食後、重たい腹を抱えて食堂のある寮から『普通学科』の校舎まで走って戻り、息も切れ切れに俺は自分の席へと付いた。
後五分くらいで五時間目の授業が始まる。五時間目は理科で、六時間目は体育館での体育だ。
やはり夕張先生は五時間目も授業をこなしていた。この時点で生徒から夕張先生に向けられる視線は尊敬の念が多く混じっており、時折先生をべた褒めしている会話も聞こえる。
本来移動教室というものは友人と行くようだけど、俺は残念ながら友人が居ない。
体育の授業道具をもって、俺は体育館まで一人歩いていく。道中、何人かの生徒とすれ違ったものの、会話は無かった。
体操着の下には赤い宝石の付いたペンダントはなく、流石にポケットに入れている。
運動中にペンダントを付けるのは危ない。何回も上梨村で怒られたものだ。
体育館に設置してあるホワイトボードで一年間の体育の流れを説明する夕張先生。黒いマジックがキュッキュと音を出し、綴られていく文字を俺たちは体育座りで追っていく。
「さて、一年間の体育はこんなもんかな。じゃ、今日は簡単に鬼ごっこでもしましょーか!」
夕張先生はそう言うと、俺に視線を向けた。
「式君、悪いけど体育倉庫からストップウォッチとフラッグを持ってきてくれるかな? 体育倉庫は体育館の裏にあるから」
「分かりました」
俺は頷き、素直に従う。立ち上がって小走りで体育館を出て、体育倉庫の重たい扉を開けて中に入った。
窓も少なく、暗い体育倉庫は埃が充満している。何度か入り口で咳き込むと、俺は中へと入った。
マットを踏みつけ、体育祭で使うような大縄を乗り越えて、奥の方にあった赤と白の旗はカゴに入っていて、俺はまずそれを丸ごと持ち上げる。
その後、ストップウォッチを一分くらいで探し当て、カゴに放り込んだ。
「ごほっ、ああ、埃凄いな……」
歩く度に巻き上がる埃。何度も咳き込んでいるうちに思わず呟き、俺は体育倉庫を手早く後にする。
カゴの中身をわっさわっさと揺らし、体育館の中へ。皆がルールを確認している中に入って、夕張先生に道具を渡した。
「ありがとう、式君。じゃあ皆、集まってー! チーム決めするよー!」
その声に皆が元気よく返事して、俺たちは小さく一か所に固まった。夕張先生が各々の身体能力を見極めて公平にチーム分けしていき、結構スムーズにチームは決まった。
俺の居るチームはBチーム。最後に夕張先生自身が審判になる事を告げて、そして鬼ごっこが始まる。
――――筈だった、その瞬間。
突然、一か所に固まっていた俺達を取り囲むようにオレンジ色の透き通った壁が生成された。まるで結界の様なそれは、俺達を包み込んでいる。
完璧に隔離された。事情を呑み込めない生徒達が全員ざわざわと騒ぐ中で、やがて俺はぼそりと呟く。
「……『精霊』……!?」
人間を超えた力を持つ存在。
ステイ・リンクでは身体能力強化と、本当に強力な『精霊』は能力の一部を。
ポゼッション・リンクでは身体能力強化に『精霊』の能力を完全に使える。
この透き通ったオレンジ色の結界は人間には作り出せないだろう。なら、答えは一つしか無い。
今この場に、『精霊』とポゼッション・リンクしている人間がいる。そしてその人間は、俺達を隔離した。
いや、そもそも俺の推測があっていたとして何の利益があるのだろうか。
『精霊』と契約していない常人が集まるのがこの『普通学科』なのに。どうして、何故?
