恋姫無双~白狼伝~   作:あるなし

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乱世の器と、治世の器と

「これもまた乱世の絶景ね」

 

 馬上より戦場を広く眺めて、騎都尉・曹操はそう評した。

 

 天は黄砂の残滓舞う八月の空、地は冀州安平国広宗県の端城、そして人は……絶望する武装農民たちと、非情の兵隊たちと、勇躍する将帥たちとで満ちている。

 

「絶景、でございますか」

「そうよ、秋蘭。潁川では乱世の始まりを告げる炎を見たけれど――」

 

 五月、豫州潁川郡において曹操は大戦果を挙げた。長社の城に篭る左中郎将・皇甫嵩と呼応し、城を囲む黄巾の大軍を撃破したのだ。落城寸前であったその戦局を覆した計こそ、火計であった。

 

 炎に照らされて虚ろな数万の黄巾首を前にして、曹操は語ったものだ。

 

 お前たちは正しい。まさに蒼天既に死す、と。

 

 しかしお前たちは誤った。黄天未だ立たず、と。

 

「――ここでは黄巾の終わりの風景を見ている。天の一つの回答を」

 

 今、その目に映るものを、曹操は乱世の縮図と理解していた。

 

 太平道の教祖にして黄巾党首領である張角とは、即ち百姓が切なくも熱く抱いた希望である。その者の篭る城を護るべく健気な群れを成しているが、非力だ。どうしようもなく弱者だ。

 

 天は、無情なり。

 

 天は、希望をもって世を改めることを是としなかった。

 

 襲いかかる兵を見ればそれがわかる。何と強力なことか。その理由は曹操にとって明々白々である。才気ある者たちが今まさに勇躍の時を得たからだ。天命が下ったと言ってもいい。

 

 そら、潁川でも共闘した孫堅の軍が狂猛な勢いで敵陣を食い荒らしている。

 

 そら、北方の勇将たる公孫賛の軍が旋風のように敵陣を吹き飛ばしている。

 

 おや、搦め手から妙に深々と攻め込んでいるあの小勢は、義勇軍だろうか。

 

 手前を見やれば「曹」の旗を掲げた軍もまた荒々しく敵を攻め立てている。先頭は夏侯惇だろうか。それとも曹仁だろうか。あるいは曹洪か。彼女たちの激情はそのままに曹操のものである。

 

 そう、死して縮みつつある蒼天の世においては、己が才覚を出し惜しまぬものこそが強者だ。「かくあれ」という頸木から脱し、「かくあらん」と欲する者こそが天に認められるのだ。

 

 強力をもって世を改めよ。

 

 志を抱く者よ、覇を競え。

 

 そんな天意を確信させる光景である。それゆえに曹操は絶景と言った。

 

「黄巾党はここで滅ぶのでしょうか」

「一度は。けれど本質的には不滅のものよ。どんなにか引き抜き焼き払ってもなお芽吹く雑草のように、地を覆う敷石が足らなければすぐにまた立ち現れるわ。名を変え形を変えて、ね」

「……漢に、敷石たる力はもはやないと?」

 

 答えるまでもないから、曹操は鼻で笑った。

 

 想像の翼を羽ばたかせて天より地を眺めたならば、もはや地は敷石に欠けるどころの事態ではないだろうと思われた。方々で草が茂り、それを押さえる石の色も様々であろう。石には姓も刻まれていよう。

 

 注目すべきはどこの何色か。

 

 中原を鮮やかに彩る者たちか。北西にて力強き馬の字の茶色か。あるいは董の字の紫色か。はたまた南に起こるだろう孫の字の赤色か。それともやはり袁の字の黄色二つか。そしていずこの劉の字にも天命は感じやしない。

 

 不思議と曹操の心を刺激するのは、北東において存在感を増してきた色――公の字の白色だ。

 

 白馬将軍・公孫賛。

 

