恋姫無双~白狼伝~   作:あるなし

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白き者たちは笑う

「ついに、伯珪殿も中郎将ですか。はっはっは」

 

 呵々と趙雲が笑うから、公孫賛もまた少しだけ笑うことができた。

 

 夜も更けた執務室である。竹と紙と墨と酒……気だるい香りが漂っていて、肌寒い。風を感じないというのに灯火が揺らめいている。杯の中の水面も、白く濁るばかりで、何を映すでもない。

 

 並々と注がれたその酒を、舐めるでも飲むでもなく、公孫賛は見続けている。

 

「いやはや、皇甫嵩閣下も予想を超えて辣腕であらせられた。ご自身は左将軍となり、盧植閣下も赦されて尚書というのだから見事極まる」

「苦労されたろうと、思うよ」

「そうしてまでも、伯珪殿へ期待するところ大、といったところですかな」

「うん、まあ……ありがたいことだよな」

「いずれ伯珪殿も中央に招聘されましょう。さすれば御三方の結束はかの十常侍も無視できぬものとなりますな。国の慶事ですぞ、これは」

「ああ、そうか、これは祝い酒だったのか……」

「まさに祝うべき酒。なぜならば――」

 

 杯が置かれる音がした。小さくも断固たるその短音に、公孫賛は顔を上げた。

 

「――貴女の前に、英雄への道が拓けた」

 

 強い言葉だった。微塵の酩酊もない瞳が、公孫賛を真直ぐに見据えていた。

 

「何を、迷っておいでか。伯珪殿。既にして注目される身でありながら」

「注目って」

「先の烏桓討伐において来援した諸将……その多くが貴女を見極めようとしていた。否定も謙遜も無用。これは厳然たる事実。たとえば関羽。気難しい彼女がああも胸襟を開くに至ったのはなぜか。たとえば夏侯淵。本拠地からいって謂れなき援兵の、その意味は何か。たとえば呂布。どうして、大将軍が己が切り札とも言える部隊を寄越したのか」

 

 公孫賛は息を呑んだ。逆落としを受けているようだった。

 

「誰もが、貴女を目的としていた。戦を通じて、公孫伯珪という人物を推し量った。この乱れ行く時勢において貴女はいかに動くのか……知りたい。知らずにはおかない。そんな情熱をもってして」

 

 言われて鮮烈に思い出される光景があった。五万からの軍勢を率いて戦った無終の決戦……その前後、多くの人物が公孫賛と一言でも言葉を交わそうとしてきた。大いに期待され、夢中で応えて、大いに賞賛された。

 

 そう、夢中だった。文字通り、今でも夢の中といった気分が残っている。

 

「貴女は、もはや安易には生きられない。一挙手一投足が周囲に大きく影響する」

 

 己の影響力の増大を、公孫賛は理解していた。

 

 これまで、公的な職分職責を越えて多くを成してきた。書類仕事の三割は法解釈や弁明書、事後承諾願い、越権行為の許可要請などが占めていた。中郎将ともなれば、それらのほとんどが合法のものとなる。拡大された職権はより多くの行動を公孫賛に促すだろう。

 

「それだけの力を得て、今、何を望むのですかな?」

 

 望む、と公孫賛はつぶやいた。このところは考えてもみなかった言葉だった。

 

 懸命に生きてきた。必死に戦ってきた。どうしてか。意味を求めていたからだ。己の命の意味を……意味のある死を、求めてきたからに相違ない。

 

 公孫賛は懐中の短剣に触れた。戦士の果てを体現しているような、それ。

 

 剣を手に取る以上はいつか討ち死にする。その瞬間に、ああ私は護れるだけ護ったと、納得したかった。この国の北辺に生まれ、異民族の脅威に晒されて育ち、人々の平穏な暮らしを背に庇わんと欲したのだ。そのためにこそ、戦場の風に身命を晒してきた。馬上の高速に魂魄を磨いてきた。

 

「私は……中央で生きたくない」

 

 言葉は、時に心の内から絞り出すものだと知った。

 

「……立身出世に興味はない、と?」

「国の内側のことは、嫌だ。権謀事には、眩暈がするし吐き気もする」

「それは、まあ……わからないでもないですが」

「背中が寒いのは嫌なんだ。帰りたくもない場所のために、戦いたくないんだ」

 

 言葉は、時に更なる言葉の呼び水となることを知った。

 

「子供を殺したくないんだ。親を殺したくないんだ。もう二度と、あの黄色い頭巾のような人々を、踏み潰したくないんだ! くそ! 本当は、誰も殺したくなんてない……烏桓だって鮮卑だって匈奴だって! 誰も彼も、殺したくなんてないんだよ! 私は!!」

