「八幡よ……その額はどうしたのだ?派手に転んだか?」
「あぁ……ちょっとな……」
「あはは……」
俺の気怠い返事に戸塚は苦笑する。さっき起こった出来事をわざわざ話す気にはならない。加えて材木座のホクホク笑顔も少しイラつく。
「これからどうすんだ?もう帰るか?」
「真っ先に帰宅を提案する辺りが八幡らしいよね……」
「む、むう……さすがの我もドン引きだぞ」
そんなに褒める事だろうか?なんて考えていると、向こうから物凄い勢いで風を切り、走ってくる何かが目に入った。あ、あれはもしや……
「は、八幡……あれって……」
「あ、ああ」
戸塚も気づいたようだ。材木座は何の事かとキョロキョロしている。そうこうしている内に、その何かがはっきりわかるようになる。
「ハア……ハア……」
こちらを真っ直ぐに見据えながら走ってくるのは、さっきの黒髪頭突き女だ。てかマジで怖い。その長い髪が派手に跳ねて、なんかモンスターみたいだ。今さら怒りがぶり返したのだろうか。
周りの人々も何事かと視線を向けてくる。
俺は何故か逃げ出した。本能的な恐怖である。
「あ、ちょっと待ちなさい!」
うおぉ!滅茶苦茶はえぇ!
何か運動でもしているのだろうか、帰宅部の俺よりは明らかに速い。しかし、俺の中にほんの僅かに残る男の意地が発揮され、何とか距離を保っていた。
「な、何故、逃げるのですか!?」
「はあ……はあ……」
こちらは口をきく余裕などない。
ていうか本当に速い!怖い!女子に追いかけられるってこんな気分だったのか。思ってたのと違う。
人とぶつからないルートを選びながら、久々の全力疾走。
やがて人通りが少なくなってきたところで、足が限界に達する。
それに合わせるように、向こうも速度を緩めた。
「はあ……はあ……」
「もう……一体何だと言うのですか!?」
「こっちの……セリフ……なんだが……」
何で息上がってないんだよ。こっちが一生懸命走った分、余計に馬鹿みたいに思える。
しばらくしてようやく呼吸が整う。黒髪は待ってくれていたようだ。
「……それで、どうしたんだ?また……頭突きとか」
「し、失礼な!違います!」
黒髪はぷんすか怒りながらポケットから何かを取り出す。
「これ、落としましたよ」
その手には見覚えのある財布が……俺の財布がある。
「……わざわざ届けてくれたのか」
「あなたのようなケダモノの財布とはいえ、そのままにしておくのもどうかと思いまして……」
「……悪い……ありがとう」
頭突きをされ、気絶させられたとはいえ、赤の他人の為に、走って財布を届けてくれたのだから、ここは頭を下げておこう……ていうか俺はケダモノじゃないけど。
数秒そうしてから頭を上げると、キョトンとした顔の黒髪がいた。
「意外と素直なんですね」
「……一応な」
「ふふっ。一応は余計ですけどね」
そう言いながら、柔らかな微笑みを浮かべる。
その笑顔は先程までの印象とは打って変わって、見る者を惹きつけるような気品に溢れた、優しい微笑みだった。
もう会う事もないだろうが、悪印象のまま別れずにすんでよかった気がする。
「それでは失礼します」
「ああ、ありがとな」
「どういたしまして」
黒髪がこちらに背を向けたその時、急に勢いのある風が吹いた。5月の爽やかな風だ。
そしてその風は、黒髪のスカートをぶわぁっと捲り上げていった。そりゃもう、豪快に。
「きゃっ!」
「…………」
さて、戸塚達のところに戻るか!ごっつぁんです!
黒髪は向こうを向いたまま固まっている。
「……見ました?」
「いや、何も」
白いものなんて見ていない!
俺はゆっくり後退る。まだこっちを見ていない。逃げるなら今だ。
しかし、黒髪は振り返って、にっこりと微笑んだ。
「見ましたよね♪」
「……マジか」
この後、1時間に及ぶ地獄の追いかけっこが始まった。