海老名さん√がまちがっているわけがない。   作:あおだるま

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彼と彼と彼女の告白(後編)

 

 

 屋上。

 

 陽は傾き、彼の茶髪は風で揺れる。彼はまっすぐ俺を見る。そこにいつもの軽薄さは欠片も感じない。恋敵…と彼は思っているだろう者への僅かな恨み、つらみ、妬みといったたぐいの物も感じない。あるのはただ抜けるような瞳と、覚悟だけだった。

 

「ヒキタニ君」

 

「なんだ」

 

「さっきの質問だけど」

 

「…ああ」

 

 やはり、いわなければならないか。

 

「え、海老名さんと付き合ってんの?」

 

「…」

 

 本当に最近の俺は少しおかしい。肝心な時に頭は回らず、必要な時に言葉は出てこない。

 

「ヒキタニ君!」

 

 黙り込む俺に、戸部の声が放課後の屋上にはじける。

 

「俺は…」

 

 ふう。一息漏らす。

 

「どうだろうな」

 

 余裕の笑みを浮かべ、一言そう返した。

 

「ちょ、ヒキタニ君、それはないっしょ!」

 

 彼はあっけにとられたように俺の顔を見たが、すぐに目には怒気がこもる。

 

「なぜだ?俺がそれをお前に教えなければならない理由があるか?」

 

 俺の修学旅行の時の海老名姫菜への告白は、本物ではなかった。しかし戸部はそれを知るわけもない。いまだに彼は俺が海老名さんを好きなものだと思っているだろう。もし戸部がすべてに気づいているとすれば、最初の質問は「お前は海老名姫菜が好きなのか?」のほうが適切だ。

 

 そして俺がこの一件を依頼の延長線上として考えるなら、ここで戸部とことを荒だてる理由もなく、ただ一言「付き合ってなどいない。」と返せばよい。それでこの一件はとりあえずの終わりを見る。

 

 もしくは彼女の最近のらしくない行動から推しはかり、彼女の「手助け」をするならば「海老名姫菜と付き合っている」と返してもよかった。

 

 だが、俺はそのどちらもしたくなかった。

 

 正直、戸部を挑発したことに最も驚いたのは、俺自身だ。この行為は紛れもなく俺を戸部の恋敵にさせる行為。そして俺は、そうなってもいいと思ったのだ。

 まっすぐに俺を見た戸部に一人の人間として応えたくなった。そしてそれならば、彼の質問に俺が答える義理はない。

 

 …恋敵ならば。

 

「…そっか」

 

 俺の笑みから戸部は何を思ったのか。更に悲痛な表情を浮かべたかと思うと、次の瞬間には彼の顔はいつもの軽薄さを取り戻す。

 

「ヒキタニ君。…おれ、負けねーから」

 

 いつかきいたセリフが、今一度繰り返される。

 

「ああ。…互いにな」

 

 男として応える。声は震えていなかっただろうか。

 

 

 

 

 と、とんでもないことを、聞いてしまった。

 

 屋上に続く扉の裏で、海老名姫菜は一人頭を抱えていた。

 

 優美子と話していたら思ったより話が長引き、途中でお手洗いに立ったら何やら神妙な面持ちで階段を上がっていく比企谷君と戸部君の姿を見つけた。と、とべはち!?男同士の発展場☆を期待し、無意識のうちに屋上についてきてしまった。…そんなわけないのに。このどうしようもない癖がにくい。

 

 比企谷八幡君と、戸部翔君。どちらも知らない男子ではない。…ううん、二人とも少なからず私とはかかわりのある男の子だ。

 

 戸部君は私のことを憎からず思ってくれている。それは修学旅行の前から気づいていた。そして彼は去年の修学旅行であんなことがあったのに、それでも変わらずに私に好意を寄せてくれていた、ように私には見えた。でも私は、結局彼の気持ちには応えられなかった。…ううん、この言い方はずるいよね。意図的にはぐらかしたんだ、私は。すべてを失うのが怖いから。彼の思いにどんな形であれ、返事をしたら私の居場所がなくなると思ったから。

 

 比企谷八幡君。私は彼に対してもどうしようもない申し訳なさを感じていた。私のせいで、彼の大切な場所は壊れそうになった。少なくとも結衣は、…彼女のあんな顔は、見たくなかった。

