「くそぉ、あやめにまんまと嵌められた……。最初から私達に幽霊を見せる気なんて無かったんだよ……」
「…………」
薄暗い廊下の往来で、光の壁に閉じ込められた清音と春が、膝を抱えて座りながらじっとあやめの帰りを待っていた。清音は先程からずっと文句を垂れ続け、春は俯いたまま黙り込んでいる。
清音も最初の頃は何とか部屋の中を伺おうと身を乗り出していたが、ドアが固く閉ざされているため中が見えるはずもない。2人を取り囲む壁には遮音効果もあるらしく、中からの音で何が起こっているのか推測することもできない。
なので清音の行動も自然と文句を垂れる方向にシフトしていったのだが、唯一の話し相手である春が無反応を貫いているため、それほど時間も掛からずに飽きた清音は、不機嫌そうに口を尖らせてポケットのスマートフォンを取り出した。
画面に表示されている時刻は、11時を少し過ぎた頃だった。
「ねぇ、清音」
ふいに、春が口を開いた。
「ん、何?」
「もし、もしの話だけどさ、安倍さんに何かあったとしたら、私達、どうなるのかな……」
「…………、えっ、まさかこのままじゃないよね?」
あやめの身に何かあったとき、光の壁も一緒に解かれるのならまだ良いが、もしこの壁が半永久的にそのままなのだとしたら、自分達は壊すこともできないこの壁に囲まれたまま一夜を明かさなければならなくなる。明日の朝になれば誰かに発見されるだろうが、素人があやめの術を解除できるとは思えない。
光の壁に閉じ込められたままマスコミに取り囲まれるところまで妄想したそのとき、実験室のドアが突然開かれた。
「――――!」
「――――!」
2人が弾かれるように顔を向けると、そこにいたのは平然とした表情を浮かべるあやめだった。彼女はそのまま2人を閉じ込める光の壁に歩み寄ると、そっと手を添えて何かを唱えるようにブツブツ呟いた。
すると、いくら叩いてもビクともしなかった光の壁が、あっさりとその姿を消していった。
「あやめ、幽霊はどうなったの! もしかして、もう除霊しちゃったとか!」
自由の身になった途端にそんなことを尋ねてきた清音に、あやめは露骨に嫌な顔をして溜息を吐いた。
「いいえ、まだ除霊していません。その前に、彼女の頼みを聞いてあげることにしたので」
「頼み?」
首をかしげる春に、あやめは小さく頷いた。
「やはりここにいた幽霊は、清音さんの言っていた“5年前にいじめを苦にして自殺した女子生徒”でした。彼女はそれこそ毎日のように、同じクラスの生徒からリンチまがいの暴行を受けていたようです。そのときは決まって、この部屋に連れ込まれていたとか」
「そんな、ひどい……」
「成程。それで、この部屋の地縛霊になってたんだ……」
春が悲痛な表情でぽつりと呟き、清音が納得したように腕を組んで頷いた。
するとあやめは清音の方を向いて、
「清音さん、小林先生の携帯番号って知っていますか?」
「コバセンの? 確か携帯のアドレス帳に載ってたと思うけど……。どうして?」
「でしたら、小林先生にここに来るよう伝えてもらえますか? 訊きたいことがあるので」
「そっか! 5年前のことだから、コバセンも何か知ってるかもしれないもんね!」
清音は“わくわく”といった表現が似合う笑みを浮かべると、自分のスマートフォンを取り出してボタンを押し始めた。
それを横目に眺めながら、春があやめへと近づいていく。
「ねぇ、安倍さん……。その子の“頼み”ってもしかして、そのいじめの恨みを晴らすっていうものだったり、するのかな……?」
春が恐る恐るそう尋ねると、あやめはにっこりと笑みを浮かべたまま、こんなことを尋ねてきた。
「良かったら、2人もご一緒にどうですか?」
「え? 私達は――」
「はいはーい! ぜひともお願いします!」
春の言葉を遮るようにして、清音が身を乗り出しように手を挙げてそう言った。
