敷地内に幾つかある建物の屋上は空中庭園となっており、患者達にとって、そして病院を訪れた人々にとっての憩いの場となっている。
足への衝撃を和らげるために特殊なゴムが使われてた散歩道は、その両隣が花壇となっていて、四季によって違う顔を見せて人々の目を楽しませてくれる。中央にある噴水は水の流れる音が人々の心を落ち着かせる効果を生み、子供達が走り回っても禿げることのない芝生はたとえ転んでも怪我から人々を守ってくれる。
なのでそこはよく、ここに入院する患者達のリハビリの場としても使われていた。
噴水からほど近い場所で2人の看護師に付き添われている少女と少年も、その例に漏れずリハビリに励んでいた。今はちょうど自分の足で立ち上がる訓練をしている最中であり、看護師の1人が少女の両手を取って慎重に立ち上がらせようとしている。
しかし少女の腰が車椅子から離れた瞬間、彼女は膝から崩れ落ちるようにして前に倒れ込んでしまった。看護師が慌てて彼女を支えて、ゆっくり車椅子へと戻す。少年の方も結果は同じであり、2人は先程からそれを何回も繰り返していた。
そして2人が倒れ込む度に、看護師は「大丈夫、焦らなくて良いから」とか「きっと立てるようになるから落ち込まないで」などの励ましの言葉を努めて明るい声で掛けている。しかし2人の反応はどうにも薄く、2人共ぼんやりした表情のまま口を開こうとしない。
そんな4人の様子を、あやめ・清音・春の3人が少し離れた所にあるベンチに座って眺めていた。
「うーん、なかなか上手くいってないみたいだね……」
「ねぇ、あやめ。さっきから見てるけど、特に変なところは無いよ?」
「……いえ、私はどうにも違和感を覚えて仕方ありません。でも確かに、ここからじゃ詳しいことは分かりませんね。直接話ができれば良いのですが……」
「あぁ、それじゃ私が取り次いであげよっか?」
何てことないかのように言う清音に、あやめが訝しげな表情を彼女に向けた。
「清音さん、取り次ぐって……どうするんですか?」
「どうするも何も……、ただ真美ちゃん達に2人を紹介すれば良いんじゃないの?」
清音の言葉に、あやめの訝しげな表情が驚きに変化した。
「……清音さん、あの2人のことを知ってるんですか?」
「ここに入院してから知り合ったんだよ。私の病室と同じ階でね、もう4ヶ月くらいここにいるって言ってたかな?」
「……清音さんが入院したのって、昨日の夜でしたよね?」
「そうだけど、それがどうかした?」
「…………」
あやめは清音の質問には答えず、春へと顔を向けた。たったそれだけで春には彼女の言いたいことが読めたらしく、苦笑いを浮かべて口を開く。
「清音はね、いつもこうなんだよ。私と違ってすぐに知らない人とも仲良くなれるから、友達の数ももの凄く多くて。2人でいるときに私の知らない人が声を掛けてくるとかしょっちゅうだし」
「それでも私の一番の親友は春だよーん」
「はいはい、ありがと」
ふざけるように抱きついてくる清音に、春は軽く彼女の頭を叩きながら棒読み気味に答えた。しかしその口元は微笑んでいるので、まんざらでもなさそうだ。
「知り合いなら話は早いですね。清音さん、お願いできますか?」
「オッケー! 任せなさい!」
清音は親指を立てて威勢良く返事をすると、すぐさまベンチから立ち上がって少女達4人の所へ駆けていった。反応の遅れたあやめと春が、若干慌てた様子で彼女の後に続く。
「やっほー、紳二くんに真美ちゃん! 元気にやってる?」
入院しているのだから元気な訳ないでしょう、とあやめと春は思ったが口には出さなかった。
「あっ、清音さん……。こんにちは」
清音の声に反応した少女・真美がフッと顔を上げ、口元に微かな笑みを浮かべて軽くお辞儀をした。それはあやめと春が初めて見た、彼女の人間らしい表情と行動だった。一方、紳二と呼ばれた少年は先程と変わらず、車椅子に座ったままぼんやりと前を見つめている。
2人の看護師はそんな彼女達の様子を見て、「少し休憩しようね」と言ってその場から離れていった。真美達のためにも、清音達と話して気分転換をした方が良いと判断したのだろう。
「どう? 歩けるようになりそう?」
「……いえ、まだまだです」
「うーん、見た感じだと、すっかり治ってるんだけどねぇ。神経が傷ついてたりしてるのかな?」
「……分かりません。お医者さんも不思議がってました」
「まぁ私も応援してるから、一緒に頑張って怪我を治そうね!」
「はい、ありがとうございます。――ところで後ろの人達は、清音さんのお友達ですか?」
真美はそう言って、2人に視線を遣りながらそう尋ねた。知らない顔ということで多少の警戒心を覚えるのは仕方ないが、特にあやめに対してそれが強いように見える。
「安倍あやめといいます。よろしくお願いしますね」
「わ、私は飯田春っていうの。よろしくね、真美ちゃん」
「……よろしくお願いします」
