北宇治高校ダブルリードパートへようこそ   作:言巫女のつづら

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第14話 クールでドライなユーフォニアム

「サンフェスを人質に取るなんて酷い!」

「ウチらの都合全無視じゃん!」

 

 翌日。自分の教室で開かれたパートリーダー会議は、滝先生の一方的な通知に対する憤懣(ふんまん)やるかたない先輩達の激高で幕を開けた。

 私の時間を無駄にするなと、のたまった翌日に悪口雑言が飛び交う会議なんてやっていると知ったら、滝先生も顔をしかめるに違いない。ただ、反発する先輩達にも一応の言い分はあった。練習期間の問題だ。

 北宇治の吹奏楽部の場合、新入生の体験入部期間が終わって、本格的に部活動が始まるのが四月中旬。そして今年のサンライズフェスティバルが開催されるのは五月頭。与えられた時間は半月程度。その間にサンフェス用の曲を完璧に暗譜(あんぷ)して、行進の練習もして、片手間に初心者の指導もやらなければならない。特に、行進の方は去年ほとんどやっていない。練習がスムーズに進むなんて、誰も思っていないだろう。練習期間が短くなればなるほど、サンフェスで演奏する曲の選択肢も狭まっていく。気ばかり焦って海兵隊の練習に身が入らないのも無理は無かった。もし事の初めから、サンフェスの練習に取り組む事になっていれば、先輩達だってもう少し真面目にやっていたはずだ。

 

「でも、滝先生に逆らって練習拒否したら、本当に出場できなくなるかもしれないよ。それでいいの?」

「それに、サンフェス出ないのはあくまで一週間後の合奏の内容によっては、という事だし」

「こんな曲の練習に、これ以上時間使ってられないじゃない!」

「そうだよ香織。去年の二の舞になるよ」

 

 中世古先輩とナックル先輩が、やんわりと妥協を促すが鳥塚先輩達はおさまらない。二人もつらいところだろう。部活の現状に思う所はあっても、頭ごなしに直言すれば却って反発されるだけ。それを分かっているので、発言もなあなあになる。

 

 どうにも意見がまとまらない。そう判断した中世古先輩は、しばしの休憩を提案して皆の頭を冷やさせた。円卓を形作るように並べられた上座も下座もない九つの座席から、各パートのリーダー達が一息つきに出払っていく。

トランペットと低音、そしてダブルリードのパートリーダー……つまり自分を残すのみになった段階で、小笠原先輩が深いため息をついた。

 

「はぁ……。このままじゃあどうにもならないよ」

「そうだね……。蔵守君、何かいいアイディアないかな? 今は私達四人しかいないから。思ってる事、遠慮なく言っていいよ」

 

 書記として会議の内容を……書き留める意味もあるのか分からない愚痴と慰撫(いぶ)の応酬を、惰性でノートに(つづ)っていた自分の筆が思わず止まった。

 二年生のパートリーダーは自分一人なので、パーリー会議はただでさえ居心地が良くない。おまけに昨日があんなだったので、先輩達のほとんどがピリピリしている。会議中、小笠原先輩から意見を求められても、興奮状態の先輩達を刺激しないよう、煮え切らない発言に終始するしかなかった。

 中世古先輩には、それを見透かされていたのかもしれない。小笠原先輩もそうだねと相槌を打ってくる。休憩を取る事を提案したのは、意見がまとまらないからだけでなく、自分の本音を引き出そうとしてか。考え過ぎかもしれないが、一息つきに席を立つとしたら、書記の自分が最後になるはずだ。

 二人が、どういう意見を求めているか、しばし考えた。

 滝先生は、この吹部を鍛え直せると言っていた。お手並みを拝見する意味も込めて、今は先生の指示に従った方が良い。頭の中ではそう結論づけていたが、それを口にしても二人と同じ意見を主張する事にしかならない。それでは駄目だから会議がまとまらないのだ。

