「こ、この程度で勝った気にならないで下さい。まだまだ勝負は始まったばかりです!」
「そうこなくっちゃ面白くないね」
司馬懿の虚勢にも似た壮語に対し、楊彪は余裕ある言葉で優雅に答えてみせます。
ものの三十秒ほどで敗勢必至にまで追い詰められた司馬懿。だがまだ諦めてはいません。司馬懿は慢心を完全に捨て去り、不覚を喫したことを素直に認め、気を引き締め直します。
(主導権を明け渡してしまいましたか。それでも焦って行動を起こすのは安易。愚の骨頂)
窮地である時こそ強い心を。そしてそれと同じぐらい冷静な頭脳が求められます。
司馬懿は自らの劣勢を認めた上で次に取るべき最善を模索しました。動けるものなら動きたい。ですが下手に場を好転させようとして闇雲に動くのは危険であると考えました。
相手を格下と勝手に決め付け見誤り、相手の土俵へ招かれていながら備えを怠った司馬懿。これ以上の醜態を晒す事は誇りが許しません。重ねてここは相手の土俵となります。そして罠とは獲物が掛かる場所に仕掛けるもの。軽率な行動は慎むべきであると司馬懿は強く自戒します。
(ここは後の先を狙うが上策……!)
慢心を捨て去った司馬懿に緩みはありません。息を殺して強かに好機を窺います。
(強い言葉を言った割には動きが無いな。警戒しているのか。それともただ威勢が良いだけか)
一方の楊彪は依然として司馬懿に背を向け、寝そべったままの体勢で思案します。
完璧な形で先制打を放ち、場の主導権を握った楊彪。このまま中押しダメ押しを企て司馬懿相手に完封勝ちを狙う手段もありましたが、楊彪はあくまで悠然と構える姿勢を崩しません。
(通なオレは敢えてここで受けに回る)
ただ勝ちだけを強く意識し過ぎるのも味気無いものであると楊彪は考えます。
結果だけに拘るのではなく、その過程を楽しんでこそ面白味は増すものです。これは司馬懿を侮っているというよりも、楊彪の性格が大らかなものであることが関係しています。
(楊彪さんに攻めっ気が感じられませんね。優勢なら無理をしないのは確かに定石ですが……)
こうなると困るのは楊彪と同じく受けの選択を選んでいた司馬懿となります。
互いに攻め手が無しのままだと勝負は判定へと持ち込み。そうなると何もしていない司馬懿の敗北は火を見るよりも明らかです。司馬懿は否が応にもどこかで動かなければなりません。
薄氷を履む思いで一歩を踏み出すべき場面は必ずやってきます。決断を遅らせば遅らせるだけ後々の選択幅が狭まってしまうことでしょう。そんなことは司馬懿だって百も承知ですが決心が付きません。二度も同じ失態を犯すわけにはいかない、と思う気持ちが司馬懿の思考を縛ります。
本来の柔軟な思考は影を潜め、焦りや焦燥感から追い込まれていきます。凡人ならこのまま完封負けを喫する公算が大の局面。しかしこの場にいるのは凡人とは対極を成す天才司馬仲達。
(書物の文字が上下反対ですね。これは…………)
司馬懿は楊彪の仕掛けた罠を正面から食い破ることで活路を見出すという方法を選びました。
今この場において楊彪の手元にある書物は本来の役割を果たしていません。寛ぎの空間を演出するためだけに置かれているに過ぎず、早い話が楊彪は書物を読んでいる風に見せているだけ。
それ故に書物の文字が上下反対であろうとなんら問題はありません。下手な人物であればこれを迂闊なミスと捉え、楊彪を追求していたことでしょう。ですが司馬懿はそんな生温い考えは抱きません。これはミスなどではなく、楊彪の放った二の矢であると即座に看破します。
(これは書物の逆読みでは飽き足らず、文字自体を逆向けにして読む意味のない高等技術……!)