 

 そして彼は私のことをどう思っているのか。正直、私にはまったくわからなかった。さっき言ったみたいに私の中には彼に対して罪悪感があったし、彼自身そういったことから自分から遠ざかろうとしている節があったから。

 

 だからこそ今年も彼と同じクラスになり、去年のグループが無くなると彼のことを少し知りたくなって彼に近づいた。

きっと私はどこかで彼のことを英雄視していたのだろう。彼と実際に言葉を交わすと思いのほか心地よくて、優しくて、暖かくて…タガが外れたように、すぐに愛しくなった。

 

 だけど、彼と一緒にいたいなら、彼に思いを伝えたいなら、私にはその前に出さなければならない答えがあった。

 

 戸部君。彼とも同じクラスになった。結局私はどこまで行っても、腐ってるんだと思う。彼からのメールや電話をはぐらかし、無視し続けて結局私はああいう形で彼に私の思いを伝えていた。いや、伝えたなんておこがましいよね。気づかせようとしたんだ、私は彼に。彼が勝手に納得して、勝手に諦めてくれることを望んだんだ。

 

 そして、今。

 

 彼らは向かい合っている。比企谷君と戸部君は、私と違って向き合ってる。

 

 …たぶん、比企谷くんは、男子の席に勝手に座るらしくない私の思惑に気づいていたと思う。それでも何も言わないんだから、優しいよね。

 

 でも、今戸部君と話している彼はそうじゃなかった。

 

 私の思惑に気が付いているだろう彼は、今日は修学旅行のあの日とは違って、私の意向に沿うように事を運んではくれなかった。もしここで彼が「海老名姫菜は俺の彼女だ」

 

 …ひゃ、ひゃー!!!自分で言ってて恥ずかしくなっちゃったけど、仮定の話だからね、仮定の話!ゴ、ゴホン、仮に彼がそう言ったとしたら。戸部君は一人で失恋し、一人で諦めただろう。

 

 でも、彼はそうしなかった。まるで普通の男の子みたいに、戸部君の質問に応じた。そこに込められた意味は。彼の気持ちは。

 

 トクン、と胸が鳴る。もう、こんなこと思ってはいけないと思っていた。こんな感情を抱く資格なんて、ないと思ってた。

 

 

 

 

 

 気づけば私は、屋上に続く重い扉を開けていた。

 

 

 

 

 

「海老名、さん…」

 

 突然現れた海老名さんに、俺も戸部もあっけにとられた。

 

「え、えっと、海老名さん、どうしてこんなとこに…」

 

 戸部が視線を泳がせる。無理もない、今ここでは目の前の女の子を巡った…しゅ、修羅場が繰り広げられていたのだ。

 

「戸部君」

 

 海老名さんは顎を引き、戸部に体を向ける。顎を引きまっすぐに戸部を見る。そんな彼女を、俺は。

 

 きれいだと思った。

 

 息を吐き、彼を見据えたまま、彼女は告げる。

 

「ごめんなさい。私、好きな人がいるからあなたの気持ちには応えられません」

 

 謝罪とは裏腹に、彼女は頭を下げず、じっと彼を見つめていた。

 

 戸部はまだ現実に戻っていないような様子だった。しかし、突然空を見上げたかと思うと、地の底まで視線を落とす。

 

「一つ、聞いてもいい?」

 

 戸部は、やっと一言つぶやく。

 

「うん」

 

 海老名さんはいつもの穏やかな顔に戻っていた。

 

「そいつ、俺より、格好いい?」

 

 海老名さんはちらりと横を見て、俺に視線をよこす。

 

 赤い顔を始めて地面に向け、短く答える。

 

「…うん」

 

「…わかった」

 

 彼女の言葉から、短い肯定から彼は何を読み取ったのだろうか。戸部は神妙にうなずくと俺を一瞥する。そして、

 

 笑った。

 

「ヒキタニ君、おれ、負けねえから」

 

  

 

 

 

 

 屋上。俺と海老名さんが向かい合う。今は果たして何時だろうか。屋上に満ちていた夕日は退場し、代わりに夜を告げる夕闇があたりを満たし始める。月明りだけが俺たちを照らす。

