僕は胃腸をボロボロにしながらも、月ノ美兎だけを心の支えになんとか乗り切ったのですが。
上司から「来年はさいたまとかどうや?」と言われてしまいました。
どうやらどこへ行っても転勤から逃げることはできなさそうです。
「ふーん、あんたがここのオーナー?……まあ、悪くないかな……」
俺の目の前にいるこの小生意気な女は、何やら最近売り出し中のアイドルらしい。
たまたまきらりに出てきてみれば、この客が『いつもと味が違う!』と騒ぎ出して俺が呼ばれたのだ。
「それで、何か不都合な点でもありましたか?」
「あたし、ここの店のオーナーに会ったら一回言ってみたいことがあったんだよね」
「はぁ」
「ここのカレー、1.5キロぐらい食べたとこからちょっとだけ苦味が出てくるんだけど、それをどう思って出してるのかなって?」
そんなに食うやついねーよと思って出してます。
和久井さんがそそくさとやってきて俺に耳打ちした。
「彼女うちの店の常連で、二つ名持ちなんです」
なんだそりゃ。
怪訝な顔をする俺に和久井女史が補足して言う。
「インターネットのうちの店のコミュニティでは、特徴がある客にみんなが面白がってあだ名をつけるんですよ。ちなみに、彼女は魔法のようにカレーを吸い込む様から『バキュームさん』と呼ばれてます」
最ッ低のあだ名だな。
別にいいけどねなんでも、こいつ以外にそんな量のカレー食う人いないだろうし。
「そんな量は食べた事がないのでわかりません」
俺が素直にそう言うと、渋谷凛とやらはふぅーんと鼻を鳴らして店を見回した。
「みんなも思ってるはずだよ、このカレーの先が見たいって。超大盛りの、その先にある味の深みをさ……」
俺が他の客を見回すと、みんな無言で首を横に振っている。
あの人どこの事務所?と小声で聞く俺に和久井女史が美城芸能ですと耳うちした。
電話して迎えに来てもらおう。
その後、営業先のさいたまから車飛ばして来た武内くんに引き取られるまで、渋谷凛はカレーについて喋りっぱなしだった。
「クールが売りのアイドルなんですよ」と和久井女史が言っていたが、絶対嘘だろ。
大食い売りのバラドルだろ!
梅雨真っ盛りの6月半ば、早くも庭石に苔が生えはじめた新築の我が家に婆さんがやってきた。
「まずはおめでとう」
そう言って楓の妊娠祝の紙袋を差し出す婆さんの顔は渋い。
「どうしたんだよ」
「あたしゃこんなこと言いたかないけどね、あんたいい加減に料理から逃げてるとどっかに攫われちまうよ」
「毎月きらりで食事会やってるじゃん」
「あれは芸能関係者で完結してるから、そっちで抑えられる分しか抑えられないんだよ。今度はあんたの腕に中東の石油成金が目ぇつけたって話だよ」
「げえっ!」
「あっちだってちゃんとした店で食えるもんなら、ちゃあんと食いに来るんだよ。あんたがそう頑なだから話がややこしくなるのさ」
「あー、うーん、なんか考えてみるよ」
「そうしな、あんたもこれから親になるんだからね!いつまでもフラフラと博打みたいな事してないで、ちゃあんと世の中と向き合いな!」
俺に痛烈な言葉を投げかけて、婆さんはさっさと帰っていった。
なんとも面倒くさいが、もともとチート(ずる)とは周りとの軋轢を生むものだ。
俺の料理を定期的に提供する方法……レストランにするか、ケータリングにするか、それともディナーショーのようにしてしまうか。
考えあぐねたので千川さんに相談してみると、すぐに気の利いた答えが返ってきた。
「社長、食事会の権利をオークションで売りましょう!月に一組か二組限定にしておけばプレミア感が出てお客さんも大満足ですよ」
さすがは千川さん、頼れる俺の知恵袋だ。
だがさすがにこの話は俺の個人的な事なので、今あるものとはまた別に会社を作った。
その名も株式会社『マッドナルド』だ。
