軽い音程の修正で済んだので、鎧塚さんと一緒に廊下に出ている。

 先輩達が先生から叱責を受けている場からは、離れていたかった。年下の自分がフォローしたところで、先輩達にはかえって侮辱にしかならない。それより何より、居心地が悪い。

 

「練習、しよ? さぼってると、私達も先生に怒られる」

「……そうしようか」

 

 廊下に椅子と譜面台を持ち込み、即席の練習場を確保し、基礎練に取りかかった。先生が先輩達への指導を終えるまでは、それ位しかやる事がない。椅子に座り、オーボエの先端に差し込まれたリードに息を吹きこんだ。管体のキーを指の腹で叩く。

 "ド"の音を8拍(8秒)吹き続け、4拍(4秒)休む。次いで"レ"の音を同じように8拍鳴らし、4拍休む。その繰り返しで、次の"ド"まで続ける。

 これがロングトーン。文字通り音を長く伸ばすだけ。

 面白みの無い単調な作業だが、オーボエを始めた時からずっとこんな調子でやり続けて、もはや(なら)(せい)と化している。つまらないと思っていても済ませておかないと、どこか落ち着かなくなってしまう。

 

 一通り吹き終え、一息ついた。ふと視線を感じて隣を向くと、鎧塚さんがじっと見つめている。

 

「いいね……、楽しそうで」

「楽しそう?」

 

 こくり、と彼女が頷いた。

 

「いつもそう。蔵守君ってオーボエを吹いてる時、楽しい事してるって顔してる。十八番の曲を演奏してる時は、特にそう」

 

 昨日も、滝先生から似たような事を言われた。

 それは楽器が好きでもなければ、問題だらけの吹部に居続けようとは思わないが。傍から見て、そんなにはしゃいでいるように見えるのだろうか。

 

「鎧塚さんは」

 

 あんまり楽しそうじゃないね。

 

 話の流れで、そう言いそうになる口を、寸前で必死に(こら)えた。

 傘木が吹部を辞めた直後に比べれば、だいぶ良くなっているのは確かだ。それでも、初めて彼女の演奏を聴いた時と比べると、まだどこか見劣りするように思える。演奏中の表情も、能面(のうめん)のままだ。

 他の部員達は完全に復調したと思っているようだが、自分は同じオーボエ奏者。無意識に対抗意識が働いて、粗でも探そうとするからそう感じてしまうのか。

 

「あ……」

 

 自分の心の声が聞こえたはずもないだろうが、不遜(ふそん)な事を考えていたのとほぼ同時に、楽譜をめくろうとした鎧塚さんが姿勢を崩した。スカートのポケットから生徒手帳が転げ落ち、自分の足元に一枚の写真が滑り込んでくる。

 拾い上げた写真には、河原に座りこむ私服姿の彼女と、スマホに向かってウインクする傘木が写っていた。髪型が今と違う。背丈から見て中学時代のものだろうか。

 

「返して」

 

 物珍しさに物色していると、鎧塚さんが常ならぬ敏捷な動きで写真をひったくる。そして自分の指が写真と触れていたあたりを手で払った。

 ……俺はバイ菌か何かか。

 憮然として、口を開いた。

 

「なんでそんなものを手帳に」

「……そんなもの?」

 

 鎧塚さんの眉間にしわが寄った。が、こちらも雑菌扱いされた不快感が尾を引いている。憎まれ口の一つも叩いてみたくなる。

 

「随分大事そうにしてるから。わざわざ外に出して持ち歩くのは迂闊(うかつ)じゃないのって思って。今みたいに、何かのきっかけで紛失するかもしれないし」

「……肌身離さず持っていたいから」

「ふうん。……でも、その写真の鎧塚さんって、髪短いね」

 

 写真に写っていた彼女の後ろ髪はうなじに届く程度。顔の両側に垂らした触角のごとき前髪も、先っぽがようやく肩にかかるくらいで、今より短い。

 

「中学二年生の、野外活動の時の。髪を伸ばすようになったのは、それから。お母さんに、髪を伸ばして女の子らしく身だしなみに気をつけなさいって言われて」

「そっか。今の長い髪も似合ってるけど、そういう短いのも可愛いと思うよ」

「……何、言ってるの」

 

 思わず歯が浮くようなセリフを吐いてしまったが、鎧塚さんの目が一瞬泳いだ。

 誉められる事に耐性が無いのかもしれない。相変わらずの無表情ながら、オーボエのキーに意味もなく、そしてせわしなく指をかけ直す仕草から、うろたえているのが見て取れた。

 

「傘木と鎧塚さんなら、写真なんていくらでも撮る機会あっただろうね。それが一番お気に入りなの?」

「ちょっと違う。希美は友達多いから。二人だけで写真に収まってるのなんてこれくらい」

「……他の人が混じってるのは嫌なんですかそうですか」

 