稀によく同じことをする司馬懿は楊彪の思惑に気づきます。実に無意味な技術です。
この場で指摘でもするものなら楊彪は失笑の後、逆さのまま詩でも読み上げるかの如く淀みない朗読を始めることでしょう。そうなってしまえば最後、司馬懿にはもう逆転の芽は皆無です。
気持ちが前へと逸っていたらあり得たことかもしれない、と司馬懿は戦慄します。そして楊彪が自分と同じ次元にいることを確信しました。間違いなく唯一にして無二の強敵であると。ならば一層負けるわけにはいかない。少なくともこのままでは終われないと司馬懿は意を決します。
「楊彪さん。一つ宜しいでしょうか」
「勿論いいとも。どうかしたのかい?」
「書物の文字が反対であることに違和感を禁じえなくて。理由を聞かせては頂けませんか?」
それから数分の沈黙の後。熟考を重ねた司馬懿はついに動き始めました。
その言葉を聞いた楊彪は失望の色を隠せません。この程度の罠なら楽々突破してくれないと面白くないからです。分相応を越えた水準を求め過ぎたか、と楊彪は残念そうに返事を返します。
「こうして読むのが雅だからだよ。必要とあらばそれを君に示してみるのも吝かでは…………」
「雅? この程度で貴方は雅であると?」
「なら君はこの上をオレに教えてくれるんだね。それは実に楽しみだ。ご教授願おうかな」
そう言うと楊彪はやっと重い腰を上げ、演出用に用意した書物を司馬懿に渡しました。
司馬懿は書物を受け取ると簡単に中身へ目を通し、僅かに口の端を吊り上げます。楊彪にミスがあったとするなら、手渡す書物はもっと知名度の低く面白味のない物とするべきでした。
楊彪が手渡した書物は学のある人なら一度ならず二度三度と読んだであろう物。楊彪は中身を全て暗記するほど読み込んでいました。そしてそれは司馬懿も同じこと。司馬懿も文字が反対であることに気づいた際、チラッと見えた一文だけで題名を連想出来るほど読み込んでいました。
「それでは私が惰を極めた者だけが扱うことの出来る、究極の秘技をお見せ致しましょう」
「刮目させてもらうよ」
司馬懿は立ち上がって楊彪から書物を受け取ると、また丁寧にその場に座りました。
面白いことになりそうだ、と楊彪は興味津々で立ったまま司馬懿を見ます。司馬懿は受け取った書物を開き、文字の書いてある表面を地面に付けると、すぐに裏面を指でなぞり始めます。
まるで裏面から表面に書かれている文字を吸い上げるかのような所作。その洗礼された動きと高い集中力には楊彪も息を呑みました。やがて司馬懿は二度三度と頷き、そして口を開きます。
「智術の士、必ず遠く見て明察す。明察せずんば私を燭す能わず。能法の士、必ず強毅にして勁直なり。勁直ならずんば姦を矯むる能わず。人臣令に循いて事に従い法を案じて官を治むるは……」
「なっ!?」
裏面を指でなぞるだけで冒頭から読み上げる司馬懿。今度は楊彪が愕然とする番です。
当たり前のことですが裏面しか見ていない司馬懿が文章を読み上げることは本来不可能です。これは司馬懿も楊彪同様、書物の内容を全て暗記しているからこそ可能な力技でした。
「…………必ず縄の外に在り。是れ智法の士と当塗の人とは、両存すべからざるの仇なり」
「むむむ!」
「っと、まあこんなものです。文字を目で追っているようじゃ到底、雅とは呼べませんね!」
「なるほど惰を極めると目ではなく、指で文字を読み取るのか。これは見事に一本取られたな」
素直に司馬懿を称え満足そうに頷く楊彪。それを見て得意気な笑みを浮かべる司馬懿。
どちらも雅でもなんでもない、ただの才能の無駄遣いに過ぎないお遊びですが、当の本人達は非常に満足気です。楊彪に司馬懿。まだ幼さの残る二人は年相応の遊び心をもっていました。
つい数分前までどちらが上かを真剣に競おうとしていた楊彪と司馬懿。それでもどちらともなく心を開けば途端に仲良く話を始めました。二人の様子を見に来た楊賜と司馬朗の二人は、子供達が楽しそうにしている姿を見るとニッコリと微笑み、そのまま静かに引き返していきました。
二人はその後も様々な言葉を交わし合います。
ふざけた話だけでなく真面目な話をすることもありました。お互いの見識の深さに驚くことも少なくありません。「なんでこの人は不真面目なんだろう」と双方共に首を捻ったりもします。
このまま和やかに場が収まるかと思いきや、司馬懿が放った一言に楊彪が過敏に反応しました。