まるでハンバーガーでも売ってそうな名前だが、この世界には類似の名前の企業は存在しないからオールオッケーだ。
天下の大企業サギゲームスと孤高のホワイト企業サンサーラが50%づつ株式を持っているので信用もグッド。
会社と言っても店を持つ気もないし、客に食いたいもの聞いてホテル借りて作って出すだけの簡単作業だ。
とはいえ片手間でできる仕事でもない、求人を出そうかと話していた所で、俺の隣から手が上がった。
「社長!私にやらせてください!」
ピョコっと背伸びして精一杯高く手を上げていたのは、俺の秘書の千川ちひろさんだった。
「この時のために、社長の料理をマネージメントする時のために、ずうっと準備してきました!」
「え、でも千川さんがいなくなったら困るんだけど……」
正直言ってこの有能な人が料理事業にかかりきりになってしまうと、俺の仕事が回らなくなる。
「サギゲームスとサンサーラの仕事の方は、もう総務部でも処理できるように仕組みを作ってあります。あとは簡単な引き継ぎだけで大丈夫です。後任の秘書にはサンサーラの後藤を……」
「いや、その……会社の方もそうなんだけど、千川さんがいないと俺個人が困るっていうか……」
仕事どころじゃない、なんでもかんでも千川さんにお任せでやってきたからな。
正直言ってまだまだ卒業の準備ができてなかった、がーんだな、出鼻をくじかれた。
「社長。その、業務上の必要がないのに、四六時中一緒にいてほしいとなってくると……もうビジネスの関係ではすみませんよ」
ずいっと近づいてくる千川さんの顔が真っ赤だ。
あっ、そういうことか……
口説いてるみたいになっちゃったな。
いや、実際問題俺は千川さんがいないと生きていけないんだよ。
「うん、一緒にいてください」
口から自然に言葉が出た。
握られたのが胃袋じゃなくてスケジュールだってのがちょっと情けないが、しょうがない。
俺はもう、これから千川さん以外の人が毎日側について回るなんて考えられない。
「社長っ!!」
感極まった千川さんに押し倒された。
唇を突き出して俺に迫る千川さんをなんとか押し止める。
「もうっ!どうして拒むんですか!」
「いま会議中だから!」
サギゲームスとサンサーラの役員のお姉様方が、床でもつれあう俺達を死んだ魚のような目で見ていた。
それからやや時間を置いて、俺と千川さんはその場の全員から気のない拍手で祝福されたのだった。
さて、俺とちひろの事だが。
家格が釣り合わないので婚姻関係というわけにはいかず、いわゆる一つの愛人関係というやつになった。
この世界の日本での家制度というやつはとことんシビアだ。
組む相手は慎重に慎重に選ぶ。
うちの家は金持ちだし、美波も楓も瑞樹もお嬢だ。
一方でちひろの家は若干貧乏寄りの中流家庭。
俺と高峯の家が良くても、俺の三人の嫁さんの実家が結婚を許さないというわけだ。
それでも一緒にいたくて愛人になるというわけだから、ある意味では一番愛のある関係とも言えなくはない。
実際自由に選べない嫁さんよりも、自分の選んだ愛人との家庭の方を大切にして家をあけっぱなしの男というのは結構多い。
うちの親父なんかもそうだしな。
幸いちひろはうちの嫁さん達全員から受け入れられていて、そのまま俺の家に住むことになった。
というか「ようやくか」とか「安心した」とか「肩の荷が降りた」とかちひろが言われてるあたり、嫁さん達にとっては彼女が愛人になるのは既定路線だったらしい。
ともかく、今月は二人も家族が増えたというわけだ。
めでたいぞ!!!! (やけくそ)
さて、時間は飛んで7月の半ばだ。
株式会社マッドナルドからオークションに出された1枚のコイン、通称マッドコインはほどほどの入札合戦の末に結構な値段で落札された。
これは俺に飯を作らせる権利が付随する金属製のコインで、割符として使うために全体の三分の一がカットされている。