 ノートとにらめっこしていた頭を上げて、中世古先輩の方に目をやった。(つや)やかな黒髪の中に、今まではなかったはずの若白髪が数本見える。

 部活での気苦労が原因と断じれるほどに、先輩は精力的に吹部の立て直しに取り組んでいた。先輩が会計係になり、財布の紐を縛るようになって、不健全な部費の流用はすっかり影を潜めている。部費は金庫の中に保管され、鍵は先輩が、暗証番号は副顧問の松本先生のみが保有し、二人の立ちあいのもとでなければ利用できない。消耗品の購入の度、職員室にお伺いを立てる事になる。先生からついでに小言をもらう事が何度もあったので、このやり方は部内での評判は良くなかった。

 それでも去年の事を思えば、中世古先輩がそうしたくなる気持ちは分かる。だから面と向かっては、何も言わなかった。皆が皆、品行方正なら面倒な部費の管理をせずに済むのだ。

 

 部費。

 そこまで物思いに(ふけ)って、ひとつ考えが頭に浮かんだ。

 

「あまり、気乗りしない提案になりますが」

 

 そう前置きして、滝先生の意向を無視して部員達だけでサンフェスに出場してはどうか、と先輩達に告げた。つまり、ストライキである。

 どんな曲でサンフェスに挑むにしても、ダブルリードは演奏する立場から離れる。他のパートに先んじて、片手間に行っていたサンフェスの準備の最中、目を通した参加規程。そこには顧問に関する類の文言は、一切言及されていなかった。

 それを伝えながら、鞄から取り出した今年のサンフェスの資料を先輩達に手渡すと、二人とも食い入るように資料を見つめ出した。

 

「勿論その場合、滝先生のサポートは期待できないので、出場手続きとかは全部自分達でやるしかないですね」

「衣装の調達や参加書類の作成、当日の足となるバスや楽器を運ぶトラックの予約、その他諸々の事務手続き。全部私達でこなさなくちゃいけないのかあ。うーん」

 

 小笠原先輩が頭をかかえるが、そっちの方はあまり問題とは思わない。かなり面倒な作業になるのは確かだが、吹部には新入部員を含めて六十人以上の人手があるのだ。全員に仕事を割り振れば、一人一人の負担はそこまで重くはならない。やってやれない事でもないだろう。参加費用も、会計係の中世古先輩が出所となる部費をしっかり管理しているので問題無い。もともとは吹奏楽部員のお金なのだ。松本先生にも嫌とは言わせない。無駄遣いしなくなったので、部費の蓄えは十分ある。

 そう説明すると、小笠原先輩も幾分か落ち着きを取り戻したようだった。

 

「でも……。私達だけでサンフェスに出場する事を勝手に決めたら、滝先生いい顔しないよね」

「はい。だから、これは最後の手段です。当面は滝先生の指示に従って、どうにもならなくなったら、こっちにも考えがあるぞと、アピールするしかないかと」

 

 こんな脅迫まがいの提案をする事に馬鹿馬鹿しさを覚えたが、ある程度は鳥塚先輩達の意向に沿う提案をしなければならない。そうしなければ、まとまるものもまとまらない。

 

「田中先輩の方がいい知恵、出してくれるんじゃないんでしょうか」

 

 滝先生に従って、海兵隊の練習を続けるにしても部員から不満は出る。サンライズフェスティバルに備えて、マーチングの練習に移るにしても先生の不興を買う。どちらに転んでも一悶着起きそうなので、どちらに転ぼうか、頭を悩ませるだけ時間の無駄に思えた。もう成り行きに任せて、結果を素直に受け入れるしかない。

 そんな事を考えながら、先程の会議では自分と同じく中立派に属し、隣の席で呑気に午睡(ごすい)を楽しんでいる副部長に意見を振った。それにしても、今日の田中先輩は全然発言していない。会議中も頬杖をついて天井をじっと眺めているばかりだった。皆の発言をちゃんと聞いてたのかすら疑わしい。部内では特に親しくしている、ように見える中世古先輩と小笠原先輩が困っているのだ。普通に考えればフォローに回ってもよさそうなのに。クールというか、ドライというか。

 そう思っていたのは自分ばかりではないようで、しびれを切らしたかのように小笠原先輩が口を開いた。

 

「ダメダメ。あすかったら、昨日の帰り道で会った時は私の忠実な部下とか言ってたのに、会議ではロクにサポートしてくれないだもん」

「自分のあずかり知らぬところで、二人は裏取引でもしてたんですか?」

「私もいたんだよ?」

「吹部最強トリオでも、処理に困る問題を振られても」

 

