北宇治高校ダブルリードパートへようこそ   作:言巫女のつづら

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第13話 歯に衣着せないコンダクター

 一夜明けて、海兵隊の合奏当日。今日はいよいよ本番という事もあって、放課後の音楽室に向かう途上で見かける面々はどれも吹奏楽部員ばかり。みんな早めに部活の支度に取り組もうとしているようだった。

 階段を駆け上がった先の廊下では、一年生部員達が音楽室から机を運び出しているのが見える。合奏に先立って音楽室のスペースを確保しているのだろう。部活前の雑用という事で、去年は自分達も通った道だ。

 懐かしさに目を細めていると、うんしょうんしょと机を運んでいた一年と目が合った。風になびく栗色の長髪。本人の希望通りシンバル担当に収まった井上だ。

 

「あ、蔵守先輩こんにちは」

「ああこんにちは」

 

 何もおかしなところは無い社交辞令。しかし何故か井上の機嫌を損ねたようで、彼女は机を置いてジトっとした視線を向けてきた。

 

「なんですか、その芸の無い挨拶は。面白くなーい」

「ただの挨拶にどんなリアクションを期待してるんだ君は」

「楽器振り分けの日みたいに、笑いを取ってくれないとつまんないですぅー。私達関西人なんですから!」

「……関西人というより大阪人の発想だな」

 

 そういえばあの時も愉快な先輩とか言ってきたな。と思い返して首を捻った。どこら辺が彼女の笑いのツボに入ったのだろう。にわかに好奇心が湧いてきたので尋ねてみたくなった。

 

「それにあの時、別に笑いをとってたつもりはないんだけど」

「またまた御冗談をー! 高校生にもなって人前で風船膨らましてる男子って普通いませんって。もうその存在自体がギャグです」

 

 高校生にもなって、風船細工貰って喜んでた彼女にだけは言われたくない台詞だ。確かにちょっと子供っぽかったかもしれないが。

 

「いや、あれは勧誘ついでにやってただけだから。言われなくても普通は人前でやらないから」

「鈍いですねぇ。新入部員には吹奏楽知識ゼロの初心者もいるじゃないですか。吹奏楽部員が風船膨らます事は変じゃないですけど、風船膨らましてる吹奏楽部員って部外者から見ると変なんですよ。だから初心者の子、だーれもダブルリードパートに寄りつかなかったんじゃないんですか?」

「なん……だと……」

 

 衝撃の発言に打ちのめされて、思わず背後の壁に背をついた。

 そう言えばあの時、ちらちら様子を窺っていた何人かの一年生の、自分を見る目がどこか生温かったような。興味はあるけど変な先輩がいるパートはちょっと、と思われて敬遠されてたのか……? あれ、もしかして自分って凄い戦犯だったり?

 

「と、ところで井上」

 

 合奏前からメンタルがボロボロになりかけそうになるが、彼女に注意しておかなければならない事がある。冷や汗をかきつつも気を取り直して話しかけると、彼女は露骨に顔をしかめた。

 

「わ。もう先輩風吹かせてるこの人。まだ打楽器(パーカス)の先輩達にも呼び捨てされた事ないのに! まあ先輩ですからいいですけど。それでご用件は何ですか?」

「その風船の件だよ。同級生達に面白おかしく吹き込んだだろ。おかげで変なあだ名が定着しちゃったし、どうしてくれるんだ」

 

 そもそもの原因を作った事はあえてスル―。

 

「私は何もしてませんよ。ホルンの子と話した時にちょっと先輩の事喋っただけで。そしたらその子があっという間に広めちゃって……。あだ名になったのは私のせいじゃないですー」

 

 言い訳がましく呟いて、井上は背中の机にもたれかかった。

 噂がひとり歩きしているのは、彼女にとっても不本意だったのかもしれない。とはいっても噂なんて、たいていそんな感じに広がるものだろう。

 

「そんな事より、足元に火がついてると思いますけど。今日の合奏、大丈夫なんですか先輩?」

「……ナックル先輩が、何か言ってた?」

「新入部員の指導もあって今は忙しい。俺は他のパートの面倒まで見てる余裕ねーぞ。って」

 