落札者は石油王の代理人らしい。
どうでもいいが、石油王という言葉はどうにも現実味がない。
盗賊王とか冒険王とかそういう類の言葉と並べて考えてしまうからだろう。
俺もこのまま料理で稼げば料理王とか呼ばれるんだろうか。
「社長はネットで中卒王って呼ばれてますよ。多分若い中卒者の中で一番稼いでるからって」
俺の腕に絡みつきながら仕事をしているちひろが教えてくれた。
『オンの間は公私混同しないためにも、これまでと変わらず社長と呼びますから』と自分から言っておきながら、全く公私を分けられていない。
「それでこのクライアントからのリクエストなんですけれども……」
彼女は中東特有の謎文字で送られてきたメールを翻訳にもかけずに読み、スラスラと要点を紙に書き出してくれた。
「大まかに言うと、4人分のハラールの日本料理をお任せでって事らしいです」
ハラールといえば酒と豚が駄目なやつだ。
基本的にハラール専門店で仕込めば大丈夫なわけだから、比較的イージーなお題と言えるだろう。
懐石って言われなくてよかった。
懐石は料理単体で満足してもらえるように作るのは色々と面倒くさい。
あれは茶会の前に食べる料理だし、現代の意味でも格式高い軽食みたいなもんだからな。
体がでかい外国人にいきなり食べさせて満足させるのは難しい、伝統的であれば伝統的であるほど不思議な顔をされて辛いのだ。
前世で接待に使ったことがあるが、リクエストした本人が目に見えてションボリしてたからな。
店出てから行った丼物屋では大興奮で1000円の海鮮丼食ってたけどさ。
あの外人の嬉しそうな顔を思い浮かべながらメニューを決めたからなのかどうかはわからないが、石油王御一行に出したマグロカツ丼はそこそこ好評だった。
興奮して口の周りを米粒だらけにしながら、謎言語でなにかを喚いていた石油王の年若いご子息。
後からちひろに聞いたら『うちの国に来たらよ!お前!店持たしてやるぜ!お前!レストランやろうぜ!絶対来いよ!絶対!』と言ってたらしい。
行かねーよ。
マグロカツ丼出した瞬間、俺の事を石ころでも見るような目で見ていた石油王本人もご満悦だった。
奥さんになだめすかされて一口食べてからは丼に顔突っ込むようにして食べてたからな。
立派な髭が米の付きすぎで秋の稲穂みたいになってた。
帰りに親しげに俺の肩を叩いてなんか言ってたから、とりあえず曖昧に笑っておいたんだけども。
ちひろ曰く『なんかあったらうちの国に亡命しておいでよね』って言っていたらしい。
洒落にならんからやめてくれ。
偽造パスポートとか送ってくるなよ。
魚は嫌だってぐずりだした娘さんには、マグロカツ丼が駄目だったときのために用意していたものの中から天麩羅うどんを出した。
鈴の鳴るような可愛い声で、はっきり「Fuck'n cheep noodle」と言ってしかめっ面でフォークを握った彼女だが、一口食べてからはもう無我夢中だ。
アゴだしの汁までふぅふぅ言いながら飲みきって、ご満悦のえびす顔だ。
尻の青い小娘一人、手玉に取ることぐらいチョロいもんだ。
デザートにクリーム白玉ぜんざいを出して掌の上で転がしまくってやったわ。
一番食べたのは石油王の奥さん。
多分第一婦人とかなんだろうけど。
マグロカツ丼食って、うどん食って、寿司食って、天麩羅おかわりして、クリーム白玉ぜんざいを二人分食って帰った。
料理にはなんも言ってなかったけど帰りに10万円ぐらいチップくれた、ラッキー。
こんなチョロい仕事なら、もっと早くからやっとけば婆さんにとやかく言われる事もなかったのにな。
しかしこの一家がほうぼうで俺の話をして回ったおかげで、次の月からコインへの入札がとんでもないことになる事を、この時の俺は予想もできていなかったのだった。