「……四日後の朝まででいいんだ。俺を、守ってくれ」
そう言い切って頭を床へとこすりつけた。
「いきなりノックもなしに入ってきたかと思えば何かしら。死ぬほど不愉快だからとっとやめるといいのよ」
ベアトリスのトゲトゲしい言葉が降りかかってきても、スバルはさらに土下座から五体投地へと移行していく。
何が何でも聞き入れてもらわなければならない。
ここで断られたら全てがお終いだ。
「……頼む」
罵りの言葉は無視して、祈るような気持ちで待ち続けることにする。
「――臭いのよ。さっきよりもっと濃くなってるかしら」
「――は?」
「臭いの話かしら。鼻につく、最悪の香りなのよ。もしそれと関係あるのだとしたら断るのよ」
鼻をつまみ、手を振って悪臭をアピールするベアトリス。
「俺からなにが臭うって?」
「魔女の臭いなのよ。鼻が曲がりそうかしら」
「魔女……嫉妬の、魔女か」
「今の世界で、魔女と言われてソレ以外のなにがあり得るのかしら」
「どうして、その臭いを俺から感じる?」
「さぁ? 魔女に見初められたか、あるいは目の敵にされたのか。どちらにせよ、魔女から特別な扱いを受けるお前は厄介者なのよ」
――特別扱いを受けている。
嫉妬の魔女だなんて会ったこともないし、まともに知ったのは童話で読んだ時だ。エミリアが嫉妬の魔女、サテラと名乗ったことはあるけれど直接の関わりはない。
なら、どうして自分に嫉妬の魔女が付いているのか。とスバルは頭をひねって考えてみる。
「ちょっと待て……さっきより臭いが強くなってるのか?」
「そう言っているのよ」
さっき、ということはスバルの死に戻り地点の数時間前、初めて禁書庫を訪れてマナドレインされた時のことだ。
そしてそれ以降、二周目と三周目でスバルはベアトリスと会っているがそんなことを言われた覚えはない。
――なら、どういうことなのか。
これまでループと違っていることがあるのだ。スバルがこうしてクソ真面目に頭を下げていることもある。ただ、それだけで魔女の臭いが濃くなるだろうか。
死に戻り。
スバルがこの世界に来て得た力。嫉妬の魔女から特別扱いを受けているとなれば、それしかないのではないか。
「まさか、嫉妬の魔女が俺を――し」
思いついた可能性を口にして、ベアトリスの前で話そうと思った瞬間、それは訪れた。
一瞬にして音が消えた。
世界から音が消失していた。音だけでなく、時間までもその進みを止めていた。一秒が何億倍にも引き延ばされ、次の瞬間が訪れるのが遥か彼方にまで追放されていく。
――なん、だ?
音が消え、時間が止まり、スバルの意思が強制的に停滞させられる。
ふいにやってきた理解を越えた現象。
意思だけが存在し、言うことを聞かなくなった体のまま考えだけが走り続けていく。
だが終焉は唐突にその姿を現した。
――スバルにはそれが、黒い掌のように見えた。
黒い手――その指先がするりとスバルの胸へ忍び込む。
そして、入り込んできたその黒い手はスバルの中身を一通り撫でていき、やがて人体においてもっとも重要な器官へとその指先を届かせる。
そうして、スバルの心臓を、ぎゅっと掴んだ。
命を奪われる恐怖に、スバルは声を声を上げることはできない。痛みに身を震わすことすら禁じられている。
ラルトレアの使った巨大な手とはまた違う性質。彼女のものはスバルの精神を丸ごとを支配しようとしていたが、あれは命を剥奪するものではなかった。
「お前、何をしたかしら」
「――あ?」
「また、一段と臭くなっているのよ」
ベアトリスが怪訝な表情でスバルを見下ろしていた。床に這いつくばったままのスバルは、その仏頂面をぼうっと見上げることしかできない。
「お前がベティに魔女から守ってほしいと言うなら無理な話なのよ。ベティはあんなものに関わりたくないかしら」
「……ち、ちがっ、ちがう!」
「じゃあ何かしら」
「へ?」
「お前は一体、何に恐れてベティに守ってほしいとほざいているのかしら」
「の、呪い……そうだ! 呪術師から、守ってほしいんだ」
スバルの突拍子もない発言に、ベアトリスがまた眉を寄せる。
「――よく分からないヤツなのよ。魔女と言ったり呪いと言い出したり、一体何がしたいのかしら」