若干不審そうな表情を見せるも、真美はペコリと頭を下げた。
「この2人はね、リハビリを頑張っている真美ちゃんと紳二くんの姿に感動したんだって! それでぜひお友達になりたいなって言ってたから、こうして連れて来たんだよ!」
「そ、そう! 何だか応援したくなっちゃって! だから、色々とお話を聞かせてほしいなって思ったんだ!」
清音が口から出任せで言った言葉に、春が若干どもりそうになりながらも乗っかった。あやめはそれを横で聞きながら、そんなに慌ててると変に思われますよ、と心の中で苦笑している。
それをおくびにも出さずに、あやめが口を開く。
「真美さん達は、どうして怪我をしたんですか?」
「えっと……、半年くらい前に、事故に遭ったんです……。2人で一緒に家に帰ってる途中に、トラックに突っ込まれて……」
「成程……、2人で巻き込まれたんですね……」
あやめは意味深に呟くその横で、春が眉を寄せて首をかしげた。
「あれ? さっき清音から、ここにいるのは4ヶ月くらいだって聞いたんだけど」
「ええと、最初は別の病院に入院していたんです。だけどお父さんが『ここのお医者さんは腕が良いから、ここで治してもらおう』って言って……」
「おお! 真美ちゃん達が住んでたところでも、ここの病院は有名だったんだね!」
「はい、テレビで紹介されてるのを見たことがあります。“世界でも最先端の医療を受けられる場所”だとか――」
春と真美と清音が話に夢中になっている隙に、あやめはこっそりと真美の観察を始めた。
先程清音が言っていた通り、見た目には怪我らしき怪我も見当たらず、すっかり治っているように見える。今すぐに車椅子から立ち上がって歩き出したとしても、何ら不思議は無いだろう。
次にあやめは、真美のすぐ傍にいる紳二へと視線を向けた。こちらも真美と同様に、怪我はすっかり治っているように見える。
しかしあやめはそれよりも、別のことが気になって仕方がなかった。
紳二の反応が、あまりにも薄すぎるのである。
すぐ傍で結構うるさく話しているにも拘わらず、紳二は一切反応することなく、ただぼんやりと前を見つめ続けている。それどころか、少なくともあやめが見つめている間、指一本ピクリとも動かさず、瞬きすらしない。
本当にこの子は起きているのだろうか?
いや、生きているのだろうか?
「紳二くん。起きてますか?」
反応は無い。
「……紳二くん?」
反応は無い。
「紳二くん」
「――はい、何ですか?」
ようやく反応があり、紳二はこちらへと顔を向けた。彼の声を聞くのは、これが初めてだった。
あやめは視線だけを真美へと向けた。
彼女は変わらず清音や春と会話をしていたが、視線だけはこちらを向いていた。
そしてあやめと目が合った直後、彼女は逃げるようにあやめから目を逸らしたのである。
――成程、だからですか。
真美のその行動で、あやめは確信を得た。そう考えれば、自分の抱いていた“違和感”にも説明がつく。
だとしたら、危険だ。
今すぐにでも、止めさせなければならない。
「清音さん、春さん。彼女達と大事な話をしたいので、席を外していただけませんか?」
「――――!」
その言葉を聞いた瞬間、春は表情を強張らせた。ここに来る前にあやめと約束したことを思い出し、そしてあやめが“違和感の正体”に気づいたことを悟ったのだろう。
「うん、分かった。――それじゃ2人共、また後でね」
そして清音も同じことを悟ったのか、真美達に手を振ってからその場を離れていった。正直彼女は何だかんだ理由をつけてここに居座るかもしれないと思っていたあやめは、あっさりとこの場を離れた彼女に意外感を覚えていた。むしろ春の方が未練がましく、建物へと歩いていきながらもチラチラとこちらを振り返っていた。
こうして、噴水の近くにいるのは、あやめ・真美・紳二の3人だけとなった。
あやめが真美の顔をじっと見つめると、彼女もあやめをお返しとばかりに見つめ返した。いや、眉間に皺の寄ったその表情は、見つめているよりも“睨んでいる”の方が近いかもしれない。
そして紳二は真美の横で、相変わらず一切の反応を見せる様子も無く、前だけをぼんやりと眺めている。
3人の、というより2人の間に、重々しい空気が流れる。
それを破ったのは、真美の言葉だった。
「あやめさん、でしたっけ? あやめさんは、本当に私と友達になりたいんですか?」
声量を抑えた落ち着いた声だったが、明らかにトゲが含まれていた。
しかしあやめはそれに物怖じした様子はまるで無く、それどころか、何が面白いのか口元に笑みを浮かべて真美を見つめていた。
「なんで、そう思ったんですか?」
「私を見るときのあやめさんの目、まるで監視してるみたいでしたから」
真美の言葉に、あやめはほんの少しだけ目を見開いた。
「まだそんなに小さいのに、そこまで周りに目を配れるんですね。でしたら、もう少し注意した方が良いんじゃないですか?