 苦虫を噛み潰したような表情を浮かべるあたり、井上も合奏の見通しを危うく感じているのだろう。そしてナックル先輩はサジを投げたか。最上級生の先輩がフォローする気がないのなら、二年の自分が口出ししたところで結果は見えている。無駄に反感を買ってはいられない。

 

「そう。それなら井上も、自分自身の仕事をこなす事だけ考えればいいよ」

「……先生から何か言われると思いますよ。一度痛い目を見た方が良いって事ですか?」

 

 頼りにならない先輩達だ、と言いたげな様子の井上から視線をそらした。

 今以上に状況を改善できるものなら、はじめから部長達と相談してなんとかしている。

 多少は妥協しなければならない。本音を隠さずぶつかり合えば、去年みたいに揉めてみんな傷つくだけだ。温度差なんて、どこにでもある。いちいち目くじらを立てていられない。

 コンクールで活躍するのを目指す事ばかりが、吹奏楽の楽しみでもないはずだ。そう自分に言い聞かせた。

 

 

 

 

 井上との雑談からほどなくして、音楽室に部員全員が勢揃いした。

 まずは滝先生の指示の元、合奏に先立って軽くチューニングが行われる。微妙に音がずれていた。それでも、去年の荒波のごとくうねりまくるチューニングのような何かと比べれば、格段の進歩といっていい。

 ここまでは良い。ここまでは。

 

「では、最初から一通りやってみましょうか」

 

 滝先生の腕が上がり、みんな一斉に楽器を構える。それを見届け、先生は手を振り下ろした。

 

「さん、しっ」

 

♪~ スーッ! ♪~ スーっ!

 

 合奏が始まってまもなく、フルートの特徴的な息漏れ音が耳にこびりついた。他の木管楽器がリードやマウスピースを口に咥えて演奏するのに対して、フルートは吹き込み口に下唇を乗せるような形で演奏する。だからどうしても息漏れは発生してしまうが、少しあからさま過ぎだ。周りの音に負けまいと、必要以上に吹き込み口に息を吹き込んでしまっている。

 

キィィィィー!!

 

 黒板を引っ掻いた様な、耳障りなノイズが隣のアルトサックスから飛び出た。口に力が入り過ぎで、リードがうまく振動していない。

 思わず顔をしかめていると、後方のトロンボーンが音をはずした。これはもう耐性がついている。

 構わずオーボエと唇をつなぐリードに息を吹きこんで演奏を続けたが、今度はホルンがリズムを崩して他のパートの混乱を誘う。

 土台をしっかり支えてきた低音パートと打楽器(パーカッション)も、その上ではしゃぎまくる中高音域の楽器達につられて調子を崩した。

 

「はい、そこまで。皆さんの実力は、よく分かりました」

 

 どう見ても合奏の体を為さない状況に陥っている。そう判断したのか滝先生が指揮を止めた。

 

「技量も(つたな)ければ、一生懸命さも無いので感動もできない。そんな合奏ですね」

 

 滝先生は穏やかな表情を浮かべたまま、率直かつ簡潔な評を述べた。温厚な人ほど逆鱗に触れた時の怒りは凄まじい。どんな罵声(ばせい)が飛んでくるかと内心ビクついていたが、滝先生は叱責する時も冷静に言葉で相手を追い詰めるタイプらしい。これはこれで、胃が痛くなってくるが。

 滝先生は、各パートのリーダーを槍玉に挙げて、滔々(とうとう)と問題点を指摘し始めた。

 

「……最後にクラリネット。鳥塚ヒロネさん」

「は、はいっ」

 

 鳥塚先輩がびくっと身を縮めた。

 その様子が、日頃から自慢している小顔と、もみあげを輪郭に沿って垂らした触角ヘアーとあいまって、三年生にしては小柄な先輩をいっそう幼く見せている。

 

「弱いです。音が全然弱い。クラリネットは人数が多くてまとめるのが大変なのは分かります。ですが貴方がやるべき事は、パートメンバーの尻拭いではなく、尻を叩く事だと思いますよ」

 

 瞬間、鳥塚先輩が凍りついた。譜面台の隙間から、スカートを握りしめる先輩の左手が、がくがくと震えているのが見える。

 尻拭いって何の事? と音楽室のそこかしこでひそひそ声が聞こえた。

 

「尻拭いだなんて……私はそんなことっ」

「ではクラのところ、一人ずつ吹いてもらえますか?」

「……」

「どうしました?」

 