「ちょっと、清音!」
「だって、幽霊を見られるチャンスなんてそうそう無いよ! しかもあやめの方から提案してくれるんだから、絶対乗った方が良いって!」
「そうですよ、春さん。どうぞ、遠慮なさらずに」
ニコニコと笑みを携えたままそう言うあやめに、春は少しだけ考え込み、
「……それじゃ、お願いします」
「やったー! ついに本物の幽霊が見られるぞー! そうと決まれば、早くコバセンに電話しないと!」
興奮した様子で携帯電話をいじる清音に、不安そうに顔を俯かせる春。
そんな2人を眺めながら、あやめはニコニコと笑っていた。
* * *
月明かりに照らされながらもどこか薄暗い外にて、小林は青白く浮かび上がる校舎を不気味そうに眺めていた。
「大丈夫なんだろうな……」
ぽつりと、小林が呟いた。その声はどこか不安そうで、そして何かを恐れているように微かに震えていた。
と、そのとき、
ぶぶぶぶぶぶぶぶ――。
「――――!」
突然の低音と太股に伝わる振動に、小林は一瞬表情を強張らせて肩を跳ねらせた。しかしそれがズボンのポケットにしまっていた携帯電話だと気づくと、彼は1回深呼吸をして気を落ち着かせて、ゆっくりとした動きでそれを手に取った。
微かに明かりを漏らす画面には、11桁の数字の羅列と“松山清音”という名前が表示されていた。それは今からちょうど1年前、入学したばかりの清音から半ば無理矢理自分の番号と交換させられて得たものだった。
通話ボタンを押して、耳に当てる。
「……もしもし」
『あ、コバセン? 何かね、あやめがここに来てって』
「……分かった」
小林はそれだけ言って、通話終了のボタンを押した。
次の瞬間、おそらく清音の傍で会話を聞いていたであろうあやめの手によって、校舎を包み込んでいた青白い光の壁が煙のように音も無く消え去った。
すっかりいつもの風景を取り戻した校舎を、小林は携帯電話を閉じることもせずにじっと眺めていた。1分ほどそうしたところで彼は大きく深呼吸をすると、ゆっくりとした動きで携帯電話を閉じてポケットに戻した。
「……行くか」
その呟きは、まるでこれから何かに挑むように緊張した声色だった。
* * *
昇降口を通り抜け、特別棟へと歩みを進め、階段を昇っていき、廊下を少し進んだところに、その部屋はあった。
“理科実験室”。
そう書かれたプレートを眺めながら、小林は口の中に溜まっていた唾をゴクリと呑み込んだ。そして意を決したように大きく息を吐き出すと、ガラガラと音をたててドアを開けた。
部屋に足を踏み入れると、部屋の中央に陣取るあやめの姿が真っ先に目に入った。彼女は小林の姿を見ると、にっこりと笑みを浮かべて小さくお辞儀をした。
そして彼女から少し離れた所に、清音と春の姿があった。教室の後ろにある席につく2人はどこか落ち着きが無く、頻りに何かを確認するように何度も辺りに視線を遣っている。
小林は目を細めてあやめの顔をじっと見つめながら、1歩1歩踏みしめるようにゆっくりと近づいていく。
そして手を伸ばせばギリギリ届くかどうかという距離にまでなったとき、あやめがおもむろに口を開いた。
「すみません、小林先生。何度もご足労掛けて」
「それで、除霊とやらは済んだのか? もし済んだのなら、私はさっさと家に帰りたいんだが」
「まぁまぁ、そう焦らないでください。除霊はもう済んだのですが、その際に幾つか疑問に思うことがあったので、小林先生に質問をしたいと思うのですが、宜しいですか?」
「……質問だと? まぁ、別に構わないが」
小林が首を縦に振ると、あやめは「それは良かった」と笑みを一層深くした。そんな彼女の後ろで清音と春が、お互いに顔を見合わせてキョトンとした表情を浮かべていたが、あやめの方ばかり注目していた小林はそれに気づかなかった。
