軍には兵気というものがある。
率いる将、率いられる兵、敷かれた陣などによりそれらは変容する。軍をもって軍に当たる際には必ず見極めなければならないものだ。そしてそれは軍を援ける際にも同様である。
耶律休哥の見たところ、その軍の兵気は珍妙だった。
遠目にも粗末な装備からして義勇兵の類なのだろう。馬はなく、一千卒ほどが原野に円陣を組んでいるが、どうしたことかその気は内側へと向いているのだ。縮こまろうとでもいうのか。さながら追い詰められた小動物を思わせて……ただ二つ、妙に堂々たる攻め気があって倍する敵を威圧している。
「匪賊風情が! 我が青龍偃月刀を恐れぬならば来るがいい!」
「鈴々は張飛なのだ! 寄らばブッ飛ばすのだ!」
どうやら二人、趙雲に似た女傑がいるらしい。吠えている。
その軍は、例えるのならば二頭立ての荷馬車だ。馬が荒ぶるため近寄りがたいが、荷台には何やら宝物が乗っている気配があるから見逃しにもできないというような。
対するはこの頃の世を騒がす黄巾の賊徒で、歩兵二千卒ほどが方陣を敷き、騎馬の五百騎ほどがその左右にそれぞれ着いている。練られた軍だ。手強いのだろう二人を注視し、徐々に陣形を広げていく。騎兵の動きには敵を逃さぬ意図がある。
このまま推移すれば半包囲の上で殲滅だ。退路も断たれる。凄惨なこととなろう。
荒ぶる二人が宝物を諦めれば、また別の結末もあるのかもしれないが。
諦めまい。
不思議なるこの世界では、退かぬことが女傑の生き様らしいと知っていた。彼女らは真っ直ぐだ。真直ぐに世へと自己を表わす。まるでそうすることを許されているとでもいう風にして。
それは若さ……いや、いっそ幼さに思えた。我儘さと言ってもいい。
そこに眩しさを覚えるのは、なぜか。
耶律休哥は己の手に触れた。瑞々しさを取り戻して些か頼りないそれに。こういう肌をしていた頃、一人の女を眩しく思い、一つの意地を張った。それがその後の人生を土漠の色に決定づけた。
「……これまでか」
耶律休哥は立ち上がり、馬の枚を取って捨てた。跨る。
それで丘の上には一千騎が並び立つこととなった。義勇軍も黄巾賊も、すぐに気づいてさざ波のように動揺が広がっていく。当然だろう。向かい合う両軍を挟んで対岸にも同様に一千騎が姿を見せているのだから。
「旗を立てろ」
言えばバサリと旗が上がる。「公」の字の描かれたそれにも慣れたものだと思う。
見下ろされる側の反応は対照的であった。
義勇軍の方は俄かに沸き立ち、黄巾賊の方は早々と逃げ出すものが出る始末だ。さもあれここは涿郡ではないにしろ程近い冀州北部である。「白馬将軍」の雷名は十分に轟いている。
兵気は散り散りにして、もはや両軍とも軍の体を成さず。
駆け下る。
それで終いである。
◇◇◇
耶律休哥と名乗ったその白髪の男は、にべもなく言い放った。
「知ったことではないな」
鳳統は耳を疑った。
義勇軍の長たる劉備が誠実で一生懸命な謝辞を述べ、軍師たる諸葛亮が戦闘に至った事情をこれもまた一生懸命に説明した結果が今の一言であったから。
「たまたま助ける形になっただけだ。もう引き揚げる」
「え! そんな!」
「ま、待ってくだしゃい!」
身をひるがえした彼に対して二人は縋り付く勢いだ。
それはそうだろう。今見捨てられては義勇軍の存続が危うい。傷病者を抱え、食料に窮し、もはや当初の目的地である潁川郡を目指すことを断念するにまで追いつめられている。
この難局を打開すべく、か細い縁を頼って涿郡へ向かう途上の戦いであった。
「あの、貴方は、ぱい……パイパイちゃんの、お仲間さんなんですよね!?」
「はわわ、こ、公しょん、公孫賛様へのお取次ぎをお願いいたしたく!」
男の、その目。
淡い褐色のそれにはいかなる感情も窺えない。
劉備は美しく、諸葛亮は可憐で、どちらも人々に愛される容姿である。そうでなくては人が集まらなかったという事実もある。
それにも関わらず、彼にはまるで興味を引かれた様子がない。好感もなければ嫌悪感もないのだ。遠くを眺めるようなその眼差しは、はたして二人の姿をきちんと捉えているのか。
「私、パイパイちゃんとお友達なんです! それで、私たちも一緒に戦わせてもらえたらって思うんです。皆はそのために集まった仲間で、誰もが笑って暮らせるように、力を合わせて……」
劉備は語る言葉もまた美しい。この乱世にあっては唯一のものと思わせるほどに。
「涿郡は民よく治まり、軍甚だ強く、『白馬将軍』の威名たるや古の衛青、霍去病もかくやという響きあり。激戦地たる潁川郡へ招集されるは必定なれば、我らは将軍の一助となるべく……」
諸葛亮の語る言葉は正しい。この乱世を広く俯瞰するばかりか未来をも捉えている。