 どうやら滝先生はクラリネットの音が弱い原因について、目星は付いているようだった。

 鳥塚先輩は無言のまま、涙目になってうつむいている。滝先生は彼女に向かって呆れたようにため息をつくと、矛先を小笠原先輩に転じた。

 

「部長」

「は、はい!」

 

 小笠原先輩の震え声が後ろから聞こえてきた。これから我が身に降りかかるであろう叱責を恐れて、彼女が青ざめていくのが振り返らずとも分かる。

 

「私、言いましたよね? 海兵隊を四日で仕上げて下さいと。自信がないのなら、部活の時間外に自主練してよいと」

「はい……」

「その結果がこれですか」

「すみません……」

 

 部長である貴方の管理不行き届きですよ。とでも言いたげな滝先生の言葉に小笠原先輩の声が萎んでいく。

 矛先が自分に向かってこないように頭垂(こうべた)れたまま、視線を左右に泳がせた。さすがに誰もがうつむいて、小笠原先輩を視界に止めようとしない。本来自分達が受けるべき叱責を、部長に被らせている後ろめたさがあるのだから。

 

「皆さん、合奏って何だと思います?」

 

 皆で一緒に演奏する事。そう返したところで、全然一緒に演奏出来ていませんよ、と叱咤されるのは目に見えている。藪蛇になるのを恐れてか、滝先生の問いかけに誰も答えようとしなかった。

 

「私は、合奏とは聴いてくれている人達に感動を与える時間だと思っています。音というのは、出た瞬間にどんどん消えていってしまいます。そして合奏が終わった後、物理的には何も残りません。だけど心には不思議な充足感で包まれる。そういう時間であるべきです」

 

 音楽室を包む嫌な沈黙を破って、滝先生は言葉を(つむ)いでいく。今の合奏が、先生が考えているものに(かす)りもしないのは明らかだ。

 

「全国に行くためには、技術は勿論ですが観客に感動を与える合奏ができなくてはなりません。だからこそ一回一回の合奏を、常に本番のつもりで全力投球でやってほしいのです。下手なら下手なりに、一生懸命さを見せて下さい」

 

 滝先生が言う、一生懸命さを見せろとは何を指しているのか。思い当たる所があるのだろう。皆、居心地の悪そうな表情を浮かべている。

 

「今日まで、各パートの練習風景をそれとなく観察させてもらいましたが、短い時間を惰性で練習して過ごしているだけで、一生懸命さのかけらも見えません。長々と練習したくないのなら、その分集中して取り組んでもらわないと困ります。貴方達は全国へ行くと決めたのですから」

 

 やはり滝先生に練習の様子を見られていたのか。

 おかしな行動を取ったつもりはないが、まだこの先生の気性を把握しきった訳ではない。不安は残った。

 

「この演奏では指導以前の問題です。私の時間を無駄にしないで(いただ)きたい」

 

 口調は淡々としているが、容赦のない滝先生の言葉に誰もがうなだれた。顧問からの叱責なんて中学の吹部では見慣れた光景だったが、二年間ぬるま湯に浸かっていた三年生達には相当こたえたようだった。泣きだしてる人までいる。

 

『……』

 

――下手なのは自覚している。練習量が足りないのも分かってる。でもサンフェスを来月頭に控えた忙しいこの時期に、本番で使うかどうかもはっきりしない曲の練習で時間を潰さなくてもいいじゃないか――

 全国大会出場を目標にした手前がある。そう言いたくても口には出せない同級生や先輩達の、鬱屈(うっくつ)した心の声が聞こえてきそうだ。

 

「来週、再度海兵隊の合奏をします。それで及第点にも届かないような出来なら、遊んでいる暇もありませんね。サンライズフェスティバルも出場を辞退して、じっくり一からコンクールに向けて鍛え直しましょう」

 

 その言葉に、思わず冷や汗が出た。

 不出来な合奏についての叱責は仕方が無い。過失は自分達にあるのだから。

 だがそれに重ねて、このままならサンフェスには出場させないという滝先生の言い草は、さすがに面白くない。昨年度の出場では精彩を欠いたものの、サンフェスは基本的にお祭り。下手な演奏でも愛嬌(あいきょう)で済まされるし、可愛い衣装を着られる数少ない機会とあって、楽しみにしている女子は多いのだ。

