自分の体が自分のモノでないという感覚があった。
精神だけがふわっと宙に浮いていて、ひどく重たい人型をした肉の塊を見下ろしている気分に近い。
「…………」
ずっと正座をしたせいで足に血が通わず痺れている状態が、全身を襲っている。まるで精肉店に置かれている豚肉だ。ぼてっと腕も足も重く、動かす気になれない。
なんでこんな痛いのに、この肉を神経を使って脳から命令を発して動かさなければならないのか。そんな疑問さえ沸いてくる。
――このままこうしていたい。
そんなふうに思うようなったのは必然だった。
四肢はある。五体満足で、スバルは地面にうつ伏せになっていた。
ただ、顔が横を向いているせいで、外の景色が見えてしまっている。
最悪だ。
顔を下を向いていればこんなもの見なくて済んだというのに。
「今、一日が終わったのよ。これでお前とベティとの契約は果たされたかしら」
薄ぼんやりとした金髪ドリルロリ娘がそんなことを言っていた。
返す言葉などない。
頭を下げて勝ち取った一日護衛券はその効力を失っている。もう周囲は真っ暗だ。お日様は沈んで、天辺にお月様が出ているだろう。
「…………」
ただ、スバルの目の前に突っ立っている。
契約が終わったからといって、どこかへ行く様子もない。
全身にかすり傷をつくっているスバルの治療に当たるわけでもない。
どんどんと色素が薄くなっていく。
時が経つごとに光の欠片へと溶けていって――もはやその奥の景色が透けて見えていた。
山の中腹に、大きな穴があった。直径50メートルくらいの爆発跡だった。
どうせなら温泉でも出てくればこんな気持ちも晴れただろうに、その穴の中心には何も出ていない。
「さようならなのよ」
「べぁどりずぅう……ッ!」
すぅーっと風に流されるように消えていく。
ラルトレアと同じように、スバルに別れを告げて消えていった。
「な”んだよぉこれぇ!!!!」
地面に爪を立てて、大地を掻き毟っていく。
体を動かすわずらわしさを勝って、スバルは無性に腹が立っていた。なんで自分がこんな目に合わなければならないのか。
「いっだぃおれがなにじだっでんだよぉ!!!」
涙と鼻水がとまらない。
顔面をグシャグシャにしてスバルはずっとひとりで吠えていた。それに反応してくれるもの誰もいない。
ベアトリスもレムも死んだ。
エミリアも死んだ。
ラルトレアも死んだ。
ロズワールやラムはわからない。
ただ、どれだけ叫ぼうとも誰かが来ることはなかった。
近くにいたはずのラインハルトでさえ駆けつけてこない。
大地の窪みの端っこで、スバルはひとりぼっちだった。全身がボロボロになってもなお、スバルは生きていた。
ただひとり、生きていたのだ。
遥か彼方の遠くの空を見れば、何本ものの光の柱が立っている。
「…………」
――なんで、生きてるんだ、俺……
数日が経った。
陽が昇り、また陽が沈んでいく。夜が来て、また朝が来た。
スバルに生きるという意思はなかった。
もう生きていたくはなかった。
ただ腹が減って喉が渇いて、排泄行為を我慢できなくなる。
仕方なく我慢できなくなって川の水を飲んで木の実を食べて、そこらへんで用を足した。
スバルは生きていた。
一言も喋らない日々。段々とやせ細っていき、空腹が限界を突破した。
「……」
スバルは地面にうつ伏せに寝て、クレーターの中心を見つめていた。
何がどうなってこうなってしまったのか。
スバルはベアトリスの協力を取り付けて呪術師を撃退するためにアーラム村へと行って、それで子犬に噛まれた途端に、ラルトレアが現れた。
スバルはふと自分の手、子犬に噛まれた部分を見た。
犬歯が刺さったあとがあるが、傷口はふさがっているし血も流れていない。
ラルトレアは何がしたかったのか。
レムの不信感が爆発したのは十分に理解できる。ベアトリスが契約の為にスバルを守ったのはわかる。
それなら、ラルトレアは何をしようとしていたのか。
いきなり蝙蝠を伴って現れて、レムの鉄球を喰らって反撃しようして、スバルが前に出てベアトリスに止められた。
そのあとはアーラム村の人から血を吸って、スバルの前に来て。
それで、レムの鉄球からスバルを庇った。
「…………もしか、して」