 吹部一の実力者と、吹部一の人格者と、吹部の部長。この面子でも手に余る問題を、一体自分にどうしろと。

 

「昨日の合奏の後に、あすかが助け舟出してくれたのも、私の事よりユーフォの練習時間割かれるのが嫌だっただけでしょ。部長を頼まれたときだってそうだよ。私よりあすかの方が優秀なのに、部長の器じゃないってあすかは断ったけれど本当は面倒なのが理由だってわかってるんだから! あすかは頭がいいから、いっつも安全な立ち位置を確保して気ままに傍観者のままでいる。それがあすかなの! 香織はともかく、なんであすかみたいのが男子に人気なのか訳わかんないよ! 顔なの? それとも体なの?」

 

 小笠原先輩の愚痴の内容も、約束を破った恨み節から私怨に変わりかけている。同意を求めるというより、憂さを晴らす為に文句を言う事自体が目的になってきた。いつもの事なので、はあそうですねと適当に相槌を打つ回数が両手の指では足らなくなった頃。

 

「……ぐちぐちうるさい女子が、男子に好かれる訳ないでしょーが。気ままな傍観者でごめんねぇ」

 

 何時の間にやら起きていた田中先輩が、きっぱりと言い切った。どうやら狸寝入りしていたようで、先程の悪口を一言一句違いなく(そら)んじている。狸の皮を被った虎の尾を踏んだ小笠原先輩は、あたふたするばかり。

 

「ででもあすかのそういうところ、ストイックでちょっと格好いいなとは思ってるし。というかあすかって美人で文武両道だから何やっても絵になるし。ああすかの何考えてるかわからないとこもミステリアスで男子を惹きつけるのかなあ!」

「今更おだてても遅いわぁ!!」

 

 もはや鬱ってる場合でもないようで、小笠原先輩が椅子から立ち上がって逃げ出した。怒鳴り声をあげながらその後を追う田中先輩。校則を心得ている良識的な先輩方は、廊下は走らず教室内を駆け回る。舞い散る(ほこり)

 ……ここ、一応自分の教室なんですが。後始末するの自分なんですが。

 

「何かあると、時々ネガティブに走っちゃうのが玉にキズだけど」

 

 鬼ごっこを続ける二人の様子を、苦笑しながら眺めていた中世古先輩が呟いた。

 

「なんだかんだいっても、部長役を今日まで引き受けてくれたんだし。晴香は人一倍責任感あるから、今のままでも十分魅力的だと思うけどなあ」

「男子目線から言わせてもらうと、短所のある女子の方が完全無欠な女子よりとっつき易いし、庇護欲を掻き立てられる所があるんですけどね」

 

 美人かつ才媛な田中先輩と中世古先輩。二人みたいな高値の花と面と向かっていると、どうしても気後れする。

 

「あと、昔のトラウマとか暗い過去を背負っているのが、短所を生んだ理由になると一層おいしいかと」

「あ、それ分かるよ! 少女漫画でもそういう展開、定番だよね。家庭環境に問題あって荒んでいたクラスの男の子を、犬猿の仲だったヒロインが真相を知って優しく癒していく、みたいな」

「中世古先輩は何か知ってませんか。部長が闇落ちしがちなのを正当化できそうな暗い過去とか」

「うーん……。晴香とは中学違うけど、同じパートの上級生からコンクールメンバーの席を奪った事がきっかけで、人間関係がうまくいかなくなって心に傷を抱えたり。それで心機一転、高校デビューする為に同じ中学の子が少ない北宇治にやってきたとか。吹部的にはありそうだね」

「中学三年、最後の集大成の年。練習に励みに励んだのにコンクールで金賞取れなかったばっかりに、捻くれたまま北宇治に流れ着いたとかもありそうですよね」

 

 傘木とか、鎧塚さんとか。

 

 中世古先輩もこういう話題が好きなのか、話が盛り上がってきたので二人で思いつくかぎりの展開を語り合っていると、背後からぬっと忍び寄る二つ結びの暗い影。

 

「二人揃って私の過去を勝手に捏造しないでよ!!」

『!!』

 

 小笠原先輩から、二人仲良く後頭部にデコピンを見舞われた。痛い。

 いつの間にか鬼ごっこは終わったらしい。

 