――紳二くんの“操作”が、疎かになっていますよ?」
あやめの言葉に真美は目を丸くし、愕然とした。紳二は先程と変わらず、瞬き1つせずにぼんやりしている。
「……あやめさんは、何者ですか?」
そう尋ねる真美の声は、震えていた。膝に添えられた両手をきつく握りしめ、何かに耐えるように口を引き結んでいる。
真美のその反応に、あやめは大きな溜息をついた。ショックだと言わんばかりに嘆いてみせるが、どこか芝居がかって見えるのは、おそらく真美の気のせいではないだろう。
「そんなバケモノを見るような目で私を見ないでくださいよ。私はただの人間なんですから。――幽霊の類が、他の人より多少見える程度のね」
「幽霊……」
ごくり、と真美の喉が鳴った。
そんな真美に、あやめが容赦の無い一言を放つ。
「紳二くんは、すでに死んでいますね?」
「…………、はい……」
数拍おいて、真美は静かに頷いた。
「それを周りに知られないようにするために、自分の魂の一部をとっさに紳二くんに移して、生きているように見せかけた。そうですね?」
真美は、再び頷いた。
「1つの体にちゃんと1人分の魂が入っていないから、思ったように上手く体が動かせない。だから周りの人達には、いつまで経っても怪我が治らないように見えてしまう。そうですね?」
真美は、
その返事に、あやめはこれ見よがしに大きな溜息をついた。今度はけっして演技などではない、心の底からの呆れから零れたものだった。
「なんでそんなことしたんですか?」
「だって、あんまりでしょ!」
突然、真美が叫んだ。涙の溜まった目であやめを睨みつけ、握りしめるその手はプルプルと震えている。
「お兄ちゃんは、まだ大人にもなってなかったんですよ! やりたいこととかいっぱいあったはずなのに! それなのに、突然事故に遭って、突然死んじゃって!」
がしゃ、と彼女の乗る車椅子が揺れた。もし彼女が普通に立てたとしたら、そのままあやめの胸倉でも掴みそうなほどの剣幕だ。
「私達が事故に遭ったとき、お兄ちゃんが呟いてたんです。『お父さん、お母さん、ごめんなさい』って……。多分お兄ちゃんは、自分が死ぬことでお父さんやお母さんが悲しむのが嫌だったんだと思います……」
「…………」
「本当は自分だって、もの凄く痛かったはずなのに……。死んじゃうことが、もの凄く怖かったはずなのに……。お兄ちゃんは泣きながら、『ごめんなさい』って呟くんです……。何回も、何回も……」
「…………」
「だから、私は決めたんです……。お兄ちゃんを生き返らせることはできなくても、
真美はそこまで言うと、声を殺して泣き始めた。今までむりやり抑えていた感情が溢れ出した、といった様子だった。そしてあやめはそんな彼女を、感情を一切読み取ることのできない無表情で眺めていた。
泣き声が少し落ち着いた頃、あやめが口を開く。
「いくら紳二くんの体が生き続けても、中身が紳二くんでない以上、それは紳二くんではありません。真美さんのやっていることは、紳二くんが悲しませたくなかったお父さんやお母さん、さらには周りにいる全ての人達に対する、れっきとした裏切りです」
あやめの声は、ひどく淡々としていた。余計な感情の一切籠もっていない、事実のみを伝えるものだった。
一方真美はあやめが話をしている間も、涙を零し、時折鼻を啜るだけだった。彼女の言葉が耳に入っているのかすらも分からない。
しかしあやめはそれを気にする様子も無く、さらに話を続ける。
「それにこのままだと、2人共死にますよ」
「えっ?」
真美が顔を上げた。彼女が泣きだしてからの、初めての反応だった。
「ど、どういうことですか!」
「専門的な知識も技術も無い真美さんが、1つの魂を2つに分けてそれぞれの肉体に入れるなんて無茶なことができたのは、それだけ“想い”が強かったからです。しかし、“想い”なんてあやふやなものは、いつまでも維持できるものではありません」