ラルトレアはずっとスバルを守ろうとしていた。
もしかして、子犬の時に現れたのだって、アレが呪いの正体だったからではないのか。
いくら出血したからといって、今までラルトレアが現れることなんてなかった。
呪術師はアーラム村の中に居たはずだ。
しかしベアトリスは呪いを感知できなかった。
ラジオ体操をした時までは呪術師との接触はない。
それなら、あの子犬が呪いを掛けたとでもいうのか。
そうだとは考えにくい。
なにより証拠がない。ベアトリスに確かめてもらうのが一番の手が、それはもうできない。
子犬が呪いを掛けた可能性は低いが、ありえないわけじゃない。
ラルトレアはスバルが呪いを受けたのを感知して、やってきた。そして呪いの大元である子犬を殺した。
でも、どうやってラルトレアはそれを知ったのか。
思い出す。あの瞬間を。
一体何があったのか。その後の目まぐるしく変化する現実を巻き戻せ。
冷静に正確に思い出すんだ。
「ポケット……あ、牙か」
スバルはポケットに手を突っ込んでまさぐってみる。
――ある。
ポケットからゆっくりとその白い牙を取り出した。ずっと入れっぱなしにしてしまっていたが、残ってくれていた。
ただそれを見ても、ラルトレアが牙で呪いを感知したという証拠は見つけられない。
もはや、ラルトレア自身に聞くしかない。
だけど、もういない。
見回しても、何もない。荒れた土地と、わずかな森林。
ロズワール邸の残骸と、干からびた死体だけだ。
死体を見ても誰が誰かなんて見分けもつかないくらいに酷いありさまだった。
どんづまり。
スバルの腹が悲鳴を上げる。望んでいないというのに、生きようと生きようと動かしてくる。
ラルトレアと会う方法。
今のスバルには、たった一つしか思い浮かばなかった。
それをすれば、ある程度の場所は限定される。ラルトレアに本気に隠れられれば、スバルには見つけようがないが。
それでも、ここから探し出すよりは、よほど簡単だ。
そう、死にさえすればいい。
死に戻り。
もしかしたら死ねばロズワール邸の一日目に戻れるかもしれない。
「……くそ。何ビビってんだよ」
スバルの足はとりあえず、崖へと向かっていた。
断崖絶壁の上、スバルは立っていた。落差は40メートルくらいはあるだろうか。ここから落ちれば、きっと死ねる。
一歩を踏み出すだけでいい。
それだけいいのだ。しかし、踏み出せない。
ガクガクと震える膝。とまらない動悸。空腹を訴えてくるお腹。
喉が妙に乾いてくる。水が飲みたい。地面に横たわって寝たい。何か食べたい。肉が食べたい。ご飯が食べたい。パンが食べたい。
くずおれるスバル。
「こんなこともできないのかよ……!」
どんだけ自分を追い込んでも追い込んでも、体が前に行かない。
死ぬのが怖い。
死に戻りできないかもしれない。
ずっと死んだままかもしれない。
すぐに死ねないかもしれない。
痛い。
絶対に痛い。すぐに死ねず、痛いままかもしれない。
もしかして下半身不随のまま助けられて、そのままかもしれない。
死に戻っても、一日目に戻れないかもしれない。
戻るのがラルトレアの爆発の直後かもしれない。
スバルは、動けなかった。
膝をついて、地面を掻き毟って涙だけがぼろぼろとこぼれだしてきた。思いっきり、喉から血が出るほどに叫んだ。
どうしても、死ねなかった。
絶望に嘆いても、誰もやってこない。
叫んでも助けを呼んでも、何も起きない。死なせても、くれない。自分で死ぬしかないのだ。
早く死なないと巻き戻れないかもしれない。
そんな焦りと恐怖と怒りで、スバルの中身はぐちゃぐちゃだった。
土の上に突っ伏して、何度何度も殴りつけた。拳から血が出ても、顔を掻き毟っても何も変化が起きない。
誰もスバルを諭してくれない。勇気づけても、けなしてさえくれない。
「ぁあぅぁあああぁぁあぁああああ」
どんだけに狂ったふりをしても、世界は変わらない。
ただ誰もいない世界だけがスバルの世界だった。
スバルの世界はただ時が過ぎていく。土をなめるように四肢を投げ打って、そのまま気を失うように眠った。
そして――また朝がやってきた。
