男は戦場を疾駆していた―――そのはずだった。
気づけばそこは草原で、馬もなく、半ばで断たれた剣を握っていた。見れば鋭利な断面である。手は痺れ、何か涼やかな衝撃が胸の奥に残り響いている。
人の声、かもしれない。
親しく呼び掛けられているような、不思議な暖かさが感じられる。
女の声ではない。男は妻を持ったこともなかった。
心を向けた女性がいたにはいたが、立場の差たるや千尋の谷もかくやというところがあって、むしろ傍目には憎み合っているように見えただろう。
では男か。
されど友ではない。男は友を持ったこともなかった。
それがどういうものかもわからない。息子を薄めたようなものと聞いたが、あれほどに無二のものを薄められるとも思えなかった。
そう、男には息子がいた。
敵として打ち倒し、殺すつもりで斬り伏せ、血はつながらずとも血を分け与えた息子が。
そうだ。息子と駆けていたのだ。万騎のぶつかり合う戦場を。
主たる兵力は任せ、ただ二百騎を率い、手強い敵と戦っていた。いや、追い詰めていたのだ。殲滅するつもりだった。宿敵の息子たちが練った軍を、精強なる騎馬軍を、この手で狩り尽くすはずだった。
ふと得心するものがあった。
そうだ、まさにあの宿敵の声ではないか。
男は笑った。どうやら己は死んだらしい。最後まで勝てず、数に任せて討った宿敵であるが、彼の息子の剣に宿ることで最後には己を討ったようだ。それはまさに望むところであった。病魔に侵された身にとってこの上もない死に様に思われた。
「だがな、楊業殿。それは業の深い話でもあるぞ」
心のままに語っていた。
「貴殿の息子と、俺の息子との対決は……余人にはその意味するところも理解できまい」
言って、剣を捨てた。それきり考えることを止めたということだ。
死んだのだ、己は。
思い切り死んだ。それでいい。
あとは草原に吹く風となりたかった。
◇◇◇
女は当てどなく馬を歩かせていた。
五十騎ばかりを率いていたはずだったが。
「うう……どうしてこんなことに」
期せずして一騎駆けをし、今に至っていた。はぐれた、ともいう。
女は名を公孫賛という。遼東属国の長史である。国の北辺の守護を職責とする者の一人と言ってもいい。その気概もある。北方遊牧民族たる鮮卑の恐ろしさはよく知っていたし、対抗すべく武芸にしろ馬術にしろ研鑽を積んできた。
しかし、生来の宿命とでもいうのか、報われることが少なかった。
豪族の子として生まれるも冷遇され、高名な私塾に通うもまともな友人の一人とてできなかった。努力しても何故か評価されないのだ。どういうわけか空回る。良い行いをすれば誰かが通りかかってその者の功績となり、良いことを言えば風が吹いて相手に届かない。真名を預ければ間違って覚えられる始末だ。
自分は運が悪い。いつしかそんな諦観を抱いていた。自他の誰をも恨まないためには、そう思うよりなかった。
今日のことも、そうだ。
砦を巡察すべく出てきた。その途上で鮮卑の数十騎を見つけたまではいい。一当てして追い散らしたことも誇れるだろう。これこそが働きどころだと勇んだものだ。
勇み足だった。
追った先に別な数百騎がいて、散々に追い掛け回されることとなった。結果を見れば罠にかけられた形だが、どうもそうは思われなかった。なぜなら最初の数十騎もひどく驚いていたからだ。「どこの誰だ。どうしてそこにいるのか」という顔をしていた。数百騎の方は方で「どこの誰だ。何をやっているのか」という顔をしていた。察するならば迷惑そうだった。
そんな偶然で負け、これという意味もなく死ぬ。そういうことなのかもしれない。
孤影を草原に落とし、うな垂れ、公孫賛は長く長く息を吐いた。
「ん? 何だ?」
草に抱かれて鋼の色が輝いていた。剣だ。剣だったもの、というべきか。折れてしまっている。しかし見過ごしにできない気配があって、公孫賛は下馬した。手に取る。
「これは……!」
触れた肌から伝わるものがあった。熱い。肉の身にはただの鉄でも心が激しく熱される。
これは血潮の熱か。それとも戦場の熱を凝縮したものか。血風が見えた気すらして、公孫賛はうめいた。凄まじき戦いの情景が連想された。想像するだけで圧倒された。
気づけば、涙を流していた。
指ですくい取り、色を確かめた。透明だ。あるいは血の色をしているような気がしたが。
「歴戦の剣だな……きっと、とてつもない戦いを経て、ここに横たわったんだ」
柄を撫で刀身を撫でた。恐らくは百錬の一振りだったのだろう。一切の華美を排した拵えは、実戦的ということを超えていて、もはや求道的な印象すら感じさせる。
細かな傷の一つ一つなぞった。なぞるたびに心を打たれた。身の引き締まる心地だった。
「……私は何をしてるんだ。母親に甘える子供でなしに」
涙をぬぐった。
剣を取り戦う生き方を選んだのは己自身である。相応の覚悟を決めたはずである。
それが、今のこの体たらくたるや、何だ。
何が意味のない死か。いじけているだけではないか。報われないからといって、それがどうして勇気の奮わない理由になる。死の瞬間まで懸命でなくて、どうする。戦わなくて、何とする。
「まずは、味方と合流しないとな。うん。そうすれば、きっと……!」
馬上に戻り、丘へ登り、周囲を見渡して。
そして、公孫賛はその男と出会うことになる。
体毛の全てが白く、怜悧な眼光は刃物のようであり、軽騎兵を率いさせればこの世のものとも思えない用兵をする男だ。超然としていて、何事につけ素っ気なく、愛想というものを知らない男だ。
己が若者であることを、いつも不思議そうにしている、その男は。
名を、
それは公孫賛が唯一つきり拾い得た武運にして、彼女を北方の英雄へと押し上げる最強の将の名であった。