 会話の選択肢を間違えた。

 最初の剣呑な雰囲気から、いい具合に和んできたと思ったら、何時の間にやらドロドロ昼ドラ路線一直線。

 

「……気持ち悪いでしょう。こんなふうに友達に執着するなんて」

「いや、別に気持ち悪いとまでは……。そういうのって大なり小なり誰にでもあるものだし。こじらせ具合がヤンデレ予備軍の域に入ってそうなのは気になるけど」

「ヤンデレ?」

「……もうこの話やめようよ」

 

 友達でこれじゃ、傘木に彼氏でも出来た日にはどうなることやら。世の(はかな)さを哀れんで、身投げでもしそうだ。

 

 暗い話はそこで打ち切って、練習を再開した。いつもとは違う教室の外で練習していると、見えないものも見えてくる。例えば、音の響きの違いが。鎧塚さんも、きっとそう感じているだろう。同業者だ。普段より念入りに基礎練に取り組む彼女を見れば、それくらいは察せる。

 

 既に放課後。人気(ひとけ)は少ないが、廊下を行き交う生徒は皆無とは言えない。

 本来なら、そういう人達の好奇の目は廊下で練習している自分達に向く。そうならないのは、緩い部活には不似合いな、先生と先輩達の不協和音が教室から響いてくるからだ。

 大抵の場合、名前も顔も知らないので通り過ぎるのを横目で見守るだけだが、時たま身元がはっきりしているヤジ馬まで姿を見せたりする。そういう時は、一言いれる。

 

「黄前さん、加藤、何やってるの?」

『ひゃい!? く、蔵守先輩!』

 

 先輩達がしごかれている教室の扉にくっついて、聞き耳を立てていたショートカットの子と印象的なタコヘアーの子が、弾かれたようにとび上がった。

 確か、田中先輩とこの一年だったか。黄前さんは分かりやすくていい。ああいう髪型の子は、この吹部には他にいないし。

 ……と、変な事に感心してる場合ではない。

 

「立ち聞きとは趣味悪いぞ」

「タ、タチギキナンテシテマセンヨ? 座って聞いてただけで」

 

 同じ事だろ。

 つまらないとんちを披露する黄前さんを黙らせるかのように、加藤が前に出た。

 

「立ち聞きするつもりはなかったんですよ。ただ、マウスピース洗いに来たら先生の指導が耳に入ってきたので様子見に……」

「それならさっさと練習に戻った方がいいぞ。初心者は初心者なりに、経験者は経験者なりに真面目に練習してきたかどうか、あの先生しっかり見極めてくるから」

『は、はい!』

 

 脱兎のごとく逃げ出した一年生達を見やりながら、鎧塚さんが首を傾げた。

 

「名前呼んでたけど……あの子達のこと知ってるの?」

 

 危うくずっこけかけた。つい三日前に顔を合わせたばかりなのに。

 

「腹式呼吸の指導の時に自己紹介してくれたじゃないか。ユーフォの黄前さんとチューバの加藤だよ」

 

 ああ……と、鎧塚さんは他人事のようにうそぶく。

 オーボエの才能ほどに、彼女の記憶容量は深くはないらしい。

 

「ごめんなさい……でも興味ないから」

「興味なくても名前くらい覚えておこうよ……」

 

 そんな印象悪いと、今後の交友にも差し障るぞと言いかけそうになる。

 彼女とは吹部でクラスで、一緒になって一年弱。相変わらず他人との距離の取り方がずれている。最近は大野さんとちょくちょく話をするようになったものの、傘木との交流が途絶えてからの鎧塚さんのクラスでのありようは、良く言えば孤高。悪く言えばボッチ。

 パーリー会議や、他のパートとの練習スケジュールの調整で、四人でいる場から自分だけ席を外す事はしばしばあった。そういう時、彼女が喜多村先輩や岡先輩とうまくやれているのか、時々心配になる。

 

 

 

 低音パートの先遣隊が去った後も、近くの教室で練習しているクラリネットやフルートの一年が姿を現しては慌てて戻っていく。

 岡先輩は、わざと大声を上げている。言い争いになっても、ここまで甲高い声を出す人ではない。滝先生との指導のやり取りを、他のパートの部員が様子見に来ているのを、とうに気付いているのだ。

 廊下にも響くような大声を上げて、部員達に注意を喚起している。滝先生の指導はヤバいぞ、今の内に準備を整えておけと。不器用だが、そんな風に仲間を気遣うところが岡先輩にはあった。

 ただ、その声がだんだんと弱々しいものになっているのが気にかかる。

 

「二人とも、お待たせしました。全員揃ってのトレーニングに移るので戻って下さい」

 

