あの出来事から、数日後。
自分の部屋のベッドで仰向けになって寝っ転がっているあやめは、特に何かをすることもなく、ぼんやりと天井を見つめていた。今日は日曜日なので学校へ行く必要は無く、“除霊屋”の仕事も無いのでゆっくりと体を休ませることができる。
しかし、体は休まっても、心が安まることはなかった。ふとした拍子に、自らの心臓を突き刺す男の光景が浮かんでくる。
「…………」
あやめは小さい頃から除霊師としての仕事に携わり、数多くの依頼を受けてきた。もちろんその全てが滞りなく達成できたわけではなく、特に技術的にも精神的にも未熟だった頃には数々の“失敗”を経験してきた。今でも未熟であることに変わりはないが、以前よりも除霊師としての実力はついてきたと自負する程度には成長しているつもりだった。
しかしながら“自分の依頼者が自分の目の前で死ぬ”という結末には、さすがのあやめも数日間引きずってしまうほどに圧倒的な敗北感に襲われていた。ここまでの屈辱を味わったのは、ここ数年の間では一度も無かったと断言できるほどである。
それこそ、“あのとき”以来の――
「テレビでも見ますか……」
いらないことまで思い出しそうになったあやめは、小さく首を横に振って頭の中を切り替えた。反動をつけてベッドから起き上がり、リモコンに手を伸ばしてテレビの電源を点ける。
そのチャンネルではニュースをやっていて、ここからそれほど離れていない場所で起きた出来事が報じられているところだった。その内容とは、この前の大雨が原因で山道で土砂崩れが発生し、たまたまそこを通り掛かっていた車がそれに巻き込まれた、というものだった。そしてつい先程その車が掘り出され、その中に運転手と思われる人の死体が見つかったらしい。
『亡くなったのは、東京都に住む――』
キャスターがそう言うと、被害者の映像が画面に大きく映し出された。しかし画面の字幕では成人女性と表記されているにも拘わらず、肝心の写真は中学校の卒業アルバムに載っているような幼いものだった。おそらく、最近の写真を手に入れることができなかったのだろう。
「えっ――!」
そしてそれを見た瞬間、あやめは驚愕した。転がるようにベッドから降りて、立ち上がる時間も勿体ないとばかりに四つん這いでテレビの前まで移動した。
セミロングの黒髪をもつその少女は、はにかんだように小さく頬を緩ませていた。その見た目から、物静かな優等生という印象を受ける。
それは紛れもなく、あの部屋で男が指さした写真の少女だった。
「…………」
すると突然、画面を見るあやめの目つきが険しくなった。
いや、視線こそ目の前のテレビ画面に固定されているが、意識は既に別の場所に向いていた。
「成程、あなたの仕業だったんですね?」
「――――はい」
画面に映る中学生の少女を見つめたままあやめが問い掛けると、彼女の背後から若い女性の声で返事が聞こえてきた。もちろんこの部屋には、先程まであやめ以外誰もいなかったはずだ。
しかしあやめはそれを疑問に思うこともなく、後ろを振り返らずそのまま話し始める。
「最初は不思議で仕方がなかったんですよ。『なんで霊気を感じ取れなかったのか』という疑問もありましたが、それ以上に『なんで直接襲い掛かってこなかったのか』という疑問の方が大きいものでした」
「…………」
「霊気については、霊力が壁や地面を伝って移動していることから、霊気が壁などに閉じ込められている状態だったんだと理解できました。――しかしもう1つの疑問については、彼が死んだ後もその理由がまるで分かりませんでした」
でもやっと分かりました、と言って、あやめはテレビの画面を指さした。
そこには、土砂崩れで完全に埋まってしまった道路が映されている。
「土砂崩れで体ごと魂を捕らわれたから、地面や壁から抜け出せなかった。だから壁を伝ってもできる“ガラスを割る”という行動しかできなかったんですね」
「あのときはごめんなさいね、家中の窓ガラスを割っちゃって。てっきり恋人かと思って、頭に血が上っちゃって……。あなたはまだ中学生なんだから、恋人なはずがないのにね」
ようやく女から返事が返ってきた。言葉とは裏腹に、その声からは申し訳ないという気持ちが微塵も感じられなかった。
「別に気にすることはありませんよ。結構高くつきましたけど」
あれだけのお金を一度に使うことはしばらくないでしょうね、とあやめは密かに思った。
「それで、聞かせてくれますか? どうしてあんなことをしたのか」
「……悔しかったのよ」
女の声のトーンが、先程よりも少し落ちた。
「中学生のときに一度も声を掛けられなくて、ずっと後悔してた。忘れようと思って色々なことに打ち込んだけど、それでも忘れられなかった」
「…………」
「同窓会で久しぶりに会ったとき、凄く嬉しかった。あのときと全然変わってない、無邪気で、優しくて、素敵な人のままだった」
「…………」
あやめは無言のまま、女の話に耳を傾ける。
