なにしおはば改   作:鑪川 蚕

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始まります


1話 艦娘

名前。ある事物をそれと認識するためにつけられるもの。つまり実と虚を仲介するものだ。

実とはそれそのもの。

虚とは実を認識した外部が作り出した情報。

ここに「あるもの」があるとしよう。

「あるもの」が実だ。

あなたはそれを眼で見たり、手で触ったり、耳を澄ませたり、鼻で嗅いだり、舌で舐めたりする。

そして「あるもの」は「甘くて、茶色くて、長方形の薄さ5ミリの板状の菓子」と認識した。

「甘くて、茶色くて、長方形の薄さ5ミリの板状の菓子」が虚だ。

最後にあなたはそれを「チョコレート」と名付けた。

これで実と虚は結ばれた。

するとあなたはチョコレートと聞くと「甘くて、茶色くて、長方形の薄さ5ミリの板状の菓子」を思い浮かべるようになる。

あなたの目の前にそれが存在していない時も。

するとこう言えないだろうか。

「チョコレート」が頭に浮かぶとチョコレートは世界に存在する。

浮かんでいないと世界に存在しない。

例えあなたの目の前に「甘くて、茶色くて、長方形の薄さ5ミリの板状の菓子」があった時でも。

 

実があり、実から虚が生まれ、名が生まれ2つを繋ぐ。これが正常な流れである。

しかし世界は奇天烈だ。流れに逆らう異常物が時たま生まれる。

名があり、名から虚が生まれ、実が生まれる。そんな異物が。

もしあなたがその異物ならばどうする。

名を好むか、嫌うか、望むか、憎むか、誇るか、隠すか、追うか、退くか、偽るか、妬むか、

 

それとも背負うか。

 

なにしおはば

名を背負うならば

 

これは名を背負うもの、艦娘たちの物語

 

 

 

 

************************************

 

 

 

3月下旬。春の日差しと風が日々気温の上げ下げで争う季節。

听畿地方大坂府にある舞鶴鎮守府大坂支部の正門前に黒塗りの高級車が静かに停止した。

 

「送って頂きありがとうございました」

ドアに手をかけ少女は運転手に礼を言う。

壮年の運転手が運転席から後部座席へと身体をこれでもかと振り向かせた。

 

「とんでもない!身に余るほど名誉なことでございま……!」

 

運転手は礼を止め瞠目する。

少女は窓を上げ下げしていた。ドアに付属するレバーを回転させて。何故ドアが開かないのか不思議そうな顔をして。

開いた隙間から春風が吹き下ろし彼女の艶やかな茶色がかった黒髪を揺らす。

あぁと納得した運転手は慣れた態度で車を降り、「少し離れていただけますか?」と声をかけた。

少女が手を離したのを確認するとドアを静かに開く。

 

「立て付けが悪いのかもしれません。後で確認しておきます」

「そうしてください」

 

少女は運転手の言葉を疑いもしないまま車外に出る。

運転手はトランクから女性が持つには武骨な皮張りの茶色い鞄を取り出した。中に入っているのは洗面具や本、下着などのありふれた類いの物だがまるで3億圓の札束が入っているかのように慎重に扱い、少女に恭しく手渡す。彼女は軽く会釈し、鞄を受け取り、目的地である赤レンガの建物の正門へと歩いていく。

少女が正門をくぐり抜けようとすると屈強な警備員が懐疑的な視線と共に建物内への進入を拒んだ。彼女は少しムッとした表情をし、鞄の前ポケットから取り出した身分証明書を掲示する。警備員は確認した途端直立不動で綺麗に敬礼し少女を見送った。運転手は車にもたれ掛かり胸元にいれたはずの煙草を探りながら見送る。

当の少女は顔を強ばらせ、右手と右足を同時に出しながら歩いていく。

途中石畳の亀裂部分に足を取られ、こけかけるがなんとか姿勢を保ち進む。

 

「大丈夫やろか」

 

少女に聞こえない大きさで運転手は心配そうに呟く。煙草は見つからなかった。

 

「わかりません。しかし信じるしかない」

 

警備員には聞こえていたようで彼は誠実な眼で少女の背中に敬礼しながら答えた。

聞かれていたことに居心地の悪さを感じ運転手は肩を竦める。そして今度は誰にも聞こえないように一人ごちた。

 

「人類の切り札、艦娘か」

 

とてもそうは見えへんのやけどと、心の中で付け足す。

彼の娘よりも幼く見える少女。スカート下より伸びる脚から多少鍛えていると伺えるが、格闘技に心得のある彼なら簡単に組伏せてしまいそうなほど華奢な身体。世間知らずの箱入り娘の印象を受けるほど頼りない。

しかし艦娘が実際この仁本国の救世主であると運転手は知っていた。

艦娘の導入以降10年が経過した。壊滅寸前だった仁本国は艦娘という対抗戦力でもって、かつての経済水域、主要な海上交通路を取り戻した。経済を回りだしたこの国では資材不足や就職難、疎開という悩みを抱えつつも国民に笑顔が戻りつつある。運転手自身もその恩恵を享受している。

残念ながら現在艦娘以上に有効な対深海悽艦兵器も見つかっていない。

だから運転手に出来ることは送迎と信じることのみだ。

彼はやれやれと溜め息をつき上着とネクタイを整える。そして既に米粒ほどに小さくなった背中に一縷の望みをこめ敬礼し続けた。見えなくなった後も。

 

 


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