 練習雑談練習雑談の繰り返しで、他の部員をどうこう言えるほど自分達も真面目じゃないな。そんな事を思いながら、波に乗り切れないまま練習を続けていると、ようやく滝先生から呼び出しがかかった。

 教室の中の先輩達は、やはりというか、すっかり憔悴(しょうすい)しきっている。

 机の上に突っ伏して、男子には無いゆるやかに膨らんだ胸部が机の端とこんにちは。春にしては、強い日差しが先輩達の横顔を照らしている。首筋に汗の粒が浮かび上がっているが、それを(ぬぐ)おうとする余力すら残っていないらしい。腕も重力に任せるまま、だらりと垂れたままだ。

 

「うう……」

「……この駄目だしメガネ……」

 

 何が凄いって、そんなボロボロの状態になってもまだ捨て台詞を吐ける岡先輩が。

 受験生なのに素行不良で面接アウトになるんじゃなかろうか。いったん口喧嘩を始めると、先輩は目上の人相手でも一歩も引かない。

 そして先生も、先輩の暴言にもまるで意に介した風でない。

 

「ほらほら、いつまでそんなだらしない格好しているつもりですか。後輩達が見ていますよ。貴方達は、一つ前の先輩達とは違うのでしょう?」

 

 滝先生の発破に先輩達は顔をしかめつつ、亀の如くのたのたとした動作で立ちあがる。

 喜多村先輩と岡先輩だけでない。今の三年生部員の少なくない数が、去年の三年生と同列に扱われるのを何より嫌う。先輩達はその一心で、気力だけで身体を奮い立たせている感じだった。

 

「貴方がたの状況を一通り確認させてもらいましたが……。技術はともかく、四人とも若干集中力に欠ける所がありますね」

「ぐ……」

 

 基礎練ばかりだと、どうしても飽きが来る。

 廊下でついつい雑談にふけってしまった事を、滝先生の耳は聞き逃していない。

 

「そこで、まずは集中力を高める訓練をしましょう。集中力が切れた状態で練習してもしょうがないですからね。まずは楽器を置いて下さい」

 

 指示に従い、それぞれ楽器をスタンドに立てかけて、横一列に並んでいく。

 ちらりと横目で三人の顔色を(うかが)った。疲労感、警戒心、無表情。三者三様の顔つきを、正対した滝先生に向けている。

 

「これから皆さんに、"始め"と合図を出します。その合図を聞いたら、目を閉じて耳に神経を集中して下さい。そして私が"終わり"と言うまで、聞き取った音を覚えておいて下さい。どんな音が聞こえたか、後で発表してもらいますよ」

「……先生は、これからの練習に『サウンドスケープ』を取り入れるつもりですか?」

 

 サウンドスケープ?

 鎧塚さんの口から聞き慣れない単語が出てきた。

 

「その通りです。さすがですね」

 

 強豪校では普通に行われている練習法なのだろうか。滝先生が感心したように(うなづ)いた。

 

「鎧塚さん、サウンドスケープって?」

「身近な環境音に耳を傾けて、集中力と聴力を育成する手法。南中でも基礎練の一環で取り組んでる。滝先生が今言った方法とは、少し違うけれど……」

「特に準備が必要な練習ではありませんよ。今日は一通りやり方に慣れてもらえれば、それで十分です。聞き取った音が何の音か、わからなくても構いません。ゴリゴリとかバサーとか、擬音(ぎおん)のまま答えていいですよ」

 

 直感のままに、割と手軽に出来る練習方法らしい。先輩達もいくらか表情を和ませ、興味津津といった風になった。その様子を見て、滝先生が目を細める。

 

「準備はいいですね。では、始め!」

 

 滝先生はそう言って、パンと手を叩いた。それを合図に、皆慌ただしく姿勢をただし、目を閉じる。室内に、静寂が広がった。

 体内時計で、十秒ほど経過した頃だろうか。風が頬を打った。教室の窓は空けたままだった。天気は良かったが、風は微妙に冷たい。校庭の木の葉も、吹きぬける風を嫌がるかのようにざわめいている。小鳥のさえずる音も聞こえる。

 考えてみると、放課後はいつも部活で音だらけの環境に馴染んでいる。こんなふうに、演奏以外の音をじっくり聞く事は久しくなかった。

 がたん、ごとん。がたん、ごとん。

 列車の通過音。規則正しく刻まれるリズムが、眠気を誘う。

 

 

 ぐぅ~~~~~~~~。

 

 

……。

 

「……終わりです。どんな音が聞こえましたか?」

「……小鳥のさえずりが」

「……電車の通過する音が」

「来南の腹の虫の鳴き声が」

「……」

 