 案の定、事ここに至って大半の部員達は表情から不快感を隠そうともしなくなった。

 

「なによアイツ……」

「サンフェス出ないとか、ありえない!」

 

 滝先生が音楽室から姿を消すと、練習不足が招いた過失でもある事も忘れて三年生達は先生への文句を言いつのった。一年生達はそんな雰囲気に呑まれておどおどするばかりだ。

 

「はいはい! この大人数で文句言いあっても収拾つかないでしょ。先生に駄目だしされた部分も直さなくちゃいけないし。練習ついでにそれぞれのパートに分かれて、意見まとめて明日のパーリー会議で話し合おうよ」

 

 普段はみんなをまとめる田中先輩の鶴の一声も、すっかり悪くなった部の空気を覆すには至らない。もう練習する気力も沸かないのか、各自が練習に使っている空き教室に戻って話合うのも手間なのか、みんな音楽室のそこかしこに固まって愚痴るばかりだ。

 

 負の空気が充満する音楽室にこれ以上居たくない。ひとり席を立って音楽室の扉を開いた。隣の席に座っていた鎧塚さんの視線を背中に感じる。何か小声でつぶやいてきたような気もしたが、振り返りはしなかった。

 

 

 

 

 やはり傘木達が退部したあの時に、自分も辞めた方がよかったのかもしれない。

 

 パート練習に使っているいつもの教室に移動しながら、そんな事を思った。廊下に響くのは自分の足音ばかり。耳障りで仕方が無い。

 

 傘木達のやり方では上手くいかなかった。だからこそ小笠原先輩や中世古先輩達に従って、なるだけ穏便な手段で吹部の改善に取り組んできた。まだまだ問題はたくさんあるが、そのかいあって去年とは見違えるように平穏な吹部になったのに。

 それをあの先生は引っ掻き回してくれた。女子が多い上に、これまで緩い環境だった部活なんだ。デリケートな指導が必要なんて事くらい、大人なら言われなくてもわかるだろうに。

 賽の河原で少しづつ積み上げた小石を鬼に崩される気分とは、こういうものなんだろう。これでは何のために、今日まで吹部に居残ったのか分からない。

 

 人っ子一人いない教室にたどりついて、誰もいないのを確認してから大きなため息をついた。去年のように荒れること確実な明日からの部活を思うと、気が重い。

 こういう時は、自分なりの方法でストレスを発散した方がいい。鞄から取り出した【風笛】の楽譜を譜面台にセットして、オーボエをじっと見つめた。

 

 黒色の管体は、古びてところどころ色あせている。十年以上前、北宇治の吹部が全国大会常連だった頃に調達されたと聞いているが、無名になってからは(ろく)に扱われる事もなかったらしい。楽器棚の奥に埋もれたオーボエのケースを初めて見た時は、何とも言えない気分にさせられた。

 

 ……このオーボエとも、今後の部活の荒れ次第ではお別れする事になるかもしれない。

 それなら、今は悔いのない演奏をしよう。

 一切の雑念を頭の隅に追いやり、オーボエに取り付けたリードを(くわ)えて、思いっきり息を吹き込んだ。

 

♪~

 

 ……去年、傘木と初めて会った時の事が走馬灯のように浮かぶ。

 彼女は、フルートで同じ【風笛】を演奏してみせた。

 それからというもの、この曲を吹いている時は、いつもあのフルートの音色を思い出してしまう。

 あの日あの演奏を聞くまでは、自分もそれなりに吹けていると思っていたから。

 だけど彼女の演奏を聴いてみると、自分の演奏にはそこかしこに(ほころ)びがあるのがはっきり分かる。

 自分もあんな風に吹いてみたい。

 勿論、オーボエとフルートではそもそもの音色が違う。真似をすればいいという物ではない。それでも、もっと優しく、柔らかい音色を。そんな思いが頭にこびりついて離れなかった。

 

 普段は適当な所で切り上げるのだが、鬱憤(うっぷん)が溜まっていたせいかもしれない。珍しく最後まで吹きあげた時、背後から声がした。

 

「いい音色ですね」

「?」

 

 振り返ると、いつのまにか滝先生が教室の扉を開けて(たたず)んでいた。

 