 率いる騎馬軍は、鮮卑族との激闘により磨き抜いたとみえて、なるほど驚嘆に値する剽悍さだ。その統率ぶりも見事で、また、本人の気骨も素晴らしい。冀州戦線の前指揮官・盧植が罪人に落とされたことを承服せず、諸将の同意を集めて後任の皇甫嵩へと訴えた。そして皇甫嵩に上奏を約させてのけたのだから。

 

 曹操の見るところ、公孫賛に野心はない。その点は皇甫嵩や盧植と似る。与えられた役目を果たさんとする生真面目さには好感が持てるが、それは乱世に頭角を現す者の性質ではないようにも思う。

 

「治世と乱世、か」

 

 そう呟けば、自ずと思い出されるものがあった。かつて人物評の大家は曹操に向かって嫌そうに言ったものだ。「君は治世の能臣であるも乱世の奸雄だな」と。

 

 曹操は知る。治世の勇将は必ずしも乱世の英雄たりえない。歴史を紐解けばその類例は枚挙の暇がないほどだ。実際、皇甫嵩や盧植は漢の枠組みの外へは出られまい。そんな気概はあるまい。

 

 公孫賛はどうか。

 

 彼女は乱世をどのように駆けるつもりか。

 

 美しく駆けてほしいと、曹操は柄にもないことを思った。思うことと後先に、気づいた。美しいのだ。公孫賛の戦振りは。異民族との攻防の中で研磨されたのだろうそれは、どこかしら中華の枠組みを超えている。鮮やかさがある。

 

 心を刺激してくるものの正体とは、これか。それとも別な何かか。

 

 遠目にもそれとわかる白馬の一軍を眺めやりながら、曹操は自問自答を繰り返した。

 

 

◇◇◇

 

 

 耶律休哥は聞く。始めの内は戦場におけるあれこれであったが。

 

「――という訳でして、伯珪殿の惚気ようには諸将も思わず微笑む始末」

「ど、どんな訳だ! 子龍! あることないこと言って!」

 

 酒肴を囲い、かしましさを浴びている。手には一椀の馬乳酒がある。

 

「これは異なことを。『常山の昇り龍』ことこの趙子龍が嘘偽りを口にしたとおっしゃる」

「お前、ホントにその異名大好きな! どんだけ名乗るんだよ!」

「機会あらば」

「隙あらばの間違いだろ!」

 

 公孫賛はだいぶ酒が進んでいるようだ。趙雲もまた酔っている。涿郡を出発してより半年ほどして帰還した二人であるが、諸事雑事をとりあえずも片づけ終えたこの夜に、酔いたいだけの何かを抱え込んでいるらしい。

 

 耶律休哥は乳白色を一口舐めた。飲み干すまではつき合うつもりだった。

 

「そう、あの日の伯珪殿はまさに隙だらけ。嬉しそうに耶律休哥殿への思いを語り」

「だーかーらー!」

「愛槍・龍牙に誓って、私はこの目で見た事実のみを述べてござる」

「事実と真実は違うんだ! わざと、誤解させるような言い方を!」

「おお、卓見かな。しかして事実は事実。そして――」

 

 杯を呷るや、趙雲の表情から笑みが消えた。

 

「――中郎将閣下が無実の罪でもって縛されたこともまた、事実でしたな」

 

 手酌でもって並々と注ぎ、言った。

 

「真実の、何と儚きことか」

 

 一息に干して、趙雲はその杯を置いた。それきり黙って、メンマとやらの詰まった壺をじっと見ている。

 

「……朝廷にも真実の価値を知る方はいる。皇甫嵩閣下も約束してくれた」

「それは確かに。しかしわからぬ者の頂きにおわしますのが」

「言うな、子龍。わかってるさ。そこをわかって、わかった上で割り切らなきゃ、どうして黄色い布を巻いた連中を斬れるっていうんだ……!」

 

 公孫賛の酒杯が細かに震えている。中身が縁を越え、手を濡らしても、飲みもしなければ拭きもしない。

 