「でも、結局そのときも話し掛けることができなくて、ずっと遠くから眺めてることしかできなかった。帰ってからずっとそのことで悩んで……。それで、気づいたの」
「……何をですか?」
ふふふ、という女の含み笑いが聞こえてきた。
「『やっぱり私は“この人”が好きなんだ。それ以外の人じゃ駄目なんだ。そして、遠くから眺めてるだけじゃ“想い”は伝えられないんだ』ってね」
弾むような明るい声で、女は答えた。
しかし次の瞬間に、それは沈んだものとなる。
「私ね、決心したの。この人に自分の“想い”を伝えるんだ、って。だから普段使わない車に乗って、あの人の家に向かったの。――でも、あの山道を通ってたときに……」
「土砂崩れに巻き込まれた、と……」
あやめが言葉に、女は「そう」と涙声で答えた。
「悔しかった。悲しかった。『なんで今なの! 伝えた後ならまだ我慢できたのに! 伝えることすら許されないの?』って、暗い暗い土の中で何度も思ったわ」
「そして、その“想い”が今回のことに繋がった、ということですか……」
あやめは溜息混じりでそう言って、ようやく後ろに顔を向けた。
ベッドの上に、その女は浮かんでいた。写真の少女に比べて幾分か大人っぽく、しかし一目で本人だとすぐに分かるくらいに面影が残っていた。
「“この人”は、私の“想い”に応えてくれた。少し遅れちゃったけど、最初からこうなるべきだったのよ」
嬉々とした表情でそう答える女の隣に、その男はいた。
紛れもなく、あやめの目の前で自殺した依頼者だ。
しかしその表情は、自殺する直前のときと同じ、感情も自我もまったく宿っていないものだった。
「とても、幸せそうですね」
「ええ、本当に幸せ」
女は満面の笑みを浮かべてそう答えると、男の腕に力いっぱいしがみついた。二度と離さない、と言わんばかりに。
男の反応は無かった。
あやめは肩を竦めると、彼女に尋ねる。
「ところで、どうしてわざわざここに来たんですか? ひょっとして、そのことを自慢しに来たとか?」
「いえ、違うわ。――除霊してほしいの」
「……はい?」
一瞬、彼女が何を言っているのかあやめには分からなかった。幽霊の方から除霊を頼まれるなんて、初めての経験である。
女は、ふふ、と小さく笑って、
「この世界にいたら、今度はどんな理由でこの人と離ればなれになるか分からないわ。でも“あの世”に行けば、この人と永遠に一緒にいられるのよ。それって、凄く素敵なことだと思わない?」
弾むような声でそう言うと、男にしがみつく力をさらに強めた。随分と息苦しいだろうに、男からは何の反応も無かった。
あやめはそんな2人をしばらく眺めると、
「分かりました」
そう言って、2人へと向き直った。
腕をかざすと、掌が微かに青白く光った。
「――『葬』」
あやめが呟いた途端、2人の体が彼女の掌と同じ青白い光に包まれた。女は一瞬驚くが、満足したように笑って目を閉じた。
「2つ、訊きたいことがあるんですが」
ふいに、あやめが女に尋ねた。女が目を開けて「何かしら?」と微笑む。
「どうやって、私や彼に話し掛けたり、暗示を掛けたりしたのですか? 生物に干渉するのは、単なる物を操るのに比べて格段に難易度が跳ね上がります。そんな芸当を、壁に閉じ込められたあなたができるとは到底思えないのですけど」
あやめの質問に、女は「うーん」と小さく唸りながら、しばらく考え込んだ。
やがて、女があやめへと視線を向けて口を開いた。
「“愛の力”かしら?」
「……成程。それじゃもう1つ。あなた、土砂崩れに巻き込まれたとき、『彼の家に向かっていた』と言っていましたよね?」
「ええ、言ったわ」
「どうやって、彼の家の住所を知ったんですか? 彼の話だと、同窓会のときには一言も話さなかったと聞いていたのですが、誰かから聞いたのですか?」
「ふふ、それこそ、“愛の力”よ」
「……そうですか」
あやめはもはや、何も言い返す気にならなかった。そんな彼女の反応に、女は不思議で仕方ないといった風にキョトンとした表情で首をかしげた。
青白い光が、より一層強くなった。
「じゃぁね、あやめちゃん」
その瞬間、2人の体は青白い粒子となって、弾けた。それらは上へと昇っていき、天井を抜けて空へと消えていった。
あやめ以外誰もいなくなったその部屋を、彼女はしばらくぼんやりと眺めていた。
「あなたがこれから行く“あの世”が、あなたの思う通りの世界だと良いですけどね……」
あやめがぽつりと呟いた言葉に、答える者はいない。テレビはいつの間にか芸能人の話題に変わっていて、幸せそうに薬指の指輪を報道陣に見せているカップルの姿が映っていた。
そしてそれをスタジオで見ていたコメンテーターが、「所詮結婚なんて、人生の墓場ですからね」などと冗談交じりにコメントしていた。
「お幸せに」
あやめはそう言って、テレビの電源を消した。
テレビから流れてきた笑い声が途切れ、部屋が再び静寂に包まれた。