「ええと、貴方は確かダブルリードのパートリーダーの」

 

 顧問になったばかりで、部員の名前と顔が一致しないのだろう。部員達の情報でも記載してあるのか、滝先生は手に抱えた大学ノートをめくりながらダブルリードの子は……とつぶやいている。

 

「……二年の蔵守です」

「そうでした。なかなか堂に入った演奏でしたが、蔵守君はいつもその曲を練習しているのですか?」

「はい。合奏よりも一人でオーボエを吹いている方が好きなので。今日みたいに最後まで吹くのは気分が乱れた時、気持ちを切り替える為にですが」

「なるほど。確かに音楽にはリラクゼーション効果がありますからね」

 

 気分が乱れたのは先生のせいでもあるんですよ、と暗に匂わせたつもりだが通じないようだ。

 

「海兵隊を演奏している時よりもずっと表情が輝いていましたよ。曲選びを誤りましたかね」

 

 さして悪びれもせず、滝先生はそんな事を言い出した。確かに気合いを入れていたが、普段とそこまで変わっているとは思えない。

 

「演奏している時の表情を見て、貴方は本心から音楽が好きなんだなとわかりましたよ。思い出づくりを希望したのは、練習が厳しくなる事で音楽が嫌いになるかもしれないと不安に思っているからですか?」

 

 先生が、いきなりおかしな事を言い出した。

 

「違いますよ。全国大会出場を目標とした練習スケジュールがどんなものか、自分は知りませんし、そんなのやってみないと分からないじゃないですか」

「そうですね。やってみないとわかりません。それならば一度、そういう経験を積んでみるのも悪くないと思いますよ」

 

 自分が返答につまっていると、先生は窓際の椅子に腰かけて話を続けた。

 

「ダブルリードパートの様子も見させてもらいましたが、正直意外でしたよ。貴方は全国大会出場という方針に正面切って反対しましたから。あまり吹奏楽に熱意はないのかと思ってました。ですが、腹式の指導や低音パートとの練習では、親身になって新入部員の指導に当たっていました。今の演奏もなかなか良い。やる気がないと言う訳でもなさそうですね」

 

 思いもよらない事で褒められて、急に体中がむず(かゆ)くなる。こういうのは苦手だ。慌てて話題を変えた。

 

「先生、ちょっといいですか」

「何です?」

「部活のことで単刀直入に聞きたいんです。先生は本気で全国を目指すつもりなんですか?」

「ええ、そのつもりですよ」

 

 滝先生は一瞬面喰ったような表情をみせたが、すぐに人あたりのいい笑顔を浮かべて返事した。その(てら)いの無い笑顔が自分の神経を逆撫でする。去年の事は知っている癖に吹部の実績のチェックの方はさっぱりなのか。

 

「今年から北宇治に来た先生はご存じないかもしれませんが、ここの吹部は府大会銅賞常連ですよ」

「ええ、勿論知っています」

 

 目眩(めまい)がした。近年の実績も知っていて、あんな大言を吐いたというのか。

 

――顧問を担当するのは初めてですが――

 

 滝先生が初めて部活に顔を出したあの日の言葉が頭に浮かぶ。初めての顧問、しかも北宇治に来たのは今年から。部員一人一人の事もまだ良く分かっていないはずだ。

 

「吹奏楽コンクールに出場して上を目指す事ばかりが、吹部で活動する意義ではない。貴方はそう思っているのかもしれませんね。私もそういう考え方を否定するつもりはありませんよ」

「それなら」

 

 全国を目指すなんて夢を見させず、初めから思い出づくり一本でいった方がよかった。その方が自分達の身の丈にも合っている。

 そう言おうとしたが、滝先生に手で制された。

 

「ですが。吹奏楽コンクールほど日本全国の吹奏楽関係者が一堂に会して、それまでの長期間に渡る努力の成果を披露しあう場もないのも事実です。予選を通過できなければそれまで。そのシビアな舞台で、日頃から培ってきた技量を一生懸命披露しあう姿。その緊張感あふれる姿勢に、人は魅了されてしまう。そして俺も私も同じような体験をしてみたい。そういう思いに駆られてしまう。野球に例えるなら、甲子園のようなものですかね」

 