 

「比企谷君」

 

「…おう」

 

 海老名姫菜は呼びかける。俺の名前を、彼女は呼ぶ。

 

「私が来た時、驚かなかった?」

 

 答えるかどうかためらうが、結局、俺は言う。

 

「驚いた」

 

 俺は、彼女は偶然聞いたとしても姿を現すわけがないと思った。それが海老名姫菜という女の子の、これまで取ってきた姿勢だと思ったから。彼女は徹底的に遠ざけて、逃げて、知らないふりをした。…その自意識は、臆病は、理性は、どうもどこかの誰かを思い出す。

 

「なんで、来たんだ」

 

 俺の率直な質問に、彼女は一瞬の躊躇も見せない。

 

「比企谷くんが、戸部君の質問に答えなかったから」

 

 そう彼女は笑った。

 

「前に言ったよね。私、腐ってるって

私ほんとに腐ってるんだ。自分でも何考えてるかよくわかんないし、どうふるまえばいいかわからない。心の底の方がどろどろしてるみたいで、人の思いとか好意をそのまま受け入れられない。優しくされてもなんか居心地悪い。守りたいと思ってた場所は結局自分でも驚くほどあっさりと手放せちゃった。友達は傷つけたし、その挙句…その友達を裏切ってでも、ほしいものがあるの」

 

 一つ深呼吸をし、髪、裾を直しこちらへ向きなおす。

 

「だから私はね、比企谷君。君が」

 

 

 勘違いするな、と思えたらどれほど楽だったか。彼女の瞳が、彼の問いかけが、そして…俺の何かが、それを許さない。

 

「俺は」

 

 彼女を遮り、言葉を落とす。

 

「俺は、人に好意を向けられるような人間じゃない。もともと好意なんてあいまいなものを素直に受け入れられる質でもないんだろう。悪意や敵意のほうがよほど心地いい。そう感じてしまうおれも、やっぱり腐ってるのかもしれない」

 

 彼女は哀しげに微笑む。その笑みはいつかのだれかを思い出させる。だが、

 

「それでも俺は。

別に裏切られてもいい。腐っててもいい。好意なんて、希望なんていうあいまいで煌びやかものだけを向けられるよりよほど心地いい。世界の誰よりよくわからなくて、この世のどれよりドロドロしていて、そして…何よりも綺麗な、お前のことが」

 

 俺の続く言葉に確信を持っていたのか、彼女は微笑む。最後まで…いや、これが始まりか。

 よくわからない女だ。

 

「海老名姫菜のことが」

 

「比企谷八幡君のことが」

 

 息を吐く。

 

「俺は好きだ」

 

「私は好きです」

 

 月がまぶしい。

 

 もしかしたら自分で思ってるより、ずっと簡単なことだったのかもしれない。

 

「えい!」

 

 海老名さんは俺の胸に飛び込む。ちょ、近い近い近いいい匂い。

 

「え、海老名さん?何をしてらっしゃるんですか?」

 

 顏が熱い。鼓動が早い。くっつく頬から熱が、ゼロ距離の胸から律動が伝わる。

 

「なにって、ハグだよ」

 

「海老名さんがハ、ハグって、なんつーか…」

 

「らしくない?」

 

 キョトンとした顔で目の前の海老名姫菜は問う。顔は耳まで赤い。

 

「悪くない、かもな」

 

「え?今なんか言った?…八幡」

 

 尻切れではなく、今度ははっきりと、そう呼ばれる。そ、それはきつい。

 

 ニヤニヤとこちらを見る海老名さん。…やられっぱなしというのも、気分が悪い。

 

「別に何でも。…姫菜」

 

「へ!?う、うん、そうだ、ね。…そうだそうだ、なんかあっついねー」

 

 ぱたぱたと手で顔を仰ぐ彼女。

 

「それなら少し離れればいいんじゃないか?」

 

 その…これ以上は八幡の八幡がまずい。

 

 彼女はむー、と頬を膨らませた後、にひひと子供のように笑う。…こんな表情もしたのか。

 

 「やーだよ!」

 

 腕の中で目を細める彼女を眺めながら、俺は嘆息する。

 

 やはり海老名姫菜は性格が悪い。


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