 頬を真っ赤に染め上げ、両腕でお腹を隠す喜多村先輩の様子が、その言葉の真偽をこれ以上ないほど明確に現していた。

 

「喜多村さんは、お昼を食べていないのですか?」

「……サンフェス近いので、ダイエットしてるんですぅ」

「去年のユニフォームを部活の時に着てみたら、お腹まわりが相当怪しかったもんね」

 

 岡先輩が、ニヤニヤしながら言う。

 それは腹式のトレーニングのマラソンもおざなり。重い楽器運びも相変わらず人任せだし、食うもの食ってれば出るところは出るだろう。

 しかし一つ、疑問が残る。

 

「部活の時は先輩達といつも一緒だったのに、そんな暇、いつあったんですか?」

「だから、アンタに一年の腹式指導任せた時」

 

 人に仕事おしつけて、何やってんだこの人達は。具合が悪かったんじゃなかったのか。

 

「……ファゴットのお二人は、もう一度やりましょうか。今度は一人につき最低十種類の音を答える事。重複は許可しません。できなかったら出来るまで繰り返し。いいですね」

 

 滝先生が提案した意趣返しに、自分も鎧塚さんも一も二もなく賛同し、それから十分間、サボリ魔達は徹底的にしごかれた。

 

 

 

 

「では、ほどよく集中力も高まったところで、音大生の海兵隊の演奏を聞いてみましょうか」

 

 そう言って、滝先生は教卓に置いていたノートパソコンを操作し始めた。

 

「今からオーボエの旋律、そしてファゴット、最後に合奏の順で流します。自分達の演奏とどこに違いがあるか、よく見極めて下さいね」

 

 模範演奏を聴いて、曲の雰囲気や流れをつかむ。それは自分にとって、特に真新しいアドバイスという訳でもなかった。ただ、緊張感を失うと、普通に聞いているだけの状態と何も変わらない。全神経を演奏を聴く耳、楽譜を眺める目に集中させる。緩い部活で過ごしている内に、そういうところは若干おざなりになっていた。

 

♪~

 

 ノートパソコンから、曲が流れる。

 こうして楽器別に聞いてみると、息継ぎ、アクセントのポイントは良く分かる。ただ、どうすれば模範演奏のように吹けるか、聞いているだけでははっきりしないところがある。そちらは練習を積むしかないのだろう。

 

「貴方達の演奏は、どこか足りないか分かりましたか?」

「今の段階では……音の強弱の付け方が自分達とは違うとか、それくらいしか分かりません」

「ええ、今はそれだけ分かれば十分です」

 

 滝先生が、僅かに目を細めた。

 

「楽譜の上ではフォルテもピアノも五線譜に記された、ただの強弱記号にすぎません。実際に演奏を聴く事で、音楽記号だけでは分からない所も見えてきます。フォルテではどれくらい音を強く響かせるか、ピアノではどのくらいの弱さが適当か。クレッシェンドやデクレシェンドでの強弱の変化の付け方に違和感はないか。それを把握するだけでも、貴方達の演奏は必ず生きたものになります。いい音を出すには、まずいい音を知る事です。そうやって型を学んで、自分の演奏を作っていってください」

 

 滝先生はノートパソコンからDVDを取り出して、自分に手渡してきた。そして、当面の間はDVDの演奏を繰り返し聞いてみる事、DVDの演奏に合わせてそのまま楽器を吹いてみる事……などを、事細かに注文をつけてきた。

 

「では、ダブルリードパートの指導はここまで。お疲れ様でした。ああ、それと蔵守君。これから私は他のパートの指導に向かうので、貴方も付いてきてもらえますか?」

 

 何故に。

 

「あの、どうして自分が」

「私はこの学校に来て、さほど経っていませんから。部員達の事をよくは知りません。松本先生から一応話は聞いていますが、やはり現場に居る子の第三者視点から、指導の反応を聞きたいのですよ。ダブルリードは一年生もいませんし、貴方はパートリーダーです。後輩の指導代わりのお仕事という事でお願いできませんか?」

 

 まさかこんな形で、新入部員を勧誘できなかったツケを払わされるとは思わなかった。

 そして滝先生は言外に言っている。今こそパートリーダーとしての職責を果たせと。

 

「……分かりました」

 

 嫌な仕事が増えた。それも、肉体的ではなく、精神的に疲労を感じずには居られない仕事になる。理屈では正しくとも、滝先生の指導に他のパートの先輩達が大人しく従うとは思えなかった。場が荒れるのは目に見えている。

 小笠原先輩が務める部長職ほどではないにせよ、パートリーダーの肩書きも、思いのほか重い。

 

 

 

 




写真の中学生みぞれの髪型は、宝島社の「響け!ユーフォニアム」特設サイトにあるみぞれみたいなイメージです




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