突き放すようなセリフに、スバルの焦りが高まっていく。このままベアトリスの協力を取り付けられないとなると、スバルはどうしようもなくなる。
いつか来るであろう呪術師の攻撃から、守る術がなくなる。
「いいから……つべこべ言わずに俺を守れってんだよッ! 俺が死ぬかもしれないんだ! 死んじまうんだよ! なぁベアトリス!!!」
「……ベティは、お前が死んでも関係のないことかしら」
「……頼む、頼むから俺を守ってくれよ……ッ!」
グリグリと必死になって額を床にこすりつけた。哀れでもいい。情けなくてもいいから生きる道が欲しかった。
誰もかれも守れなくて、自分の命だけでもどうにかしたかった。
その一心で。
「呪いが。呪いに俺だけじゃどうしても対処できないんだ。一日だけでいい。力を、力を貸してくれないか……」
「…………」
「そうだ。呪いを解いたり掛ける方法とかを教えてくれるだけでもいいんだよ。今の俺じゃ、俺だけじゃ無理なんだよ!!」
「…………」
「なぁ! 頼む……この通りだ……」
みっともなく、ベアトリスの足元で膝をついて手をついて、頭を下げた。どんな目で見られているか恐ろしくて上を見ることもできない。
ただ、一言。
「……一日、だけなのよ」
その言葉を聞いて、スバルはただただ安心して、涙がこぼれた。
ベアトリスはそんなスバルのもとに近寄って、しゃがんでその小さな手でスバルの右手を取った。手のひらを上に向けて、自分の手のひらを合わせてくる。
「――汝の願いを聞き届ける。ベアトリスの名において、契約はここに結ばれる」
厳かに、そう告げるベアトリス。
「たとえ仮でも契約事は契約事。儀式の則った上で結ばれたそれは絶対なのよ。お前のわけのわからない頼み、一日だけは聞いてやるかしら」
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四周目、二日目。
ロズワール邸、ラルトレアの居室。
まるで死んだかのように目を閉ざしたラルトレアがベッドの中央で横たわっていた。綺麗に切りそろえられた黒いおかっぱ頭だけが布団から出ている。
そんな様子のラルトレアをエミリアは心配そうに見ながら。
「ねぇスバル。ラルトレアに一体何があったの?」
「エミリアたん……」
「眠ったまま昨日から起きないもの。ラルトレアが血溜まりに倒れていて、スバルもずっとおかしかったし」
「ごめん……」
「まだ話して、くれないのね……」
ラルトレアの眠る大きなベッドを挟むようにして、スバルとエミリアは椅子に腰かけていた。心配するように問いかけ続けるエミリアを前にして、スバルはうつむくだけ。
何も話せない。
話そうとするとまた、あの黒い手がやってくるような気がするのだ。
スバルは昨日ラルトレアが持っていた白い牙を、手の中で転がしていた。その鋭利な輝きをじっと見つめて、ただ時が過ぎるのを待った。
――ラルトレアはこのまま起きないのではないか。
スバルの直観がそんなことを言っていた。
おそらく吸血鬼のラルトレアに睡眠なんて必要ない。排泄も入浴もしなくていいのだろう。
事実、エミリアが何もしていないのに、布団が汚れている様子はない。
当初は動かないラルトレアを介護しようとしていたが、余りの変化の無さにスバルが気が付いてやめさせていた。
ラルトレアを思って。
と建前上はそう言ったがスバルは純粋に怖かったのだ。エミリアに介護されているときにラルトレアが起きて、暴れ出すことが。
こうしてラルトレアのそばにいることだってそうだ。
怖いのだ。
ラルトレアが目を覚ましてしまうことが。そうなれば理不尽な暴力をふるってスバルの日常がまたたくまに破壊されてしまう。
スバルはそう、考えていた。
だから出来るだけラルトレアのそばにいた。
ただじっと、横に座って、動きがないか見ていた。
心配する気持ちもなくはなかった。ただ、危険を恐れてという感情の方が大半を占めていた。
その証拠に、エミリアがラルトレアの手を握っているのにスバルは髪一本触れていない。
「……明日、近くの村に行ってくる。エミリアたんはあまりラルトレアに近寄らないでくれ」
「それは……どうして?」
「…………」
「……それも、答えてくれないの?」
全ての言葉にスバルは沈黙を選択した。