 そういう考えも、理解できなくはなかった。理解できるのと、賛同できるのとではまた違う。

 

「私が去年まで副顧問を務めていた学校の生徒達も、そんなコンクールの空気にすっかり染まってしまいましてね」

 

 滝先生はノートをめくり、写真を取り出して自分に手渡してきた。

 (いぶか)しりながら手に取った写真には、"祝 小住中学校 京都府吹奏楽コンクール金賞"の横断幕を笑顔で掲げる学生達の姿が映っている。写真の隅々にまで目を通すと、多数の学生達に混じって、顧問と思しき初老の男性と、眼鏡をかけた若い先生の姿もある。

 若い先生の方は見間違えようも無かった。自分の目の前にいるのだから。

 

「……滝先生は、小住中にいたんですか」

 

 小住中が金賞を取ったと知ってもピンとこない。つい一昨年前まで自分の母校と変わらない、吹奏楽コンクールでは大した実績を残せずにいた弱小校のはずだった。

 

「蔵守君、副顧問を幾つかの学校の吹部で担当した私の経験から言わせてもらいますとね」

 

 滝先生の目が光った。

 

「吹部を変えられるかどうかは最上級生である三年生の動向にかかっているんですよ。部を変える。その為にはそれまでの二年間、慣れ親しんだ部の空気を変えなければいけません。普通なら、それにストレスを感じて三年生はなかなか言う事を聞いてくれません。最上級生が言う事を聞いてくれないなら、下級生達は従いたくても従えません。そうなると時間をかけて鍛え直すしかないんです。顧問の指導力があっても、直ぐにどうこうできるというものではないんですよ」

 

 上下関係が幅を利かせる吹奏楽部。最上級生が動いてくれない事にはどうにもならない。それは去年の活動で痛感していた。

 滝先生に対する見方を変えたほうがいいかもしれない。うっすらと夕焼け色に染まる空へ視線を移す先生を見つめながら、そう思った。この先生も相当の修羅場をくぐり抜けてきたんだろう。実体験に基づいたものと思われる言葉は、自分に対してだけではなく、先生のかつての教え子達にも向けられているように感じた。

 

「正直な話、北宇治高校の吹部の立て直しも、それなりに長期計画で取り組むつもりでした。ですから驚いたんですよ。今まで私が見てきた銅賞常連の吹部よりずっと状態が良い。これならコンクール前までには鍛え直せます。部長の小笠原さんは随分と頑張ったようですね」

「それは、去年いろいろありましたから。その反動で」

「ええ。皆さんやる気があるようで、その点でも好ましい事です」

「あの合奏で!? ……ですか?」

 

 この人は皮肉を言っているのか? 他ならぬ先生自身、一生懸命さが無いとダメだししたはずだ。

 

「私が副顧問を務めていた吹部のなかには、勉強なり遊びなりを理由に、コンクールに出たいと思う子の方が少数派なところも珍しくありませんでしたよ。しかし北宇治の子達は、周りに流されてとはいえ全国大会出場を目標にした。それは去年の(てつ)を踏みたくない、そう思う程度には上級生たちもコンクールで頑張りたいと考えている。違いますか?」

 

 違わない。

 

「合奏は皆でやるものです。個人レベルでどれだけ熱心な人がいても大多数がついてこないようではどうしようもありません。ですが皆さんに最低限のやる気があるのなら。あとはそれを伸ばすのが顧問の仕事だと、私は思ってますよ」

「……遅い、と思います。全国を狙う強豪校の部員達は、一年の頃から厳しい練習を重ねているんです。例え今から一丸になって練習に取り組んだって、周回遅れの自分達じゃ対抗馬にもなりません」

 

 声を震わせながらそう呟いた。声がうわずっているのが自分でも分かる。

 

「その遅れを取り戻す為の練習スケジュールは私が考えましょう。思い出づくりを希望した貴方にとっては、楽しい事ばかりとはいかず辛い事もあるかもしれませんが……。あとは吹部の皆さんが私の指導についてこれるかにかかっています」

 

 ふと、頭に疑問が浮かんだ。この先生は、一体何をしに来たんだろう。まさか自分の演奏を聞きに、わざわざ教室までおしかけてきた訳でもあるまい。

 

