「スバル、愛しておるのだ」
愛の言葉がまるで調整の狂ったピアノの音みたいに聞こえてきた。
本来ならば美しい音を奏でているはずなのに、致命的にバランスが崩壊している。
そんな狂った、甘くトゲトゲしい声が、スバルの耳に吐息と共に吐き出された。
どうしても顔を上げることができない。
ドバドバと、ラルトレアが血をこぼして、その血がスバルの頬へと飛び散ってくる。たらりと垂れ落ちるそれを感じるだけで、スバルは何も考えられなくなる。
ふたたび訪れる完全な思考停止。
さらに今回はエミリアの死というどうしようもない絶望も添えられている。
スバルは動けなくなった。
ボチャッ。
地面しか見ることができないスバル。その視界の端に何かが落ちた。人間大の何かが血の塊とともにラルトレアが吐き出していた。
「――ぁ、ぺ、ぺとら……」
アーラム村に住む少女が、スバルの鼻先で虚ろな目をだらんと倒れていた。
血に塗れたその体は何も衣服を身に着けておらず、魂が抜けきって肉体だけがそこにあるかのようだった。
なぜここにペトラがいるのか。それすらもスバルは考えられない。
パックの声が聞こえた。
「気配を誤魔化すためだけに、その人間の少女を取り込んで魂まで喰らったのか。まさしく下種だね。救いがたい行いだよ」
「――貴様は心が読めるのだろう? それならそれ相応の準備をするまでなのだ」
「もういいよ。死ね」
ヒュン――グシャッ。
四つの氷柱がラルトレアの四肢をぐちゃぐちゃにしながら地面に張り付けにしていく。スバルのすぐ横にラルトレアの頭があった。
だがラルトレアはそんな攻撃などお構いなしに、スバルを見ていた。首をかしげて、薄く笑ったまま固まっている。
――あいしている。
まだ、そうささやいていた。
「君をそうまでさせているのは――そうか、スバルか」
パックの冷徹な声が届いたと同時に、スバルの意識は現実と切り離された。だがすぐに温かみに包まれていく。
死とは違う。
まるで何か大きい存在の中に取り込まれていくような、それでいて存在が確立されているという安心感があった。
三周目におけるスバルの記憶は、そこで途切れた。
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「ぁぁあぁあぁァああぁァ――――!!」
スバルはずっと意味のない音を漏らし続けていた。
自分が終わった瞬間というのを全く知覚できず、何か巨大な化け物の中でずっと絶望を叫んでいた。
ラルトレアがエミリアを殺し、レムとラムが自分を殺しに来る。ラルトレアはスバルに愛をささやいて、レムとラムを殺す。
ラルトレアに何を言おうと言葉が通じず、姿すら見せてくれない。
どんづまりだ。
襲撃者、呪い。レム、ラルトレア。殺されるエミリア。殺されるスバル。
ワケガワカラナイ。
何がどうなってああいうことになっているのか。ラルトレアがスバルと同じ記憶を持っているがゆえに、行動パターンがさらにデタラメで、スバルが思いもつかないような凶行に及んでくる。
それを止める力を、スバルは持っていない。
無力と絶望がないまぜになって、スバルを支配していた。そして何も考えられなくなる。
イタクナイ。
シニタクナイ
そんな言葉が機械のように口から通り抜けていく。しかしそれは誰にも届かない。なぜならば伝える相手がいない。
答えなど望むべくもなかった――はずなのに。
「――――」
なにかが聞こえた。誰かの声が聞こえたのだ。
意味は通じない。意味はわからない。意味をわかりたくない。
それでも少しずつ世界の色が明快になっていく。
白い天井。どこか見覚えのある天井。
なんどか嗅いだことのあるような匂い。
そして気付く。
喉から血が出ていた。
爪が割れていた。爪が剥がれるほどに腕を掻き毟っていた。
両足を、両手を周囲へと振り回して、一心不乱に叫び続けていた。
恐怖しかなかった。
四方八方を絶望に取り囲まれて、どうすることもできなくて、いつの間にか何かに包まれていて、それすらも恐怖でしなかった。
やがてその巨大な力も何かに引き裂かれて、スバルは解放されて今ここにいる。
全てを拒絶したくて暴れまわっていた。
そのスバルの全身を何かが力強く、しかし優しく抑えつけていた。
もう暴れなくていいと。
ラルトレアが以前使った巨大な手のような力ではない。あれはスバルの意思さえももぎ取ってしまうものだけれど、これはそうではない。
スバルを一つの個として認識して、優しく柔らかく、誤った道から正しい道へと引き戻してくれているのだ。
そうして、スバルは目を覚ました。
自分が仰向けに寝ているのだと気付き、そこがベッドだと考えて、すぐさま死に戻りのことと関連づけた。
戻ってきたのだ。
一日目に。
だから、暴れる自分を体を張って制していたのは、
「お客様。すこしは落ち着いていただけましたか?」
「お客様。発狂するのは迷惑だからやめてくれる?」