うまい言い訳も思いつかないし本当のことを言うこともできない。回りくどく言ったとしても怒られるだけだ。
ラルトレアに襲われる、と。
そんなことを言ったところでエミリアが従うはずがない。
何も言葉が発されないまま静寂だけが続いた。
エミリアはあきらめたのか、急に腰を上げて「おやすみ」とだけ告げて部屋を出ていった。
それでいい。
スバルは手の中の牙を一回転がして、それをポケットに入れて自室に戻ることにした。
四周目、三日目を迎えるために。
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四周目・三日目の朝。
ロズワール邸、調理場。
「実は村に行ってみたいんだ。近くにあるだろ? 買い出しの予定とかないかな?」
「はい、お客様。たしかに香辛料が心もとないので明日にでも村に行こうと思っていました」
「んじゃその予定ずらして今日とかどうよ?! 無くなりそうなら早いに越したことはないし」
わずかに考えあぐねるレム。
できるだけ愛想を良くして疑われないように努めるものの、嫌な汗が止まらない。
「いいんじゃないのそれくらい。お客様の願い出よ。もしかしたら荷物持ちになってくれるかもしれないわ」
「おいそこのメイド! 客をパシリ扱いするんじゃねぇ」
「親しみやすく接してくれと言ったのはお客様の方よ」
口の減らない姉様メイドにスバルは心を癒されながら、村への同行を取り付けられたことに口元が緩んでしまう。
「では頼むわねレム」
「はい。姉様がそう言うのであれば」
こうしてレムとスバル、一日貸し切り券を発動させてベアトリスを連れてアーラム村へ行くこととなった。
できるならばレムとラム、どちらとも村へと付いてきてほしかったが、そこまで望むことはできないだろう。
暴走するレムでも、ベアトリスがいるならスバルの近くに居た方が良い。ラルトレアのいる屋敷は危険すぎる。
スバルの目が届かない所で何かされるより、一緒に連れて行ってしまおうという考えだった。
スバルは調理場を後にして、すぐに禁書庫へと向かった。といっても、扉渡りを破るだけでなので、どこからでも行ける。
気になる扉を開けて、すぐに金髪ドリルロリを発見する。
「――今日だ。今日一日、俺を守ってほしい」
「ノックくらいはしてほしいから。……まぁわかったのよ。で、どこかへ行くつもりかしら?」
「ああ、近くの村だ」
「そこに呪術師がいるというのかしら?」
「確証は……ねぇけどな。俺に呪いを掛けられるとしたら、この屋敷以外にあの村しかねぇんだ」
スバルは攻めに出た。
自分の命の危機である呪い、その呪術師から身を守るために、あえて前へ出ることにしたのだ。
ベアトリスから無期限での護衛を取り付けられたらそうはしなかった。
ただただ屋敷に引きこもっていただろう。
だが護衛は一日だけだ。
それならいつ来るかビクビクしているより、自分から動いた方が良い。屋敷の中に潜伏している可能性は低いと見たスバルはそう考えた。
その理由は。
「呪いを掛けるには相手に接触しなくちゃならない。そうなんだろ?」
直接触れるとなると絞ることができる。
屋敷のメンツを除いたら、可能性としてあのふもとの村しかないのだ。
「間違っていないのよ」
「なら、村で決まりだ」
嫌そうな顔をするベアトリスを連れ出すことに成功した。
ひとまずはホッとするスバル。
村に呪術師がいようと、レムもベアトリスもいるのだ。仮に呪いを受けても、発動前ならばベアトリスが解呪してくれる。
ふぅーっと息を吐き出して、禁書庫を出る。
「――――」
禁書庫から出る際に、ベアトリスが何かつぶやいていたが、そのつぶやきはスバルに
は聞き取ることができなかった。
ロズワールの屋敷から、アーラム村へと行く道すがら。
「お客様、よく道をご存じですね」
「え、あ、いや。大体こっちかなと思ってさ」
思わぬ所で地雷を踏んでしまうスバル。
勝手に屋敷から外出して疑われることを嫌って、こうして付いてきてもらったというのに、怪しまれては意味がない。
怪しい所はないと監視してもらうはずが、こうも裏目裏目に出る。
焦りが募り、手に変に汗が出てきてズボンで拭った。
スバルと無言のベアトリスが横に並び、その斜め後方をレムが歩いている。