「コンクールに向けて頑張りなさいと。先生はそう(うなが)しに来たんですか?」

「いえ、そんなつもりはありません。思い出づくりも立派な吹奏楽の活動だと思いますよ。だだ、吹奏楽は集団競技ですからね。活動方針はまとめなければなりません。そうですね……これはアフターケアみたいなものと思っていただければ」

 

 どうにも相手を煙に巻くような発言で、滝先生の本心がどこにあるか分からず、すっきりしない。ただ、心変わりさせる為に来た訳ではないらしい事は察せた。

 

「ああいう大勢が見ている場で、消極的だと受け取られかねない提案を支持した貴方と、話をしてみたかったんですよ。お互いの本音をぶつけあえば、見えてくるものもあるかと思いましてね」

 

 先生みたいな大人が、自分みたいな一介の高校生と本音でぶつかり合う事に、どれほどの意味があるというんだろうか。少し意地の悪い質問をしてみたくなった。

 

「それで、何か見えたんですか?」

「勿論です。貴方が単に楽をしたいという考えで、思い出づくりを選択した訳ではないと分かりましたから。大きな収穫でしたよ」

 

 まさかの即答。 

 格好良い事を言ってるだけか、そう思って放ったビーンボールをあっさり弾き返されて、ただ呆然とするしかなかった。

 

 

 

 

「お邪魔しましたね。では、オーボエの練習頑張って下さい。私はこれから、他の子達のアフターケアがありますので」

 

 滝先生がそう言い残して教室を去ったのと、滝先生への悪口も出尽くしたのか喜多村先輩と岡先輩が戻ってきたのは、ほぼ同時だった。

 戻ってくる途中に近くのコンビニに寄ってきたのか、二人はジュースや菓子がつまったレジ袋を引っさげている。早めに戻っていて正解だった。音楽室に残っていたらパシられていたに違いない。

 

「岡先輩、鎧塚さんはどうしたんですか?」

「ついさっき、滝先生に鉢合わせして隣の空き教室に拉致られた。なんか話したい事があるんだってさ」

 

 自分だけでなく鎧塚さんもとなると、本当に滝先生は思い出づくりを希望した部員全員のアフターケアに回るつもりらしい。

 まだお(かんむり)状態の岡先輩は、手近の椅子にどっかりと座りこんで菓子パンを頬張り始めた。先生に叱責されたイライラを、やけ食いで発散しようとしてるのが手に取るように分かる。太りますよ。

 

「あのメガネ……音楽室の時みたいに言葉責めして、みぞれを傷つけでもしたらただじゃおかないんだから」

「……暴力沙汰は止めて下さいよ。二年連続で傷害事件はマジでシャレにならないんで」

「でもさー。なんかイケメンなのにキツイ人だよね。怖くてやだなあ」

 

 そう言って、喜多村先輩も目の前の椅子に座って足を組んだ。黒のハイソックスとスカートの間から、素肌がさらされた太ももが覗いて見える。先輩のスカート丈はどちらかというと短い方なので、そういう姿勢を取られると目のやり場に困る。

 

「こら、スカート(のぞ)くんじゃないの! エッチ……」

 

 男子の本能。一瞬視線がそちらに向いてしまったのを目敏(めざと)く見つけた先輩が、慌ててスカートを抑えた。

 

「覗いてません。というか、男子の視線が気になるならスカート伸ばせばいいじゃないですか」

「そんなことしたら脚短く見えるし、おしゃれじゃないもん」

 

 めんどくさい人だ。 

 そう思いながら、片付け半分だったオーボエからリードをはずして、小箱にしまった。去年の講習会から、はや十ヶ月が経つ。自作のリードは、まだ実戦で使える域に達していない。

 

「……にしても、ヒロネは何が原因で怒られたんだろ?  確かにちょっと音が小さいかなーとは思ったけど、それだけって訳でもなさそうだし」

 

 音が小さい。その事に気付いた岡先輩はまだましな方だろう。先生に指摘された時のあの様子では、よく分かっていなかった人もいるに違いない。

 

「鳥塚先輩は、結局だんまりを決め込んだんですか」

「そ。なんか好奇心で聞けるような雰囲気じゃなかったし」

 

 まあ、わざわざ喋りたくは無いだろう。男勝りなところがある岡先輩だが、そのあたりのデリカシーはちゃんと心得ている。

 一通りオーボエの手入れを終えてケースにしまった後、おもむろに口を開いた。

 