……俺がそうして一人、段々と大きくなる喧噪の中で静かに考えていた時。突如、体育館の扉が破壊されて。
そして、そいつらは現れた。
一人は人狼。もう一人は、右手にオレンジ色の光を宿している、恐らく結界を張っている人物だった。
「な、何だよあいつ等っ!?」
生徒の一人が叫ぶ。
その声に呼応するように騒ぎはドンドン大きくなっていくが、やがて人狼が右手を挙げて。
真上から、右腕を体育館の地面に突き刺した。
次の瞬間、その突き刺さった部分から亀裂が体育館を走る。ミギミギミギ!! と体育館を軋ませた人狼は、亀裂が止まると同時に右腕を床から引き抜いた。
それだけで十分だったから。
今まで煩かった俺達は、目の前に突き付けられた恐怖に全員が固まった。何も言えず、どうやっても動けない。何かしたら殺されるかもしれない。そんな非日常的な考えが脳に真剣な考えとして浮かぶくらいに、その人狼の見せた圧倒的な力は純粋な恐怖を覚えさせる。
俺も、動けなかった。
膝が笑い、奥歯がカチカチと震えて音を鳴らす。視界が貧血の様にぐらんぐらんと揺らぎ、脳に霞がかかったかのように考えが及ばなくなっていく。
明らかに、俺はこのクラス内で一番怯えていた。恐怖に支配されていた。
辛うじて立っている俺の傍に、心配そうにクラスメイトが寄ってくる。が、それらの中で一番最初に俺の元へと来たのは夕張先生だった。
何も言わずに、先生は俺の背中を優しく撫でてくれる。段々と恐怖が薄れていく中で、やがて人狼の低い声が体育館に響いた。
「……光あれ。『精霊』の頂点、[アマテラス]に光あれ」
[アマテラス]。
初日の、単眼の巨人。あれを隠す程に強力な光を操り、光のカーテンを作り上げた『精霊』。
ルテミスが言っていた。あれ程の光のカーテンを作れるのは、[アマテラス]以外居ないと。そしてその名前が出たと言う事は、こいつ等は少なからずあの単眼の巨人に関係していると言う事。
緊張感が漂う中で、夕張先生の厳しい視線が人狼と結界を作り出している黒フードに向けられる。
「光あれ、光あれ。若き人々よ、[イザナミ]を差し出せ。そして、[イザナギ]へ案内せよ。冥府の門を開かん、今『無限の精霊契約者』を甦らさん……」
虚ろに、奴らは「光あれ」と繰り返す。
[イザナミ]と[イザナギ]は確か、日本神話に出てくる神様だ。
だが、『無限の精霊契約者』という言葉は聞いた事が無かった。困惑する俺。静かに押し黙り、涙を浮かべ拳を握りしめ、友人同士で身を寄せ合い恐怖を耐えるクラスメイト。
何も言わずに、俺を落ち着かせようとしてくれている夕張先生。
混沌と呼ぶのに、相応しい場だった。
「[イザナミ]を差し出せ。[イザナギ]へと案内せよ。『精霊』と契約を交わしている、夕張よ」
「っ!?」
ビクッ、と俺の背後に立つ夕張先生の肩が揺れたような気がした。
俺の背中を撫でていた手も止まる。しかし人狼の言葉は、続く。
「早く出てこい、[イザナミ]!! 早く出てこなければ、一人ずつ殺す!!」
クラスメイトが全員、震え上がった。
後ろを少し伺えば、夕張先生が唇を噛みしめて震えている。その瞳には少なからずの憎しみが含まれている様で、その何時もとは違う雰囲気に俺は察する。
夕張先生は、『精霊』と契約している。
そしてその『精霊』は、恐らく人狼の求めている存在。
[イザナミ]だ。
「誰だよ!! おい、[イザナミ]って奴速く出て来いよ!」
「俺じゃねえぞ!」
「私でも無いし! ねえ、速く出て行ってよ!」
そして、人狼の殺害宣言によりクラスメイトは全員大声を上げる。さっきまで仲の良かった風に見えたクラスメイト達は、[イザナミ]を血眼で探し始めた。
その中で。
恐らく[イザナミ]であろう夕張先生と。
それを何となく察している俺は、黙っていた。
混乱する様子を見ている人狼と黒フード。
俺はその場で、長く長く息を吐いた。緊張を無理やりにでも解し、そしてポケットに手を突っ込む。
取り出すのは、赤い宝石の付いたペンダント。それに気づいた夕張先生が何かを言うよりも早く、俺は口を開く。
「……フィニティ、話がしたい」
その瞬間、言葉を言い終えるよりも前に内臓が引っ張られる様な感覚が俺を襲い、そして意識ごと引きずり込まれていった。