レムとスバルの間に流れる微妙な空気を感じ取ったのかは知らないが、ベアトリスは口を開かなかった。レムもベアトリスの存在を十分に不審がっているようだったが、それを聞くこともしない。
――嫌な気配だ……
解決への道を進んでいるはずなのに、なぜこうも嫌な予感しかないのか。
「村が見えてきたのよ」
ようやくまともベアトリスが喋って、わずかにスバルの緊張が和らいでいく。一周目に一度来て、これで二度目のアーラム村。
「ではお客様、買い出しに行ってきます」
買い出しに行くと別れたレムを見送ってから、スバルは周囲を見回して確認する。
特別怪しむべきところはない。
ムラオサと青年団の若い衆、尻を撫でてくる婆さん。深呼吸をして、笑みをつくって彼らへの中へと踏み入っていく。
「今回も同じことを繰り返すしかねぇ、よな」
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レムと別れた後、スバルとベアトリスの二人だけになる。
「犯人の条件は――一周目で遭遇してる村人ってぇことだけか。見てわからないものなのか? 呪術師かそうじゃないかっていうのは」
「そこまでさすがのベティも万能じゃないかしら」
「なら、接触されたあとに確かめてもらうしかないのか」
「そうなるのよ」
村人に紛れている呪術師。村人でこの数日以内の外来の存在であればほぼ確定でそいつだ。
絞り込みは容易に行われる。
こじんまりとした村の景観を眺めながら、スバルは己の記憶をフル回転して過去を洗い出す。
「とりあえず記憶にあるのは……セクハラ尻撫でババアと青年団。ムラオサと、ガキ共ってとこか」
村の中で特に印象深いのが彼らぐらいになる。
彼らとの触れ合った一周目の記憶を思い出し、彼ら全員がさりげなくスバルに接触していることに気づく。
気づくも、得た手がかりといえば手がかりがないに等しいということだけだ。
考え込むスバルのそばで、ベアトリスもただ黙ったまま動かない。
「どーしたー、そこの兄ちゃん」「お腹痛いのー?」「お腹減ったのー?」
立て続けに反応する声は、スバルは視界を下から戻して前を見た。
ガキどもだ。
いずれもスバルの腰あたりまでしか身長のない、小さな子どもたち。その数はざっと十名には届くだろうか。
「お前らは毎度毎度、周回を越えても俺に絡みにくるな……」
「なに言ってんだー?」「頭ぶつけたー?」「お腹壊したー?」
「執拗に腹痛に拘るな。なんだお前、俺をそんなに下痢ピーにしたいのか」
言うと、子どもたちが一斉にけらけらと笑い出す。
まずはこのガキどもだ。
できるだけ接触するように、背中に乗せたりして子どもをあやしていく。
きゃいきゃいと黄色い声。
「次はボクも!」なんて声を聞きながら、スバルは子ども軍団を引き連れて村をぐるっと回ることにした。
――よし、この手で行くか。
「スバル、どうしたー」「どったのー」「ボケたのー?」
「んやぁ、別に」
首をかしげる子どもたちの頭を撫でながらスバルはに愛想良く笑って。
「……俺の命がかかってんだ。ちっとぐらいは協力してくれよな?」
「――ヴィクトリー!!」
両手を空に伸ばし、全員で声を揃えて空へと叫ぶ。
こうしていざやってみると案外と気分が良い。
村人たち――子どもだけでなく大人たちからも歓声が上がり、思わず手を打ち合った。
「お客様、一体何をしているんですか?」
「何って、ラジオ体操よラジオ体操。ガキ共をまとめてあやすついでに、見てた大人が悪乗りしてきたんだよ。――まぁ、思った以上の好評で俺もビビったけど。やっぱこの子どもからお年寄りまで幅広く楽しめる感じが長年支持され続けている秘訣なのではないでしょうか!」
「レムりん?」「レムりんだー」「レムりんりん?」
「…………」
買い出しが終わったのだろうレムと合流。
レムりんと呼ばれるのに、若干嫌そうな顔をしてスバルを見てくる。そんな視線から逃げるように、かたわらにいるベアトリスへと向き直り、
「今のところどうだ?」
「――安心するといいのよ。呪いを受けている形跡はないのかしら」
ひとまずは安心。
しかし村人の大半の人間と接触しているはずなのに、いまだ呪術師からの攻撃が来ない。
――ベアトリスが居ることで警戒された、のか?