「そ、そんなことありません! ずっとこうしていたい、って思っていれば良いってことでしょ! だったらやってみせます!」
「いいえ、無理ですよ。――現に真美さんは、今まさに迷ってる」
「――――!」
真美の体が、ビクリと震えた。どうやら図星のようで、彼女はあやめの視線から逃れるように顔を俯かせた。
そしてそのまま、消え入りそうな声で呟くように尋ねる。
「……もし、“想い”が少しでも途切れたら、どうなるんですか……?」
「肉体からむりやり切り離されて、それでもバラバラになった魂が1つになることはできなくて、一切の自由が利かないまま、中途半端に意識を残したまま現世を彷徨い続けることになります。そうなると、私達でもお手上げですね。どうしようもありません」
あやめは事も無げにそう告げた。正直、真美はそれを上手く想像することができなかったが、それがとても異様なことであることだけは感じ取れた。思わず背筋が凍ってしまうくらいには。
いったいどうすれば良いのか、と真美が頭の中で葛藤を始めたそのとき、
「――さてと、それでは私はここで」
ふいにあやめがそう言って踵を返すと、建物の中へ向かおうと歩き始めてしまった。
「ま、待って! 私はどうすれば良いの!」
真美が縋りつくように必死に引き留めようとするが、それでも彼女の足は止まらない。
「今ならまだ簡単ですよ。紳二くんの中に入ってる魂の一部を、自分の体に戻すだけで良いんです。そうすれば、魂は自然と1つになりますよ」
「で、でもそれじゃ、お兄ちゃんが――」
「真美さん」
真美の言葉を遮って、あやめが彼女の名を呼んだ。今までとは違う、思わず口を閉ざしてしまう程の威圧感を纏ったその声に、真美は息を呑んだ。
あやめが足を止めて、真美へと振り返る。
「真美さんは先程から、紳二くんが死ぬことで、両親を悲しませたくないと言っていましたね。ですが――」
あやめはそこで1拍置いて、続けた。
「あなたの両親は、紳二くんと同じくらい、真美さんのことを愛しているんです。そんな人達が、いつまで経っても歩くことのできないあなたの姿を見て、何も感じていないと思っているんですか?」
「――――!」
真美は目を見張った。
「それでは、私はこれで。お体、お大事に」
それだけ言い残して、あやめは病院の中へと入っていった。
“1人”取り残された真美は、今にも泣き出しそうな沈痛な面持ちで、隣に座る紳二をじっと見つめていた。
噴水から湧き出る水の音が、ただただ静かに響いていた。
* * *
あやめが建物の中に入ってきたとき、入り口近くの壁に寄り掛かって立っていた清音と春が彼女を出迎えた。
「2人共、わざわざ待っててくれたんですね」
「そりゃそうだよ! 3人でお昼食べに行くんだから!」
「行こ、安倍さん。今だったら、多分レストランも空いてると思うよ」
2人の言葉にあやめは小さく頷き、3人はそのまま並んで歩き始めた。
その道中、呟くように春が尋ねる。
「……あの2人は、どうなったの?」
「それは彼女次第でしょうね。たとえ私がむりやりしたとしても、おそらく意味が無いでしょうから」
「……何があったのか、教えてくれないんだね」
「すみません」
謝罪の言葉に含まれた拒絶をきちんと読み取ったのか、春はそれ以上何も言わなかった。
そしてそんな2人の遣り取りを、清音は口を閉ざしたまま横で聞いているだけだった。
それが少し気になったあやめは、清音に尋ねてみた。
「珍しいですね、清音さん。普段のあなたなら、何としてでも聞き出そうとしてくると思ってたのですが」
「……うん、まぁ、あやめが話そうとしないってことは、部外者の私達が立ち入るものじゃないってことでしょ? だったら無理に聞き出すのもアレかなって思って。……それに真美ちゃんと紳二くんとは、出会ってまだ少ししか経ってないけど、友達だと思ってるから」
「…………そうですか」
3人の無言は、レストランが並ぶ区域に辿り着いて、どの店に入るのか議論を始めるまで続いた。