第七話 彼女の夜と彼の夜
悩んで、悩んで、悩んで。けれど答えはでなくて。だから、あえて苦くした珈琲をぐいりとあおってから一つ、はふぅとため息。
何度も思考を繰り返した。何度だって論理的に、理性的に。それでダメならと感情論も用いてみた。けれど、その度その度導かれる答えは同じ物になった。
出発点を変え、アプローチを変え。私に考え得る全てか、それに近いほど多く、考えに考えて。それでもダメで、だからもっともっと。足りない頭をフル稼働させる。
それでも、また導かれる答えは同じで。
つまり、私は行き詰まっていた。
記憶を取り戻しましょうと、そのお手伝いをしますと、せんぱいにそう大見得切った筈が、数時間後には家で一人行き詰まっているのだから、とんだお笑い種だ。
残り少なくなった、もうすっかり冷めた珈琲を飲み干し、のろのろとキッチンへ行く。珈琲のおかわりを淹れながら、はぁ。とため息。これで何度めのため息なのかも最早分からない。
そんなため息と共に口から溢れるのは当然の如く弱音だった。
「小町ちゃん、何考えてるの……?」
分からなかったのだ。それが。まぁ、いくら考えたところで兄妹の居ない私には彼女の苦しみも、悩みも分かるはずもないのだけれど。
淹れ終わった珈琲にミルクと砂糖を入れ混ぜつつ状況を軽く整理する。
せんぱいが今置かれてる環境、それは小町ちゃんとはるさん先輩が大きく干渉した結果として形成された物だという事は確かな事で。それに少なくとも小町ちゃんはせんぱいの記憶を戻す事にあまり乗り気ではないのだろう。
だから、小町ちゃんとはるさん先輩とは会って話をしなければならないし、きっと結衣先輩と雪ノ下先輩にも今のせんぱいの話をしないといけない時がくる。これだけでも控えめに言って諦めたくなるようなくらい問題もするべき事も山積みで。ちなみに控えなかったら諦める。それくらい、大きな問題で。
そもそもせんぱいの記憶を戻すには何をしたらいいのか、何をすれば効果があるのか。これも大きな大きな問題で。
それでも、とりあえず行動は取らないといけない。後者は思いつく物から試してみて、それでダメならグーグル先生にでも相談しよう。と早々に議論を打ち切ったのだが、どこか頭の中で小町ちゃんに会ってお話しするくらいでいいも思っていたものがまさかこんなに大きな問題だったとは。小町ちゃんとはるさん先輩。そして今のせんぱい。点と点が繋がり、人間関係が見え隠れし、そして思惑が顔を覗かせている。考えれば考えるほどに難易度を増すその問題。
「どうにかしないといけないんだけど…」
そんな事実は分かりきった事で。それでも思わず愚痴っぽく独り言を溢してしまったのは、きっとしょうがない事だ。
カップをかき混ぜながらそんな風につい言葉になったのは、やっぱり考えても考えても答えが出ない、堂々巡りの小町ちゃん問題についてだった。
当然、誰よりもせんぱいの近くにいる、肉親である小町ちゃんに黙って事を進めるなんて、そんな事できない。小町ちゃんとは二年連絡を取ってないとはいえ、私の大事な友達なんだから。
そんな友達の想いを、考えを、彼女が大切な兄の為に下した決断を、何も知らないまま、知ろうとしないまま踏み躙るのは、余りにも傲慢で、自分勝手で。決してあってはならない事だ。
でも、その想いは私には到底理解出来なくて、理解できるはずもなくて。
だから彼女の想いを知り、私の想いを伝える為に彼女に会うという事が私が何度も何度も導き出した答えで。そしてそれはきっと間違ってはいないはずだ。
はずなのに、それなのに。
いつか貰った彼女の新しい連絡先。財布の中に二年間入れっぱなしの、もう黄ばんでしまってそこに書かれた字が見辛いくらいに霞んでしまった紙は、その役目をやっと果たそうとしているのに。
躊躇ってしまう。他の方法は無いのかと、無意味にも考えてしまう自分がいる。逃げようとしてる自分がいる。
怖かった。
恐怖が勝つのだ。いざとなって初めて分かる、二年という時間の長さと、そしてその重さ。
黄ばんでしまった紙が、まるで本当の妹の様に可愛がっていた友達を思い出させる筆跡が、そして私の頭の中に広がる考えられるあらゆる可能性が、二年という月日の重さを私に突きつける。
怖い。ただただ怖い。私の知らない二年間を知るのが怖い。彼女に会うのが怖い。彼女に嫌われてしまうかもしれないのが怖い。彼女の理解を得られないかもしれないのが怖い。ただ、ひたすらに怖かった。
でも、やるしかない。あとは覚悟だけだ。
と、ここまで至って。
「………ふぅ。とりあえず撤退。大丈夫、これは逃げてるんじゃない。戦略的撤退だ。そうだ、お風呂。まずはお風呂に入ろう。その後晩御飯を食べて、それからまた考えよう。そうしよう」
なんとも情けない一人言の後、とりあえずごちゃごちゃになった頭を整理する為にもお風呂に入ろう。散り散りになった思考をそうまとめあげる。そうして立ち上がっておかわりも飲み終わったカップを片付けようとしたところで、私はさっきまでそれどころじゃなくてすっかり忘れていた、大事な大事な物の存在を視界に捉えた。
☆ ☆ ☆
いつも通りの食卓。