「それでは、早速お尋ねします。――小林先生は、この部屋の幽霊に心当たりはおありでしょうか?」
「心当たりだって? そんなもの、あるはずないじゃないか」
「随分と早くお答えになるのですね、もう少しお考えになってみては?」
「君と違って、私は幽霊なんて信じちゃいない。そんなことを考えるのすら馬鹿らしい」
「あんな体験をしたというのに、随分と強情なんですね。分かりました、それでは質問を変えましょう。――小林先生は、“
あやめの言葉に、小林の眉がピクリと動いた。
「――いいや、知らないな」
「本当にご存知ありませんか? よーく思い出してみてください」
「……知らないと言ってるだろう。いったいその子が何だと言うんだ?」
「あら、子供だというのはご存知なんですね」
「…………」
あやめがそう言ってにっこりと笑いかけると、それとは対照的に小林は眉間に深い皺を寄せて、彼女から逃げるように視線を逸らした。
「……学校に出る幽霊と言うから、子供ではないかと推測しただけだ」
「そうだったのですか。申し訳ありません、揚げ足を取るような真似をしてしまって。しかし今この場には私と小林先生、それと後ろにいる二人以外は誰もいません。後ろの2人にはちゃんと口止めをしておきますので、どうぞ遠慮無くお話しください。――お2人も、宜しいですね?」
突然後ろを振り返って呼び掛けたあやめに、清音と春はビクンッ! と肩を震わせて驚き、反射的に首を縦にブンブンと振った。
小林はしばらくの間、その2人とあやめの間に視線をさ迷わせて、何かを躊躇うような素振りを見せていた。しかし、やがて視線をあやめへと固定させると、
「……確かに、その生徒のことは知っている。今から5年前、この部屋で首を吊って自殺したこの学校の生徒だ」
「やっぱり!」
がたり、と椅子を鳴らして立ち上がった清音だったが、隣の春に頭を叩かれたため静かに腰を下ろした。
「……それで、この部屋にいた幽霊はその生徒だったとでも言うのか?」
「はい、その通りです。この部屋で首を吊ったことにより、この部屋の地縛霊となっていました」
「それはおかしい。その子が死んだのは5年前で、それ以来ずっとこの部屋に居着いていたんだろ? それなのに、今日の昼間までそれらしい現象は一度も無かったじゃないか」
「それは単純に、彼女が危害を加えようと思っていた人物が、5年もの間ずっとこの部屋に来なかったからですよ。彼女は部屋から1歩も出られませんでしたからね」
「……危害を加えようと思っていた人物?」
小林の呟くような問い掛けに、あやめはコクリと頷いた。
「自殺をするからには、それ相応の“理由”というものが必要です。5年前といいますと、小林先生もこの学校にいらっしゃいましたよね? ぜひとも小林先生の口から、当時のことをお聞きしたいのですが」
「……確かに、5年前にはもう私はこの学校にいた。しかし残念だが、その生徒について私が知っていることはほとんど無いな」
「あら、そうなんですか?」
「ああ、いくら教師とはいえ、学校中の生徒全員を把握している訳じゃない。しかもその時期は私もとても忙しくて、他のことに構っていられる余裕は無かったんだ」
「そうですか……。うーん、変ですねぇ……」
あやめはそう言うと腕を組み、うんうんと唸りながら何やら考え込み始めた。
「……何が、変だというんだ?」
そんな彼女に尋ねる小林の声には抑揚が無く、普段よりも一段低いものだった。
「いえ……、私の予想では、彼女のことを尋ねるなら小林先生が一番適役かと思ったのですが……。うーん、あてが外れてしまいましたね……」
「なんで私が適役だと思ったんだ?」
小林が尋ねると、あやめはキョトンとした表情を浮かべて彼を見遣り、
「どうして、ですって? そんなの決まってるじゃないですか。
――小林先生が、彼女の担任だったからですよ」