「皆が笑って暮らせる世、とはどのようなものなのでしょうな?」

「桃香か。凄いことを言うよな。そしてきっと、あいつはその凄いことを成し遂げると思う」

「他人事のように言いますなあ」

「……子龍にとっては、もう、他人事じゃないんだろうな」

「何をおっしゃるのやら。伯珪殿の治める地は民の笑顔が咲き誇るというのに」

「誤魔化すなよ。器の話をしてるんだろ?」

 

 杯の内に残る僅かなものを見つめて、公孫賛は弱々しく微笑んだ。

 

「私に、桃香みたいな志は、ない」

 

 うなだれた頬に、馬の尾のような髪が力なくかかっている。

 

「無理なんだ。目の前のことで精一杯なんだ。たくさんのことを……本当にたくさんのことを、見て見ぬふりで済ませてる。いつか誰かが何とかしてくれるって、自分のやれることはここまでだって、いつも自分に言い訳してさ。それで、先生への恩返しだなんて綺麗ごとを口にして、喰い詰めた民を蹂躙したりするんだ」

 

 ぽたりと落ちたものは、酒ではない。

 

「ひどい……ひどい、戦場だったよな……」

 

 しばし、静かな時が流れた。誰も何も飲まず、食わない。遠く初秋の虫の音が聞こえた。

 

「……耶律休哥殿はどう思われますかな?」

 

 不意に、趙雲が曖昧な問いを向けてきた。いつもの試すような賢しらさを演じてはいるが、初心からの憤りと律儀からの苛立ちとを隠しきれていない。調練で打ち負かした時には、もっと素直にそれが出てくる。

 

 つまるところが、若い。公孫賛も趙雲も。

 

 どちらも情熱を抱えていて、そしてそれゆえにどちらも傷ついているのだろうと思われた。そういう戦いをしてきた、ということだ。女の多感というものも影響しているのかもしれない。

 

 さして、わずらわしいとは思わなかった。

 

 この不思議なる日々は、いつもどこかしら遠く感じられるからだろうか。

 

「戦場とは、無残なところだ」

 

 言って、耶律休哥は椀の中の白さを見た。いつかと変わらないはずのそれを嗅ぐ。鼻の毛も凍る土漠暮らしの日々では、今ほどに強い酸味を感じなかったように思う。

 

「思いは、剣に込もる」

 

 一口、飲んだ。酒精はわずかだからまず酔うことはない。それでも臓腑に灯る熱があったように思う。命の味がしたようにも、思う。

 

「豊かであれば、民は暮らしやすいのだろうが――」

 

 耶律休哥の人生に、豊かさなどなかった。清々しいまでの過酷さに浴していた。それが、よかった。男とはそういうものだと、迷いも衒いもなく信じた。

 

 人の心をも凍てつかせる北の荒地が、耶律休哥の全てだった。

 

 果てて石くれになるのだろうと、漠然とではあるが考えていた。

 

 終わりの頃に思いがけず息子を得て、その苦悩を背負いもしたが、最期はやはり独りだった。好きなように戦い、好きなように死んだ。草原に、死んだのだ。

 

 いい人生だった。これ以上を望むべくもない、男の人生だ。

 

「――戦に生き、戦に死ぬ。俺は」

 

 だから、言い切れる。

 

 誰かに理解してほしいとは思わず、また、女には理解できまいとも思う。唯一、息子だけは己が心中を察していた……その確信に嬉しさを覚えて、耶律休哥はまた一口、馬乳酒を飲んだ。

 

 息を呑む気配に目を向けると、二人がそろって目を見開いていた。

 

「そのように……微笑まれるのか、貴殿は」

 

 趙雲の顔が赤い。公孫賛もまた。深酒など軍を束ねる者にとってもってのほかだ。

 

 耶律休哥はぐいと呷って椀を乾した。

 

 席を立ったとて、二人の動く気配は感じられなかった。


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