それはそれで困る。
ベアトリスがいる状態で仕掛けてきてもらわないと対処ができない。しかもそのチャンスも今日限りときている。
安堵した直後、誤魔化していた焦燥感が沸き上がってくる。
そんな感情を抑え込むように周囲に愛想を振りまいていた。そんなときに、袖を引かれた。首だけ振り向くと、茶色の髪のお下げの少女が恥ずかしげにスバルを引き止めている。
「お?」
思わず、驚きの声がスバルから漏れた。
袖を引く少女へと目線を合わせるようにしゃがみ込んで。
「どした? 言いたいことがあるなら聞くぜ?」
「えっとね……こっち」
「絶対驚くって」「絶対喜ぶって」「絶対嬉ションするって」
子どもたちがくすくすと嬉しそうに笑い合っていた。
案内されるがままに、家と家の間を抜けて日の当たらない一角へと入り込む。
そして、彼らが見せたがっていたソレを発見した。
「あー、そういえばこのイベントもあったよなぁ」
それは褐色の体毛をした、子犬に似た小動物だ。
生まれたばかりのようで、体長は三十センチくらいしかない。つぶらな瞳に柔らかそうな体毛がキュートだった。
しかし。
「ふがーっ」
「やっぱりこうなるか……」
スバルが歩み寄った瞬間、全身の毛を逆立てて威嚇してくる。
「いつもは大人しいのにー」「スバルにだけ怒ってるー」「なにやったんだよー、スバルー」
「できれば同じ反応するなら友好的な反応だと嬉しんだけどなぁ、俺」
こうも嫌われているとなるとかなりヘコむ。
しかし、ふいに子犬が警戒を解いたように身をほどいた。お下げの少女の腕の中で身を丸める姿に、スバルはこれはチャンスと息巻いて歩み寄る。
「では、失礼して。――うぉ、なかなかの触り心地じゃねぇか。でもやっぱ野良は多少毛並みに難ありだな。そこは毎日のブラッシングと愛情が――あだだだだ!」
頭の10円ハゲを撫でようとしたところ、急に噛みついてくる子犬。
がぶり、と犬歯が食い込み、慌てて引き抜こうとして――血がちょっぴり出て手の甲を赤い液体がつたっていく。
スバルの血が地面へ、ぽたりとシミを作ったその瞬間――
もぞもぞとポケットの中で何かがうごめいて。
バサササササアッ!!!
スバルのポケットから大量のソレが一斉に飛び出した。
「――ッ!!」
一瞬にして視界が真っ黒に染まる。
羽根をもった黒い生物が、同時に羽ばたいてスバルの周囲を回るように飛んでいた。
まるでスバルを守るように、黒い生物の壁がそこにはあった。
その壁の隙間の奥に、黒い生物に噛み千切られ、ズタズタに食い殺されている子犬が見える。最後の肉片の一つまでその生物――コウモリが喰らっていく。
「な……なん、だ……」
次に聞こえてくるのは少女の悲鳴。
子犬を持っていたあの少女の声が、その耳をつんざく黄色い声が羽音にまぎれて響いてきたのだ。
――直後、コウモリを切り裂く鉄球。
鎖の音を伴いながら、トゲのついた鉄球がコウモリの壁を崩すように振り回されている。
「――早くこっちへ来るかしら!!!」
ベアトリスが焦ったような声を出して、その壁の隙間から小さい手を伸ばしてくる。コウモリに噛みつかれながらもその手をスバルは取ろうとして――
ギュッと。
と、伸ばしきったスバルの腕を誰かに掴まれる。
辿るようにして視線を上げていくと、そこに見慣れた童女の顔があった。死人のように青褪めた顔と、光のない瞳。
黒いおかっぱ頭と、どろりとした赤い瞳。
「――――」
何も喋らずに、ただぼうっとスバルだけを見ていた。