天の御使いなる者は遂に現れなかった。
趙雲の旅はそれを確かめるためには充分な期間であったが、しかし、己が槍の振るいどころを定めるにはまるで足らなかった。路銀もまた尽きた。
真名を交わした友と別れ、北の地を目指した。
二つの狙いがあった。
一つには冀州常山郡の生家を訪ねて兄に金を無心することであり、一つには近頃話題となっている「白馬将軍」の武者振りを確かめることである。
公孫賛。幽州涿郡の令にして、異名の通り騎兵の扱いに長けるという。
その八面六臂の活躍たるや北辺の守護者のごとくして、州内を縦横に駆けては鮮卑族の暴虐をことごとく撃退している。それでいて幽州に住まう異民族の保護に乗り出しており、涿郡は商人たちの間で北方交易の玄関口とさえ称されているのだから摩訶不思議だ。
はたして、我が槍を捧げるにたる御仁や否や。
久方ぶりに会った兄は思いの外に冷たく、懐は碌に温まらないままであったものの、趙雲は意気揚々と涿郡を目指した。
何しろ彼女は「常山の趙子龍」と呼ばれ始めた、今売り出し中の武芸者である。己の槍術には天下無双の自負がある。その腕を買われてやればいい。そう考えていた。
だから、近くで公孫賛軍が戦っているという情報を聞きつけるや勇み立った。
馬を借り、駆ける。得難い好機である。噂の人物を見極めるためにも、己を売り込むためにも、砂塵の上がるその場所へと急いだ。
そして、崖の上で。
趙雲は打ち震えることとなった。
崖から見下ろすその原野では今まさに騎兵同士がぶつかり合っていた。乗り手を失った馬が四方八方へと駆け散っていく。地へ落ちる身体は、宙へ飛ぶ首は、どちらも全てが鮮卑族だ。
一方的な展開であった。
三千騎はいただろう鮮卑の軍勢を切り裂いたのは、五百騎ほどの軽騎兵である。
強い。とてつもなく強く、凄まじく速い。
そして変幻自在の動きをする。一条の槍のように突き刺さったかと思えば、一匹の蛇のように巻きつく。次の瞬間には弾けるように五隊に分かれて、いかなる陣形も許さぬとばかりに暴れに暴れ、気がつけばその内の一隊が鮮卑の将を討ち取っていた。
何だ、あれは。
趙雲はこの場に旅の友らがいないことを惜しんだ。己の目では計り知れなかったからだ。
彼女の知る戦いとはこういうものではない。強力な軍とは一人の強力な武人が先頭ないしは中心にいて、その息遣いが感じられるような攻撃を仕掛けるものだ。率いる者の戦意と激情が感じられるものだ。
ところが、どうだ。
あの五百騎には表情というものがない。個人が見えず、ただ五百人分の研ぎ澄まされた殺気だけが放たれている。
恐ろしい。
まるで、五百人が全て高名な武人ででもあるかのようだ。
趙雲は唾を呑んだ。状況によっては公孫賛軍に加勢しようなどと考えていた自分を、恥じた。
◇◇◇
「――という風に、それはもう期待に満ち満ちて、伯珪殿の下へ参ったのですぞ。私は」
「あー、うん、そうだなあ」
窓からひょいと現れたその人物が酒瓶とメンマ壺を抱えていたから、公孫賛は早々と聞き流す構えを取ったものだ。長くなる。そして大概は下らない。
「なるほど、確かに白馬将軍は見事な御仁であった」
「そりゃどうも。その異名、こっぱずかしいけどな」
「涿郡の治安は幽州随一。商家も集まっていて民の暮らし向きも明るい」
「ありがたいことにな。最近は変な仮面の狼藉者が出没するらしいけど」
「正義の味方が活躍しづらいほどの為政! 惜しむらくは美を解さずに地味であることか」
「余計なお世話だけどな! ホント、色んな意味で余計なお世話だけどな!」
飲み、食らい、迷惑な絡み方をしてくるその女は姓名を趙雲、字を子龍という。
涿郡へ来訪した武芸者である。その自慢の槍捌きたるや公孫賛をして畏怖を覚えるほどだ。仕官目的でなかったことは残念だったが、それでも互いに期待するところはあって、主従とはまた別の交友を持つこととなったが。
「ああ、伯珪殿。伯珪殿。私は飲まずにはいられない」
近頃の趙雲は酒癖が悪い。その理由は知れていた。
「伯珪殿には感謝している」
「そりゃまた、どうも」
「私を客将とするや一校八百卒の校尉待遇となさり」
「正式に仕えてくれたらもう八百卒も任せるんだけどな。裨将に抜擢だ」
「我が武を寿がれ、見事なる白馬をもくださった」
「白龍はなあ……子龍に懐いちゃったからなあ……」
「煩雑な書類仕事も免除してくださった」
「よくもそんなこと言えるよな。私がこんな夜中にも筆握りしめてるのに」
「素晴らしい器量。気持ちのいい差配」
「いつも判断が一呼吸遅いって言われるけどな。遜寧に」
「そう、その耶律休哥殿だ。私をこうも悩ませるのは」
遣る瀬無い溜息を酒臭く吐き出して、趙雲は嘆くのだ。
「わからぬ。あの男が。捉えきれぬ」
これである。
そして公孫賛にはそれをどうしてやることもできない。
「強い。まだ一度として試合ってはいただいておらぬが、それはわかる。しかし……」
グビリと呷って、呻くように言う。