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スバルは朝日に向かって仁王立ちしていた。
「お日様、おはようございます! お月様、またあとで!」
崖の上で過ごすこと三日が経った。
「いやぁ、いい朝だよなぁ木の実くん。ええ何だって早く食べろって? 嫌だなぁ俺とお前の仲じゃないか。じゃあ遠慮なく――むっしゃむっしゃ」
ふぅーっと一息ついて。
「旨い! 朝に食べる木の実はまた格別だな! あーっはっはっは……っはっは…………」
ぽとり、とかじりかけの木の実がスバルの手から滑り落ちる。
「…………」
一体、何をしているんだろうか。
――なんで生きてんだよ、俺……
ぽたぽた、としょっぱい水が頬を垂れていく。
どうにも涙腺がぶっ壊れてしまったようで、時々涙が止まらなくなる。
「……なにが、俺の命がかかってる、だ……」
命なんてこんなものだ。
あれだけ生きたかったと言うのに、今は死にたくて死にたくてたまらない。
でも、死ねない。
――怖い。ただ純粋に怖い。
恐怖の穴にその身を投げることができない。
「あぁぅぁあああッ! 誰がぁ、誰が俺をだずげてぐれぇええ!!!」
叫んでも、何も起きない。
山彦さえ聞こえてこない。虚無感だけが残る。
「…………。ざまぁねぇよな」
コロコロと手の中で白い牙を転がす。
ぽつりぽつりと、スバルが独り言をもらす。これに話しかけても無意味だということはわかっているはずなのに、どうしてもやめられない。
少し黄ばんでしまったそれに。
「ごめん……。もっと真面目に話聞くからさ……もう茶化したりしないからさ……。ちゃんと、一回、話をしようぜ、ラルたん……」
話しかけるスバル。
牙を見下ろす視界の端にまばゆい光がにじんでくる。
フッと、西の空が明るくなったような気がした。
顔を上げてみてみれば、久しぶりに光の柱が空を貫いていた。まるで何かが終わったように、特大サイズの剣聖の一撃が輝いている。
「な、なんだ……?」
光に見惚れているスバルの手に、ほんのりと温かい感触がやってくる。ゆっくりと視線を移せば、そこに綺麗な淡い光があった。
牙を包むように、赤っぽい光がまとわりついている。
スバルはそれを大事に大事に手のひらで包み込み、その様子をじっと見ていた。
光の粒子となった牙が、姿を変えていく。
ほんのりと紅いオーラをまとって、親指くらいの大きさの黒い生物が出来上がった。
「ら、らるとれあ……?」
赤ん坊の蝙蝠が、スバルの声に反応して見上げてくる。
しかしまぶたを開けられないようで、つむったまま必死に首を伸ばしていた。
また、スバルの目から熱い涙がこぼれだした。
ここ最近、泣いてばかりだ。
しかもラルトレアの前でも泣いてしまう。
情けない。
本当に情けない。
小さなこうもりが口を開けて鳴いていた。
きゅぅ……きゅぅっ。
まるでスバルに訴えかけるように。
それにスバルは、ささやくように答えた。
「もしよければこのナツキ=スバル、お力をお貸ししましょう……ってか」
スバルはそっと優しくこうもりの赤ん坊を包み込みながら、森へと引き返した。枯れ葉を集め、草で水入れをつくってやる。
そうして十分に温かい巣をつくってから、十分とは言えないかもしれないが、餌と水を調達した。
「さよなら、じゃなくて、また会おうだぜラルたん」
スバルは巣に背中を向けて、ゆっくりと歩き出した。
走る必要はなかった。早くしないとくじけてしまうほど、今の決意はぬるくない。
「エミリアたん、ラルたん。レム、ラム。ベアトリスもパックも。あ、ついでにロズワールもか。――とにかく、みんな、待たせたな」
一歩一歩、確かな歩みで進んでいく。
「でもごめんなみんな、正直今になってどうしていいかなんてさっぱり分からねぇ。ただ、何とかしよう――そう思ったんだ」
ふっと自分を笑うスバル。
「何も知らねぇ何もわからねぇ俺だけど、俺だけが覚えていることだってあるんだッ!!!」
駆けてゆく。
「俺を舐めるんじゃねぇぞクソ運命様が! こんくらいの絶望、屁でもねぇってんだ。障害があるってんなら全部取っ払ってぇ――」
続きのない大地を踏みしめて、スバルは宙を飛ぶ。
「――みんなみんな守って助けてハッピーエンドだ!!!!!!!」