「クラの先輩達の何人かなんですけどね、楽譜にばかり目がいってテンポの変わり目でも指揮を(ろく)に見てなかったんですよ。多分、吹き真似がばれない様に目を皿にして音符を追いかけてたんだと思います。裏目に出たみたいですが」

 

 音楽室では、指揮者から見て一列目にクラリネット。二列目にフルート・ピッコロ・オーボエ・アルトサックス。三列目にバスクラリネット・ファゴット・バリトンサックス・テナーサックス。四列目以降に金管・打楽器が並んで合奏する。

 自分はすぐ後ろで演奏しているだけに、クラリネットのメンバーのおかしな仕草が嫌でも目についた。勿論、クラリネットの目の前で合奏の指揮をとる滝先生も、それに気付かなかったはずがない。というより、全国を目指すならそれ位見破れる顧問でないとお話にならない。コンクールでは、門戸の狭い音楽業界で生き抜いている海千山千の審査員を相手にしなければならないのだから。

 尻拭いとは、吹き真似をするパートメンバーを(とが)めず、カバーに回ろうとした事を指しているのだろう。のんびりした人達には、その方が練習練習と口を酸っぱくするよりは角もたたない。そして、これまではそれで問題なかった。

 

「なるほどね。それで一人一人演奏させればボロが出るってワケか。アンタもなかなか目敏いじゃん」

「今年の定期演奏会で、指揮者に立候補してみたら?」

 

 先輩達の軽口は自分に向けられるばかりで、クラリネットに対する苦言は一言も無い。

 中学の頃の先輩達はこうじゃなかった。顧問の前で後輩や同級生が駄弁っていると、素早く(たしな)める位の事はしていた。顧問の機先を制してくれたおかげで、事無きを得た局面も一度や二度ではない。

 先輩達との意識のズレが思いの外進んでいる。その事に愕然(がくぜん)として、思わず苦言を呈した。

 

「顧問の()わり(ばな)の合奏で、あんな小細工をやらかすクラの先輩も大概(たいがい)ですけど。それをマズいとも思わない先輩達も結構ヤバいですよ。知らず知らずのうちに去年の三年生の色に染まってるんじゃないんですか?」

 

 モチベーションが低い人が少なくない吹部だ。滝先生もその辺りの事情を考慮してマイルドに指導して欲しかったが、先輩達もいささか緊張感に欠けている。

 わざとらしく頭をかかえると、二人とも心外だと言わんばかりに噛みついてきた。

 

「ちょっと。それ、どういう意味よ?」

「私達、あんな性悪じゃないよ!」

「……そうは言いますけど、音を外すわ小細工をするわ。あんな合奏とも呼べないレベルのものを素面(しらふ)で披露する人ばっかりですから。顧問は変わったんですよ。去年までの梨花子先生みたいに、下手な演奏しても怒られない保証なんてないのに。中学の頃は、気の抜けた演奏したら顧問から指揮棒が飛んできたり、雷落とされたりなんて日常茶飯事だったじゃないですか」

 

 吹奏楽部顧問のヒステリーは、部外者の想像を絶する。音楽界という、やや浮世離れした世界に身を置いた人が多いせいもあるかもしれない。そういう意味では、前顧問の梨花子先生は腰が強かった。どれだけ下手な演奏をしても、部員達に罵声をかけるような事は決してなかったのだから。

 

「それは……そうだけど」

 

 昔の嫌な思い出が頭をよぎるのか、二人とも顔を歪めた。

 

 滝先生が言っていた「三年生が言う事を聞かない」というのは、こういう事なんだろう。

 これまでの緩い部活環境に慣れて、ほとんどの三年生は緊張感がすっかりマヒしてしまっている。去年より状況は改善されているはずなのに、この体たらくなのだ。このままなら、来年の今頃は自分だって同じように堕落しているのかもしれない。

 

――これならコンクール前までには鍛え直せます――

 

 吹部はこんな状態なのに、あの先生は今の北宇治より悪い状況の部を立て直してきた事を匂わせた。しかし、今年の府大会までもう半年を切っている。本当にそんな事が可能なのか。

 心の中では、疑念ばかりが湧きあがっていた。

 

 

 


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