「しかし……武人ではない。自らの武を誇るところがない。言うなれば獣だ」
「おいおい。まさか異民族差別じゃないよな、子龍」
「無論。そもそも貶してなどいない」
「獣……が褒め言葉なのか」
「力むところなく、ごく自然と強い。そして群れを作る。当たり前のように、強力な群れを」
「……群れ、か」
「それでいて孤高でもある。まるで狼のようだ」
公孫賛もまた吐息して筆を置いた。傍らの竹簡を一巻、じゃらりとほどく。それは耶律休哥に関する諸々の覚書である。
そこに記されているのは、耶律休哥軍とでも言うべきものの実態だ。
任せた士卒の数は五百人だったが、州内に住まう異民族や捕虜とした鮮卑族などからも志願する者が相次ぎ、今では二千人からの規模となっている。その一人一人が二頭の馬を宛がわれているが、そのほとんどは鮮卑族との戦いの中で鹵獲したものだ。今後も馬は増えていくだろう。既にして公孫賛軍は総騎兵として成り立つのだが。
また、この二千人は一年を通じて荒野に野営し続けている。冬にも幕舎暮らしだ。火を煮炊き以外には用いない徹底ぶりで、その生活は北の果ての遊牧民族のそれのようでいてそれよりも酷だ。実際、初めの冬には死人も出たのだから。
「孤高かあ。友達いなそうだもんな、あいつ」
「そういう意味では……いや、まあ確かに。私と酒を飲みかわそうともしない男ではある」
「あ、酒? あいつと飲みたいなら店売りの酒じゃ駄目だぞ」
「ほう。何かこだわりがあると」
「馬乳酒なら飲むんだよ。お手製のやつ」
「……メンマに合わん。あれは」
「ま、悪食の類だよなあ」
敢えて言わないものの、耶律休哥が羊の血を飲食することも公孫賛は知っていた。山椒入りのそれは臭いだけで強烈であった。飲めば全身から汗が出た。
「でもさ、調練は重ねてるんだろ?」
「……いつでも襲って来いと言われ、これまで何度となく」
趙雲の表情が既に多くを物語っていた。
「いつも私きりが残される……笑うのか、伯珪殿」
「いや、悪い、何だか思い出されて」
咳払いを一つして、問うた。
「八百騎で当たっていって、遜寧は何騎出してくるんだ?」
「多くて同数。少なくて二百騎」
「ふむ。その二百騎は、どんな数の時であれ出てくるのか?」
「……言われてみれば、耶律休哥殿の供回りはいつも同じ面々だったやも」
「なんだ、それなら落ち込むほどのことじゃない。その二百騎は精鋭中の精鋭で、あいつに言わせれば自分の体と同じようなものだそうだ」
「つまり、少なくとも手加減をされているわけではないと?」
「ああ。子龍を相手に加減ができるようなやつはいないさ。それに、まあ、一騎打ちになったら子龍の方が強いんじゃないかな?」
「……そこのところが、わかりかねる」
「さっき自分で言ってたじゃないか。狼なんだよ、遜寧は。白龍ならぬ白狼さ。名乗りを上げて一騎打ちを挑む狼なんていないだろ? 勝てばいいんだよ、勝てば」
「やはり……武人ではない」
「だけど軍人だ。私なんかよりも、よっぽどな」
沈黙が訪れたが、公孫賛は筆仕事を再開する気にはなれなかった。窓へ目をやる。月夜だ。この明るさならば耶律休哥軍は荒野を駆けているかもしれない。どこまでもその牙を研ぎ澄ませるために。
あるいは鮮卑族侵入の知らせを受けて出動している可能性もある。耶律休哥軍には鮮卑族に対する即応部隊として独立行動権を与えている。それだけの信頼を、公孫賛は耶律休哥へと寄せていた。
「少し、わかった。やはり伯珪殿は見事だな」
「常山の趙子龍に言われるんだから、こっぱずかしいよなあ。照れてはないけど」
「耶律休哥殿に対して、まるで熟年夫婦のような落ち着きと理解があらせられる」
「ば! 馬っ鹿言うな! あいつとはそういうんじゃない!」
「おや、それにしては焦がれるような横顔を見せておいでだったが」
「こが! 違うよ! 無茶しないかなって、心配してるだけだって!」
「この趙子龍に勝ちを譲らぬ御仁だ。何の心配もござらん」
「ま、まあ……そうなんだけどな……」
公孫賛はそっと懐へ手をやった。そこには短剣がある。草原で拾った代物を、折れたそれを、砥ぎ直して短剣にあつらえたものだ。
折れるのだ。どんな剣とて。
折られたのだ。耶律休哥は、過去には一度。
「……あい、わかった」
「え?」
「伯珪殿をかくも不安にさせるようでは、耶律休哥殿もまだまだ未熟というもの」
「いや、それは」
「郡内の黄巾賊は、全てこの趙子龍が任されよう。それでまずは戦功を並べましょうぞ。その上で馬上より叩き落して進ぜよう。メンマの美味さも教えてやろう」
何やら納得した顔で頷きを繰り返して、趙雲は部屋から出て行った。
「少し、お二方の間柄に妬き申した。それもまた面白きこと」
そんなことを言い捨てられても、公孫賛は表情にも困る。
「結局」
筆を取り、つぶやく。
「どっちも書類仕事は手伝ってくれないんだよな! いいけどさ!」
更けゆく夜に、公孫賛は地味ながらも人々を支える仕事を続けるのだった。