 

 望まぬものの後にしか、決意が言葉にできないことを、知った。

 

「でも、戦う。壊されないために、戦うんだ。戦うことでしか護れないものを、他の誰かになんて任せずに、私が戦って護る」

 

 決意の先に、はじめて、望みが口をついて出た。

 

「この国を、中華を、護りたい……!」

 

 頬が濡れていた。望みに伴うものなのか。

 

「私は……天下が天下であることを、鎮護したいんだ」

 

 涙が熱かった。今や口をつぐみ、心に己の望みの残響を聞く。自ずと目を閉じて。

 

 そして、ギョッとした。

 

 目蓋の裏の暗闇に慄いたのだ。何という暗さか。闇が、信じ難い深さでそこにある。熱涙を経て立ち現れたものなのか。こんなものと向き合い続けるなど、人間にできることとは思えない。されど、離れられないもののようにも思われた。もはや、見て見ぬふりなど許されないのだとも。

 

 何かが閃いた。光だ。夜闇に輝くようなそれは。

 

「星」

 

 目を開くと、趙雲がいた。立ち上がって軍礼の姿勢である。

 

「我が真名にござる。今この時より、客分ではなく生涯の臣として、お仕え申し上げたい」

「真名って、お前……」

「受け取っていただけるや否や」

「そりゃあ、嬉しいさ。嬉しいけどさ。そろそろ桃香のところへ行くのかなって……」

「この期に及んで戸惑うところが、いかにも伯珪殿ですな。そんな貴女に癒されもすれば惑わされもしましたが、今宵、貴女の器に大いなる確信を抱き申した。我が槍を捧げるべき御人であると」

 

 また、趙雲は笑うのだ。楽しそうに嬉しそうに、そして誇らしそうに。

 

 だから、公孫賛もまた笑った。気恥ずかしさで頬を温かくして。

 

「白蓮だ。よろしく頼む、星」

「こちらこそ、白蓮殿」

 

 真名が交わされた。そして杯もまた、交わされたのであった。

 

 

◇◇◇

 

 

 長城に立ち、耶律休哥は北を向いていた。

 

 朝霧は海原のごとくして、音もない。岩山は島々のごとくして、色もない。冷気を吸う。白く、熱気を吐く。酷寒は砥石だ。生命を拒絶する冷たさが、熱を、死を遠ざける力を育む。

 

「駆けていきたいんだろ、遜寧」

 

 公孫賛だ。近頃は白い戦外套をまとうようになった。

 

「そういう顔をしていたよ。私には思いもよらないことだけど」

「ここより北も、幽州だろう」

「まあね。でも、どこか外側って意識はあるんだ。駆けてもいいが、戻ることが前提になるかな」

「……そういうものか。これは」

 

 耶律休哥は灰色を踏んだ。見慣れていたものに比べると、かなり新しく見える長城を。

 

「やがて朽ちる。こんなものは」

「そりゃあ、そうさ。どんな物だって壊れるし、どんな人だって死ぬ」

「達観したようなことを言う」

「え、あれ? 今のそっちが先じゃなかったか?」

 

 首を傾げつつ、公孫賛が隣へ来た。

 

「私さ、幽州全域を、正式に統治することになったんだ。肩書としては刺史ってやつで、上に州牧ってのが新設されてるんだけど、兵権を譲られたからには私の権限が上になる」

 

 政治の話を向けられることはままあれど、それが愚痴でないことは珍しかった。見れば愉快げですらある。

 

「要は、北を眺める幽州が、私の家ってことさ」

 

 明るい調子で、公孫賛が言う。

 

「ここを護るよ。それが、もっと大きなものを護ることにもなる」

 

 耶律休哥は、北の空を見つめる公孫賛の、その横顔を見た。澄んだ目をしていると思った。誰かに似ていて、同時に、他の誰でもなく公孫賛だった。勝手に己の娘と捉えている、強い人物だ。

 

「……どう思う? 変かな?」

「いや、そういう家を知っている。一州に拠って立ち、国を護っていた武門を」

「へえ! それはまた……って、随分嬉しそうじゃんか、遜寧。そんなにいい仲間だったのか」

「敵だ。宿敵だった。あの男たちは」

「あれ!?」

 

 空を見上げた。かつても今も変わらないそれを。

 

 遼の地で、宿敵のようにして、娘と生きるこれからを思った。それは大層面白いことに思えたから、笑った。公孫賛が何やら騒ぐから、次から次へと笑えて仕方がなかった。




これにて第一部、完。

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