「香織にも蔵守君にもがっかりだよ! 北宇治の吹部を、そんなはぐれ者の行き着き先みたいな印象持ってたなんて!」

「全くだよ。この子にそんな都合のいい設定があるわけないでしょーが。だいたいね。北宇治の吹部がそーいう中学生にして負け組に振り分けられた連中の集合先なら、そこからあぶれた希美ちゃん達は負け組の中の負け組じゃない!」

 

 ……不本意な退部の後も、田中先輩におちょくられる傘木達が不憫でならない。いや、冗談だと分かっているけど。ついでに止めを刺された部長の再起動は中世古先輩に任せて、かつての同胞達の擁護を試みた。

 

「負け組のままでいるのが嫌だったから、早めに見切りをつけたんじゃないんですかねぇ……。それぞれ新天地でうまくやってるようですよ」

 

 復帰の誘いをかけていた大野さんから、退部した面子の近況はおおかた聞いている。

 彼女達が退部したのが去年の六月上旬の事、結局吹部には二ヵ月足らずの在籍で三行半(りえんじょう)を突き付ける事になってしまった。それからは軽音部に移籍してインストバンドを組んで、それぞれにやりがいを見出している。少ない人手でやれる分まとまりもあるようで、人数ばかり多くてもチグハグな吹部とは、天と地ほどの開きがあった。

 一人市民楽団に移った傘木の動向はよく分からない。彼女が忙しい以上の事を鎧塚さんが話さないので、こちらからもそれ以上聞いていない。

 

「というか、田中先輩が狸寝入りしてなければ、話が変な方向に逸れる事もなかったんですが」

「悪いけど、結果が見えてる会議に加わるほど私は酔狂じゃないの」

 

 その一言で、先程までの弛緩(しかん)した空気が一気に張り詰めた。自分も含めた、この場にいる全員の視線が、机にもたれかかる田中先輩に集まる。

 

「だってそうでしょ? 滝先生のやり方に反感を持っていても、なら私達で自主的にどうこうしようって意見、三年生からはだーれも出てこない。昨日からみんなの意見を聞いてても、どこもかしこも愚痴ばかり。技術的な指導を適度にしてくれて、私達のやり方を束縛しない顧問でいてほしい。みんなそう考えてる。だから、さっきの蔵守の提案も上手くいかないよ。やらなくてもいい仕事が増えるし、面倒抱え込むだけだから」

 

 にわか作りの提案で、名案だとはハナから思っていない。駄目だしされても別に腹も立たなかった。むしろ、自分が腹の中で思っていた事を表に出してくれたのが、心地よくすらある。

 

「それは、今すぐはみんな面倒くさがって受け入れないかもしれないけど。最後の手段としてなら、確かにありだと思うよ。来週の合奏まではとりあえず練習して、それでも滝先生からサンフェスの出場許可が下りなければその時こそ抗議の意味を込めて」

「来週まで待ってたら、もっと面倒くさくなるって言ってるの」

 

 田中先輩が、薄ら笑いを浮かべて小笠原先輩の言葉を切った。

 

「一週間経ったら、もう五月だよ? 期間が短くなればなるほど、一人一人に割り振る作業も重くなる。締切だって短くなる。ただでさえ少ない残り時間を無駄にするだけ。それくらいなら今すぐ蔵守の提案を実行できるように、ヒロネ達を説得した方がずっと楽じゃない」

 

 理屈では、そうだった。それが不可能な事も分かっている。

 

「だけど自分達から何かやり出すほどの気力もないから、今すぐのストライキなんて同意は得られない。始めから答えは一つしか用意されてないの。当面は滝先生の方針に従うしかない。違う?」

「それで来週の合奏が、駄目だったらどうするのよ?」

「そうならないように、気合い入れて練習するしかないね。もともとそんな難しい曲じゃないんだし、私達もパーリーとして、キリキリ練習させればなんとかなるっしょ」

 

 練習は、させなかったのではなく、させられなかったのだ。

 無理に練習を強制すれば、また去年の様に刺々しい空気になりかねない。楽器に親しめれば、それでいい。そう思っている人も、少なくない。そういうのもひとつの吹部のあり方として、間違っているとはいえない。