小町ちゃんがいつも通りに作ったいつも通りに美味しい筈の晩御飯も、どこか味が薄い感じるのはきっと小町ちゃんのせいではなくて。
それはきっと僕がしている考え事のせいだと思う。
リビングの四人掛けの食卓の、僕の席の正面。目の前でお行儀良くお箸とお椀を持って、丁度今お米を口に運んだ小町ちゃんの事を考えていた。
小町ちゃんが煮物に箸を伸ばし、もう一度お米。そして味噌汁のお椀に口を着けたところで、その様子をぼーっと眺めていた僕と目が合った。
「どしたの?」
美味しくなかった?と少し不安げな目がそう問うてきている気がした。
いや、そんな事ないよ。と伝わるように首を横に振ってから、
「ごめん、何でもないよ」
と言って手が止まっていた食事を再開する。
これで、とりあえずは誤魔化しておこう。
その後は小町ちゃんの何か言いたげな視線と、何かを疑うような様子に目をそむけながら、相変わらず薄い味のする食事を続けた。
二人きりの食事も終わり、僕は小町ちゃんが淹れてくれたお茶を飲みながらさっきまでの考え事の続きをしていた。
小町ちゃんは僕の視界に入る範囲、ダイニングキッチンで鼻歌を唄いながら洗い物をしている。
お茶碗を洗い、大皿を洗い。手際の良い小町ちゃんは二人ぶんの洗い物を手早く終わらせる。そして手を洗い、顔を上げたところでまたまた小町ちゃんの様子をぼーっとみていた僕と目が合った。
一瞬の静謐の後、
「どしたの?なんかあった?」
かけられたのは僕を気遣った優しい声で。
いつも通りの兄思いな妹がそこにいて。
だから、余計に彼女の思惑が分からなかった。
どうして小町ちゃんとオーナーさんは繋がっているのか。約束とは何なのか。一色さんとの面識はあるのか。そしてなにより、小町ちゃんはどうして僕が記憶を失ったと分かっているのにその記憶を戻そうとしなかったのか。
聞きたいことも、話したいことも山ほどある。でも、それをする権利が僕にはなくて。
なぜなら、一色さんに任せてしまったから。彼女に、頼ってしまったから。
だから僕がここで下手に行動して、それが彼女の邪魔になってしまう可能性があるなら、僕はここで行動するべきでない。だから、多分今僕がこの場において出来る事はない。
僕に出来るのは記憶を戻すという行為に真摯であることだけだ。
それでも、これだけは確かめておきたかった。この質問だけは、僕から小町ちゃんへ、しとかなければいけないと思った。
小町ちゃんはもう一色さんの存在を知っている。オーナーさんと繋がっている小町ちゃんなら話しを聞いている可能性はあるし、何より一度僕は小町ちゃんの前で彼女の名前を出している。
ならば。今の僕に許されるギリギリを攻める。今の僕が、しなければならない質問を。
だから僕は相変わらずこちらに優しい目をしている小町ちゃんに、
「小町ちゃん。記憶を失くす前の僕って、どんな人だったの?」
そう、尋ねた。
小町ちゃんの顔から笑顔が消える。
やがて現れた表情は。
困惑と、動揺と。そして少しの憂いと哀しみ。そんな様々な感情の入り混じった、そんな表情で。
その表情に、僕は驚きを隠せなくて。
なぜなら、その時の小町ちゃんの表情は、この二年間僕が見る事のなかったものだったから。
初めて僕が、目の前の彼女によって作られた二年間と空白の人生の内側に、ようやく一歩。足を踏み入れた様な気がした。
夜は深く、月は高く。されど厚い雲に覆われその姿は見えず。
吹く風が頬を撫でたと思えば、続く強風に髪は乱れ、お風呂上がりの身体は寒さを覚える。
けれど、高くなりすぎた体の熱を冷ますのに、今だけはその寒さが心地良くすらあった。
異常なまでに煩い心臓を無理矢理押え付けるように、恐怖心を吹く風と共に体内から放出するように、深く息を吐き、代わりに冷えた空気を肺に取り込む。
それを数度繰り返し、左手で握り締めたネックレスを胸に当て、そうしてやっと覚悟が決まる。
いつか貰った半年遅れの誕生日プレゼント。それとは色だけが違う、シルバーのネックレスは今日せんぱいに貰った物だ。
せんぱい。勇気、分けてくださいね。
それからまた数度深呼吸。
そうしてやっと、やっと。
私と小町ちゃんを二年ぶりに繋ぐコールが夜空に細く響きだした。
一つ。
ゆっくり。
二つ。
ただゆっくり。
三つ。
無機質な音が耳を、世界を包み込む。
四つ。
懲りずに煩くなった心音を殺すように、大きく息を吐き。けれどその息は震えた。
五つ。
無限に思える静寂の中で。再び吐いた息が震えたのをぐっと呑み込み。
たっぷり六つのコールの後、酷く懐かしいけれど、酷く他人行儀な、或いは排他的な、攻撃的な、そんな声が耳に届く。
その声は、決して聞きたくなかった温度で。酷いくらいに冷たく、凍えるような声色で。
けれど、それに屈する事だけは、あってはならない。胸元のネックレスをもう一度きゅっと握り、息を大きく吐く。
努めて平静に、友好的に。やるべき事は決まっている。分かっている。後はやるだけだ。
さぁ、やってやりますかっ!
大変遅くなりました。復活です。
Twitterやってます。@ponzuHgirです。よかったらどうぞ。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。