「君は出仕しないの? そんなのズルいぞ!」
「ズルくなどありません。当然のことですね!」
「いや、絶対おかしい。これは見逃せない。こうなればオレが司馬朗殿に直訴して…………」
「ちょ、ちょっと待って下さい! そんなことして貴方になんの得があるというのですか!?」
働かない宣言を聞いた楊彪が見逃すはずがありません。烈火の如く司馬懿に詰め寄ります。
「オレに得はなくても国に得はあるから」
「下手な常套句ですね! 見苦しいですよ!」
「若い時の苦労は買ってでもしろって言うだろ。なんだか凄く負けた気になるし君も働こう!」
「その言葉は売る側の人間が考えた戯言です!」
そもそも、と司馬懿は続けます。
「私が働こうが同じことじゃないですか」
「同じこと、とは?」
「貴方は死ぬまで馬車馬の如く働かされるのが確定的に明らかです! はい、お気の毒!」
「それ本気で落ち込むから止めて…………」
司馬懿の核心を突いた言葉を聞いた楊彪は、蚊の鳴くような声と共に肩を落とします。
例えるなら大型連休最終日の憂鬱感。連休最終日の夕方から夜の帳が下りるのを眺める無常感。考えないようにしていても、いずれ向き合わなければならない現実の厳しさを思い知ります。
予想外に楊彪が落ち込んだことに司馬懿は困惑しました。てっきり強く言い返してくるものだと思っていたからです。言い過ぎてしまった、と反省の表情を浮かべる司馬懿に対し、楊彪は静かなものです。その精悍な顔立ちを歪めることなく、あくまでも涼しげに口を開きます。
「真面目な話、オレは希望を捨ててないんだ」
「希望ですか?」
「この広い大陸の何処かに必ず、オレと同じ血の流れる兄姉がいるんじゃないかってね!」
「も、もし居たら大問題じゃないですか……?」
突拍子もないもない事を言い出す楊彪。これには司馬懿であっても流石に困惑します。
「真面目な話、でしたよね?」
「ああ、大真面目さ。見つかった兄姉が君の言う問題を苦にしないぐらい優秀で、誰もが瞬く間に認めるんだ。そして後継ぎから外れたオレはダラダラした日々を送ることが許される。壮年期にもなると腹回りの肉付きが気になり始めるけど、これも富裕層特有の悩みだと前向きに考えて……」
「楊彪さん! 医者に掛かりましょう!」
遠い目をして語り始めた楊彪を見て、これは拙いと司馬懿はストップをかけます。
言ってはみたものの到底叶いっこ無い希望であることは楊彪だって重々承知です。これまでも頭の中で空想に耽ることはあっても、声に出したのは今日この時が初めてのことでした。
なぜ楊彪は声に出したのか。それは同じ志を持つ司馬懿がそこにいたからです。自分の叶えられない希望、または夢を果たし得る司馬懿の存在が楊彪にはとても眩く映りました。司馬懿になら自分の後を託せるかもしれない、と楊彪は考えます。その瞳には一分の曇りもありません。
「君が羨ましくて妬んだりもしたが訂正するよ」
「楊彪さん……?」
「君には大いなる可能性がある。公権力に屈すことなく自分の進むべき道をただ邁進してくれ」
「楊彪さん。私…………私はやってやりますよ!」
快晴の空のように蒼く澄みきった楊彪の瞳。
それを見た司馬懿は自らの敗北を受け入れました。自分は他人の幸福をこれほど喜べるものだろうかと。楊彪の器の大きさに触れた司馬懿は体が打ち震える程の感銘を覚えました。
それから少し後に司馬懿が言い放った煽り文句を聞いて、楊彪がこの前言を撤回したりと一悶着もありましたが、こうして二人は仲を深めていきました。真名を交わし合い、共に得難い知己と出会えたことに喜び合いました。
後に司馬懿の親である司馬防は、楊彪でなければ娘は出仕しなかっただろうと述懐しました。
この日を境に楊彪の文通仲間が増えました。
袁紹に司馬懿。この時期には袁紹と同じ一族である袁術とも既に何度か交友のある楊彪。
ですが袁術はまだ幼く、文のやり取りを交わし合うのは先のことになるだろうと考えます。連絡もなく突然やってきては数日泊まったりする天真爛漫な袁術を楊彪は大いに可愛がりました。
そして司馬懿と出会ってから半年後のこと。楊彪の下に袁紹から一通の文が届きます。
「私塾にいるクルクル小娘の鼻を明かしたいから手伝って欲しい、か。麗羽のお友達かな?」
袁紹から届けられた文を読み上げる楊彪。
こうして楊彪は袁紹に誘われるがまま、袁紹が通う私塾のある都へと向かうこととなりました。