何度も耳にした双子のメイドの声が重なり合うように聞こえてくる。
スバルの鼓膜に入って、先ほどの光景が思い出してくる。
レムがスバルを疑い殺しにかかってくる。あのシーンを。
思い出して、スバルの奥からは。
「……は、はは」
乾いた笑いが出てきた。
――なんか、一周回って振れ切れちまった気分だ。
四周目の一日目、ロズワール邸の廊下をスバルは歩いていた。
なんだかもう全てがどうでもいい。
スバルは死に戻りを行うことで、誰も感じたことない狂気と恐怖を味わうという経験をした。
しかしその量が大きすぎてスバルの精神は耐えられないどころか――おかしくなりすぎてむしろ正常に戻っていた。
あまり目の前の光景が突拍子がなさすぎて脳が理解できていないとも言えるかもしれない。
「こっち、か……」
たどたどしい足取りで、スバルが真っ先に向かったのはラルトレアの部屋。二周目のようなことがあれば、それでもうスバルはお終いだ。
周囲の全てがどうでもいいけど、死にたくはなかった。
死ぬのはつらい。何度死んでも死にたくはない。死に戻りできるとしても、その感情は変わらない。
キィィイ――ガチャ。
「…………いる、のか……」
窓際の血だまりに、小さい女の子が突っ伏していた。
何の血かと見れば、空のビンが割れて中身をぶちまけていた。大量の血溜まりにうつ伏せに顔を突っ込んで、ピクリとも動かない。
カーテンが開けられ、差し込む朝日が女の子を包んでいた。
「……ラル、トレア」
スバルはラルトレアへ抱く感情がよくわからなかった。
エミリアを躊躇なく殺すヤツなのだ。人を人とも思わず、残虐なことを平気でやってしまう。
そんな吸血鬼、人外、化け物なのだ。
なのに、スバルはどうしても憎むことができない。
何度も何度もラルトレアはいうのだ。
スバルを、愛していると。
スバルを、守ってやると。
狂っている。何が愛しているだ。守ってやると言ってラルトレアはスバルを一度殺している。
「…………」
愛している。
思えば、その言葉をスバルは軽く受け止めていたかもしれない。ラルトレアの言う愛と、スバルの感じていた愛とでは、言葉の重さがかけ離れているのかもしれない。
ラルトレアの凶行を思い出して、ふとそういう考えが浮かんだのだ。
――もし、ラルトレアがスバルのことを死ぬほど好きで、全てを犠牲にしてもいいと考えていたら?
まさか、と思う。
そこまで自分が好かれる人間だとは思わないし、ましてや小さな女の子なのだ。年も離れている。
誰かを殺すのも、何かを壊すのもスバルのため。
人間じゃないからこそ、ラルトレアにとって人間の命というのは思った以上に軽いのかもしれない。
そんな強烈な愛。
強すぎて、重すぎる愛をスバルは受け止めていなかった。
それにラルトレアは苛立っていたのだとしらどうなる。こんなにも想いを寄せて力を尽くして守っているというのに、なぜ振り向いてくれないのかと。
――守る?
今思えば、それが変だ。二周目の世界においてラルトレアは急に暴れ出した。ラムを殺して――
「……どうして、ラルトレアはラムを殺した……? あのときレムはどこにいたんだ?」
ふと、スバルの脳裏に考えが浮上してきた。
もしこれが正しいのだとしたら、ラルトレアは本気でスバルのためを思って行動して、それがうまく伝わってなかっただけということになる。
やり方が残忍すぎて、人であるスバルの価値観から離れすぎていて、理解ができなかっただけで。
「鎖の音……一周目で体調のおかしくなった俺を殺したのはレムだ。三周目でそれは明らかになった。それで、ラルトレアは俺と同じく記憶を引き継げる。一周目でレムが俺を殺すのを、ラルトレアが見ていたとしたら……」
一周目で、スバルが覚えているのは自分の体調不良と鎖の音だけ。
二周目では、ラルトレアがラムを殺したことだけ。
三周目で、レムがモーニングスターで俺を殺そうとした。
「なら、俺が知らないだけで、二周目でラルトレアはレムを殺していた?」
ラルトレアは一周目でレムがスバルを殺すのを目撃し、巻き戻った瞬間怒り狂ったラルトレアが暴走してレムを殺害、そのあと現れたラムをも殺して――
そこに運悪くスバルが駆けつけて、歯止めの利かなくなったラルトレアはスバルにさえ攻撃した。
スバルの為を思ってレムとラムを殺したのに――そんなことを考えて。
「ははっ、そんなまさか。ありえねぇよ、ラルたん」
口で否定しようとも、三周目がそれを裏付けている。
ラルトレアは現れたのだ。レムに襲われているスバルの前へ。守ろうとして、やってきてくれて――
しかし、エミリアを殺していた。
一体あれは何なのか。重すぎる愛。スバルの心はエミリアに向かっていたから、やきもちを焼いていた――そんなありえない考えも出てくる。
「わかんねぇ。なぁ、教えてくれよ……」
どうしてそんなことをするのか。
きっと人間と吸血鬼では相容れないのかもしれない。だけど、スバルはこのとき初めて相手との違いを知った。