だが、それでは。
「無理だな」
言い切る声の響きに鳳統は震えた。自分の口を押さえていた。
己が発した声かと、錯覚したからである。
「先程から! 先程から随分な態度ではないか!」
「あ、愛紗ちゃん」
「援軍には感謝しよう! 戦振りもお見事! しかし国の乱れを正さんとして立った我らに対し、官兵が居丈高に振る舞うのはいかがなものか!」
関羽が怒る。それも一つの道理だろう。彼女は劉備と義姉妹の誓いを立てており、第一の臣であることを自負している。そして同時に侠でもある。弱きを助け強きを挫くその精神は、畢竟、反骨となって表れるものだ。
だが、届くまい。
鳳統にはもう一つの強力な道理が見えているから、交渉の先が予測できてしまった。
「俺は軍務を遂行している。何も言うことはない」
「な、なんだと!」
やはり、である。
耶律休哥という名のこの男は軍人だ。先の埋伏及び挟撃の鮮やかさからして並々ならぬ戦術家でもある。率いる兵を見ればその類稀な将器もまた知れる。腰に佩く無骨な剣は生き様そのものをすら示していよう。
どこまでも軍人でしかないのだ。彼は。
だから軍の理屈しか通らない。尊い理想でも経世在民の弁でも熱い義侠心でもなく、冷徹な戦の利を論じなければならないのだ。
その確信をもって鳳統は拳を握る。他ならぬ己の役目である。
「わ、分け前を決めたいでしゅ!」
噛んだ。しかしもう退けない。
「本軍は囮になることで黄巾の一軍に隙を生じせしめましゅ、ました! 貴軍には、本軍に対してその戦功に見合った物資を提供する義務がありましゅ!」
皆が注目してくるから、手が帽子のつばに伸びた。しかし鳳統は掴まない。隠れない。彼もまた己を見ている。他の誰でもなく、己のみを理解の目で見ているのだから。
「放っておいてもよかったが」
「いいえ、それでは好機を逃したでしょう。あの地形、あの対陣であればこその戦果でしゅた」
「それがわかっていたと?」
「近くに潜んでいるだろうという確信もまた、ありました。さもなければ今少し下がりました」
「俺の軍の所在は把握していまい」
「涿郡の精鋭騎兵部隊が長駆してこの辺りの黄巾を討っている、とは聞いていました。だから……」
チラと目をやると、諸葛亮が真剣な面持ちで一つ頷いた。
「……だから、山間を避け、黄巾を誘うように行軍していました」
劉備が、関羽が、息を呑んだ気配がした。鳳統は唇を噛んだ。負傷者が少しでも歩きやすいように、という提言の裏に隠していた内容である。
捨身得命の計、とでも言おうか。
ある程度の犠牲を払おうとも……よしんば半壊しようとも、公孫賛の前で関張の二枚看板を売り込めればいい。「白馬将軍」の後ろ盾を得られたなら、それは義勇軍の大きな飛躍へと繋がるのだから―――そういう計画だった。
「まあ、そうだろうな」
彼は素っ気なく言う。
「俺はそれを利用した。わかってやっていたのなら、確かに分け前があって然るべきかもしれん」
「あわわ、で、では……」
「鹵獲品を分けよう。虜囚の連行を手伝うのなら更に取り分を増やすし、涿郡にしばし休める場所も用意しよう」
「こ、公孫賛様への目通りは」
「無理だと言った。今は洛陽だ。あるいはその潁川郡とやらへ派遣されているかもしれないが」
副官らしき男へ何事か告げ、彼は去った。振り返りもしない。打ち合わせにも来ない。
「黄巾賊の人も、もとは私たちと同じ農民だったんだし……」
「駄目です、桃香さま」
「ひ、雛里ちゃん」
「私たちが分けてもらえたのは、武器と食料です。虜囚は違います。きちんと連行しなければなりません」
「でも、そんなのって、哀しいよ……」
「そう感じられる桃香さまだからこそ、強くなってください。強くなるために、体勢を整えたらすぐにも涿郡を出ましょう」
「で、でも!」
劉備は人徳の人だ。その顔に浮かぶ悲哀は先刻までの敵を不憫に思うからのものであって、決して己の安逸や栄達を思ってのものではない。軍にそぐわぬ心情なれど、軍を超えたところで天下に通ずるのだ。彼女という人は。
否定したくないと思うから、鳳統は唇を噛んだ。
そっと肩に添えられた手は、諸葛亮のものだった。
「雛里ちゃんの言う通りです、桃香様。私たちは出来る限り早く、黄巾討伐の戦に赴かなければなりません」
「しゅ、朱里ちゃんまで」
「思い出してください。どうして私たちが涿郡を避けて旗揚げしたのかを」
「え、それは……?」
「義勇兵を募集していないのです。今の涿郡では。むしろ禁止されています。民の暮らしが豊かで、正規軍が強力無比であるがゆえに」
そこに私たちの居場所はないのです、という言葉が地べたへ転がっていった。
黄巾の者たちと変わらず、鳳統たちもまた敗残の足取りであった。