 ただ。今は、部員達の鬱憤が滝先生に集中している。やる気ある部員とやる気無い部員のぶつかり合い。という去年の形から、顧問と部員のぶつかり合い。という形に変わっている。部員同士の溝を作らずに、緩い吹部の現状を締め付ける好機なのは間違いなかった。

 

「ヒロネ達に、私と蔵守の提案どっちがいいか。多数決取らせてもいいよ? ストライキするよりは楽で済むと思うけどなあ、私は」

「そうですね。鳥塚先輩達も一息ついて頭が冷えたと思います。きっと田中先輩の提案に賛成してくれますよ」

 

 ほんとうのところ、自分の提案に(かぶ)せる形で「こちらの方が楽じゃない?」と相手を懐柔するやり口は、釈然としない。意見があるなら、はじめから言えばいい。田中先輩に都合よく利用された。そんな気がしないでもないが、ストをやらずに済むなら、それに越した事は無い。

 

「そうそう。蔵守もさっきの意見が採用されるかどうかなんて、どうでもいいと思ってるんでしょ?」

「二年生なので。求められれば意見は出しますが、最後の判断は先輩達に従います」

「そうやって丸投げできるのも、どうでもいいと思えるからでしょ。この狸め」

 

 なら田中先輩はさしずめ狐ですね。とはさすがに口には出さず。皮は狸で中身は虎。

頭脳は狐と、本日は実に凶悪なオーラを(かも)し出している。(ぬえ)かアンタは。

 

「まあ、意見を出してくれた後輩の顔を立ててあげようとするのが、晴香の優しいところだけどねー」

「うるさいなー」

 

 言い負かされてふて腐れていた小笠原先輩も、優しいと言われていくらか機嫌を直したようだった。顔を赤くして、照れているのが隠しきれない部長に田中先輩がじゃれつく。

 

「もー。可愛いんだからー」

「いいなあ……、晴香は」

 

 そんな二人の様子を何故か羨ましそうに見つめる中世古先輩と、白けた視線を向ける自分に気付いて、田中先輩が向き直った。

 

「ちょっと喋り過ぎちゃったかな。蔵守、陰口っぽくなっちゃた所はオフレコでお願いね。無駄に部員同士で波風立てたくないし」

「……言われなくてもバラしたりしませんよ」

 

 ため息をつきながら答えた。上級生すら手玉に取る田中先輩相手に、自分ごときが太刀打ちできるはずもない。この人を敵に回す方が、鳥塚先輩達をまとめて敵に回すよりずっと恐ろしかった。

 それにしても……。

 田中先輩の顔、から視線を上にずらして頭を見た。

 この人の頭は、一体どういう構造をしているんだと思う。

 長瀬さんの楽譜の時とは違う。今回は小細工する時間も無かった。無いはずだ。だから、ただの偶然に違いないのだ。田中先輩をアシストするような提案を、都合よく自分が出す事まで、予想できるはずもない。超能力者じゃあるまいし。そもそも自分が出した提案はその場の思いつきだ。

 しかし、結果だけ見ると、どちらも田中先輩の都合のいい方向に事が進んでいる。長瀬さんの楽譜の時は、先輩達の弱みを握って、低音パートの問題を一応にせよ解決した。今回は、自分の提案を間に置く事で、労せずして己の提案を通した。

 悪い人ではない。それは吹部で約一年間、一緒に活動して分かっている。

 しかし、付き合いが長くなるほどに、(そば)に居たくないという気持ちが強くなる。嫌悪感は無い。自分のやる事為す事全て見透かされているのではないか、そういう恐怖感を覚えてしまうせいで。

 

「よろしい。お姉さんとの約束だゾ?」 

 

 かと思えば、今みたいに茶目っけのある眼を向けてくる。

 冷徹な田中先輩。茶目っ気のある田中先輩。女は二つの顔を持つと言うが、ここまで両極端な人はそうそういないだろう。というか、いてほしくない。

 こういう個性的な性格を形成するあたり、暗い過去を持っているとしたら、それは小笠原先輩ではなく、むしろ田中先輩のほうではないのか。

 

 無駄に長引く会議に抗議するかのように、壁の時計は二つの針でへの字を作っていた。

 

 


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