そして、理解しようと一歩踏み出した。
横たわるラルトレアに近寄って、その小さな体を抱き起した。うつろな目には何も映っていない。
「ラルたん……そんなに俺が使用人になるのが嫌だったのか? なんでそこまでしてくれるんだ? 俺がちゃんと大人扱いしなかったから拗ねてるのか……?」
小さい肩を揺さぶって、その顔を覗き見た。まばたきすらせずに、ずっと虚空を見つめたまま固まっている。
「なぁ……」
ぎゅっと抱きしめて、スバルは固くまぶたを閉じた。
情けなかった。
何も分からないことだらけで、周りは敵ばかり。絶望に満ちていて、明日への手がかりすらない。そんな状態で、スバルはこんな幼女に泣きついていた。
ふたたび、まぶたを押し上げて真っ直ぐ見た。
だが、そこには変わらず無表情のラルトレアしかいない。その瞳には光さえ宿っていない。
まるで全てが遅すぎたとでも言わんばかりに、スバルに更なる絶望を突き付けてくる。
ぽとり、と。
不意にだらんと垂れたラルトレアの右腕がスバルの膝に落ちて、握りしめた拳の中から何かが落ちた。
それは白い牙だった。
ラルトレアの、吸血鬼としての牙。スバルはそれを拾い上げて、強く握りしめた。牙が肉に食い込み、血があふれ出てくる。
しかしそれだけで、何も起きやしない。
何もかも、思い通りにいかない。全てがスバルの意思に歯向かって進んでいく。
「……くそッ!!!」
何度何度も、牙を握りしめた拳を床に打ち付けていた。
レムが駆けつけて、エミリアが大騒ぎしてもなお、それをやめることはなかった。
憐みと不信感の目で見る周囲。
スバルの中に残ったのは虚無感だった。
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四周目初日の朝、ロズワール邸・食堂。
「俺を……食客として扱ってくれ」
ロズワールとの初対面の食事時、スバルは前回同様に食客となることを望んだ。ただただ、リスクが低いのではないかという方を選んだ。
食客になっても使用人になっても、どちらにしろレムに疑われる。それなら食客となってずっとそのままでいい。暴走していたラルトレアは完全に動かなくなってしまったのだから。
どの道が最善ルートなのか、スバルにはさっぱり分からなかった。
ただ生きたい。それだけの目的で、自分の死亡するリスクを減らす方向に動くことにした。ラルトレアの事に関しては、手の付けようがない。
リセットできないのだ。
ラルトレアとスバルの関係は。ラルトレアが全てを覚えているために。
だから、どうしようもない。
解決策なんて思いつかなかった。ラルトレアを呼び起こして誤解を解いて、レムとも信頼関係を築いて、エミリアを守り抜くだって――?
――無理だろ、そりゃ。
無理ゲーすぎてむしろ笑えてくる。
それをするくらいなら、目標を低く設定してイージーモードでいきたい。ただ、スバルだけが生き残ればいい。
だって、どうしようもないのだ。
救う手立てが見つからない。自分の命を守ることもできない奴に何ができるというのか。
ラルトレアが関わらない一周目の死。
それはレムの鉄球と、謎の体調不良だ。
体調不良については二周目にベアトリスから少し話を聞いている。
『そういや、お前って見た目そんなでも魔法使いなんだろ?』
『魔法が使えるという意味ならそうなのよ。でも、そんじょそこらの二流どころと一緒にされたら困るかしら』
『対象を衰弱させてじりじりと殺す魔法……とかってあるか?』
『あるかないかでいえば、あるのよ』
『あるのか』
『魔法というより、呪いの方に近いかしら。魔術師より呪術師の方が得意とする術法にそんなものが多いのよ。陰険な呪い師らしいやり方かしら』
一周目では呪いで弱ったところをレムに殺された、のだろう。
問題はスバルはいつどうやって呪いをかけられたのか――そして、誰が呪いをかけたのか。呪いをかけたのがレムだとするのは早計だ。
そもそもレムの力なら呪いだなんて回りくどいことをしなくてもスバルを殺せるはずだ。それこそミジンコ並みだろう。
それに、三周目ではスバルは呪いをかけられていない。
ラムもラルトレアも確率は低いと考える。
なら呪術師は誰なのか。
レムの凶行は呪術によって弱ったスバルが屋敷をうろついて疑心を募らせたとすると、襲撃者とレムは別。
そもそもロズワールに忠誠を誓うレムとラムだ。
主の害ともなる襲撃者に加担するはずがないし、その忠誠心は本物だろう。
だとすれば、スバルは呪術師だけを恐れればいい。
レムにスバルを襲うきっかけを与えずに、呪いをどうにかする。
どうにかするために、スバルは扉を開いた。
そこにいるであろう金髪ドリルロリを頼るために。
扉渡りを破って禁書庫へと踏み入る。
「ノックもしないで入り込んで、ずいぶんと無礼な奴なのよ」
「……俺を、助けてくれ」
スバルは全身全霊の土下座を披露した。
スバルのメンタル強度が高めに設定してあります